⑤
昼ご飯を終え、出かける準備を済ませると、玄関の扉を開けた。
外は、今日も変わらず、夏の匂いを、静かにまとっていた。
汗がにじむ額をぬぐいながら歩き続けると、交差点の先に見覚えのあるシルエットが見えた。
時刻は、ちょうど十五時。けれど、ねむはすでに到着していて、向こう側から手を振っている。
思っていたより元気そうで、少しだけ安心した。
小走りに横断歩道を渡りながら声をかける。
「……ごめん。暑いのに待たせちゃったね」
「ううん。私が勝手に早く来ただけだし」
ねむの顔色は、昨日よりいくぶん明るく見える。
「なんか……服装の雰囲気が、昨日とだいぶ違うね?」
「今日は色々動くかもしれないから、動きやすい格好にしたの」
髪は高めの位置でまとめられ、ポニーテールが軽く揺れていた。
薄ピンクのTシャツに黒のジャージ、足元はスニーカー。
動きやすさ重視の格好だが、妙に似合っている。
「変……かな?」
「いや、全然。可愛いと思う」
口にしたあと、少し後悔した。もっと他に言いようがあった気がする。
「ふふ、良かった」
ねむは少しだけ照れて笑った。その横顔に視線を奪われそうになり、俺は首筋をさすってごまかした。
「……そういえば、昨日の件、ニュースになってたけど、今日って中に入れるのかな」
「優衣に聞いたんだけど、昨日の夕方くらいには、もう警察の数もだいぶ減ってたって。
現場にはまだ入れないらしいけど」
いつの間に、そんな情報網ができていたんだろう。
その行動力には、毎度のことながら感心する。
「たぶん、自殺の線が濃厚って判断されて、もう捜査を締めにかかってるんだろうな」
「……そうなんだ」
ねむは、少し残念そうにうつむいた。
「でも、逆に今のほうが動きやすいかも。調べるにはちょうどいい状況だよ」
その言葉に、ねむは微笑んでうなずいた。
◇ ◇ ◇
やがて校舎が見えてくる。正門前には報道陣が集まっていて、人の壁ができていた。
(……これは、入れないかもしれない)
そう思ったとき、ねむが小さく声を上げた。
「……あ、優衣」
少し先で、優衣がこちらに気づいて手を振っている。
「ねむ、こっちこっち!」
優衣にうながされ、僕たちは裏手へと回った。
植え込みの奥には、手足をかけて越えられる低めの塀があり、それを乗り越えて校内へ入る。
優衣が先に登り、そのあと俺も続く。
風が吹き抜け、優衣のスカートがひらりと舞った。
スカートの中から、黒のレースのパンツがちらりと――。
「きゃっ、達希のエッチ!」
「ご、ご、ごめん……!」
下の方から、強い視線を感じる。
見ると、ねむがこちらを睨んでいた。そして、俺の足をつねる。
「いたっ……」
こうして俺たちは、なんとか塀を越えた。
「ありがとう、助かった。すごい報道の数だったね」
「うん。ねむたち、きっと入れないだろうなって思って、ここで待ってたの」
ねむと優衣が並んで話している。
こういうとき、俺はどの距離感でいればいいのか少し迷う。黙ってついていくしかない。
◇ ◇ ◇
校舎から少し距離をとり、俺たちは物陰から校舎の様子をうかがった。
校内は驚くほど静かで、時折、職員や警察官の姿が横切る以外、まるで時間が止まっているようだった。
「警察の人たち、さらに減ってたよ」
声のした方へ顔を向けると、健人と杏樹がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「そっか。……じゃあ、現場の近くまで行ってみようか。
中には入れなくても、遠くから様子くらいは見えるかもしれない」
「うん、そうだね」
校舎をゆっくり進みながら、俺たちは昨日の事件現場へと足を向けた。
現場の前には、数人の警察官、そして――加瀬刑事の姿があった。
「何か用かね?」
加瀬刑事は、やや怪訝そうな顔でこちらを見た。
重たく降りかかるような大人の威圧感に、思わず身が縮こまる。
けれど――それでも、言わなければならなかった。
「……思い出したことがあって。もう一度、現場を見せてほしいんです」
まっすぐに目を向けて告げた。
それが思いつきではないことは、自分自身がいちばん分かっていた。
「はぁ……分かったよ。俺たちもそろそろ引き上げるとこだったからな。
遠くから眺めるだけなら、いいだろう」
「ありがとうございます。……ねむたちは、ここで待ってて。
あの場所をまた見るのは、ちょっと辛いだろうし」
◇ ◇ ◇
理科室の前に立つと、まだ規制線が張られていた。
チョークで囲まれた床には、事件の痕跡がいくつも刻まれている。
視線を上げる。パイプの上――何かが、そこに見えた気がした。
「……あのパイプの上、少し中に入ってもいいですか?」
返事を待たずに、足が勝手に動いた。
「おい、お前! 勝手に入るな!」
声が飛ぶ。けれど、もうそこまで来てしまっていた。
パイプの表面に、細い擦り傷のようなものが走っている。
……線だ。おそらく、数ミリほど。明確な用途は分からないが、不自然に思えた。
「おい! 聞いてんのか!」
振り返ると、加瀬刑事の腕が伸びてきた。
次の瞬間、俺は教室の外へと引きずり出されていた。
「まだ封鎖中だ! 出ろ!」
理科室の扉が、背後で閉じる音。
少し離れた場所で、ねむたちが心配そうにこちらを見ていた。
「……まったく、最近のガキは何考えてんだか」
呆れたように言い捨てた加瀬に、俺は口を開いた。
「……警察は、今回の件、自殺として処理するつもりなんですか?」
加瀬は頭を掻いた。
面倒ごとを持ち込まれた、という顔だった。
「……たとえば、床に散らばっていた水とか。首を吊ったにしては高すぎる位置とか。
椅子が倒れていなかったこととか……そういう違和感、あると思うんです。
きっと、そちらも気づいてますよね?」
一歩、加瀬が近づいてきた。
「じゃあ、説明してくれ。
薬で意識を失った四十五キロくらいの女子生徒を、深夜にどうやって吊るした?
鍵は二十一時にはかかっていた。誰も出入りしていない。
違和感があったところで、痕跡も証拠も何もない」
声のトーンは低く、重かった。
ただ怒っているのではない。どこか――投げ出された問いのように聞こえた。
「……キミに、それを説明できるのか? できるなら教えてくれよ」
口を開こうとして――何も出てこなかった。
自分が、まだ何も持っていないことに気づく。
焦りが、胸を叩いた。
「もう、いいかね」
言い捨てられたその言葉に、俺はただ、黙って頷くしかなかった。
◇ ◇ ◇
「大丈夫? 怒られてたようにも見えたけど」
ねむの言葉に、ようやく現実に引き戻される。
「……うん、大丈夫。
加瀬刑事も、たぶん気づいてると思う。
ただ、それを証明する術がなくて……もどかしさを抱えているように見えた」
(あと、もう一つ。確信に届くピースがあれば……)
小さく頭を下げて、その場を後にした。
「一階に休憩スペースがあるよ。少し、そこで話さない?」
優衣が提案した。
歩き出した先には、休憩室の椅子に座り、コーヒーを手にスマホを眺めている――
大迫先生の背中が見えた。
俺は声をかけようと思い、そっと後ろから近づいた。
ふと、先生のスマホの画面が視界の端に入る。
映っていたのは、女性と三十代くらいの男性が並んで写る写真だった。
(……女性のほう、詩織さんに似てる。けど、少し違うような……)
「大迫先生?」
声をかけると、先生は小さく肩を揺らし、驚いたように振り返った。
「……なんだ。君たちか」
その瞳には、どこか光がなかった。
「すみません。つい、写真が目に入ってしまって……あれは、詩織さんですか?」
先生は視線を落とし、短く沈黙したあと、ぽつりと答えた。
「……あの女性は、高嶺の母親だ。昔、私が担任をしていたクラスの生徒だった」
「だから、似ているけど、どこか雰囲気が違うと思ったんですね」
俺の言葉に、大迫先生は小さくうなずいた。
その表情は、記憶をたどるように静かで、どこか寂しげだった。
「……さや……いや、高嶺のお母さんは、明るくて、太陽みたいな人だったよ。
周りを自然と笑顔にしてね。高嶺も、その気質を受け継いでいた。……だからこそ、亡くなったのは、惜しいことだ」
昨日の、あの冷たいように見えた目つき。
もしかすると、あれは――深い悲しみに沈んでいただけなのかもしれない。
そのとき、少し離れた場所から声がした。
「たつきー、何飲むー? いろいろ付き合ってもらってるし、ここは私が出すよ!」
自販機の前で手を振るねむに向かって、俺は軽く応じた。
「ああ、今行く!」
先生はそれを聞いてか聞かずか、ふっと立ち上がり、背を向けた。
「……いろいろ、お話ありがとうございました」
軽く頭を下げると、先生は何も言わずにその場を去っていった。
◇ ◇ ◇
俺はみんなのもとに戻る。
「達希は何飲むの?」
「うーん、炭酸がいいな。じゃあ、コーラにする」
ボタンを押すと、コトンと音を立てて缶が落ちてくる。
そのとき、優衣がぽつりと聞いた。
「ねえ、大迫先生と何を話してたの?」
「ただの世間話だよ。昔、詩織さんの担任だったって」
「へぇー、そうなんだ。……あ、そういえば聞いたことあるんだけど、大迫先生って昔、すごい化学者だったんだって。
でも、なんかの不祥事で賞を逃したらしいの」
「不祥事って?」
「ごめんね、そこまでは知らないんだけど」
そう言って、優衣は悪びれもせず笑ってみせた。
「ところでさ、達希って、ねむと付き合ってるの?」
不意を突くような問いに、俺が答えるより早く、ねむが声を上げた。
「いやいや、付き合ってないよ!」
……ちょっと、そこまで全力で否定されると、こっちが傷つくんだけど。
「ふーん、そっか。じゃあさ――私が狙ってもいいってこと?」
「えっ……!?」
ねむと俺、同時に声が出た。
「達希ってさ、普段はちょっと頼りない感じだけど、肝心なときにしっかりしてるよね。
今日のあれとか、警察相手に堂々としてて、けっこうカッコよかったし」
言いながら、優衣が意味ありげに微笑む。
その隣で、ねむの表情がわずかに陰るのが見えた。
ほんの一瞬だったけれど、目の奥に揺れるものがあった。
「……好きにすれば。達希のことは、達希の自由でしょ」
その声は、少しだけ遠くに感じられた。
間を置かず、杏樹が小さく眉をひそめて口を挟む。
「ちょっと、優衣。からかわないの。達希もねむも困ってるでしょ」
「えー、本気なのに〜」
ふざけるように笑う優衣。
俺がつい微笑んだ、その瞬間だった。
「……いったっ」
足元に小さな痛み。ねむに踏まれたらしい。
「ははははっ!」
思わず吹き出して、みんなが笑った。
どこかぎこちないけど、それでもたしかに、あの頃の日常が少しだけ戻ってきた気がした。
俺たちは、休憩室のソファで、たわいない話を交わしながら時間を過ごしていた。
窓の外には、オレンジ色の夕日が斜めに差し込み、長い影を落としている。
「ちょっと、トイレ行ってくるね」
優衣が立ち上がりながら言った。
何気ない声。何気ない仕草で。
「一人で平気?」
杏樹が少しだけ心配そうに聞く。
「子供じゃないんだから、大丈夫だよ〜」
優衣は笑いながら、パタパタと廊下を駆けていった。
その背中が、夕日に溶けるように遠ざかっていく。
杏樹が、ふと思い出したように口を開く。
「そういえばさ、最近、校内でちょっとした怪談が広まってるの、知ってる?」
その言い方が妙に含みがあって、話の続きを誘っていた。
「ああ、あの話ね。……うん、聞いたことあるよ。最近だよな?
こう、暗くなってくると、ちょっと思い出しちゃうんだよな……」
健人が、どこか気まずそうに笑いながら、軽く相槌を打った。
「えーっ、なになに? どんな話? すごく気になる!」
ねむが身を乗り出すようにして問いかける。
その目は、好奇心でまんまるだった。
(やめてくれよ……そういうの、俺は本当に苦手なんだってば)
「テストの採点で、夜遅くまで残っていた先生がいたらしいの。
最後に校内をひと通り見回っていたとき、2階の美術室で――誰もいないはずなのに、何かが動く気配と、不気味な音を聞いたんだって」
杏樹の声は、どこか淡々としていて、それがかえって場の空気をじわりと冷やしていく。
「その“何か”は、教室の中を、下から上へと這い上がるように動いて……
その直後、ガチャン。ガラスの割れる音。
そのあと、少し間をおいて、ドスンって、大きな何かが落ちるような音が響いたらしい」
「その先生、怖くなって美術室の鍵を確認して……
ちゃんと閉まってるのを見てから、急いで立ち去ったらしいの」
「それが――人魂じゃないかって、噂されてるの」
背筋に、ひやりとした感覚が走る。
やっぱり、こういう話はどうにも苦手だ。
「なんだよ、それ。俺だったら絶対確認しに行くけどな!
その先生、ビビりだな〜」
健人が強がるように言った。
その声に、少しだけ、わざとらしい明るさが混じっている気がした。
次の瞬間。
「わっ!!」
ねむが突然、大声をあげた。
「うわっ! ちょ、やめろって!」
俺と健人は同時に声を上げた。心臓が跳ね上がるのがわかる。
ねむと杏樹は、そんな俺たちを見て楽しそうに笑っていた。
健人は顔を赤くして、少し恥ずかしそうに口元をゆがめた。
──二〇分ほどが過ぎていた。
時計を見ると、針は十九時を回っていた。
「私、ちょっと……トイレ」
ねむが席を立ち、優衣が向かった方向へと歩き出す。
振り返って、手招きした。
「……ついて来てほしい、な」
「え? なんで?」
「さっきの話……ちょっと怖くなっちゃって」
心細さを隠すように笑った彼女に、俺は少しだけ目を見開いて、わざとらしく眉を上げた。
けれど、それが気に障ったのか、ねむは俺の足を軽く蹴ってきた。
「いった……!」
「もう。行くよ」
俺は言われるがまま、ねむの後を追った。
◇ ◇ ◇
一階のトイレは『使用禁止』の紙が貼られていた。工事中のようだ。
俺たちは、二階へと足を向ける。
「……トイレの場所って、学校によって違うから、ややこしいよな」
「ほんと。あ、ここだ……」
ねむが女子トイレへ入っていく。
その場に残った俺は、窓から外をぼんやりと眺めた。
夕暮れの学校は、嫌なほど静まり返っている。
改めて眺めると、その静けさが、やけに重たい。
「君っ」
突然、背後から声がして、思わず体が跳ねた。
振り返ると、河野先生が立っていた。
「……どうして、まだ残ってる? 君たち、他校の生徒だよな」
「事件のことで……少し違和感があって。現場をもう一度見たいなって、そう思って」
「そうか……でも、いけないよ。もう帰る時間だし、無断で校内に残っていたら問題になる。保護者だって心配するだろう」
先生は眉をひそめて、やや厳しい声を出す。
ふと俺は河野先生の腰に目をやると、鍵束の中に、ひとつだけ窪みの形が少しいびつな鍵が混じっているのに気づいた。
そこへ、ねむが戻ってきた。
「あ、河野先生……」
「君も一緒か。他には?」
「優衣と、杏樹と、健人がいます」
「……五人も。早く帰りなさい。もうすぐ我々も帰るところだ」
ちょうどそのとき、杏樹が階段を上ってきた。
「どうした、杏樹。一人か?」
「健人が……外で何か見たって言ってて。影……みたいな。それで、確認しに行ったの。
しばらく待ってたんだけど、帰ってこなくて、なんか怖くなって……」
杏樹がキョロキョロ周りを見る。
「優衣は?」
ねむが首を振る。
「トイレの中にもいなかった。……どこ行ったんだろ」
一瞬の沈黙があった。
何か、嫌な予感がする。空気が、すっと冷えるのを感じた。
「優衣のことも、健人のことも気がかりだ。手分けして探そう」
河野先生が言う。
「私は他の教員を呼んでくる。一階と外を見回す。
君たちは、校舎内を頼む」
「……分かりました」
俺とねむ、杏樹の三人は、三階へ向かった。
◇ ◇ ◇
「優衣ー!」
「どこにいるのー?」
廊下に声が響く。返事は、ない。
「屋上も、念のため確認しておこう……」
階段を駆け上がる途中、呼吸がわずかに乱れた。
最上階にたどり着くと、屋上の扉はナンバー式の古い南京錠で固く閉ざされていた。
試しに扉を押してみたが、当然のように動かない。
「……開かないな」
確認するように、あるいは自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
◇ ◇ ◇
「……次、二階を見てみよう」
廊下に戻りながら、俺はふと、ある扉の前で足を止めた。
家庭科室。視線を向けると、ほんの気まぐれのように、教室の中を覗き込んだ。
(……理科室と、どこか似ている)
天井を走る銀色の配管。大きめの作業台と水道。
パッと見では用途の違う教室だが、作りの基盤はほとんど同じに見える。
俺は中へ足を踏み入れ、窓際へと向かった。
ガラスを引き開け、外を見下ろす。
すぐ下には、花壇が連なっていた。
目を凝らすと、その花壇は理科室の真下あたりまで続いている。
つまり、構造も外観も、ほぼ同じ。
(ということは……理科室の外も、これと同じ造りのはず)
「達希? 何してるの」
ねむの声に振り返る。
「……いや、家庭科室が、理科室に似てるなって思って」
「そう? 私には全然違って見えるけど」
ねむは軽く首をかしげる。
それでも特に深掘りする様子はなく、次の報告を口にする。
「二階は一通り見たけど、やっぱり優衣、いないみたい」
「……そっか。じゃあ、一階に戻ろう」
「うん。先生たちが、もう見つけてくれてるかもしれないし」
俺たちは階段へ向かって歩き出した。
歩くたびに、廊下の静けさがいっそう際立った。
一階の廊下のガラス越しに、外に立つふたりの姿が見えた。
「先生、優衣は……?」
「いない。外も一階も探したが、見つからない」
先生の声は低く、重たかった。
「……くそっ……どこ行ったんだよ……」
健人は唇をかみしめている。
そのときだった。
ねむがふと足を止め、上を見上げた。
「……ねえ、あそこ……」
俺たちも、ねむの視線を追う。
屋上。夕暮れに沈む校舎の一角――その柵の外に、うっすらと人影があった。
風に髪をなびかせた優衣が、柵の外に腰を下ろしていた。
落ちる一歩手前の、ぎりぎりの場所で。
まるで、そこに在ることすら儚い幻のように、彼女はじっとしていた。
「優衣……!?」
杏樹の叫びも、彼女には届かない。
「おい! 落ちるぞ!」
健人が声を上げる。
だが、優衣は微動だにしなかった。
「優衣! 聞こえるか!?」
反応は、ない。
◇ ◇ ◇
俺たちは走り出した。
階段を上がる途中で、大迫先生と鉢合わせる。
「先生、屋上に……!」
俺の言葉に、大迫先生は顔を強張らせ、すぐさま後を追ってきた。
健人が先頭を切り、続いて俺、大迫先生、ねむ、杏樹。
その後ろから、河野先生の足音が階段に響いていた。
屋上の扉には、たしかにさっきまで南京錠がかかっていたはずだ。
だが今は、それが外されている。
健人が扉を押し開ける。
視界の先に、優衣の背中が見えた。
その瞬間――
彼女は、ふっと、身を前へ預けた。
「きゃああああああっ!!」
ねむの叫びが、空気を裂く。
ドンッ――
音が、遠く下の方から響いた。
静けさを切り裂いて、現実だけがそこにあった。
「優衣ーー!」
杏樹の声が、それを追う。
柵の前まで駆け寄り、俺たちは下を見た。
そこには――もう、動かない優衣の姿があった。
中庭の隅、うつ伏せのまま倒れている。
「優衣……どうして……」
杏樹が震える声でつぶやく。
健人は拳を握ったまま、肩を震わせていた。
「生徒が……飛び降りました。至急、常盤高校へ……」
河野先生の声が、誰かと通話をしている。
「……ねむ、ここにいて」
そう言って、俺は大迫先生とともに階段を駆け下りた。
◇ ◇ ◇
中庭には、赤黒い血が広がっていた。
優衣は、まるで眠るように、静かにうつ伏せていた。
そばには、ガラス瓶と注射器。
目を逸らしたくなった。
ほんの少し前まで、俺たちは笑っていたのに。
いま、そこにあるのは、冷たい現実だけだった。
◇ ◇ ◇
十分ほどして、パトカーが到着した。
俺たちは教室に集められ、待機を命じられる。
杏樹は泣き続け、健人は一点を見つめたまま、微動だにしない。
あの薬瓶、そして注射器。
(……まさか、また――“死薬師”の仕業なのか)




