P
P氏は警備会社の社員だ。
主な仕事は、顧客の物件に設置されている自社のセンサーが発報した際に現場に急行し、センサーが何を感知したのか、異常がないかを調べることだ。
まだ経験は浅いが、仕事覚えは早く、上司からの評判も良い。何より、やる気に満ち溢れていた。
その日、P氏は夜勤についていた。
その日はセンサーの誤報も少なく、P氏は比較的のんびりと事務処理に取り組むことができた。
そのセンサーが発報したのは、午前2時半頃のことだった。
待機場から車で10分ほどの距離にある公民館。P氏は現場に急行した。
夜更けから降り出した雨で視界が悪い。目安の10分からやや遅れて、P氏は現場に到着した。
周囲が空き地だったことで、P氏は建物を四方から観察できた。
窓ガラスが破られている形跡はなく、外壁に穴も開けられていない。侵入者がいる可能性は少ないように思われた。
P氏は顧客から預かっている鍵を使って建物に入館した。
公民館とはいうが、最近は使われていなかったのか埃っぽい。板張りの床が軋んで音を立てる。P氏は内側から侵入口となり得る窓などの施錠を確認して回った。
消灯された館内は真っ暗で、非常灯の明かりが弱々しく存在を主張している。降ろされたブラインドの隙間からほんの微かに街灯の光が漏れ出ていた。窓の外からは、雨が注がれたような音が聞こえた。
窓ガラスも、可能な限り手で触って施錠と穴が空けられていないかを確認する。
何も問題が無かった。
誤報だろう、だとしたら原因はなんだろう。P氏はそう考えながら足早に館内を進んでいった。
反応したセンサーは、1階の建物の最奥部の小部屋にあった。
普段は倉庫として使われているようで、埃っぽい館内の中でも飛び抜けて埃っぽい。
人がひとり通るのがやっとなほどそこら中に積み上げられた段ボール箱を崩さぬように、P氏は横歩きでそろそろと部屋の奥に向かった。
(大方荷物が崩れ落ちたのだろう)
そう考えていたが、どうやら荷物は整然と積み上げられていて明らかに崩れたものは無かった。
(ん。これは?)
P氏は積み上げられた荷物の背面に、子どもひとりくらいが通れそうな間口の窓を見つけた。
(空いている)
窓の外は真っ暗闇で、光の類は一切ない。遠くから雨のさらさらした音が聞こえるのみである。
(誤報の原因はこれか?)
小動物が窓から入ってきてセンサーが感知した──充分あり得る話だと思った。
開け放しだと、また誤報が出たり、あるいは本物の侵入者の侵入経路となってしまい得る。P氏は腕を伸ばして窓を閉めた。身につけた警棒や懐中電灯が触れ合ってガシャガシャと音を立てた。真っ暗な部屋の静寂にそれは騒々しいほどだった。
閉めた窓に映り込んだ自分のシルエットが少し膨れていて、P氏は目を擦った。
(装備品をつけていてもこんな風に映るものか?)
少し訝しく思いながらもP氏は一旦、他の部屋も見て回ることにした。
まだ見ていない部屋と、上がっていない2階を確認しに向かう。
真っ暗闇を、懐中電灯の光だけを頼りに進む。
唐突に、ガタッ、と音がしてP氏は数センチは飛び上がった。
自分の身につけていた警棒が壁に当たった音だった。
安堵の溜息をついてP氏が顔を上げると、目の前で男がP氏を睨みつけていた。
驚いて懐中電灯を振り回したら、それが肖像画だと分かった。見覚えがある。ベートーヴェンだ。改めて部屋を見渡すとピアノと孔の空いた吸音壁が据えてある。音楽室であるようだ。
(ビビらせやがって)
異常無し。
それがP氏の結論だった。
手元の図面と照らし合わせても、他に結論は無かった。
(ただひとつ、気掛かりなのは)
手元の図面では、センサーの発報した部屋の奥には窓などないことになっていた。
ただ、図面と実際の物件が食い違っていることは珍しく無かった。
窓があったとして、その奥には何らかの空間があるように図面に描かれていたが、作成者が横着をしたのだろうと深く気に留めなかった。
雨はシトシトと降り続いている。
強くならなければ良いが、P氏は窓ガラスの外に祈りを馳せた。この時点で気掛かりなど頭から抜け落ちていた。
真っ暗な廊下を、懐中電灯と非常口のか弱い緑の明かりを頼りに進んでいく。
P氏は点検結果の報告書を書くため、事務室に移った。
「防犯センサーが感知しておりましたが、異常は確認できませんでした──っと」
いつも通り報告書を書き上げ、P氏は顔を上げた。
窓ガラスに水滴が付いていた。自分の姿がシルエットのように映っていた。
そして、自分の頭がいつもより膨れ上がって見えた。
(なんだこれ?)
P氏は何気なく振り返った。
デスマスク──目を閉じた人の顔を写し取ったような、真っ白なお面がP氏の後方20センチメートルの辺りに浮遊していた。
瞼なのか瞳孔は無く、鼻腔も無く、瀬戸物のような質感の白いお面。それがじっとP氏を見つめていた。
表情は無かった。
声にならない悲鳴をあげて、P氏は取るものも取り敢えず入り口に駆け込んだ。
鍵を閉める余裕もなかった。
公民館を出て、乗ってきた社用車に飛び乗った。
お面はP氏が飛び乗った運転席の窓ガラスに顔を押し付けて、瞳のない目でじっとP氏を見つめていた。中に入ることができないようで、コンコンとお面全体を押し付けるようにガラスに体当たりを繰り返していた。
(なんなんだよ!)
P氏は大急ぎで車のキーを回した。エンジンがかかる数秒さえ寿命が縮む思いであった。
アクセルを勢い良く踏み込む。ハンドルを切り損ない、車のリアバンパーが大きく振られて、公民館の壁に当たって破損させた。ちょうどセンサーの発報したあたりの外壁である。慌てすぎてP氏は確認できなかったが、壁の内側には赤黒い文字で念仏の書かれたお札が何枚も貼られてあった。互いに重ね合わせるように貼ってあった。
真夜中の車道には人も車も全く居なかった。もとより田舎道で、タクシーの往来もほとんどない。速度制限や車線や信号になど目もくれなかった。その実、P氏自身どこに向かって車を走らせているのか分からなかった。
雨が降り続いており視界が悪い。濡れた路面に、何度もハンドルを取られそうになる。道は緩やかに右へカーブしていた。
コツン、コツン。
P氏の右側から不規則な音がする。
白い人面が運転席の窓ガラスを叩いているのだった。
P氏は恐怖で、とてもではないが確認などできなかった。
ワイパーが何度も往復する。
雨脚が強くなってきていた。
大粒の滴がフロントガラスに張り付き、進行方向の状況が分からなくなる。
乱反射する街灯の光と、記憶だけを頼りにP氏はハンドルを強く握りしめた。スピードを緩める考えはなかった。
相変わらず、窓ガラスを叩く断続的な音がする。
刹那、不意にワイパーが停止した。
フロントガラスの雨粒がたちまちP氏の視界を奪った。
(なっ!)
反射的にP氏はブレーキを踏み込んだ。
急ブレーキに振られ、P氏はつんのめった。胸がハンドルに当たり、クラクションを鳴らす。
首筋に軽いむち打ちの感触を得ながらP氏はすぐに顔を上げた。
目の前に件の白いデスマスクが見えた。
フロントガラス越しに、雨粒に滲んで輪郭だけが朧気に。
(ひいっ!)
ワイパーが動き出し、初めからそこになかったかのように白いお面は見えなくなった。
コツン、コツン。
ノックのような音が今度は正面から聞こえてくる。
心なしか、先ほどよりも音が大きいようだった。
どうして運転できているのかも分らぬほどに、P氏は人事不省に陥っていた。
とにかく道路を走っていく。
ずっと道は緩やかにカーブしたままだ。環状の交差点から永遠に抜けられないようでもあった。
すでにP氏の記憶にある道の姿ではなかったが、P氏はそれに気付く余裕さえ失っていた。
不意に白い輪郭がP氏の目の端を泳いだ。
P氏は慌てて反対方向にハンドルを切った。タイヤが濡れた路面にとられ、車体がくるくると回転する。
車の左前側が大きく傾いだ。
側溝に落ちたのだった。
助手席側の窓ガラスにひびが入った。
コツン、コツンというノック音に、ガシャガシャと破片の擦りあうような破砕音が徐々に混じり始めた。
(っ来る!)
P氏は急いで車から降りようとした。
だが、傾いたことでP氏の身体は運転席に固定されてしまっていた。
(動けない!)
もはや雨音は聞こえなくなっていた。
P氏は恐怖のあまり失神した。
P氏の携帯電話には何度か会社からの着信があったが、P氏からの応答は全く無かった。
連絡が取れないことを不審に思った同僚がP氏の車に駆けつけた時、P氏の車は公民館からほんの数メートル先の路肩にあり、傷や汚れは一切なかった。運転席に座るP氏の顔には白いお面が張り付いていて、どう努めても取れることはなかった。
P is for PATROL




