第39話:破砕の福音(カイザーシュマルン)
氷壁の研究所が、地底からの咆哮のような轟音を立てて震動した。
生命維持装置を破壊されたマスター・パティシエは、崩落する氷の破片に飲み込まれながら、狂ったような哄笑を上げていた。私は奪還した「真のレシピ」の束をトレンチコートの内側に叩き込み、マックスとダリアを両脇に抱え上げた。
「……ふん。幕引きは、随分と騒々しいものだな」
脱出口へと続く通路は、天井から降り注ぐ巨大な氷塊によって、無残に「粉砕」され始めていた。
その光景は、オーストリアの伝統的なパンケーキ菓子――**『カイザーシュマルン』**を想起させた。
ふんわりと焼かれた生地をあえてバラバラに引き裂き、粉砂糖を振りかけた「皇帝のパンケーキ」。今、私の目の前で起きているのは、アルプスという名の巨大な山が自らを「引き裂き」、氷の粉砂糖で世界を埋め尽くそうとする断末魔の儀式だ。
私は、崩れ落ちる足場を跳ね、破砕されていく通路を疾走した。
バリバリッ、ガシャァァン!!
背後で、かつて「聖域」と呼ばれた工房が、カイザーシュマルンのように不均等な礫となって崩れ去っていく。
私は、出口付近に放置されていたトレイから、凍りついたカイザーシュマルンの残骸を一つ、走りながら口へ放り込んだ。
シャリッ、……。
凍結した生地は、もはやパンケーキの柔らかさを失っていた。だが、そこに添えられていたプラムのコンポートには、この研究所で最後に精製された極毒『忘却の果実』が塗り込められていた。
ジュワッ、……!!
酸味と共に広がる、魂を溶解させるような虚無の感覚。
脱出の意志を削ぎ、この美しい氷の墓標の中で永遠に眠らせようとする、マスター最後の呪いだ。
意識が急速に混濁し、出口の光が遠のいていく。
(……! 最後まで、バラバラに引き裂いた『絶望』を食らわせようというわけか。……だが、私の物語を完結させるのは、貴様の毒ではない)
私は、口内に残る氷を吐き捨て、懐から最後の、正真正銘最後の**『オレオクッキー』**を取り出した。
パキッ、バリボリボリッ!! ガリッ!!
漆黒のココアが放つ、暴力的なまでに力強い「現実」の苦味。
それが、脳を引き裂こうとする「甘美な忘却」を、強引に暗黒の現実へと繋ぎ止めた。
ドクンッ、……!
再起動された視界の先。崩落する氷壁の間から、夜明けの光が差し込んでいた。
私は二匹を抱えたまま、粉砕される「氷の山」から、白銀の雪原へと身を投げた。
数分後。
背後で、アルプスの北壁が完全に沈黙した。
雪煙が舞い上がる中、私は雪原に立ち尽くし、手にした「全レシピ」を懐から取り出した。
「……広島、尼崎、三宮、ロンドン、バチカン……。そして、このスイス」
私は、レシピの束にライターの火をつけた。
羊皮紙は、青白い炎を上げて、雪原に黒い灰を散らし始めた。
「……お残しは許さないと言ったが。……こんな毒だらけの献立は、この世界には必要ない」
灰は風に乗り、真っ白な雪原へと消えていく。
私は、二匹の頭を優しく撫で、朝日が昇り始めた地平線へと歩き出した。
「……さて。マックス。ダリア。……本当の『口直し』に、どこか静かな街で、毒の入っていない、普通の温かいココアでも飲みに行こうか」




