第9話 いつもと少し違う食卓
地上で見る姉と、空を飛ぶ姉。
陸は少しずつ、その違いに気づき始めます。
今回の話は、「知りたい」が形になり始める回です。
週末だった。
俺はいつも通り、差し入れを持って姉ちゃんの部屋に向かった。
スーパーで鮭と豆腐と、ほうれん草を買った。
鮭の味噌漬けを作るつもりだった。
姉ちゃんが食べたことなさそうなものにしようと思った。
インターホンを押した。
しばらく待った。
眠そうな声が返ってきた。
いつも通りだった。
* * *
ドアを開けたら、姉ちゃんは床に転がっていた。
芋ジャージ。眼鏡。ノーメイク。
ローテーブルの上にPCが開いている。
いつもの姉ちゃんだった。
でも今日は、俺の目に映る姿が少し違った。
先週、空港で見た姿が、頭に残っているからだ。
ネイビーのワンピース。グレーのトレンチ。
保安検査を四十秒で抜けた背中。
到着口から出てきたときの、満ちた顔。
あれと、今床に転がっているこの人が、同じ人間だ。
「また倒れてんの」
俺は言った。
「休んでた」
姉ちゃんが言った。
「同じじゃん」
俺が言った。
いつも通りのやりとりだった。
でも、なんか少し違った。
* * *
キッチンに立った。
鮭を切った。
味噌と酒と砂糖を合わせた。
鮭を漬けた。
その間、姉ちゃんはPCの前で独り言を言っていた。
「……奄美か、種子島か、奄美のほうが、でも種子島は行ったことないから、どっちだ、」
俺はその声を聞きながら、フライパンを温めた。
姉ちゃんは今、次の修行のプランを組んでいる。
奄美か種子島か、考えている。
どちらも、俺にはよく分からない場所だ。
でも姉ちゃんは知っている。
どこに空港があって、何便飛んでいて、FCがいくつ積めるか。
全部、頭に入っている。
* * *
夕飯ができた。
鮭の味噌漬け焼き。
豆腐の味噌汁。
ほうれん草のおひたし。
食卓に並べた。
姉ちゃんがPCを閉じて、席に着いた。
「いただきます」
「どうぞ」
一口食べた。
「美味しい」
姉ちゃんが言った。
いつも通りの、抑揚の少ない声で。
「よかった」
俺は答えた。
* * *
「次、どこ行くの」
俺は聞いた。
今まで、こういうことを聞いたことはあまりなかった。
聞いても「用事がある」しか言わないと思っていた。
でも今日は、聞いてみたかった。
「奄美か種子島、まだ決めてない」
「どっちがいいの」
「種子島は行ったことないから」
「じゃあ種子島にすれば?」
「FCが奄美のほうが多い」
「FCって何」
「飛行距離みたいなもの」
「何に使うの」
「ステータスに」
「ステータス?」
「上級会員の資格。アレキサンドライト、持ってる」
「……なにそれ」
姉ちゃんが少し考えた。
「宝石の名前。JSNの上級会員資格」
「JSNって、飛行機の会社?」
「うん」
「へえ」
俺はよく分からなかった。
でも、姉ちゃんが話してくれた。
それが、少し嬉しかった。
* * *
「先週、与那国と波照間行ったって言ってたけど」
俺は続けた。
「うん」
「どうだった、本当のところ」
「本当のところ?」
「なんか、いつも『よかった』しか言わないから」
姉ちゃんは少し考えた。
「与那国は、風が強かった。島の端っこまで飛んできた感じがした」
「波照間は?」
「静かだった。売店が一個しかなかった」
「それは言ってたね」
「黒糖買った。二つの島で、それぞれ違う黒糖を買った」
「味違うの?」
「少し違う」
姉ちゃんが箸を止めた。
「プロペラ機が好きだと思った」
「ジェット機と違うの?」
「揺れ方が違う。空気をつかんでいる感じが直接伝わる」
「怖くないの?」
「怖くない。むしろ好き」
姉ちゃんがそう言った。
俺は姉ちゃんの横顔を見た。
話しているときの目が、違った。
地上の話をするときの目じゃない。
空の話をするときの目だ。
奥のほうが、灯っている。
* * *
食事が終わった。
食器を片付けた。
姉ちゃんはまたPCを開いた。
帰り際、玄関で俺は言った。
「次、行くとき教えて」
「なんで」
「見送りに行くかもしれないから」
「来なくていい」
「来たいんだけど」
姉ちゃんはしばらく俺を見た。
「……種子島にする」
「え?」
「次の修行。種子島にする」
俺には、それが返事なのかどうか分からなかった。
でも、姉ちゃんが種子島に決めた。
FCよりも、行ったことのない場所を選んだ。
それが、俺のせいかどうかは分からない。
でも、なんかそんな気がした。
「じゃあね」
「うん」
ドアを閉めた。
外に出た。
夜の空を見上げた。
いつもと少し違う食卓だった。
姉ちゃんが、空の話をしてくれた。
プロペラ機の揺れの話。
二つの島の黒糖の話。
俺が聞いたから、話してくれた。
それだけのことかもしれない。
でも、それだけのことが、今日はなんか大事な気がした。
空港の向こう側を知らなかった陸が、少しずつ蒼空の世界に触れていきます。
空の話をするときだけ変わる表情を、彼はちゃんと見ていました。
次の修行先は、種子島? それとも......




