第7話 到着ロビーで
飛ぶ人間を待つ側にも、一日の物語がある。
陸は地上で過ごしながら、空を飛び続ける姉の輪郭を少しずつ知っていく。
見送りと出迎えの間で、家族という距離感が静かに変わり始めていた。
姉ちゃんからLINEが来たのは、夕方だった。
「今日遅くなる。羽田着、二十時二十分」
それだけだった。
俺は既読をつけて、しばらく考えた。
返信はしなかった。
でも、鍋に火をつけた。
今夜は豚汁を作ろうと思った。
帰りが遅いなら、温かいものがいい。
作り終えて、タッパーに入れた。
バッグに入れた。
電車に乗った。
姉ちゃんに連絡はしなかった。
聞かれなかったから、言わなかった。
姉ちゃん方式だ。
* * *
羽田空港に着いたのは、二十時ちょうどだった。
到着ロビーに向かった。
案内板を確認した。
JSN便、那覇発羽田行き。
到着予定、二十時二十分。
定刻通りだ。
シートに座って待った。
到着ロビーは、夜でも賑やかだ。
出迎えの人間が、到着口を見ている。
名前を書いたボードを持っている人もいる。
俺はボードを持っていなかった。
姉ちゃんに連絡もしていなかった。
来ていることを、知らせていなかった。
それでいい気がした。
* * *
待ちながら、今朝のことを思い返した。
見送りに行った。
保安検査の前で、姉ちゃんを見た。
四十秒で全部終えて、制限エリアの中に消えた。
あれから、姉ちゃんは七便飛んだ。
与那国と波照間に降りた。
どちらも、俺が地図で調べても場所がよく分からない離島だ。
沖縄の、さらに先。
日本の端っこ。
姉ちゃんは今日、そこまで飛んでいった。
俺は今日、大学の図書館で課題をやって、スーパーで食材を買って、豚汁を作った。
同じ一日だった。
でも、全然違う一日だった。
* * *
到着口から、人が出てきた。
スーツケースを引いている人。
家族連れ。
俺は到着口を見ていた。
姉ちゃんが出てきた。
ネイビーのワンピース。
グレーのトレンチ。
朝と同じ格好だった。
でも、顔が違った。
朝の姉ちゃんは、目が鋭かった。
空港に入った瞬間の、あの目だ。
今の姉ちゃんは、少し違う。
疲れているわけじゃない。
でも、柔らかかった。
満ちている、という感じがした。
何かが、満ちていた。
* * *
姉ちゃんが俺を見つけた。
一瞬、目を丸くした。
「なんで来たの」
「豚汁、作ってきた」
「……冷蔵庫に入れといてくれればよかったのに」
「鍵持ってない」
「そっか」
姉ちゃんは特に嬉しそうでも、迷惑そうでもなかった。
ただ、俺がいるという事実を確認した、という顔だった。
俺たちは並んで歩き始めた。
* * *
電車に乗った。
「どうだった」と俺は聞いた。
「よかった」と姉ちゃんは言った。
それから、与那国と波照間の話を少し聞いた。
売店が一つしかなかった話。
プロペラ機の揺れの話。
黒糖を買った話。
姉ちゃんは淡々と話した。
でも、話している姉ちゃんの目が、少し違った。
いつもの、地上の姉ちゃんの目じゃない。
空の話をしているときの目だ。
俺はそれを横から見ながら、思った。
姉ちゃんにとって、今日の話は特別じゃないのかもしれない。
でも俺には、全部が遠い世界の話だった。
* * *
姉ちゃんの部屋に着いた。
豚汁を温めた。
食卓に並べた。
姉ちゃんは芋ジャージに着替えて、眼鏡をかけて、席に座った。
いつもの姉ちゃんに戻った。
でも今日は、朝の姿が頭に残っていた。
保安検査を四十秒で抜けた姿。
制限エリアの中に消えていった背中。
満ちた顔で到着口から出てきた姿。
あれと、今ご飯を食べているこの人が、同じ人間だ。
「美味しい」
姉ちゃんが言った。
「よかった」
俺は答えた。
* * *
食事が終わった。
姉ちゃんがPCを開いた。
独り言が始まった。
「……奄美か、種子島か、奄美のほうがFCが、でも種子島は行ったことないから……」
俺は食器を洗いながら、その声を聞いていた。
今日七便飛んで帰ってきて、もう次の計画を立てている。
「ありがとう」
帰り際、姉ちゃんが言った。
今朝も言っていた。
珍しかった。
二日連続で「ありがとう」を言う姉ちゃんは、初めてだった。
「また来る」
「うん」
ドアを閉めた。
外に出た。
夜の空を見上げた。
飛行機の灯りが見えた。
今日、姉ちゃんはあの中にいた。
七回、あの中にいた。
朝、見送って。
夜、迎えた。
なんか、今日は姉ちゃんのことをよく考えた一日だった。
差し入れを持っていく弟として、じゃなくて。
別の、何かとして。
俺はまだ、その「何か」に名前をつけられなかった。
今回は「飛ぶ側」ではなく、「待つ側」から見た蒼空を書きました。
同じ一日でも、空を飛ぶ人と地上にいる人では、時間の密度がまるで違う。
それでも最後に同じ食卓へ戻ってくる——その感覚を書きたかった話です。




