32話 理科室の匂いとハスキーの乗馬
まだ日も昇らない朝というより、まだ深夜。
私はミヤビに叩き起こされた。
「白面の女神…… これより神獣朱雀の棲まう地へと向かう」
「まだ、夜……?」
私は眠い目を擦った。
「急げ…… モノノーベの手のものが来ている……」
「マジ、か……?」
「くうん?」
私まで捕まったら、日向を危険な目に遭わせた意味がなくなる。
その言葉に、私は跳ね起きた。
「お面、つけたほうがいい?」
「我らには必要はない…… お面があろうとなかろうと女神は女神じゃ……」
「助かる」
ミヤビたちは明らかにアベーノたちと違った。
能面をリュックの中に押し込みながら、違和感の正体について考える。
——この人は、私たちを女神として敬ってない。
やっぱり、私たちを試している。
見た目は、ただの小娘……
だから、神獣朱雀のもとに連れて行って、玄武の出現が偶然かどうかを確かめたい?
「急ぐのじゃ……」
私はミヤビに手を引かれて、暗闇の中を走っていく。
母屋を出て、連れて行かれたのは納屋だった。
スザクが私の足元についてくる。
埃と馬の匂いがする。
母屋のほうで人の叫び声が聞こえた。
複数の人間が、建物の中に入ってくる気配がする。
「スザク、静かに……」
私はスザクの首に手を回し、耳を澄ませてしゃがみこんだ。
「地下から、城壁の外に出られる」
歩きながらミヤビは短く行動予定を伝えていく。
「そこで巫女と合流し、馬でスザク山を目指す」
「……馬? 乗ったことないし。スザクはどうやって連れてくの?」
ミヤビの持つ蝋燭の明かりが、床板の下に隠された石の扉を照らした。
ずずと重たい音がして、入り口がずらされると地下へと続く階段が現れる。
母屋の方で悲鳴が上がった。
心臓がどきんと跳ねた。
「我々の協力者だ。我々が去ったあと、ここを埋めてくれる」
「分かった。スザクおいで」
ミヤビの後に続いて、階段を降りていく。
すぐに石の扉が閉められた。
『ミヤビさま、ご武運を……』
協力者の一人が声をかけた。
蝋燭の明かりが足元をぼんやりと照らす。
「馬は、我と二人乗りじゃ。そのスザクは、他の者の馬に乗せよう」
「スザク山て、近いの?」
二人の巫女が明かりを持ち、前後についた。
「馬で半日もあれば着く。スザク城の後ろの山じゃ」
「フォーゲルさんのお城かあ……」
蝋燭の明かりが届かない先は、ただの闇だった。
足音が私たちだけになった時、ようやく張り詰めた息を吐いた。
狭い通路は身をかがめなければ、通れなかった。
やがて土の階段が現れる。
上り階段を上がった先は、天幕の中だった。
『ミヤビ様、馬の準備は整っております』
「白面の女神に、食事を」
「用意いたしております」
『フォーゲルの城代にも、書簡の準備を』
ミヤビがキビキビと指示を出す。
テーブルを挟んで黒パンとお茶でお腹を満たす。
向かいでミヤビは筆で手紙を書いていた。
巫女の一人が、書簡を受け取り馬で先発した。
「さあ、神獣朱雀のもとに行こうぞ」
慌ただしい出発。
馬は六頭。
そのうち一際大きい馬にミヤビがまたがる。
「可愛い……」
「ブルルルっ」
「ミヤビさん、なんて名前、この子?」
「ハクじゃ」
「ハク! よろしく!」
「ブルルル!」
ミヤビの差し出した手を取ると、力強く引き上げられる。
「スザクも大人しくしててね!」
「わん!」
スザクは巫女に抱えられ、馬の背に乗せられた。
スザクは少し戸惑っている様子だったが、すぐにバランスを取り、前足を鞍の前にかけた。
「しっかり捕まるのじゃ」
「分かった!」
私はミヤビの細い腰に手を回した。
しがみつくと、お香の匂いが漂った。
「はあッ!」
掛け声とともに馬の足が早くなる。
東の空が、青くなってきていた。
六頭の馬が朝陽を背に、西に向かって駆け出していく。
その先には黒々とした山脈が薄く聳えていた。
*
「……やば、また、寝てた」
私の体は暗闇の中で、びしょ濡れになっていた。
一定の間隔で水滴が落ちる音が続いている。
「うう、寒いし、腹減ったし、最悪なんですけど……」
薬品のような匂いは、すでに鼻が麻痺し薄れていた。
「これ、理科室で嗅いだことあるヤツだった……」
ホルマリン……? 塩素……?
蛙の解剖を思い出して、自分も蛙のお面を被らされていることに思い至る。
「アベーノのヤツ……」
体を起こす。また膝で歩いていく。
どこまで行っても、壁につかない。
つるつるした石の床は、立ち上がったら滑って転びそうだった。
水に濡れた床は、体温を奪っていく。
「くっそー!! モノノーベ! 許すまじ!」
そのとき、私の膝が柔らかいものに触れた。
「ひっ! なんかいる!」
私はお尻からひっくり返った。
「な、なに、まさか、死体、じゃないよね?」
腐ったような臭いはしなかった。
「ちょっと、なんなの! これ……」
足を伸ばして、スニーカーの先でつついてみた。
「動いた! 怖いんですけど……」
さらにスニーカーでつつく。
「なんか、これ、髪の毛……?」
スニーカーの先に、ざらざらしたものが絡みついた。
「え? これ頭」
こわごわ、つつく。
「これ、鼻……?」
「……うぅ」
それが動いて、呻き声を上げた。
「わっ! びっくりした!」
「そ、そのお声は、御蛙神様……で、そふらふ?」
そして、それがそう言った。
「アベーノさん?! マジか!」
「おいたわしや……女神ともあろうお方が……」
アベーノが泣き出した。
「ちょ、ちょっと、なんで、アベーノがここにいるの?」
「モノノーベに逆らい、浄化槽に入れられたので、そふらふ……」
「は?」
私の頭が真っ白になった。
「浄化槽って、何?」
「……罪を、洗い流す場所で、そふらふ……」
アベーノの声が震えた。
「え? この臭い…… もしかして、薬かなんかで、心を?」
「女神様のような方が、このような場所に……」
アベーノの涙声にうんざりした。
この水滴の音、暗闇、寒さ、空腹……
そして、薬品……
——それで、精神を……
発狂させて……?
そして、洗脳……?
ぞっとした。
*
草原の街道を馬は駆け抜ける。
風が心地よい。
揺れにも、慣れた。
——日向…… 千尋……
待ってて、絶対に神獣朱雀を連れていくから!
そして、私たちが女神だということを、分からせてやる!
太陽が頂点に昇る頃、私たちはスザク城を視界に捉えた。
西洋風のお城だった。
「フォーゲルさんは、あそこにいるの?」
「フォーゲル卿は、まだ都におる……」
「まさか、捕まってないよね?」
「ヤツは動けぬ。動いたら疑われる。屋敷で大人しくしているほかはない」
「……」
馬はスザク城を目指して駆けていく。
「スザク城で休憩ののち、馬を替えてすぐ出発じゃ」
「……分かった」
スザク城の前では、連絡を受けていた城代が待ち受けていた。
『替えの馬と兵糧でございます』
『かたじけない。恩にきる』
スザク城の背後にゴツゴツとした山が聳えていた。
「あそこの火口に神獣朱雀は、おる」
私は山を見上げた。
富士山みたいな綺麗な形ではない。
荒涼とした剥き出しの岩。
麓に森林が黒々とへばりついている。
煙がうっすらと立ち上っている。
その禍々しさに怖気づいた。
「登るの?」
「もちろんじゃ」
ミヤビが答える。
「でも、どうやって呼ぶの?」
「……試練がある」
「試練……?」
ミヤビが私をじっと見据えた。
「覚悟はあるか?」
私はうなずいた。
「ある……」
日向と千尋を助けるため。
絶対に、朱雀を呼ぶ。
「試練…… それは、火の試練じゃ……」
——火の試練……?
千尋も、あのデュラハンに一人で立ち向かった。
私も……
待ってて! 千尋…… 日向……
*
「浄化槽って、ここから出られるの……?」
暗闇の中、両手を後ろ手に縛られている。
虚空に向かって尋ねた。
「分かりませぬ…… そう、モノノーベ大神官様が言っていたゆえ……」
「使えないなあ、もう!」
「申し訳、申し訳ござらぬ……」
「それはいいから、縄を解いてよ」
私は後ろを向いて、声の方にずりずりと近寄った。
「きゃっ! どこ触ってんのよ!」
「御主女神様のほうから、来たのでございます……」
「言い訳! 口でも歯でもいいから、早く!」
「しからば……」
「うっ、気持ち悪……」
アベーノの鼻息が手にかかり、指を舐められて、全身にサブイボが立った。
「女神様の手を舐めるとは、不敬の至り、死してお詫びを…… じゅるり、そふらふ」
「痛ッ! どこ噛んでるのよ!」
手が自由になったら、引っ叩いてやると誓った。
縄が引っ張られる。
反対方向に手を引く。
「ぐぬぬぬっ」
「もう少し! 頑張れ!」
緩んできた手を上下左右に振ると、隙間ができた。
「アベーノ! もっと強く引っ張って!」
「ぶばばばッ!」
指先の痺れが取れていく。
さらに両手首を擦り合わせるように動かす。
「抜けた!」
「はあはあはあ、お慶び、奉り、そふらふ……」
「待ってて、アベーノのも取るから!」
そう言ってアベーノの頭を引っぱたいた。
——見てろよッ!
この浄化槽から、絶対に抜け出してやるッ!




