18.奴隷と令嬢
久方振りにアルの家に行くと、拍子抜けするほど普通にお茶をした。
アルは相変わらず寡黙だけれど、それでも二人きりで会えることが、そんな些細な事がこんなにも嬉しい事だとは思わなかった。
気付けば、以前のように3日に一度は会いに行くようになっていた。
あの女の顔は、しばらく見ていない。
「──それで、セルったらおかしいのよ? わたくしが犬の真似をしろと言ったら、『イヌってなんだ?』ですって。異国に犬はいないのかしら?」
「そうか……」
「だからわたくし、動物図鑑を見せて、犬が何たるかを教えてあげましたの。あとワンワン鳴くのよ、って。そうしたら、まるで……」
「まるで?」
「いえ……なんでもありませんわ」
危うく、思い出したくもない奴隷女が頭に浮かんでしまった。
口に出したくもない。
「アヴロラは随分と奴隷と仲が良くなったみたいだな」
「まぁ毎日顔を合わせますからね。それなりですわ」
「アヴロラ、前にも言ったが……」
「──ご歓談中失礼いたします。アルクス様、旦那様がお呼びです」
「お父様が?」
声に振り向くと、扉の前に私はこの家で見た事がない従者らしき男が立っていた。
「急ぎの用との事でございます」
「分かった、すぐ行く。アヴロラ、少し待っててくれないか?」
「ええ、構いませんわ」
アルが部屋から出て行くと、私は所在なくテーブルの上のお茶へと視線を移した。
「──あのアヴロラ様……」
声に驚き顔を上げると、忌々しい奴隷女が立っていた。会いたくもない女が立っていた。
離宮に行ったぶりに見る奴隷女は、以前に見た時よりも姿勢が正しく、それだけで前にはなかった気品が滲んでいた。
睨みつけそうになる顔を、私はどうにか表情筋を総動員して微笑みを作ってみせた。
「何かしら?」
あくまでも私は、アルの婚約者。
どんなに奴隷がアルと仲が良さそうでも、あくまでも主人と奴隷の仲。私とアルとの仲とは比べるものじゃない。比べてなんかやらない。
だから私は、努めて温和に応えた。
本来ならば奴隷が身分の上の者へ声を掛けるなんてマナー違反だと知ってはいたけれど。
「わたくしに用があるのかしら?」
そういえば、奴隷女と言葉を交わした事がなかったなと気が付いた。
「あ、あの……その……」
「言いたい事があるのなら、遠慮なくおっしゃって。貴女はアルクスの奴隷なのだから」
そう、彼女はただの奴隷だ。
私が歯牙に掛ける必要もない存在だ。
この女から何を言われようと、それは揺るぎない事実。覆らない現実。
そう思うのに、なぜか私の手は小さく震えていた。それを彼女に見られぬよう、背中に回して隠す。
「あの……アヴロラ様……お、お願いです! アル様の邪魔、しないでください!」
「えっ?」
じゃま? 私が? アルの?
「アル様、いっぱい勉強、あります。毎日遅くまで仕事、あります。アル様、大変、です。遊んでる時間、ないです」
舌足らずな甘い声で、辿々しく彼女は言った。
つまりこの女は、私がアルの妨げになっているとでも言いたいの?
たしかに、勉学の忙しい合間に顔を出させるのは、無理をさせていたと言えるかもしれない。
けれど、それは婚約者なら当然の権利だと思っていた。たしかに3日に一度は会いに来ている。むしろ私としては、毎日会いたいのを我慢してるくらいなのだ。
それなのに、この女はそれすら多いと言うの?
私が会いに来ているのが、アルにとって害だとでも言いたいの?
「アル様、大変です。お願いです、アヴロラ様。もう、来ないでください!」
奴隷は頬に涙を流して私に訴えた。
そう、『訴えた』のだ。あくまでも彼女はアルの為だと宣っているのだ。
……思えば、アルから私へ会いに来てくれた事はあっただろうか。
婚約した当初は、よく私の家にも会いに来てくれていた。
けれど、最近は?
ここ何ヶ月も、アルは私に会いに来てくれていない。私の家でアルとお喋りしたのは、遥か遠い昔。
そう、遠い過去だ。
この奴隷女が来る前の話。この女が来てから、アルは私に会いに来なくなった。
この女がいるから。この女が来たから。
……待って……じゃあ私、この奴隷女に負けているって事……?
私よりも彼女を優先されてると、特別扱いされているってこと?
婚約者の私よりも。この私よりも。
そんな……そんなの、絶対認めないっ!!
「……奴隷ごときが、わたくし達の事に馴れ馴れしく口を挟まないでちょうだい!」
私は勢いよく立ち上がると、アルに挨拶する余裕も無くそのまま家へと飛び帰った。
悔しい。悔しい悔しい悔しい!
捨て台詞を吐いて逃げ帰る事しかできなかった。
私は、ああ言うしかなかった。
『奴隷ごときが』と言うしかなかった。
だって、私が彼女に勝っているところは、そこしかない。
私は公爵令嬢、彼女は奴隷という身分の差以外、生まれ以外、勝ってるところが一つもない。
それが、こんなにも悔しいなんて……。
学問もマナーもその内追いつかれる。
アルの気持ちは? もう追いつかれている?
それとももう追い越されている……?
これは嫉妬なんかじゃない。
嫉妬は対等か自分より上位の者に抱くもの。
私は、奴隷女より恵まれている。何もかも持っている。
だから、対等なんかじゃない。あんな女と対等なんて認めない。
羨望でもない。あの女を羨ましくなんて思わない。
じゃあこの胸に渦めく止めどない感情を何かと問われたら、私はこう言うだろう。
ただの憎しみ、だと。




