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M

 私は、帰国した足で、そのまま会社に向かった。


「おお、海外生活はどうだったかね」

「はい。初めは慣れなかったですが、段々と染まっていく感じがありました」


 上司に歓待され、まだ時差ボケのする頭で私は答えた。


「そうかそうか、まあ、今日はゆっくりと休んでくれ。仕事も適当に切り上げればいい」

「ありがとうございます」


 私は好意に甘えることにした。

 土産物のお菓子をフロアに配り、一通り挨拶も終えると、早々に帰路に着いた。


 帰国するのは1年ぶりになる。


 電車の乗り方。人の往来。どれもが懐かしい。長椅子に腕を組んで座り眠りこける若い女性を見て、まざまざと帰国した実感が湧いた。

 電車は郊外へと下っていく。少し開いた窓の隙間から潮風が漂ってきて、その反面車窓の両側は山が迫っている。「帰ってきたなぁ」と私は思わず呟いた。

 三方を山に、一面を海に囲まれた郊外のベッドタウン。そこに私の家はある。駅を出て、思わずタクシーを使った。歩いて15分の道は、帰国したばかりの私には骨が折れるものだった。


「最近、この町には妙な噂が立っているんですよ」


 タクシーの運転手は積極的に話しかけてきた。彼の会社はもう少し都市に寄った街にあり、この町には週に何度か訪れるほどだという。そんな運転手に曰く。


「町の住人が、全く別の誰かに入れ替わって行方不明になっているともっぱらの噂なんですわ。あれですね、ドッペルゲンガーってやつですかね」

「ドッペルゲンガー」


 疲れておざなりな返事になってしまうのにも構わず、運転手は続けた。


「ドッペルゲンガーを見ると死んでしまうとか、フラッと前触れもなく現れて幽霊みたいに消えてしまうとかありますけどね。どうもよく分からんのですわ。地元の老人なんて『祟り』だとか『祓え』だとか言いますがね。まさか22世紀にもなってね、それはね、馬鹿げてますよね」

 でもね、周りの人間が偽物に入れ替えられているなんて、考えるととてつもない恐怖ですよ。どうです、お客さん。自分の家族が突然偽物になってしまったら」

「怖いですね」


 半分微睡の中にあって、私はここまでしか聞いていなかった。気付いた時には家の前で、運転手がメーターを切っていた。


 家の鍵を回す。扉を開けると、得も言われぬ懐かしい匂いがした。


「帰ってきたな」


 思わず唸った。

 どこか安心するような、匂いのような何か。この気配に飢えていたのだと、私はまざまざと思い知らされた。


「ただいま」


 平日の昼過ぎである。子どもはまだ学校にいるのだろう。妻はスーパーでレジ打ちのパートを始めたと聞いていた。もしかしたらそれに行っているのかもしれない。

 リビングに入ると、飼い犬がケージで休んでいた。息子が拾ってきた雑種犬だ。黒に近い茶色の毛並みが整えられている。拾ってきた時の汚れていた姿はもう想起できないほどだった。

 私の気配に気付いて、飼い犬が目を覚まして立ち上がり、ワンと歓迎するようにひと声鳴いた。


「ただいま。元気にしていたか」


 返事には期待していなかったが、飼い犬は鳴いて応えてくれた。


 私が着替えてソファでくつろいでいると、妻が帰宅してきた。


「あら、おかえりなさい」


 妻は驚いたようで、私を認めた途端に硬直してしまった。ややあって部屋に入ってきたが、顔にきまり悪い笑みを浮かべていた。


「ごめんなさい。帰ってくるって話だったわよね」

「もしかして忘れていたのか」

「え、ええ。ごめんなさい」

「そっか」


 私はなんとも物悲しい気持ちになった。

 そしてふと問いかける。


「ところで、さっきからものすごく唸っているんだけど」


 飼い犬だった。妻が入ってきた時からずっと、グルルと低い唸り声と警戒感のある目をしていた。


「そうなの。ここ数日ずっと」


 私は暫時記憶を辿った。間違いなく、この犬は飼い主である私や妻に懐いていた。もちろん子どもにも同様だ。先程私に見せた反応が正常に思われた。


 子どもが帰ってきても、犬は変わらぬ態度を取り続けた。まるで不審者を前にしているように唸る飼い犬に、私は訝しさを覚えた。


「晩ご飯は水炊きでいいかしら。少し寒くなってきたし」

「ああ、いいよ」

「せっかく帰ってきたのに、特別感がなくてごめんなさいね」


 息子はリビングの床にブロックを散らかして遊んでいた。キッチンに行こうと脇を何気なく通りかかって、私は足の裏に軽い痛みを感じた。

 ブロックを踏んでしまっていたのだ。


「あまり散らかすなよ」

「ごめんなさい」


 息子は一瞬だけ私に顔を向けて謝り、再び作業に入った。

 私はそんな息子の足の裏を凝視した。息子の足の裏には、私が踏んだのと同じように、ブロックがくっついていた。それもいくつもだ。


「痛くないのか?」


 取ってやりながら私が呆れて言うと、息子はパッと弾かれたように身を翻し、壁に後頭部をぶつけた。何も言わずに足の裏を触ったからこそばゆかったのだろうか。指先が触れた足裏の妙に柔らかい感触を覚えていた。


「す、すまない。驚かせるつもりは……?」


 私は息子の様子を見て固まった。

 後頭部を勢いよくぶつけた息子の後頭部は、壁にぶつかった衝撃のままべちゃりと変形していた。柔らかくした紙粘土を思い切り板に叩きつけたみたいだった。


「な、なんだこれは!?」


 私は尻もちをつき、そのまま後ずさりした。

 飼い犬は、バウバウとますます吠えたてていた。


「なぁに? どうしたの?」


 妻がキッチンから出てきた。

 そして私と息子を交互に見て、ああ、と呟く。


「あら、気付いちゃったの?」


 不穏な言葉に、私はハッと顔を上げた。

 電灯の光を背景にして、妻が笑顔でいることが分かった。薄ら寒かった。


「き、気付いたって、何に……?」

「うふふぅ、もぉう分かぁっているぅんでしょう?」


 妻が、否、妻に似た何かが囁き声で言った。


「に、偽物?」

「せいかぁい」


 息子の姿をした何かが、後頭部をひしゃげさせたまま言った。


『どうです、お客さん。自分の家族が突然偽物になってしまったら』


 タクシー運転手の言葉が蘇る。

 飼い犬はついに身を縮こませて何も言わなくなった。


「イヌはぁ、範囲外なんだよぉ」


 私は腰砕けのまま立ち上がり、一散にドアへと飛びついた。

 妻と息子が、私に突進してくるのと同時だった。


「く、来るなぁ!」


 情けない悲鳴を上げながら、私はサイドステップで飛び退いた。妻と息子が勢いよくぶつかり、ひしゃげる。サイドボードの上の花瓶がその拍子に割れて、破片が飛び散った。


「あららぁ」

「われちゃったねぇ」


 妻と息子の身体にも、陶器の破片が幾片か突き刺さっていた。それにもかかわらず、二人は全く痛みを感じていないようだった。


「邪魔だねぇ」


 息子の目尻に、陶片が食い込んでいた。

 妻がそこにそっと、ひしゃげた手を添えて、皮膚の中に押し込んだ。ズニュリ、と破片が埋め込まれていく。血の一滴も出なかった。


「っっわぁぁぁぁぁぁ!!!」


 言葉にならない悲鳴を上げて、私は居間の窓から庭に飛び出した。鍵がかかっていなくて幸いだった。

 そのまま走った。脇目も振らず走った。


 走る私の後ろから、パリッという音が聞こえた。ガラスが割れた音のようだった。


「逃げなくちゃ」


 息があがりながらも、私は必死に走った。


『町の住人が、全く別の誰かに入れ替わって行方不明になっているともっぱらの噂なんですわ』


 とそのタクシー運転手は言っていた。

 もうこの町の住人は信用できない。私はそう直感した。

 町を、駅とは逆の方に、坂の下の海の方に駆け下りていく。

 海岸線沿いに町を抜け出し、どこか安全なところへ。


 とにかく無我夢中で私は走った。何の音ももはや耳に届かなくなっていた。


 気が付いたら、町を出て、会社の前に到着していた。


「どうしたんだい? 連絡がつかないから心配していたんだぞ? それにそのオンボロの格好はなんだ?」


 フロアで上司から質問攻めにあった。どうやら丸一日走っていたらしい。同僚や後輩も胡乱な目で私を見ていた。


「いえ、すいません。……その、私の妻から連絡はありませんでしたか?」

「君の奥さん? いや?」


 フロアで唯一、同じ町に家を持つMが手を挙げた。


「奥さんには今朝会いましたけど、お変わりなかったですよ」

「そうか」

「でもあのイヌはうるさいから狗鍋にしちゃったと言ってましたね」


 バッと私はMを見据えた。目は大きく見開いていた。


「ダメェじゃないぃですかぁ。奥さんとお子さんを置いてきちゃったらぁ」


 Mだったはずの何かはウネウネと、まるで全身の関節が外れたみたいに四肢を蠢かせていた。


 化け物! 助けてくれ!

 そう叫ぼうとして、私は、周りの人間が何も騒いでいないことに気が付いた。


「勘がいいねぇ、君ぃ」

「次はぁ、せぇんぱいのぉ番です」


 囲まれた!


 私は恐怖に立ち竦んだ。

 人間じゃない何かが私を追い込んでいた。


 そして、私の視界の端に、私そっくりの──しかしMと同じように手足が軟性を持ってウネウネしている何かが映り込んだ。


「いただきまぁす」


M is for METAMORPHOSIS

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