第246話 『山岳都市』
夜通し尾根を歩き続けたプリシラは日の出と共に山の稜線に見えてきた人工物と思しき街影に目を細めた。
「あれは……山岳都市イグリッドだわ」
山岳都市イグリッド。
王国領南部に広がる山脈地帯の入口に位置する中規模の都市だ。
イグリッドより南は峻厳な山々が連なるが、北は徐々に標高が低くなり広大な平原が姿を現す。
その平原の中ほどに王都ハルガノンが存在するのだ。
まだ距離はあるが目的地が徐々に近付きつつあることを知り、プリシラは気持ちを奮い立たせた。
ここまでは勢いで何とかなったが、ここから先は王国兵の目も厳しくなるだろう。
どうやって王国まで辿り着くか。
プリシラはここまでの道中で色々と考えてきた。
彼女が王国を訪れるのは初めてのことだ。
しかしプリシラは幼い頃からクローディアに王国の話を色々と聞いている。
クローディアは昔、分家の女王として王国領のダニアの街に住んでいたのだ。
そして新都ダニアを建設するために、度々ダニアの街を抜け出していたという。
幼い頃はその冒険譚をワクワクして聞いたものだ。
クローディアはダニアの街を抜け出して新都ダニアの建設地に向かう際、人の目に付かないよう、人の往来がほとんどない道を選んで進んだりしたそうだ。
王都周辺には平原が広がるが、その東側には森林が群生している。
クローディアはかつてその森を通って移動していたらしい。
(その中を進んでいくしかないか……でも大丈夫かな。こんな感じで)
プリシラは今さらながらに不安を覚える。
無計画に飛び出してきたが、王都のどこにエミルが捕らえられているのかも分からないのだ。
だからといって足を止める理由にはならないが。
「とにかく……行くしかない。王都に行くまでに考え続けるんだ」
少しでもエミルに近付きたい。
1人で囚われ心細い思いをしているであろう弟の元に駆けつけてやりたい。
その一心でプリシラは足を止めずに進み続けるのだった。
☆☆☆☆☆☆
山岳都市イグリッド。
王国兵に扮した青狐隊の面々は街の兵士たちが利用する通用門で識別証を見せて街の中に堂々と入り込んだ。
アーチボルト率いる彼らは王都直属の兵ということになっている。
その立場は自軍内の軍規が守られているか監視する公安兵だ。
王の勅命を受けて王国内の各都市を巡回し、各地の軍の内部を調査する立場である。
彼らが現れたことでイグリッドの王国兵らは嫌そうな顔はするものの、あまりあれこれと詮索してくることはない。
王国兵らにとっては触らぬ神に祟りなしだからだ。
この方法は功を奏し、青狐隊の面々はあまり干渉されることなく街中を動くことが出来た。
もちろんあらかじめ本物の公安兵が王国内を巡回する順路は把握しており、本物の公安兵とこの街で鉢合わせすることのないよう見計らってここを訪れている。
「この街の部隊長に面を通すぞ。後々揉めぬよう滞在許可を求めておこう。責任者のの顔を立てておいて悪いことはない。全員、事前に打ち合わせた通りに」
アーチボルトはそう言うと、部下たちを引き連れて部隊長のいる兵舎へと向かい、恙無く挨拶を済ませる。
部隊長はもちろん良い顔はしなかったが、公安兵と揉めて良いことは何一つない。
渋い顔ながらも彼らの滞在を許可するのだった。
兵舎を出た5人は公安兵としての姿を見せるため街を回り、兵士らに声をかけた。
その目的は情報収集である。
公安兵の任務として行っていると言えば、王国兵らは素直に知っていることを話してくれた。
そしていくつかの新情報を得た。
共和国側の動き。
ダニアのクローディアの出陣。
王国軍ウェズリー副将軍が共和国と公国の国境の砦に多くの兵士を送り込んでいること。
そして公国領ジルグを占領しているチェルシー将軍が王都防衛のために呼び戻されること。
そうした最新の情報を得て5人は宿に戻り、一つの部屋で顔を突き合わせた。
「チェルシーが王都に戻るのは良くない情報ですね」
隊員の1人がそう言うのをガイは黙って聞いていた。
外敵に備えてチェルシーが呼び戻されるということは、王都の警備がより厳しくなるということだ。
そうなれば当然、ガイたちの仕事はやりにくくなる。
このイグリッドから王都までは馬でわずか2日。
出来ればチェルシーが戻るよりも先に王都に入りたい。
「……ここでの業務を早々に切り上げて、すぐに王都へ向かうべきでは?」
普段あまり発言することのないガイがそう言うのを聞いて、他の隊員らが珍しそうな顔を見せた。
だがその話にアーチボルトは首を横に振る。
「気持ちは分かるが焦るな。ここで妙な動きを見せて身分を暴かれでもしたら、王都に入るのは困難だ。まだ自分たちに鞭を入れるのは早い」
アーチボルトの冷静な意見に他の隊員たちは頷き、ガイは頭を下げた。
「出過ぎました」
焦っているつもりはないが、ガイは何か嫌な予感を覚えていた。
慌てることは良くないが、急いだ方が良い時もある。
そんなことを思うガイの肩にアーチボルトは手を置いた。
「意見を言うことはいい。一番年下だからと言って遠慮はするな。意見を言えないことが部隊を殺す。おまえだけが結果として正しいことを言っている場合もある」
「はい」
「だが、自分たちに最後の鞭を入れるのは王都に入ってからだ。ガイ」
ガイは黙って頷いた。
その顔には何の感情も見えない。
ガイはこの任務に就いてから、ひたすら任務を果たすことだけを考えてきた。
彼にとって救出対象であるエミルは他人であり、顔こそ知っているものの面識はないと言っていい。
エミルの家族であるブリジットの一家は皆、今も毎日、身を削られるような辛さを覚えているはずだ。
しかし家族というものを知らないガイには当然、そうした心の痛みは分からない。
他人事だ。
だが他人事にガイは自分の命を賭けて、その任務を果たそうと全力を尽くしているのだ。
それは彼が己の仕事に人生を賭けているからだった。
青狐隊。
ここにいる隊員たちは全員、ワケありの人生を歩んできた。
だが皆、ある共通点があった。
それは誰に強制されるでもなく、自ら選んで入隊したということだ。
もちろんその入隊に当たっては厳しい選抜訓練があった。
それはもう心身を削るような厳しい訓練だ。
そうまでして入隊した挙句、あっさりと任務で死んでしまうこともある。
得られる報酬は高いが、その報酬を使う暇もないほど任務は多忙で過酷だった。
どう考えても割に合う仕事ではないだろう。
金を儲けて楽に暮らしたい、などと思う者には決して務まる仕事ではない。
さらに隊の規則は厳しく冷酷だ。
万が一、敵の捕虜となった者には、秘密を漏らす前に積極的な自害が推奨されている。
万が一生きて戻ったとしても二重密偵の疑いがあるため、秘密裏に処刑される。
あまりにも悪条件の仕事だ。
だが、共和国という国に暮らす民の平和を守るという唯一無二の意義がそこにある。
その任務に従事することで、無意味だと思っていた己の人生に意味を見出せるのだ。
それはガイにとっては……おそらく他の隊員たちにとっても何よりも重要視するべきことであり、どんな理不尽にも負けずにこの仕事を続ける理由になる。
この困難な任務をやり通す力と知恵と信念が自分たちにはある。
その誇りを胸にガイはこの部隊で任務の日々に明け暮れるのだ。
だが……若い彼はまだ知らない。
力も知恵も誇りも信念も全て飲みこんでしまう運命の波が、この世にはあるということを。
☆☆☆☆☆☆
山岳都市イグリッドを守る王国兵の部隊長の元に報告に訪れた部下の男は、明らかな困惑をその顔に浮かべていた。
「部隊長……ご報告が」
「何だ? そんな顔をして」
「実は……公安兵の一団がつい先ほど到着をいたしまして」
その報告に部隊長は唖然とした。
公安兵は半日前にこのイグリッドに到着したばかりだ。
そして今また公安兵を名乗る一団がこの街に現れたのだ。
部隊長の困惑も当然のことだった。
「それは……確かなのか?」
「はい。識別証も王陛下の署名入りで確かなものでした」
それを聞いた部隊長は深刻な顔でしばし考え込みそれから部下に命じた。
「兵を集めろ……3番街の宿を囲むんだ」




