第33話:昇天の泥濘(ティラミス)
低く唸りを上げる昇降機が、バチカンの地下数百メートル、歴史の地層さえも突き抜けた最深部で静止した。扉が開くと、そこにはカビ臭い石造りの地下道ではなく、大理石と金箔で彩られた、人工的な光が溢れる「聖なる温室」が広がっていた。
「……ふん。地上では清貧を説きながら、地下には贅の限りを尽くした『天国』を築いているわけか。悪趣味極まりない」
私は、マックスとダリアを警戒させながら、温室の中央に置かれた長いテーブルへと歩み寄った。そこには、純白の法衣に身を包み、優雅に銀のスプーンを動かす老人がいた。枢機卿ヴァレリウス。この「聖域」における毒の総責任者だ。
「ようこそ、東方の令嬢。……まずは、この『私を天国へ引き上げてくれる(ティラミス)』一皿を試したまえ」
差し出されたのは、美しい層を成す**『ティラミス』**だった。
表面には、漆黒のココアパウダーが厚く、静謐な雪のように降り積もっている。
パフッ。
スプーンを入れると、乾いたココアの粉が微かに舞った。私はその一口を、迷わず口腔内へと招き入れた。
ヌチャッ、……。
濃厚なマスカルポーネのクリームが舌を包み込み、続いてエスプレッソをたっぷりと含んだスポンジが、芳醇な苦味を弾けさせる。
だが、その調和の奥底で、私の味覚は「致死量の安らぎ」を検知した。
シャリッ、……。
ココアパウダーに混じっていたのは、ただのスパイスではない。気化しやすく、肺の粘膜から直接魂を絡め取る、超微粒子の『聖人の粉末』だ。
(……! ティラミス……『私を引っ張り上げて』か。……文字通り、現世から魂を引き剥がし、永遠の多幸感の中に沈めるための『絞首刑のデザート』だな)
視界が急速に黄金色の光に満たされ、足元の大理石が雲のように柔らかく波打ち始めた。枢機卿の顔が神々しく発光し、その声が聖歌となって脳内に直接響き渡る。
「……どうだね。……重力から解放され、神の御許へと昇る気分は」
私は、震える右手を無理やりポケットへと突っ込んだ。指先が、砕けた**『オレオクッキー』**の硬い感触を捉える。
パキッ、バリボリボリッ!! ガリッ!!
漆黒のココアが放つ、暴力的なまでに冷徹な「現実」の苦味。
それが、脳を多幸感の泥濘に引き摺り込もうとする「聖なる昇天」を、強引に暗黒へと塗り替えた。
ドクンッ、……!
心臓が「地上」の拍動を取り戻し、黄金色の光は一瞬にして、地下実験室の無機質なLED光へと姿を変えた。
「……お残しは許さないと言いたいが。……枢機卿。……貴様の言う『天国』は、少々湿っぽすぎて、私の口には合わない」
私は、クリームの付いたスプーンを銀のフォークに持ち替え、枢機卿の目前にあるテーブルへと力強く突き立てた。
ドシュッ!
「……なっ、……『昇天』の誘いを自力で断ち切っただと……!?」
「……私の五感は、空想の神などではなく、この黒いココアと砂糖の質量に支えられている。……貴様の茶番は、今ここで閉会だ」
背後の温室から、武装した聖騎士たちが現れる。だが、私の瞳には、もはや彼らさえも「検食対象」のガラクタにしか見えていなかった。
「……さて。マックス。ダリア。……お口直しに、この『偽りの天国』を、丸ごと検食(ガサ入れ)してやろうか」




