エピローグ:日だまりの味(プレーン・オレオ)
アルプスの凍てつく夜から数ヶ月。
瀬戸内の穏やかな海風が吹き抜ける、広島・廿日市の小さなドッグカフェ。そのテラス席で、私はようやく「本当の休息」という名の椅子に深く腰を下ろしていた。
かつてのトレンチコートはクローゼットの奥にしまい、今は柔らかなリネンのブラウスを纏っている。
足元では、マックスとダリアが春の陽光を浴びながら、重なり合うようにして微睡んでいた。彼らの耳が時折ピクリと動くのは、悪夢にうなされているからではなく、近くを通り過ぎる蝶の羽音に反応しているからだろう。
「……お待たせいたしました。ホットココアと、こちらサービスのお菓子です」
店員が置いたのは、どこにでもある白いマグカップ。そして、小さな皿に乗せられた一枚のクッキー。
それは、私がこの数年、命を繋ぐために噛み砕き続けてきた、あの漆黒の円盤――**『オレオ』**だった。
私は銀のフォークを置いた。
ここでは、毒を検知するための鋭利な刃も、神経を研ぎ澄ますための覚醒も必要ない。
私は素手でそのクッキーを摘み、ゆっくりと二つに分けた。
パキッ。
乾燥した、小気味よい音。
中から現れたのは、人工的な白さのバニラクリーム。私はそれを躊躇なく口へと運んだ。
サクッ、ボリボリ……。
ココアのほろ苦さと、砂糖の暴力的なまでの甘み。
だが、そこには脳を焼くような薬物も、喉を切り裂くガラス粉も、五感を反転させる呪いも含まれていない。
ただの、どこにでもある、安価でジャンクな、退屈なまでの「平和」の味だった。
(……ああ。……甘いわね。本当に)
私は、温かいココアを一口啜った。
熱い液体が喉を通り、胃に落ちる。身体が芯から緩んでいくのを感じる。
かつてアリス・カートレットとして死に、御影瑠璃として修羅の道を歩んだ日々。そのすべてが、この一杯のココアの湯気の中に溶けて消えていくようだった。
ふと視線を上げると、青い海を背に、マックスが目を覚ましてこちらを見上げていた。
私は残りのオレオを小さく砕き、彼の鼻先に差し出した。
「……マックス。これは『毒』じゃないわ。ただの、おやつよ」
マックスは尻尾を一度だけ大きく振り、それを器用に口に含んだ。
続いて目を覚ましたダリアが、羨ましそうに私の膝に顎を乗せる。
世界を甘い地獄に変えようとしたレシピは、もうどこにもない。
私のフォークが貫くべき敵も、もう存在しない。
私は最後の一片を口に放り込み、目を閉じて、頬に当たる温かな風を感じた。
漆黒のココアが教えてくれるのは、もう「現実」への帰還ではない。
ただ、この穏やかな時間が続いていくという、ささやかな「未来」の予感だった。
「……さて。お口直しに。……次は、どこへ散歩に行こうかしら」
私は、空になったマグカップをテーブルに置き、愛犬たちのリードを優しく握りしめた。




