第二話 ライナスとネイサン
__サルビア急行車内__タルコット領〜王都ハサ__555年9月6日
トンネルを出ると景色が変わり、労働者の町を抜けて商都に入ったという印象だった。建物はナスル王国のものとよく色調が似ている。濃淡様々な褐色の石壁と瓦屋根。庶民の住居はマッチ箱のような四角い建物に四角い窓、瓦葺きの切妻屋根というシンプルなものだ。褐色の街に緑の丘、青を二度塗り重ねたような濃い青空のコントラストに思わず見惚れる。しかし、車窓を過った繊細な彫刻に一瞬で目を奪われた。
ジチ教シンボルである夾竹桃と杯、聖人ジチとその足元に跪くラァラ。ジチ教関連書籍で何度か目にしたことがある図案で、すぐそれだとわかった。
「タルコット領で一番大きいレンデン聖殿だ」とライナスが言う。
わたしは窓に顔を張り付け、後方に流れていったその建物をもう一度見ようとしたが無理だった。見えたのは馬車から降りて聖殿に吸い込まれていく貴婦人たち。みな明るい色のドレスを身に纏っている。聖地は観光地のようなものだから別として、地元の聖殿や礼拝殿を訪れるときは白か黒の地味な服を着るのが一般的だ。
「ロアナの信徒は敬虔だと聞いていたけど、ずいぶん派手な服装ね」
「ラァラ派はジチ正派と違って礼拝日が週四回ある。だから普段着なんだ」
「あれ普段着なの? ロアナの服があんなに明るい色だとは思わなかったわ。もっと古風で厳粛な色合いを想像してた」
「ひどい先入観だ。古びた絵画か何かでしか見たことがなかったんじゃないか?」
「確かにそうね。本は挿絵があっても色がわからないし、美術展でロアナを描いた絵を見たことはあるけど、その絵自体が年代物だった」
会話を遮るように汽笛が鳴り、ライナスが「レンデン駅だ」とキャスケット帽をかぶった。サルビア急行が乗り入れたのは真ん中の二番線。レンデンはタルコット侯爵領の中心部で、列車が停まるや否やホームは乗降客でごった返す。様子を見ようとわたしが窓に顔を近づけると、ライナスが強引に押し戻した。
「レンデンはタルコット侯爵邸から近い。停車時間も長めだし、神殿の手先がホームでうろついてる可能性もある」
その言葉を裏付けるように、ポーターの格好をした青年が不自然に窓をのぞきこんで通り過ぎていった。わたしとライナスはそれぞれ手元の新聞に目をやっていたが、発車ベルが鳴ると自然と吐息が漏れる。レンデン駅が遠ざかり、荷物を運び込む乗客が座席に落ち着いた頃、わたしはようやく口を開いた。
「何とかなったみたいね」
「短い停車時間で乗客の顔を全部確認するなんて無理な話だし、さっきの男が探していたのはタルコット侯爵かもしれない。暴発事故の詳細は伏せてあるから、やつらは侯爵が療養所で寝込んでることなんて知らないからな」
「オールソン卿が死んだと思ってるのかしら?」
「さあな。巡礼者に紛れ込んで探りを入れてる可能性がないわけじゃない」
「不安になること言わないでよ」
「それくらい侯爵もケイ卿もわかってるさ」
ライナスは窓を開け、紙巻き煙草を咥えて火をつけた。吐き出した紫煙が風で散り散りになって消え、ライナスはそれを眺めながら「話の続きをしよう」と改まった口調で言う。
「さっき話した通り、おれたちはカラック村孤児院のイモゥトゥを管理するようになった。でも、泥人形だったときに孤児院を訪れたのは一回だけ。それが、おれが泥人形として生きた最後の日だ。
あの日、『一度くらい実際にイモゥトゥ実験を見てはどうか』と当時のフォルブス男爵に誘われて、軟禁状態の半地下から出られるならおれは何でも良かったから二つ返事で行くと答えたんだ。雲ひとつない快晴だったし、体が濡れる心配はなかった。
フォルブス男爵と二人で馬車に乗り、人目を欺くために何度か乗り換えたよ。孤児院にたどり着くまでに二時間くらいはかかったと思う。馬車から降りたとき、周りを囲う緑の木々と頭上に広がる真っ青な空が目に飛び込んできて、胸が震えた。初めて自分が生きてる気がしたんだ。
三十四番に会ったのはそのすぐ後だった。三十四番はおれが孤児院の中で最も高い評価をつけていたイモゥトゥで、監督室で面談することになっていた。フォルブスが三十四番を連れてくると言って、おれはしばらく一人で待った。ずいぶん長く待たされたが、イモゥトゥたちはそのとき畑で作業中だったから、なかなか見つからないのだろうと思っていた。
騙されたと気づいたのはフォルブスが三十四番を連れて戻って来た時だ。フォルブスが扉を開けて、その横で三十四番が水を張った大きな桶を抱えて立っていた。フォルブスは『言った通りに』と言い残して三十四番とおれを監督室に閉じ込めた。おれは走ることも慣れていなかったから、あっさり三十四番に捕まったよ。そして水桶の中に沈められた。三十四番は『イモゥトゥなら水死はしないから少し我慢してくれ』と言ってた。あいつも自分がこれからどうなるか知らなかったってことだ」
ライナスは二本目の煙草を咥えたが、手が震えて火を点けるのに手間取っていた。
「ライナスには三十四番だったときの記憶もあるのよね?」
「正確にはない。三十四番から聞いて知ってるだけだ。三十四番の話だと、『新入りのイモゥトゥが来るからここがどういう場所か教えてやれ』と男爵に言われたんだそうだ。まずは溺死の疑似体験をさせろと。だが、おれを水桶に沈めた三十四番が見たのは――」
ライナスの手が大きく震え、指に挟んでいた煙草が床に落ちた。わたしは慌てて靴で踏み消す。
「ユーフェミア嬢って呼んだらいいですか?」
その声にパッと顔をあげると、猫背で情けなく眉を垂らしたライナスがそこにいた。同じ顔なのに、聞かなくても誰か判る。
「〝ユフィ〟で構わないわ」
「そうですか。またユフィと話すことになるとは思わなかったんですが、ライナスはぼくから直接あなたに話して欲しかったみたいです。ぼくの存在を話せる相手は他にいませんから」
「わたしを信用してくれてるってこと?」
「はい。ライナスが」
三十四番は笑みを浮かべた。ライナスの笑顔とは違って儚く消えてしまいそうだけれど、彼の純粋さをその表情から感じる。
「ライナスが言った通り、ぼくは新入りのイモゥトゥを水に沈めたつもりでした。やりたくないけど、やらなければ今度は自分が実験体にされるかもしれないし、そうなれば本当に死ぬかもしれないんです。生きてることが幸せだとは思わなかったけど、フォルブスの実験で死ぬのはもっと嫌だった。
でも、そのイモゥトゥは水に沈めた瞬間ぐにゃっと手の中で潰れました。頭がなくなって、支えを失った体がズルズルと水の中に沈んでいって、ぼくは何が起きたのかわからず引っ張り上げようとしました。すると、髪の毛みたいなものが手に巻き付いてきたんです。それに驚いているうちに、体は全部水に溶けてしまいました。
その時のことをライナスは覚えてないそうです。だから、本能的にぼくの体を乗っ取ったんでしょう。黒い髪の毛みたいなものが腕を這い上ってきて、逃げようとしたけどどうしようもありませんでした。口や鼻や耳や目や、穴という穴から入り込んできて――。
あっ、そう言えばセラフィアさんも同じ体験をしたんでしたね。症状はきっと似たようなものだと思います。ただ、ぼくは死にませんでした。
頭痛と酷いめまいがおさまると、目の前に丸い窓枠みたいなものが見えて、そこに男爵様が映っていました。手足は思うように動かすことができなくて、麻痺が残っているのかと思ったら、『何のつもりだ、フォルブス』と自分の意思とは無関係に口が動きました。その時、ぼく以外のものが体を操ってるとわかったんです。ぼくのものではない、別のものがこの体の脳を使って考えを巡らせているのを感じました。ライナスとの同居が始まったのはこの時からです。
――えっと、この先もぼくが説明したほうがいいの?」
三十四番は蝿を目で追うようにくるりと眼球を動かし、彼の頭の中で同居人と何かしらのやりとりがあったのかホッと表情を緩めた。その直後「ハァ」とうんざりした顔でため息をつく。
「ライナス?」
「ああ。煙草を一本無駄にしたな」
「人に説明させて自分は休んでたんでしょ。彼が喋ってた間のことは覚えてるの?」
「覚えてるよ。さっき三十四番も言っていたが、見たものは窓から覗いてるような感じで見えているし、声も聞こえる。頭の中に住んでる小人が、交代でこの体を操縦してると思えばいい。
ただ、あいつはおれが考えてることが全部わかるらしいが、おれにはあいつの考えていることはわからない。あいつが意図して伝えようとしたことだけが、思考に割り込むように伝わってくる。
おれの体の話はこれくらいにして、おれがこの体に入ってからのことも説明しておくよ。
簡単に言うと、おれと三十四番は実験体だった。それまでリュカは根による洗脳を研究していたが、洗脳に使う根はわずかなものだ。泥人形一人分の根をイモゥトゥの体に入れたら、その泥人形の知識と記憶を持ったまま体が乗っ取れるのではないか――リュカはそう考えたんだ。そして、その実験は成功した。イモゥトゥ奴隷だった三十四番が、『何のつもりだ、フォルブス』なんて男爵に向かって言うわけがないから、あの言葉を言った瞬間にフォルブスは実験の成功を確信したようだ。
フォルブスはおれを連れてウチヒスル城に戻り、そこでリュカともう一人の泥人形に会った。実験の成功を知ったリュカは興奮していたよ。それまで自分の修復用の泥の塊としか思っていなかったおれたちにふざけて名前を付けるくらいには浮かれていた。おれはライナス、もう一人の泥人形はネイサンだ。
その後、濡れることを心配する必要がなくなったこともあり、おれは孤児院で監督官を務めることになった。それでカラック村に行ったんだが、しばらくは最悪な日々だった。食事も排泄も慣れていない上に、眠った隙に三十四番がこの体を乗っ取って動き回るんだ」
「乗っ取ったのはライナスでしょう」と口を挟むと彼は苦笑する。
「あの時は三十四番に体を明け渡すわけにはいかなかった。体を制御できないとフォルブスに知られたらウチヒスル城に閉じ込められるかもしれない。
おれは三十四番が何か企んでいるんじゃないかとヒヤヒヤしていた。孤児院の連中は従順だったが、恐怖で従っているに過ぎない。フォルブスを恨んでいるのは明らかだ。その上、三十四番は自分の体を得体の知れないものに奪われた。復讐を企てるか、もしくは自殺を計ったっておかしくないだろう?
おれはなんとか眠らないようにしようとしたが、イモゥトゥとはいえ全く眠らなくていいわけじゃない。結局、数日に一回は体を奪われた。その時はあいつが何をしているのか全く見当がつかなかったが、後で聞いた話だと、親しい仲間に状況を話して逃亡を勧めていたらしい」
「三十四番自身は逃げようとはしなかったのね」
「無駄だと思ったんだろう。激しい動きをすればおれの意識が覚醒して、あいつの意識は奥に押しやられるんだから。
おれには三十四番が何を考えてるのかわからなかったが、厄介なことにあいつの感情が伝わってきた。フォルブスに対する恐怖心や、実験を仕切る側になったことへの罪悪感、仲間への同情心。そんなのは明らかにおれの感情ではなかった。
最初はずいぶん混乱したし、あいつの感情に振り回された。やはり泥人形だった頃のおれには感情がなくて、これが人間の感情なのかとも考えたりした。でも、実験に立ち会ったフォルブスが笑っているのを見て、感情がないのは泥人形だからじゃないと思ったよ。おれらが考えた非人道的なイモゥトゥ実験だって、あの半地下の書庫にあった本を参考にしたんだ。むしろ、痛めつけることを目的とした人間の拷問のほうがよっぽど残虐だ。
そのうち、自分の感情と三十四番の感情の区別をつけることに疲れて、考えるのをやめた。三十四番の感情に抗うのを諦めたとき、初めてあいつの声が聞こえたんだ。本当に、頭の中に小人を飼ってるような気分になったよ。
その小人と夜通し話をした。おれの正体を知ったあいつは混乱したみたいだけど、フォルブスに対する恨みだけは共通していたから、復讐がおれたちの目標になった。それにはフォルブスについて知ることが必要だ。安易に逃亡すれば復讐はむしろ難しくなる。だったら、フォルブスの下についたままカラック村を出て自由に動ける任務はないだろうかと考えていたところに、予想外に向こうから話が舞い込んできた。
何のことはない。リュカにおれの状態がバレていたんだ。それで孤児院の監督官を外れることになった。
三十四番と共生するようになってから、おれは監督官の権限を利用して孤児院の作業環境を改善したり、実験をやったように見せかけて適当に報告書を書いたりしてたんだ。バレない程度に上手くやってたつもりなんだが、三十四番と懇意にしていたイモゥトゥの中にスパイがいた。
リュカは最初からおれが二重人格ということを知った上で、スパイに見張らせて報告させていたようだった。それで、夢遊病みたいに夜中に置き出したり、逃亡を勧めることはなくなったから三十四番の意識を抑え込めたと判断したらしい。善人じみた行為は三十四番の人格の影響だろうが、許容範囲だと。
おれはカラック村からウチヒスル城に戻され、諜報訓練を受けてから各地で使い走りみたいなことをやるようになった。ネイサンは孤児院が解体するまであそこに関わってたみたいだけど」
ライナスは限界まで短くなった煙草を灰皿に押し付けた。悪戯っぽい目つきで「質問は?」と首をかしげるその表情と仕草がルーカスと重なる。
「二重人格だってわかっててリュカがあなたを自由にさせてるのは不思議だわ。任務中でも簡単に逃げられるのに」
「人格の入れ替わりが制御できると証明したんだ。特に何もなければ三十四番は出てこないが、意図的に三十四番と入れ替わることは可能だということをリュカの前で見せた。一ヶ月べったり監視されたが、それ以外は昼も夜も三十四番が出てくることはなかった」
「ライナス自身は逃げようと思ったことはないの? 復讐を諦めれば、あなたなら自由に生きれそうなのに」
「その言葉、そっくりそのままあんたに返すよ。おれは、ネイサンがいなかったら復讐を諦めてたかもしれない。たぶん、同病相憐れむってやつなんだろうな」
「ネイサンを助けたいってこと?」
「まあ、そうなんだが。……ネイサンを連れ出したところで、どうすべきか答えが出ない。おれみたいにイモゥトゥの体に入るのがいいことなのかどうか。あんたはどう思う?」
わたしはその質問に答えることができなかった。ルーカスがイヴォンの体を乗っ取るのは許せないし、たとえイヴォンが新生して記憶を失ってもそれは変わらない。けれど、ライナスの口から語られるネイサンの姿を想像すると、泥人形のまま生を終えなければならないというのは不憫な気もする。
わたしが黙っていると、「人間は複雑だ」とライナスがひとり言のように口にした。
「泥人形だった時、世界はもっと単純だった。三十四番の体に入った途端おれの世界は複雑になった」
「外の世界を知ったからじゃない? わたしは貴族学校に入った途端に世界が一変したわ。性別や身分、家門同士の力関係なんかで人間関係が急に複雑になった。――あっ、でも、ユーフェミアになってから世界が少し単純になった。セラフィアだった時ほど物事を複雑に考えなくなったから」
冗談めかして言うと、「笑い話じゃないぞ」とライナスは呆れ顔だ。
「あんたの正体はリュカに知られないようにしろ。死んだ人間がどうやってイモゥトゥの意識を乗っ取ったのか、リュカが興味を持たないはずがない」
「わたしだって乗っ取ろうと思ってこの体に入ったわけじゃないわ。ユーフェミアが何かしたわけでもないと思う。彼女はタルコット侯爵の手下に追われて逃げてる真っ最中だったから」
新生する瞬間、ユフィは何を考えていたのだろう。もしかしたら、交霊状態でわたしを見ていたのかもしれない。それが、肉体から離れたセラフィアの魂と、魂を失ったユーフェミアの肉体を繋ぐ架け橋になったのかも――。
「お互い数奇な運命だな」
自嘲めいた左右非対称なライナスの笑みは、ルーカスとはまったく似ていなかった。




