22.それは完璧な淑女だった
恐怖とは、物事を現実よりも大きく見せるのだろうか。
私はアルの家へ行くのが恐ろしくて堪らなかった。
あの奴隷がアルに何を吹き込んでるのかが分からなくて怖い。
あの奴隷がアルと親密になっている様を見るのが怖い。
行きたくなくて、行きたくなくて、私はのろのろと時間を掛けて支度をした。
着付けや飾りを手伝う侍女は不可解に思っただろう。
けれど、私がまるで貧血で具合が悪いの、と一言告げれば納得した風だった。
こんなにも、アルの家へ行くのを恐ろしく思うのはあの時以来。
そう、奴隷女が来た時以来。
あの時は、隣にシレン様が居てくださった。
怯える私の手を、シレン様が引いてくださった。
けれど、今日は一人きり。私だけ。
私は震える脚に叱咤し、ウィリディス家前で停まった馬車から降りた。
馴染みのある応接間に通され、勝手知ったソファへと座る。居心地の悪さからそわそわと部屋中を隈なく見回した。
壁に掛かった家族の肖像画が、こちらをじっと見つめている。
その絵に描かれたまだ足元も覚束なそうなくらい幼いアルは、今と同じく不機嫌そうな顔をしていた。
「──アヴロラ、待たせたな」
「いえ、お招きいただきありがとうございます」
「うん、それで見せたいものなんだが……」
「あら、早速ですわね」
「今度こそ、アヴロラにも気に入って貰える筈だ。待っててくれ──リスィ!」
ゆっくりと音を立てて扉が開いた先に、淡いピンク色の髪の少女が立っていた。
明るい黄色のドレスが、恐ろしいほど似合っている。
「いらっしゃいませ、アヴロラ様。お会いできて光栄ですわ。どうぞごゆるりとお寛ぎくださいませ」
そこには、どこまでも余裕のある微笑みを浮かべた、“淑女”が立っていた。
伺い見たアルは満足げに、滅多に見ない柔らかな笑みを浮かべている。
その稀に見る笑顔が、私の心をどうしようもなくざわつかせた。
少女は礼を取ると、トコトコと愛らしい仕草で私の隣のソファに腰を下ろした。
アルは期待に満ちた眼差しで、どうだ? とでも言いたげにこちらを見たが、咄嗟に私はその視線から目を逸らした。
「アヴロラ、これが俺の奴隷だ」
「え、ええ……」
「他にもできるぞ。リスィ、見せてやってくれ」
「はーい!」
少女は幼児のように返事をすると、またトコトコと応接間の広い方へ行くと、その場でクルリと優雅に回ってみせた。
そうして少女が口を開こうとした瞬間、コンコンと応接間の扉から音がした。
「──アルクス様、少しよろしいでしょうか?」
「……なんだ?」
招かねざる客に、アルは一瞬で常の不機嫌そうな顔に戻り、部屋に入ってきた執事を睨み付けた。
「奥様がお呼びでいらっしゃいます」
「今来客がいるから後にしてくれ」
「そうお伝えいたしましたが、できるだけ早くお会いしたいとの事です」
アルは行儀悪く舌打ちすると、不機嫌を露わに勢いよく立ち上がって私達を交互に見つめ、
「アヴロラ、少し待っててくれ。今度は勝手に帰るなよ?
リスィ、いい子にしているように」
とだけ言い捨てて、応接間を出て行った。
残るは私と奴隷女だけ。
奴隷女は私の隣に座ると、とても深い溜め息を吐いて見せた。
「……あーあ、アル様お可哀想。こーんなつまらない女が婚約者なんて。顔もイマイチだし。リスィのほうが何倍の可愛いわ!」
アハハハ、とそれは先程の優雅な笑みとは違う、明らかに蔑みを含んだ笑いだった。
私は何を言われているのかすぐに理解できず、隣の女を凝視した。
「知ってる? アル様ほんとはとーっても泣き虫なの。毎日私のベッドで泣くのよ? 胸を貸してあげたら、リスィ、リスィ、可愛いリスィ! って……」
────バシッ!
気づいたら、私の右手は奴隷女の左頬を叩いていた。
手の平がジンジンと痛い。胸がヒリヒリと痛い。
「……イッターい! アルさまァ! アヴロラ様がぶったぁー!」
奴隷女が叩かれた左頬を手で押さえながら、扉へと走って行った。
そこには信じられないものを見たような顔をしたアルが立っていた。
「……一体何が……」
「アヴロラ様がリスィのホッペをバチーンしたんです! 助けてアルさまァ〜」
「まさか、そんな……」
「アルさまァ〜、リスィこわーい。いつものようにヨシヨシしてぇ〜」
アルの腕にしがみ付き、潤んだ瞳で甘ったるい声で強請る奴隷を呆然と視界に入れながら、私は痛む右手を背中の後ろへそっと隠した。
「アヴロラ、その……」
「わたくしはお暇させていただきますわ。ごきげんよう」
淑女として最低限の礼を取ると、私は足早に、けれどはしたなくないよう努めて、アルの家を後にした。
これほどまでに屈辱を味わったことが、生まれてこの方あっただろうか。
私は初めて味わう口惜しさに、噛んだ唇から血が流れた。




