12.小さな反抗
3日に一度は互いの家を行き来していたなど嘘のように、この2週間アルの顔を見ていない。
私が彼の家へ行かなければ、自然と会う機会が消滅した。
以前は、以前ならば、私がアルの家へ行かなくともアルが私を訪ねて来てくれた。会いに来てくれた。
けれど、今は文が来るだけ。
たった一枚の紙切れが届くだけ。
彼は会いに来てくれなかった。
「お嬢、朝だ。ざいます」
「『朝でございます』でしょう? おはようセル」
ベッド脇に控えた少年が、拗ねたような顔で立っていた。
色素の薄い水色の髪が朝日に照らされ、彼を包む淡さがより一層引き立っている。
少年、私の奴隷は、侍女達が私の身支度を済ませるまでジッと静かに部屋の隅で待ち、侍女達が部屋を下がると、朝食までの時間私とお話をする。会話をする事で言語を覚えて貰う為に。
それから、私へ来た手紙を開ける。
我が家に来てから、セルはこんな風に少しだけ使用人の真似事をするようになった。
本来なら性奴隷であるカデナはそんな事はしない。彼らの務めは夜の営みだから。
それに使用人達には使用人達のプライドがある。ポッと出の奴隷と同じ待遇では摩擦が生じてしまう。
とは言うものの、私も昔教師に少し聞いただけだから詳しくは知らない。他の家の奴隷がどう過ごしているかなんて、今まで知りたいなんて思わなかった。
本当に、人脈が少ないというのは不便。知識の幅が狭くて困る。親しい人が少ないというのはこんなに不便なものなのね。
けれど、だからと言って奴隷について両親に尋ねるわけにはいかない。
ただでさえ両親には、奴隷の事で過度な心配をかけてしまった。
アルが奴隷を買った事を、私の両親はアルの父親から聞いたらしい。
早過ぎる性奴隷の購入にアルの父親も困惑したらしく、事情を聞こうと我が父に話したのだそう。
寝耳に水の父は、奴隷の存在に烈火の如く怒鳴り付けた。「年端のいかぬ者が手に余るものを相談もなく買うとは何事か!」と、温厚が服を着て歩いていると言われるほど温和な父が王宮のど真ん中で怒鳴り散らしたと兄から聞いた時は、兄の冗談なのかと俄かには信じられなかった。私は父が怒ったところなど見た事がなかったから。
そんな事があっても私に心配は掛けまいと何も言ってこなかった両親だけど、私が奴隷を買って帰ったらさすがに何か言ってくると思っていた。
けれど、両親は何も言わなかった。
ただ黙って私を抱き締めてくれた。
「アヴィのしたいようにしなさい」
それだけを囁いて。
「お嬢、手紙が届いてる。宛名は……ういでいす?」
「ウィリディスよ。開けてちょうだい」
セルはペーパーナイフで丁寧に封筒を開いた。
慣れた手付きが、初日とは大違い。
セルが来た日、同じように命じたら、手紙をハサミで真っ二つにされたのは記憶に新しい。
でも今思えば、知らないフリをして破っただけかもしれない。
たった数日しか共に過ごしていないけれど、彼がとても賢い事は分かった。大抵の事は一度教えれば卒なくこなす。言葉はまだ覚束ないけれど、自分の事は自分で行えるくらいの能力はあった。
だから彼の目下の勤めは、彼自身の世話と、私の雑務の手伝い、それから私の話し相手だった。
「読みあげるか? お嬢」
「貴方の勉強にもなる良い提案だけれど、それはマナー違反よ。他人の手紙は見てはいけないものなの」
「ふーん? 減るもんじゃねぇのに」
「マナーは大切よ。覚えておきなさい」
「分かった。ざいます、お嬢」
「『承知いたしました』よ。『かしこまりました』でもいいわね。覚えたかしら?」
「かし、こまりま、した」
「そう、それでいいわ」
ぎこちない発音が耳に触るが、それを上回るほど彼の声は心地良かった。彼のメゾソプラノの声は、アルやシレン様とはまた違う少年特有の情緒があった。その声は、私を少なからず寛容的な気持ちにさせて、彼の粗相など瑣末な事のように思わせられる。
だからなのか、彼の言葉使いはまだ悪い。
「ウィリディスって、この前言ってた婚約者だろ? まだ諦めてねぇのかよ」
「あら、諦めるって何をかしら?」
「奴隷に取られたんだろ?」
私は、溜まりに溜まった鬱憤をセル相手に少しずつ吐き出していた。愚痴という行為によって。私の内に広がるドロドロと汚れた感情を、私の奴隷に聞かせた。
それに知りたかった。第三者から見た自分達がどうなっているかを。
だから、全てをセルに話して聞かせた。
あの奴隷が来てからの事を全て。
そうは言っても、口にすれば全て些細な事だった。
あの奴隷が来てから婚約者が私の家を訪れない事。
あの奴隷の話をする時、婚約者が見た事もない優しい顔をしていた事。
婚約者が私を、愛称ではなく名前で呼ぶ事。
それだけだ。たったそれだけ。
それだけの事のはずなのに、私は奴隷に愚痴を吐いてしまうほどダメージがあったのは事実。
事実だけれど、だからって認めるわけにはいかない。
「と、取られてなんかいないわ! 彼は優しいだけ。そう、そうに決まっているわ」
私は苦し紛れを口にした。
けれど、本音でもあった。
私と奴隷、比ぶべくもない。そうでしょう?
「会いにも来ない男をよく想ってられるな」
「こうして手紙をくれているわ」
手紙には、例の奴隷の体調が良くないため看病している旨が書かれていた。
今もアルはあの奴隷と一緒なのだろう。二人きりで、二人だけで。
「そんな紙切れだけで満足なのか?」
「それは……」
「会いに行けばいいだろ、お嬢から。会ってハッキリ言ってやりゃいいんだ」
「な、何を言うの……?」
「私とその奴隷、どっちが大事なんだ! ってさ」
それが言えたら最初から苦労をしていない。
言えないから、こんなにも苦しいのだ。
結局、私は会いに行けなかった。
アルに会ったのは、それから2日後の事だった。
王宮で行われたお茶会に出席した時の事。
その日のお茶会は小規模で、人はまばらだった。
だから一通り挨拶を済ませ会場の隅のソファに腰掛けていると、すぐに見つかってしまった。隠れるつもりもなかったけれど、2週間以上会っていない相手と顔を合わせるのに抵抗があった。
「アヴロラ」
彼の凛とした声で名を、嫌いな名を呼ばれる事がこんなに苦しいものだったなんて。
久方ぶりに聞いたアルの声は、私の奴隷と比べて少し低かった。
「先ほどシレンから聞いた……君も奴隷を手に入れたと。本当なのか?」
「ええ、事実ですわ。男の奴隷を一人。今度私の屋敷に来た時にご紹介いたしますわ」
貴方が私に会いに来ないのが悪いのよ。
そう、心の中で呟く。
「大丈夫なのか?」
「何がですの?」
私がわざとらしく小首を傾げると、アルはいつもよりも鋭い眼差しを向けてきた。まるで睨むかのように。
「まさか一緒に寝てないだろうな」
「いいえ、小部屋を一つ与えました。使用人達と待遇は同じくし、不自由はさせておりませんわ」
私は貴方と違って奴隷を特別扱いしてません、と言外に含ませたけれど、この人は気づいているだろうか。
「……君が奴隷に対して広い見識を持ってくれるのは嬉しいが、今度からは先に相談してくれ。人伝に聞くのは心臓に悪い」
「あら、わたくしも貴方が奴隷を紹介して来た時は心臓が口から飛び出すかと思うくらい驚きましたわ。おあいこですわね」
ホホホと口元を片手で隠して言えば、バンっと大きな音を立てて両肩を正面から掴まれた。
指先に込められる力が強く、痛みが全身を強張らせる。
「……よく聞いて欲しい。君は女性だ。そしてその奴隷は男だ」
「それが何か?」
「君が本気で抵抗したところで、君は男に勝てない。だから油断はするな」
人には奴隷を理解して欲しいと言っておきながら、人の奴隷にはお説教?
彼の余りの物言いに、私は身を捻って腕を振り払うと、そのまま小走りで会場を後にした。
シレン様にご挨拶するのも忘れて。
「──セル、帰ったわ」
「おかえ、りなさ、いませお嬢。……顔色悪いぞ」
家へ帰ると、私の奴隷が玄関先で出迎えた。
理解ある両親が許してくれた為、セルは家の中を好きに過ごす事ができる。と言っても、個人の部屋へは入れないから共用スペースだけだけれど。
「……聞いてくださる?」
「もちろん。オレはお嬢の奴隷。話くらいいくらでも聞く」
自室へと戻り、扉と窓がしっかりしまっている事を確認すると、私はソファの上に置かれたクッションを、分厚い絨毯の上に叩きつけた。
「自分は奴隷を甘やかしてるくせに、わたくしには『油断するな』ですって? どの口が言ってるのよ!」
「他に言う事が山のようにあるでしょう? 会いに来ない事をまず謝りなさいよ!」
「なぜわたくしが……わたくしがこんな想いをしなければならないの! わたくしが何をしたと言うの! なぜ、なぜわたくしが……なぜ……」
絨毯の上に転がったクッションを何度も踏み付けながら喚き散らすと、少しだけ心がスッと軽くなった気がした。
ただの気のせいだと分かってはいるけれど。
「──終わったか?」
「……ええ、ありがとうセル」
時間差で胸を襲う気恥ずかしさから、私は俯きながら呟いた。
「礼はいらない。オレはお嬢の奴隷だろ、お嬢の命令ならできる事はやる」
今まで誰にも言えなかった、晒せなかった想いを、セルの前でなら吐き出せた。
この醜く浅ましい想いを、奴隷になら見せる事ができた。
セルには別に、どう思われても構わないから。私の醜さを知られたところで、主人と奴隷という関係は変わらないから。
「それと、お嬢は油断しないほうがいい」
「貴方までわたくしを批判するというの?」
「オレも男。お嬢に勝とうと思えば勝てる。油断するな」
セルはクッションを踏み付ける私の前へ立つと、私の首に片手を添えた。そして指に少しずつ力を込めてきた。
驚いて顔を見つめた私の背筋は一瞬で凍った。
セルは、感情の無い顔で私を見ていた。
その表情に、初めてセルを怖いと思った。まるで知らない男の人のように見えて。
「……そう、それが正しい。それでいい」
私の瞳から怯えを感じ取ったのか、ゆっくりと首から手を離すと、セルは部屋の隅へと退がった。敢えて距離を取るように。
まるで主人である私から距離を取るように。
「……わたくしが怖気付いたとでも? お生憎、貴方ごときに怯むわたくしではなくってよ。襲うなら襲いなさい、受けて立つわ!」
今更殊勝な態度を取られるなんて真っ平。
無礼の一つや二つ受け入れてあげるのが主人というもの。
殴れるものなら殴ってみなさい。例え腕力では勝てずとも、私の全勢力をもって躾てさしあげるわ!
そう、心の中で鼓舞し、胸を張ってみせた。
「……お嬢はわかってない。でも、それでいい」
「どういう意味ですの?」
「お嬢はオレより頭良いだろ」
「ええ、当然ですわ。勉学に励んでますからね。けれど、貴方も勉強をすればそれなりの成績を収められると思いますわよ」
「べんきょーなんかしたところで、早く家へ帰れるわけじゃないだろ」
セルは故郷へ帰るため私の元で働いている、という事になっている。
「貴方が望むなら、仕事という事で勉学に励ませてあげてもよろしくってよ。一般常識くらい知って貰わないと仕事にもならないですもの」
私が日常会話で教えるのにも限度がある。それならば教師を雇って教えたほうが早いし正確だろう。
「別に、必要ない」
「そう? 奴隷の無知は主人の恥だから、精々わたくしに恥をかかせないようにね」
「……べんきょーすりゃいいんだろ」
「あら、よくわたくしの意図が分かったわね。やっぱり貴方は愚かではないわ」
「そりゃどーも」
「それで、勉強する気になったかしら?」
「言っただろ。お嬢の命令からできる事はやるって」
「あらそう。じゃあ犬の真似でもして貰おうかしら?」
「………………イヌって、なんだ?」
早急に学びが必要な事は分かった。




