V
彼女とは高校からの付き合いになる。
高校二年の時に私から告白する形で交際を始めた。
彼女はとても聡明で、顔だちもかわいらしく、話していて心が軽くなった。
修学旅行は一緒に観光地を巡り、何度も互いの家で勉強をした。
受験の日。彼女は志望校に合格し、私は合格できなかった。
予備校行きを選択した私に、彼女は「頑張って、応援してるから」と言って背中を叩いてくれた。
メッセージのやり取りは朝と夜に必ず。時には通話もして、さらに稀には「気分転換ね」とデートに誘ってくれた。
浪人は苦しかったが、充実していた。
改めて、私は自分がどれほど彼女が好きかというのが解った。
受験にはもう一度失敗した。
落ち込む私に、彼女は何も言わず、ただ傍にいてくれた。
「なあ、お前。彼女と別れないのか?」
成人してしまった私に、友人から酒の誘いがあった。
「彼女、大学でもすっごいモテてるんだぜ。なにせあんなにかわいいからな」
確かに、彼女は元から女神のようだったが、大学に入ってからは一層あか抜けたようだった。
「告られても、お前と付き合ってるからって全部断ってるんだ。そのくせ『彼は勉強に集中しないといけないから』『わたしが邪魔しちゃいけないから』って。ものすごく寂しそうだったぞ」
みじめなような、申し訳ないような、色々な感情が頭の中でぐるぐる回って、私は悪酔いしてしまった。
帰り道、酔った勢いで私は彼女に電話をし、「別れてくれ」と言った。
「どうして!? 嫌いになっちゃった?」
彼女は混乱しているようだった。
一気に涙が決壊したようだった。嗚咽交じりに、電話の向こうで彼女は叫んだ。
「理由を教えてよ! わたし、なにかした!? 嫌いになっちゃったの!?」
「違うっ! そんなわけない。大好きだよ」
「じゃあなんで!?」
「だって……だって、俺みたいな二浪の冴えないやつとお前じゃ釣り合ってないだろ……。大学生活をさ、青春を邪魔しているみたいで──」
「やめてよ!!」
彼女は縋るように怒鳴った。
「邪魔なんて思ったことは一度もない! 別に義理で付き合っている訳じゃない! わたしは好きで好きで、一緒にいたいから! 恋人だって言ってほしいから! だからっ──!」
「っ! ……ごめん」
「……本当にばかなんだからっ……」
ぐすっ、と啜り泣きの声が聞こえた。
「……明日、デートにいかないか?」
「……ばかっ。そんなことでわたしの機嫌を取ろうっていうの?」
「ダメかな」
「ううん、悔しいけど。すごく嬉しいみたい」
電話越しでも、彼女の笑顔が鮮明に分かった。
それが、私たちの初めての喧嘩で、私たちが絆を深めた最大の出来事だった。
この年の冬、私は第一志望の大学に晴れて合格し、無事に医者になるための道を歩き始めた。
それから何度か喧嘩をして、そのたびに仲直りをして、彼女が好きだ、という気持ちは変わりなく、ますます強くなっていった。
彼女は私よりも一足先に就職し、それを機に私たちは同棲を始めた。
そして、私の就職先が無事に決まったタイミングで、私たちは籍を入れた。
本当に、幸せだった。
彼女の身体に違和感が生じたのは、珍しく雪の降った日の夜のことだったそうだ。
当直明けの身体を引きずるようにして正午ごろ帰宅すると、彼女はソファでうたた寝をしていた。ズレたブランケットから腕が覗いていて寒そうに見えた。私は顔を自然綻ばせて、ブランケットを直してやった。
手の甲に灰色の斑が生じているのに気付いたのはその時だった。シラミの噛み跡にしては青みが無く、質感はつるりとしていてまるでヤスリにかけられた岩のようで、そして硬さがあった。
目を覚ました彼女に手の斑について尋ねると、彼女は初めて気がついた様子で吃驚してみせた。
「え、なにこれ分からない」
「違和感とかはない?」
「そういえば昨日の夜からちょっと腕が重かったかも」
何かの病気かな。
彼女は不安を満面に浮かべて私を見上げた。
「そういった病気は知らないんだけど」
私は首を傾げた。
「明日、職場で訊いてみるよ」
医者の言葉の持つ安心感は、自分で思っている以上に強い。
彼女は安堵の笑みを浮かべた。
ところが、特定の方は芳しく無かった。
上司も先輩も、そのような病気は知らないと首を振ったのだ。
「病理は専門じゃないからなぁ」
先輩は邪険そうに言った。午後からオペが二件もある。申し訳ないことをした。
「疲れて変なものでも見えたんじゃないのか?」
上司は覗き込むような表情で私を見つめた。
「それかマーカーとかで色がついただけだとか」
「いえ、何日か経っても全く取れないんです」
「……そこだけ洗っていないんじゃないのか?」
訝しげな口調だった。上司自身がその言葉を疑っていることが伝わる。私は途方に暮れた。
仕事の合間に医書や論文を読み漁ったが、病院の資料にはそのような病症の情報は無いようだった。
手の甲に生じた斑は日に日に大きさを増し、ついには両手の甲を覆うまでになった。
「手が固まって動かないわ」
彼女は混乱して、寝ても覚めても顔をこわばらせ涙を流していた。
「明日、大学病院に診てもらおう」
無理を言って、上司に紹介状を書いてもらった。県内で一番見識のある医者だそうだ。
「きっと原因が分かるよ」
翌日、診察と精密な検査とが行われた。
「話を聞いたときは、|FOP《進行性骨化性繊維異形成症》を疑ったんだけどね、どうも違いそうだ」
老齢な医者は、コンコンと彼女の手を叩いて「痛みますか」と尋ねた。
「響くような感じはあります」
彼女は言った。
「でも、痛みはありません」
ふむ、と医者は眉根を寄せた。
「レントゲン写真を見て欲しいんだけどね」
彼は彼女の腕の写真を指し示した。
「完全に真っ白なんだ。まるで全部中身から骨に変わったみたいに」
「そうなんです」
私は既に自分の病院でひと通りの検査をしていたので、その結果についても知っていた。
「これが本当に骨なのかどうか、果たしてね」
ちょうどその時、看護師がやって来て一枚の紙を置いていった。それを見て、医師は目を白黒させた。
「……組織片の解析結果なんだがね」
彼は書類を机に置いて見せてくれた。
「骨の成分とは少し異なるようなんだ」
学生時代に見慣れた成分名が並ぶ。
「どちらかと言えば、これは鉱物の成分では……?」
「ああ」
未知の、腕が石化する病気。
結論は俄かに信じがたいものだった。
「病名がつかなかった」
車の助手席で、彼女は涙をハラハラと流していた。
「わたし、これからどうなっちゃうの?」
「……俺がなんとかしてみせるよ」
「……本当に?」
「ああ。信じてくれ」
両手が動かない彼女に食事を食べさせてやっている時、彼女は一層ひどく悲しみに暮れていた。物を掴むことが出来なくなっていたのだ。惨めな気分に襲われたのでは無いかと思う。
仕事も辞めざるを得なくなり、家に一人でぼうっとすることが多くなった彼女を尻目に、私の仕事は相変わらずの忙しさだった。私のいない時、一体どうやって過ごしているのだろう。頼れる身寄りのない彼女を思って、私も打ちひしがれていた。
解決の方法にひとつ心当たりはあったが、中々それを切り出すことが出来なかった。
「もう腕が使い物にならないの」
彼女は泣いていた。化粧のない頬に流れた涙の跡が線になっていた。
私が怖くて言い出せなかった提案を、彼女は自ら口にした。
「こんな腕ならもう、無い方がいいわ。ねえ、手術してよ。外科医だったよね」
既に肘まで石化が進んでいた。
「分かった。手術をしよう」
一縷の希望を込めて言った。
「両腕を切除するんだ。そうすればきっと、それ以上石化は進行しないはずだ」
自分に言い聞かせるように言った。
「すぐに手配するよ」
執刀は私が自ら務めることにした。他の人間に任せては後悔すると思った。
「これは確かに見たことがないな」
科の上司が興味深そうに言っていた。未知の病に、皆それぞれに好奇と畏れを抱いていた。
全身麻酔をかけられて眠っている彼女の腕の、まだ上腕には柔らかい部分も残っていた。
病変は、肘の少し上まで進んでいた。進行の速さに私の心は痛んだ。
しっかりしないと。
一瞬の油断が命取りになる。感覚を研ぎ澄ませ、患者にとって最良の手術としなければならない。
私は、慎重に彼女の腕にメスを落とした。
手術は成功した。
両腕は失われたが、灰色の斑は跡形も無くなった。
術後、意識を取り戻してすぐに彼女はトイレに行こうと立ち上がろうとして、よろめいた。
「ちょっとバランスが掴めなくて」
彼女は照れ臭そうに笑った。そして慎重な動作でベッドに戻った。
「しばらく経過を見てみよう」
ベッドに起き上がり窓の外を眺めていた彼女は、緩慢とした動きで頷いた。外の桜は少し蕾を現していた。
「もしかしたら、少し痛みもあるかも知れないけど、一過性のものだから」
幻肢痛を想定して私は言った。彼女は「分かったわ」とか細い声で答えた。
「ありがとうね」
病室を去る私の背中越しに彼女の声が聞こえた。
「また明日来るよ」
私は振り返って微笑んだ。
彼女も笑みを浮かべて、小さく手を振っていた。
それが彼女に会った最後になった。
翌朝、彼女は全身が石化しているのを見つかった。
両腕のない彼女の姿は、まるでヴィーナス像のようで、とても美しかった。私は悲しみに暮れて膝から崩れ落ち、さめざめと涙を流した。
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