19.ラピスラズリの瞳
どうやって家へ帰って来たのか覚えていないほど、私は取り乱していた。
奴隷女に言われた事が頭から離れなくて、悔しさや憎らしさやらで、胸がグチャグチャに張り裂けそうだった。
こんな時、どうすればいいのだろう?
セルに愚痴る?
……でもあの日以来、離宮に行って以来、実はセルとまともに会話をしていなかった。
理由は明白、怖かったから。
もしセルがまた奴隷女を選んだらと思うと怖かった。
私の元から国に帰ってしまうのが怖かった。
知らない国の言葉を話すセルが他人のように見えて怖かった。
だから、セルの顔をまともに見る事ができなかった。
令嬢らしからぬ勢いで自室のベッドに飛び込むと、頭から布団を被って泣いた。
こんなに誰かを憎く思うことも、こんなに誰かに恐怖を覚えることも初めてで、私は泣くことしかできなかった。
何時間泣いただろう。もう声も掠れて出ない。
「──お嬢、どうしたんだ?」
グスグスと鼻を啜っていたら、ベッド脇の方から声がした。
見なくても分かる。私の奴隷の声だった。
「お嬢、何があった? また婚約者に何か言われたのか?」
私は答えられなかった。
セルは奴隷女の事を憎からず思っているのは、この前の一件で見て取れたから。
セルの前で奴隷女の事を悪く言うのが、なんだか憚られた。
「なぁ、泣いてばかりいないで、いつものように怒れよ。その方がアンタらしい」
思えば、セルの前ではいつもプリプリ怒っていた。
やれ、奴隷女が邪魔だ、とか。
やれ、婚約者がムカつく、とか。
私はセルに愚痴る事しかしていない。
そんなんだから、奴隷女と私とを選んだら、奴隷女を選んだのだろう。
私は奴隷の主人失格だ。
「お嬢……ごめん、なさい。いや、もうしわけ、ございませんでした」
布団の上から、そっと重みが伝わった。
「この前……アンタの婚約者の奴隷に会った時……オレ……舞い上がってた。ずっと会いたかったヤツに会えて……捜し求めてたヤツに再会できてオレ……ソイツのことばかり考えてた……オレはアンタの奴隷なのに、オレはオレのことばかり考えちまってた……ごめん」
セルはゆっくりと布団を私から剥ぐと、乱れてグチャグチャの私の頭の上に、そっと手を置いた。
「……お嬢、スッゲーブサイクになってるぞ。とりあえず顔洗おうぜ」
「……なんで……貴方が謝るのよ……貴方は悪くないじゃない……」
掠れた声で何とか私は言った。
また目尻から涙が滲み出て頬を伝う。
その涙を、セルはそっと指先で拭った。
「オレが悪いよ。奴隷は主人を第一に考えるもんなんだろ? 先生に習った。なのにオレ……ステラのことしか見えてなかった……」
ステラ、という名に胸が軋んだ。
あの女の本当の名であり、セルと奴隷女を繋ぐものだから。
「あわよくばさ、ステラと再会したら二人で喜び合ってそのまま元の国に帰れるかなって思ってた。……けど、違った。アイツはオレのこと覚えてなかった。それに、アイツにとって帰る場所は、もう今の家なんだ。オレと帰るわけがない……」
ゆっくりと見上げた先にあったセルの顔は、今にも泣きそうに崩れていた。
私はセルの片手を取り、そっと握った。
「……貴方だけでも祖国に帰してあげるわ。帰る家があるなら、帰ったほうがいい……」
最初から、そうすれば良かった。
奴隷を解放して家に帰す。それをアルに見せ付ければ、アルもそれに倣わざるを得ない。
奴隷女の実家はもう無いけれど。
「オレは……まだ帰らない。帰るならステラと一緒だ。一人では帰れない」
「彼女は記憶が無いのよ? 貴方のことも……」
「それでも、オレはアイツと帰る。いつになったとしても」
泣きそうだった顔はどこへやら、強い眼差しでセルは私を見つめた。
私はゆっくり、そのラピスラズリの瞳を覗き込んだ。
「そう……分かったわ。では、今まで通りでいいのね?」
「ああ、それでいい」
「良くはないでしょ、貴方いつ奉公が終わるか分からないじゃない」
私はそのどこまでも白い肌の頬を軽く抓ってやった。
「よろしくて? 貴方は彼女と家に帰りたい。わたくしは彼女に消えて貰いたい。利害が一致していますわ。だからあの女の記憶が戻ったら、さっさと国に持って帰ってちょうだい。お分かり?」
声は掠れて顔は涙でグチャグチャで、何の威厳もへったくれもないけれど、主人らしくそう言うと、セルは小さく吹き出した。
「フハッ、泣きべそかいてるのによく言うな」
「うるさいわね、どうなのよ?」
「わかったよ。アイツがオレを思い出したら、一緒に国に帰る。何があっても」
セルは力強く言い切ると、何を思ったのか私の背中へ両腕を回し抱き締めた。
異性とこんなにもくっ付いた事がない私は、慌てふためき、セルの腕の中でもがいた。
「ちょ、ちょっとセル! やめなさい!」
「やっと名前呼んだな。まったくお嬢は世話がかかるな」
「なんですって!」
「はいはい、すみませんでした。怒ってる顔のほうがアンタらしいぞ」
もがく私を尻目に、セルは余裕の笑みを浮かべながら尚も抱き締めた。
私は苦しさと子供扱いされてるような悔しさから、尚ももがいた。
その細い腕のどこに力があるのか、私の力なんかじゃ全然敵わなかった。
「お嬢……ありがとな」
「良いから離しなさい!」
力を振り絞って暴れると、ようやくセルは腕を離した。
泣いて暴れて、もう髪も顔もグチャグチャだ。
「──ところで、名前があったのね貴方。本名で呼んであげましょうか?」
「……いい。今のままで。あの名は今のオレには似合わない」
「そう? なら、いいけれど」
リベルタス……たしか『自由』という意味の古い言葉。
確かに奴隷である彼には不釣り合いな名前かもしれない。
「さ、お嬢。風呂入りに行こうぜ。それじゃオバケみたいだ」
「誰がオバケよ!」
「ああ、悪ィ。みたいじゃなくて正真正銘の化け女だったな」
「貴方……言葉を覚えたら減らず口が過ぎるわよ。まずは正しい言葉遣いを覚えなさい」
「へいへい、りょーかいしましたお嬢」
「返事は『はい』でしょ! まったく……」
ふざけて言い合ってから、二人で顔を合わせて笑った。
久しぶりに心の底から笑った気がした。




