表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コレが私のフライトプラン。Good Day‼【第2部 見送る人】  作者: ちとせ鶫
第3章 お迎え

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/17

第8話 名前のないもの

人を好きになる前に、「知らなかった顔」を知ってしまうことがある。

陸にとって昨日の空港は、姉を見送る場所ではなく、姉の別の人生を知った場所だった。

地上からでは見えなかった空の輪郭が、少しずつ彼の中に入り始めている。

# 翌日、大学の帰り道だった。


 電車に乗りながら、スマートフォンをいじっていた。

 特に見るものはなかった。

 でも、何かしていないと、また考えてしまう気がした。


 また、というのは、昨日のことだ。


 朝、見送った。

 夜、迎えた。

 その間、俺は何度も姉ちゃんのことを考えていた。


 差し入れを持っていく弟として、じゃなくて。

 別の、何かとして。


 その「何か」に、まだ名前がつけられていなかった。


     * * *


 田中に話してみた。


 昼休み、学食で飯を食いながら。


「姉ちゃんのこと、なんか最近気になる」

「どういう意味で」

「なんか、よく考えてる」

「それ普通に好きなんじゃないの」

「姉ちゃんだぞ」

「いや知ってるけど」


 田中が麺をすすりながら言った。


「でも血繋がってないとかじゃなくて?」

「繋がってる」

「じゃあ普通に姉弟として気になってるだけじゃない?」

「……そうかもしれない」

「なんか変なことあった?」


 俺は少し考えた。


「姉ちゃんが、空港で別人みたいだった」

「空港で?」

「見送りに行ったら、なんか全然違う顔してた」

「かっこよかったとか?」

「……まあ」

「それ普通に好きだよ」

「だから姉ちゃんだって」


 田中が肩をすくめた。


「難しいな」

「難しい」


 それで終わった。


     * * *


 電車の中で、スマートフォンを閉じた。


 窓の外を見た。

 街が流れていく。


 田中は「普通に好き」と言った。

 でも、それとは少し違う気がした。


 好きとか嫌いとか、そういう話じゃない。


 姉ちゃんのことは、ずっと好きだ。

 倒れてるし、食べないし、返信しないし、部屋は散らかってるし。

 それでも好きだ。

 姉弟として。


 でも昨日、空港で見た姿は、そういう話じゃなかった。


 あれは、俺の知らない人間だった。

 でも、姉ちゃんだった。


 俺が知っていた姉ちゃんは、地上の姉ちゃんだけだったんだ。

 空の姉ちゃんは、別の顔を持っていた。


 それを、昨日初めて知った。


     * * *


 家に帰った。


 バッグを下ろして、ソファに座った。

 天井を見た。


 姉ちゃんは今日、何をしているだろう。

 会社か。

 帰り道にスーパーに寄っているか。

 部屋で芋ジャージを着て、PCの前に座っているか。


 たぶん、そのどれかだ。

 地上の姉ちゃんは、だいたいそのどれかだ。


 でも週末になったら、あの顔になる。

 空港に入った瞬間に、別人になる。


 俺はその切り替わりを、昨日初めて見た。


     * * *


 スマートフォンを開いた。


 姉ちゃんのトーク画面を開いた。


 昨日のやりとりが見えた。

「今日遅くなる。羽田着、二十時二十分」


 俺は返信していなかった。

 でも、空港に行った。

 豚汁を作って、持っていった。


 姉ちゃんは「なんで来たの」と言った。

 俺は「豚汁、作ってきた」と言った。


 本当の理由は、それだけじゃなかった。


 また、あの顔が見たかった。

 帰ってきたときの、あの満ちた顔が見たかった。


 でも、そんなことは言えなかった。

 言ったところで、姉ちゃんには伝わらないかもしれない。

 「そう」と言って、PCを開くだけかもしれない。


 俺はトーク画面を閉じた。


     * * *


 夕飯を作った。


 冷蔵庫にあるもので、適当に炒め物を作った。

 一人分だけ。


 食べながら、思った。


 姉ちゃんは今日も、バランス栄養食を飲んでいるだろうか。

 スーパーで見切り品を漁っているだろうか。

 帰宅して、芋ジャージに着替えて、PCを開いているだろうか。


 次の修行のプランを、組んでいるだろうか。


 独り言を言いながら、タブを増やしながら。

 誰にも聞こえない場所で、「よっしゃあ」と叫んでいるだろうか。


 俺には、その場面が見えない。

 でも、たぶんそうしている。


 それが、姉ちゃんだから。


     * * *


 食器を洗った。


 洗いながら、思った。


 俺は姉ちゃんの地上の顔しか知らなかった。

 トロくて、生活感が強くて、倒れている姉ちゃん。

 それが全部だと思っていた。


 でも違った。


 空港に入った瞬間に、別の人間になる姉ちゃんがいた。

 与那国まで、波照間まで、一人で飛んでいく姉ちゃんがいた。

 七便飛んで帰ってきて、満ちた顔をしている姉ちゃんがいた。


 俺はそのどれも、昨日まで知らなかった。


 差し入れを持っていくたびに「ちゃんとしろよ」と言っていた。

 でも、姉ちゃんはちゃんとしていた。


 ただ、俺には見えない場所で。


     * * *


 ソファに座って、天井を見た。


 その「何か」に、まだ名前をつけられなかった。


 好きとは少し違う。

 尊敬とも少し違う。

 驚きとも少し違う。


 ただ、もっと知りたいと思った。


 姉ちゃんが見ている空を、もっと知りたいと思った。


 でも今の俺には、見る方法がない。

 飛んだことがないから。

 空港の保安検査の向こう側に、行ったことがないから。


 それが少しだけ、もどかしかった。

今回は、「関係性の名前がまだ決まっていない感情」を描いています。

恋愛とも尊敬とも違う、“知らなかった相手をもっと知りたい”という感覚です。

陸はまだ飛んでいません。でも彼の視線は、もう少しずつ空へ向き始めています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ