29話 訪問者
燭台の火が消えている。
私はソファにもたれかかって、膝を抱えていた。
何時間経ったか分からない。
あのすぐ後、夕食が運ばれてきたが、手をつける気にはならなかった。
豪華な皿に乗せられた食事は冷めていく。
頭では、食べないといけないことは分かっている。
だけど、体が動かなかった。
やがて再び扉が開く音が聞こえ、神官が入ってくるのが見えた。
騎士の鎧が扉の向こうで、がちゃりと鳴った。
「……はあ」
私はあからさまなため息をついた。
神官は食事の乗ったワゴンをそのまま下げていく。
——二人は、大丈夫かな……?
自分一人だけ、こんな豪華な部屋で休むことに罪悪感が押し寄せる。
寝台はふかふかだった。
よく見ると三台あった。
でも、そこに横たわることは出来なかった。
「今、何時……?」
頭を上げる。
暗闇の中、窓もない。
空腹感が押し寄せる。
物音は全く聞こえない。
私は胸元の勾玉を握りしめていた。
「……ふざけないで、……ほんと」
私がつぶやいた時、かすかな物音が響いた。
「……?」
私は頭を上げた。
「……いたた」
確かに聞こえた。
「え……? 誰かいるの?」
私は小声でつぶやいた。
そのとき暖炉の中に、ぼうっと灯りが浮かんだ。
がたがたとその奥で音が響く。
「な、なに……?」
がたんと何かが倒れる音がした。
燭台を持った人影が、立ち上がった。
「ひっ……」
「誰かいるのね?」
日本語の問いかけが響いた。
燭台の灯りがその人物を浮かび上がらせる。
白い服。
ガスマスク……?
あれは、ゴーグル……?
「やっぱり、ここだったか……」
くぐもった高い声が聞こえた。
慣れ親しんだ日本語だった。
「モノちゃんが、日本のものを持ってたから、誰か来たんだって、居ても立ってもいられなくて……」
初老の女性の声だった。
——モノちゃん……?
「……もしかして、大世界神、スミレ…… 様?」
「あはっ! 久しぶりの日本人ね! やっぱり。女の子の声!」
ゴーグルとマスクの女性は明るく笑った。
「私はスミレよ。神なんてガラじゃないけどね」
「スミレさん……」
スミレは燭台の灯りを私に近づけた。
「あらやだ! そのヘルメット知ってるわ! 懐かしいわねえ、映画館で見たわよ、スターなんとか」
「スミレさん、も、神様にされた……の?」
スミレはマスクとゴーグルを外した。
ボロボロのプラスチックのそれは、ツギハギがしてあった。
燭台の火に照らされたその顔は、しわが刻まれていた。
小太りの体を震わせてソファの隣に座った。
「あなたも、取りなさい」
「いいんですか……?」
ダース仮面をつけていることが、最後の拠り所だった。
これを外したら、普通の女の子に戻ってしまうような気がした。
「これをつけたまま、こっちに来たのね?」
「友達も一緒なんです! 日向と柚月! 日向は捕まってて、助けてください!」
私は泣きそうになりながら言った。
「ちょっと、静かになさいね。外に見張りがいるから……」
スミレは口に人差し指を当てる。
私は慌ててヘルメットの下の口を押さえた。
「ちょっと、外して、顔を見せて……」
私は少しためらいヘルメットを外した。
「あら。かわいい」
スミレは私の顔をのぞき込んで、屈託なく笑った。
「日向を助けてください……浄化槽? に、いるって……」
「浄化槽、ね……」
スミレは困ったような顔をした。
「まあ、すぐに死ぬことはないから、安心しなさい……」
「でも、処刑されるって……」
「私はモノちゃんが、何してるか、よく分からないのよ……」
スミレはため息をついた。
「ずっと、ここに閉じ込められてる。でも、いいでしょ? ここ?」
「モノノーベさんに、頼めませんか?」
スミレは私の懇願を無視した。
「今、西暦何年?」
「……202x年です」
「そっか…… もう四十年、経つのね」
「……四十年、も?」
帰れなかった人だ…… 四十年という年月の重みに、息が詰まった。
「私が来た時、田んぼで農薬撒いてたのよ」
「……」
「田んぼが、陥没してね。気がついたらこっちにいたの」
スミレは遠い目をした。
「ガスマスクとゴーグルつけて、農薬のタンク背負って、鬼に襲われたの」
「鬼って、……ゴブリン?」
「農薬ぶちまけてやったわ。パラコート」
いたずらっぽく笑った。
「あれはね、毒性が強くて、たくさん吸い込むと死んじゃうの」
「……」
「そしたら、神様にされちゃった」
「……」
「あなたは、どこから来たの?」
「……群玉の前澤です」
「あら? 私は伊福県鶴賀市よ」
「……伊福県? ……越前」
継体天皇も越前だったような記憶がある。
父の研究。
なにか関係がある。
「来た場所は違うのね……」
「でも、私たち一度は帰れたんです! でも、トンネルが崩れて…… また戻ってきちゃった」
「……帰れたの? どうやって……?」
スミレの顔色が変わった。
「電波が通じるところがあるんです。そこから帰れるんです」
「……電波?」
「こっちに来れたんだから、帰れるんです! 繋がってるんです!」
「帰れる……?」
チャンスだ、ここでスミレさんを味方につければ、活路が開ける。
「一緒に帰りましょう!」
「……いいわ。私は」
でも、スミレは首を振った。
「このお城……私、あの頃、出来たばかりの、世界一のテーマパークに行く前日だったの」
スミレは部屋を見渡し、微笑む。
「リュックにガイドブック入れて…… 毎晩、眺めてた」
「……」
その笑顔が消えた。
「でも、行けなかった。だから…… ここに作ったのよ」
「……」
部屋の豪華な装飾。
絵画。絨毯。
「モノノーベは、本当に良くしてくれた」
「でも、私たちは帰りたい……」
涙が滲んだ。
「日向と、柚月と、三人で……」
「あなたの名前は?」
「私は、千尋です」
「いい? 千尋ちゃん」
スミレは私の方に向きなおった。
「私はここの生活から、もう抜け出せない」
私は目を見張った。
その言葉には四十年の重みがあった。
「で、あなたたちが、神様と認められたら、私はどうなるの?」
スミレの声が低くなった。
「モノノーベから聞いた。偽女神が日本から来てるって」
「女神じゃないです……」
「あなたの思いなんて、関係ないのよ」
スミレの声が、不穏な空気を帯びた。
「今まで、今までに、こういうことって、あったんですか?」
「昔にね……」
私は直感した。
不安なのだ。
自分の地位を取って代わられるのではないか——、と。
「スミレさん、どうしたら良いですか?」
「あなたたちは、目立ちすぎたのよ」
スミレはため息をついた。
「日向ちゃんだっけ? その子を逃したって、モノノーベは必ず追いかける」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
「私は何も見なかったことにして、このつまらない生活を続けることもできる」
「……本当に、もう日本に帰りたくは、ないんですか?」
「帰りたいに決まってるでしょ……」
スミレは目に涙を溜めた。
「一緒に帰って、あの安浦の夢の国に、スミレさんと行きたい……」
「私も、行きたいわよ……」
「帰れます。必ず」
「本当……? どうやって……?」
私は悩んだ。
信じてもらうためには、勾玉を見せないといけない。
でも、取り上げられたら、詰む。
「私の父は、大学で境界儀礼の研究をしているんです」
「……境界、儀礼?」
今は、見せる時じゃない。
「越前。継体天皇がいたところ……」
私はずっと考えていた仮説を口にした。
「崇徳天皇、継体天皇…… きっと境界を通って、こっちの世界に来てます」
「……?」
「神殿にあった、崇徳院の『瀬をはやみ』の掛け軸……」
「……」
「スザクの神殿の北にある前方後円墳、あれは継体天皇の今城塚古墳にそっくりでした」
「……なんの、関係があるの?」
私は息を吸った。
「そこで、電波が通じた。そこが境界です。スザクの神殿のトンネルでも、電波が通じた」
「……電波?」
「日本と繋がってるところは、電波が通じてるんです!」
「……電波、電波って電波なんて、……無線機でも持ってたの?」
——そっか、携帯電話を知らないんだ。
「モノノーベさんに取られた鞄に、ちっちゃい板で無線みたいな電話機が入ってます」
「……?」
「今の電話って、手で持ち運べる、こんな板みたいになってるんです」
「トランシーバー?」
「違います。こういう電話なんです」
私は手でスマホの形を作った。
「……? 電話って、黒電話しか知らないわよ? じーこじーこ回すやつ」
スミレの顔が曇った。
「携帯電話っていいます! 無線みたいにどこでも話せて、手紙みたいに文章も送れるんです!」
「……けいたい? 文章も?」
「それで、こっちから日本の父に、連絡が取れたんです!」
「……そんな、わけないでしょ?」
スミレは鼻で笑った。
明らかに信じていない様子だった。
「四十年で、進歩したんです」
「まるで、のらエモンの世界ね……」
「取り返してもらえれば。それで、電波が入ったんです」
「……無理ね」
やっぱりダメか……
「でも、もう、電波が入る場所は分かってます!」
自然と熱がこもる。ここでスミレさんを仲間にできれば……
勢い込んだ時、スミレは立ち上がった。
「あ、もう、行かないと」
スミレは左腕につけた腕時計に、燭台の灯りを近づけた。
古ぼけた、ねじまき式の時計……
「楽しかったわ……」
スミレは悲しげに振り返った。
暖炉のほうに歩いていく。
私は、慌てて後を追った。
「待って! 待って、ください……」
私は胸元からお守りを出した。
「これを集めたら、絶対に帰れます!」
スミレは立ち止まった。
私の手のひらの勾玉に、灯りを近づける。
「これ、なに?」
「境界儀礼に、境界を通る時に、必要なものです」
スミレのゴーグルがあやしげに光った。
「私も何度も、こちらに来たところに行ったわ。でも何をしても、帰れなかった……」
スミレの声が、冷たく響く。
あのレイスの想いと同じだった。
「諦めきれなくて、でも、絶望して……受け入れざるを得なかった……」
「今度は、絶対に帰れます! 信じてください!」
沈黙のあと、ため息をつくようにスミレは言った。
「千尋ちゃん。帰れるって言うなら……証明して」




