45話 女神の道と消えた風
風が渦巻いていた。
石灰棚の階段を降りていく。
谷底のビャッコの神殿に向かって。
スザクが私の隣で、ときおり不安そうに見上げる。
『ミヤビさま……』
途中の岩陰で、巫女が待っていた。
現地語で何やら報告を受けている。
そのやり取りが終わるのを見計らい、私は前を行くミヤビに声をかけた。
「魔の獣がいるのに……このまま、神殿に行って大丈夫なの?」
ビャッコの都の襲撃では、ミヤビたち巫女の他に「偉大なる母」の子孫、最強のピーコとマカーべと男衆がいたという。
でも、今は……
私の周りには、ミヤビと巫女十名しかいない。
「……神獣白虎に会うためには、行かなくてはなりませぬ」
ミヤビは振り向いて、私を見据えて言った。
「女神であるならば、お覚悟を見せなければ、なりませぬ……」
私を、女神を、信じている目だった。
「もし私たちが、裏切りの女神、ピーコさんと同じように帰りたいって思っていること、神獣白虎が、分かっているとしたら……?」
もう、私たちが帰りたいということはバレている。
開き直って聞いてみた。
神獣白虎は出てくるだろうか?
裏切られると分かっていて……?
死ぬまで、ここにいるなんて、そんな覚悟は毛頭ない。
ミヤビはすべてを見透かしたような目で私を見た。
「帰りたいだけでは、神獣白虎は現れませぬ……」
声に冷気が満ちる。
助かりたくば、覚悟を見せろ、その目はそう語っていた。
「女神である覚悟を……」
ミヤビは首を振り、大きく息を吸った。
その声に湿り気が混じった。
「いや、白虎に見せてくだされ……」
ミヤビの薙刀が小刻みに揺れた。
「穢されたビャッコの地、呪いの草薙剣……」
強い風がミヤビのブロンドの長髪を吹き上げた。
「神獣白虎は、怒りと悲しみに震えておりまする……」
「……怒り……悲しみ?」
「神獣白虎を助けて、下され……」
私は空を見上げた。
太陽が真上で白く光っている。
「……誰も、死なせたくない」
千尋……無事でいて。
日向も、フォーゲルさんも。
あの神官三人組。
アベーノ、ヨシーノ、ミワーノも死んでほしくない。
「ならば、魔の獣を討たなければなりませぬ……」
「どうやって……? 神獣白虎頼みで? 無策で?」
ミヤビはため息をついた。
「巫女の偵察では、魔の獣は神殿の奥で寝ているとのこと……」
「寝込みを襲う?」
ミヤビは首を振った。
「これだけの人数、たどり着く前に目が覚めましょう」
ミヤビは薙刀をかざした。
その先には岩がせり出していた。
岩陰から巫女の薙刀が光った。
こちらにかざし、合図を送っている。
背後に洞窟が暗い道を開けていた。
「あの場で、男衆、蛙神の女神たちを待ちまする」
「あの、洞窟って眷属がいるんじゃないの?」
あの二晩に渡って襲われたキマイラの姿を思い出し背筋が凍る。
「あの洞窟を通って、あの巫女らはこちらに来たのでございます」
——じゃあ、いざとなったら、逃げられる?
ミヤビはちらっと私を見た。
「待つのは、一刻ほど……夕方が迫れば、眷属たちが目覚めまする」
「来なかった場合は?」
「我らのみで仕留めまする」
——結局、無策だ……
絶対に神獣白虎を呼ばなければ……
それが、女神の役割ならば……
谷を渦巻く風が強くなった。
*
「千尋……うぅ……」
私はフォーゲルさんにおんぶされて、白い台地を進んでいる。
普段なら歩くスタミナはある。
でも、昨日の襲撃の恐怖が、まだ消えない。
千尋が心配すぎて碌に眠れず、もう限界……
巫女から、昨晩、マカーべたちに千尋は救出されたらしいとは聞いた。
だけど、その後どうなったかは、誰も分からなかった。
「黒神の女神さまは、神獣玄武の御加護をお持ちにて、絶対に無事でそふらふ……!」
フォーゲルの隣でアベーノがすがるように言い切った。
「左様にて。玄武の亀の甲羅は、硬き鎧。いかなる獣の刃も通しませぬ……!」
千尋の重たい鞄を背負ってヨシーノも必死に同調する。
「そうだよね……」
私は、キマイラの群れの中に飛び込んでいく見慣れぬ風体の男たちの姿を捉えていた。
あれは絶対にマカーべと男衆だ。
マカーべに絶対に救われている。
私たちの前を行く巫女たちの姿が小さくなっていく。
この地を歩く、アベーノとヨシーノとフォーゲルの慣れない足は遅れがちになっていた。
「柚月たちも、向かってるんでしょ?」
「そのように……」
昨晩は狭い洞窟に十五名ほどの集団で、片寄せあって休んだ。
進むも引くも地獄。
こんな洞窟に置いていかれても、なお地獄。
前に進むしかなかった。
助かるためには、神獣白虎を呼び出して、キマイラをやっつけるしかない。
私たちは女神。
大丈夫、玄武も朱雀も来てくれた。
白虎だって……
「ミワーノさんは?」
アベーノは沈痛な顔をした。
「あの混乱ではぐれまして、そふらふ……」
「……」
巫女たちが数人、殺されたと聞いた。
騎士とモノノフたちもかなりの数がやられたらしい。
ミワーノさんも……?
およよ、およよと泣くミワーノの姿を思い出し胸が痛んだ。
私たちのせいで……
でも、
「大丈夫、きっと、マカーベたちに助けられてる」
白い台地に強風が吹いた。
薙刀が陽の光に反射している。
巫女たちが立ち止まって私たちを待っている。
太陽が頂点を過ぎる頃、私たちは神殿を谷底に捉えた。
そのとき、アベーノが立ち止まり空を見上げた。
「風が、止み申した……?」
*
風が止んだ。
神殿の前の泉の水面が鏡のように静まった。
ミヤビが立ち上がる。
太陽が西に傾き始めていた。
「我らのみで行きまする……」
すでに私たちは簡単な食事を済ませ、身支度を整えていた。
スニーカーの紐を締め直す。
この岩場での歩きで靴底はすり減っていた。
「スザク、行くよ」
「くうん」
スザクは動こうとしなかった。
「スザク?」
垂れた尻尾を後ろ足の間に巻き込み、全身の毛を逆立て小刻みに震えている。
——怯えてる……
神殿の奥底に巣食う「絶対的な死」を、本能で察知しているようだった。
やっぱり、魔の物……
火を吹くキマイラ……
怖いに決まってる。
二回も襲撃にあった。
だけど、岩陰を出ていくミヤビが、こちらを試すように振り返ったとき、覚悟が決まった。
「スザク、来ないの……?」
私は立ち止まった。
「……置いていくよ」
「わんわん」
私が岩陰から出るとスザクも慌てて着いてきた。
神殿が近づいてくる。
間近で見ると、その白い神殿は迫力があった。
その骨のような白さは、生きるものを拒絶するような死の世界の入り口のように感じられた。
私たちはその階段を登っていく。
風は止んでいた。
ビャッコの風……神獣白虎……
風が、ない。
ビャッコの風が——




