第35話:白濁の聖域(トローネ)
枢機卿ヴァレリウスの顔から余裕が消え、卑俗な恐怖がその皺に刻まれた。彼は懐から取り出した起爆装置のスイッチを、震える指で叩きつけた。
「……愚かな。天国へ行けぬのなら、この地の底で永遠に眠れ、御影瑠璃!」
ドォォォォン……!!
温室の四隅に仕掛けられた爆薬が炸裂し、大理石の支柱が悲鳴を上げて砕け散った。同時に、配管から噴出したのは、単なる消火剤ではない。プラントで精製されていたあらゆる毒を濃縮した、致死性の白煙だ。
視界は一瞬で白濁し、肺を刺すような化学臭が立ち込める。私はトレンチコートの襟を口元に当て、瓦礫が降り注ぐ中、枢機卿が逃げ込もうとした奥の祭壇へと視線を走らせた。
「……逃がしはしない。教会の重い扉を閉めたところで、その罪までは隠しきれない」
祭壇の影、隠し金庫の扉が爆発の衝撃で僅かに歪んでいる。その隙間に見えたのは、古びた羊皮紙の束――この世に蔓延る「毒菓子」すべての根源、真のレシピの原本だ。
私は、足元に転がっていた一箱の菓子を蹴り飛ばし、自らの手中に収めた。
イタリアの伝統的なヌガー菓子――『トローネ』。
卵白と蜂蜜、そして大量のナッツを練り固めた、石のように硬い白の塊だ。
ボキッ、バキッ……。
私はトローネの堅牢な生地をフォークの柄で砕き、その欠片を口へと放り込んだ。
ガリッ、ジャリリッ!!
蜂蜜の濃厚な粘り気と、ナッツの強烈な硬度。咀嚼するたびに頭蓋骨へ響く振動が、白煙に含まれる「意識を遠のかせる麻薬」を強引に跳ね除ける。
(……! この硬さ、まさに信仰の仮面。……だが、どれほど硬く塗り固めようとも、私のフォークは核心を逃さない)
バリバリッ、ジャリッ……!
トローネに混じっていたのは、ただのアーモンドではない。枢機卿が最期に隠し持っていた、バチカン最高純度の結晶薬物『聖母の溜息』。それは脳の深部を凍らせ、永遠の静寂へと誘う極毒だ。
私は、懐から引きずり出した**『オレオクッキー』**を、トローネの甘みが残る口腔内へ強引に叩き込んだ。
ボリッ、ボリボリッ!! ガリッ!!
漆黒のココアが放つ、暴力的なまでに無慈悲な「現実」の苦味。
それが、脳を白濁の虚無へと引き摺り込もうとする「聖なる静寂」を、一瞬で粉砕した。
ドクンッ、……!
再起動された視界。私は崩落する祭壇の隙間に手を突っ込み、熱を帯びた「真のレシピ」を力ずくで奪取した。
「……マックス。ダリア。……ティータイムの終わりだ。この汚れた『聖域』に、引導を渡してやろう」
背後で枢機卿の叫び声が、瓦礫の崩れる音と共に飲み込まれていく。
私は奪い取ったレシピを胸に抱き、天井の亀裂から降り注ぐ月光を頼りに、崩壊するバチカンの地下から跳躍した。
数分後。
夜のサン・ピエトロ広場に、一筋の影が降り立った。
ずぶ濡れの髪をかき上げ、私は手にした羊皮紙を月明かりにかざした。
「……広島、尼崎、三宮、そしてロンドン……。すべての悲劇の筆跡が、ここに記されているわけか」
私は、新しいオレオを一枚口に放り込み、ガリッと力強く噛み砕いた。
漆黒のココアが、私の次の、そして最後の標的を指し示す。
バチカンさえも、ただの「支店」に過ぎなかった。
このレシピを書き、世界を甘い地獄へ変えようとしている真の巨悪。
「……さて。お口直しに、この物語の『真のオーナー』を、丸ごと検食(ガサ入れ)しに行こうか」




