第8話 名前のないもの
人を好きになる前に、「知らなかった顔」を知ってしまうことがある。
陸にとって昨日の空港は、姉を見送る場所ではなく、姉の別の人生を知った場所だった。
地上からでは見えなかった空の輪郭が、少しずつ彼の中に入り始めている。
# 翌日、大学の帰り道だった。
電車に乗りながら、スマートフォンをいじっていた。
特に見るものはなかった。
でも、何かしていないと、また考えてしまう気がした。
また、というのは、昨日のことだ。
朝、見送った。
夜、迎えた。
その間、俺は何度も姉ちゃんのことを考えていた。
差し入れを持っていく弟として、じゃなくて。
別の、何かとして。
その「何か」に、まだ名前がつけられていなかった。
* * *
田中に話してみた。
昼休み、学食で飯を食いながら。
「姉ちゃんのこと、なんか最近気になる」
「どういう意味で」
「なんか、よく考えてる」
「それ普通に好きなんじゃないの」
「姉ちゃんだぞ」
「いや知ってるけど」
田中が麺をすすりながら言った。
「でも血繋がってないとかじゃなくて?」
「繋がってる」
「じゃあ普通に姉弟として気になってるだけじゃない?」
「……そうかもしれない」
「なんか変なことあった?」
俺は少し考えた。
「姉ちゃんが、空港で別人みたいだった」
「空港で?」
「見送りに行ったら、なんか全然違う顔してた」
「かっこよかったとか?」
「……まあ」
「それ普通に好きだよ」
「だから姉ちゃんだって」
田中が肩をすくめた。
「難しいな」
「難しい」
それで終わった。
* * *
電車の中で、スマートフォンを閉じた。
窓の外を見た。
街が流れていく。
田中は「普通に好き」と言った。
でも、それとは少し違う気がした。
好きとか嫌いとか、そういう話じゃない。
姉ちゃんのことは、ずっと好きだ。
倒れてるし、食べないし、返信しないし、部屋は散らかってるし。
それでも好きだ。
姉弟として。
でも昨日、空港で見た姿は、そういう話じゃなかった。
あれは、俺の知らない人間だった。
でも、姉ちゃんだった。
俺が知っていた姉ちゃんは、地上の姉ちゃんだけだったんだ。
空の姉ちゃんは、別の顔を持っていた。
それを、昨日初めて知った。
* * *
家に帰った。
バッグを下ろして、ソファに座った。
天井を見た。
姉ちゃんは今日、何をしているだろう。
会社か。
帰り道にスーパーに寄っているか。
部屋で芋ジャージを着て、PCの前に座っているか。
たぶん、そのどれかだ。
地上の姉ちゃんは、だいたいそのどれかだ。
でも週末になったら、あの顔になる。
空港に入った瞬間に、別人になる。
俺はその切り替わりを、昨日初めて見た。
* * *
スマートフォンを開いた。
姉ちゃんのトーク画面を開いた。
昨日のやりとりが見えた。
「今日遅くなる。羽田着、二十時二十分」
俺は返信していなかった。
でも、空港に行った。
豚汁を作って、持っていった。
姉ちゃんは「なんで来たの」と言った。
俺は「豚汁、作ってきた」と言った。
本当の理由は、それだけじゃなかった。
また、あの顔が見たかった。
帰ってきたときの、あの満ちた顔が見たかった。
でも、そんなことは言えなかった。
言ったところで、姉ちゃんには伝わらないかもしれない。
「そう」と言って、PCを開くだけかもしれない。
俺はトーク画面を閉じた。
* * *
夕飯を作った。
冷蔵庫にあるもので、適当に炒め物を作った。
一人分だけ。
食べながら、思った。
姉ちゃんは今日も、バランス栄養食を飲んでいるだろうか。
スーパーで見切り品を漁っているだろうか。
帰宅して、芋ジャージに着替えて、PCを開いているだろうか。
次の修行のプランを、組んでいるだろうか。
独り言を言いながら、タブを増やしながら。
誰にも聞こえない場所で、「よっしゃあ」と叫んでいるだろうか。
俺には、その場面が見えない。
でも、たぶんそうしている。
それが、姉ちゃんだから。
* * *
食器を洗った。
洗いながら、思った。
俺は姉ちゃんの地上の顔しか知らなかった。
トロくて、生活感が強くて、倒れている姉ちゃん。
それが全部だと思っていた。
でも違った。
空港に入った瞬間に、別の人間になる姉ちゃんがいた。
与那国まで、波照間まで、一人で飛んでいく姉ちゃんがいた。
七便飛んで帰ってきて、満ちた顔をしている姉ちゃんがいた。
俺はそのどれも、昨日まで知らなかった。
差し入れを持っていくたびに「ちゃんとしろよ」と言っていた。
でも、姉ちゃんはちゃんとしていた。
ただ、俺には見えない場所で。
* * *
ソファに座って、天井を見た。
その「何か」に、まだ名前をつけられなかった。
好きとは少し違う。
尊敬とも少し違う。
驚きとも少し違う。
ただ、もっと知りたいと思った。
姉ちゃんが見ている空を、もっと知りたいと思った。
でも今の俺には、見る方法がない。
飛んだことがないから。
空港の保安検査の向こう側に、行ったことがないから。
それが少しだけ、もどかしかった。
今回は、「関係性の名前がまだ決まっていない感情」を描いています。
恋愛とも尊敬とも違う、“知らなかった相手をもっと知りたい”という感覚です。
陸はまだ飛んでいません。でも彼の視線は、もう少しずつ空へ向き始めています。




