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日下に灯る推理  作者: 三毛猫
死薬師と放課後に消えた少女達
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7/7

 校舎の外に、数台のパトカーが集まっていた。

 赤い回転灯が、夜の闇を断続的に切り裂くように壁や地面を照らす。

 無線のノイズ、警官の声、ドアの開閉音が重なり合い、日常とは明らかに異なるざわめきが、校舎に広がっていた。


 扉が乱暴に開かれ、加瀬が教室に入ってきた。

 彼は一通り俺たちの顔を見まわし、深くため息をついた。


「……また、お前たちか」


 面倒そうな声色には、焦りと苛立ちがにじんでいた。


「では、改めて事件当時の状況を確認させてもらっていいかね」


 そう言って、加瀬はメモ帳を取り出した。


「……優衣を見失ったのは、だいたい十八時半から二十時のあいだ。約一時間弱くらいでした」


 俺が口火を切る。


「俺とねむは十九時に二階のトイレに向かい、そこで河野先生と合流しました。その後、杏樹もやってきて――三人で三階と屋上を探しました。河野先生は一階を捜索していたと思います。十九時半くらいのことです。そのあと、中庭で先生と健人と合流して……二十時前に、屋上の柵の外に優衣を見つけました」


「そのとき、屋上の鍵は……?」


「開いてました。最初に屋上を確認した時は南京錠がついてました」


 健人が続く。


「俺は杏樹と休憩スペースにいた。で、裏庭に白い影が見えて、そっちに行ったんだけど……誰もいなかった。裏庭と一階を探してると、河野先生が下りてきて……一緒にもう一度中庭まで探した」


 河野先生は淡々と語った。


「十八時までは、大迫先生と職員室にいました。そこから私は校内を見回りに出て……その後、生徒三人と合流しました」


 加瀬が目線を移す。


「では、大迫先生。あなたは?」


「私は……河野先生と別れてから、屋上に向かうまでのあいだ、職員室にいました。ひとりで」


「その間、証明できる人間は?」


「……いません。この時間帯は、校内に残っていたのは私と河野先生だけだったので」


 加瀬の目が、わずかに鋭くなる。


「なるほど。現時点で、現場には特に明確な不審点は見当たりません。

 おそらく、薬物の影響で混乱した状態で……以前から南京錠の番号を知っていて、屋上に上がり、自ら飛び降りた可能性が高い。今のところは、そう見ています」


 俺は手を挙げた。


「遺体に、何か不審な点はなかったんですか?」


「……はぁ。君は本当に……」


 加瀬は眉をひそめながら、それでも答えてくれた。


「一点だけ。遺体のそばに、テグスのようなステンレスの糸が落ちていた。

 まあ、校庭のどこかに絡まっていたものが風で飛んできたんじゃないか、とは思っているけどな」


(ステンレス製の糸……?)


 その言葉を聞いた瞬間、俺の中のパズルがわずかに動いた。

 軽くて、細くて、丈夫な糸。誰にも気づかれずに何かを仕掛けるには……

 いや、まさか。そんなの……でも、もしそれを使えば――


 浮かび上がる仮説は、現実感のなさに押し戻されるように、静かに消えていった。


◇ ◇ ◇


「どうしたの、達希。何か、気になる?」


 ねむが俺の表情に気づいて声をかける。


「いや……なんか、今回も変だなって思って」


「変?」


「――あんなふうに、座った状態から、あんな前傾姿勢で飛び降りるかな?

 普通、あれって“落ちる”動きだと思うんだよね。自分から跳ぶ動きじゃない」


 ねむは静かにうなずいた。


「……やっぱり、自殺じゃないって思ってる?」


「ああ。あんなに直前まで、普通に話してたのに。

 急に、何の前触れもなく自殺だなんて……ちょっと考えづらいよ」


「ということは、また……」


「――ああ。今回も、殺人の可能性が高い」


 俺は一瞬、言葉を切る。


「ただ、仮に“死薬師”が犯人だったとしても、ちょっと引っかかってる。

 今までの事件では、犯人は“承認欲求”みたいなものを一切見せなかった。

 目立つことを避けてきたはずなんだ」


「でも、今回は?」


「……目立ちすぎてる。屋上での飛び降りなんて、隠せる方法じゃない。

 やってることが、今までと違うんだ」


 口の中で、「テグスか……」と繰り返した。


◇ ◇ ◇


 その後、俺たちは「また確認したいことがあれば連絡する」と告げられ、帰されることになった。


「ねむ、送ってくよ。夜道、一人だと危ないし」


「ありがとう、達希」


 ねむの足取りは、少し重かった。


「……明日から、また学校って、信じられないね」


「……ああ。まるで悪夢みたいな二日間だった」


「学校の人たち、いろいろ聞いてきそう。……人気者になっちゃうかもね」


 少しでも笑わせようとしたが、ねむは反応せず、むしろ困ったように小さく笑っただけだった。


「自殺じゃないとしたら、犯人がいるってことだもんね」


「ああ。たぶん、学校関係者だと思う」


「……えっ? なんで?」


「今回も、前回も、やけにスムーズなんだよ。

 建物の構造、鍵の位置、タイミング……

 内部事情を知らないと無理な動きが多すぎる」


 ねむは驚いた顔で、俺を見つめた。


「……だとしたら、その人、明日もふつうに教室にいるってことだよね」


 ねむの声がかすかに震えていた。


「そんなの……信じたくないし、許せないよ」


 ねむの声が少しだけ強くなる。


「……ああ。俺もそう思う。

 このまま逃したくない。

 だから、やれるだけのことはやってみるつもりだよ」


◇ ◇ ◇


 ねむの家の近くで別れたあとも、俺の頭の中では事件の断片が途切れずに回り続けていた。

 気づけば、夜道を足早に歩いていた。


 あの始まりから、すべてが繋がっている。


 まずは――最初の事件から、だ。


 帰宅後、夕飯を済ませて風呂に入り、リビングに戻ると、両親がテレビの前で眉をひそめていた。


 画面には、速報のテロップが流れている。


《速報です。十七日午後八時ごろ、常磐学園で女子生徒が屋上から転落しました。警察は現在、現場を封鎖し、事件・事故の両面から捜査を進めているということです》


「……またなの? 本当に、どうしちゃったのかしら。達希の学校は大丈夫?」


「心配しすぎだって。俺のとこは平気だよ」


「何か悩みがあるなら、まずお母さんとお父さんに言うのよ。いいわね?」


「わかってるって……」


 苦笑いでその場をごまかし、自室に戻る。

 スマホを開く気にもなれず、ベッドに座り込んだ。


 頭の中では、あの最初の事件のことがぐるぐると巡っていた。

 思い出すつもりなんてなかった。けれど、考えすぎたせいか――


 俺は、また“あの日”の記憶の中に迷い込んでいた。


◇ ◇ ◇


 ……気がつくと、俺は理科室の前に立っていた。

 目の前では、詩織の身体が静かに揺れている。

 ここは記憶の中。目をそらそうとしても、視界は勝手にそれを追ってしまう。


 そのとき、ふと――

 窓際の床に、水たまりがあった。


 コップ一杯ぶんほどの、小さな水の跡。

 前に見たときも、きっとそこにあったはずなのに。

 なぜあんな場所に水が……?


 思考が深まると同時に、背後から、かすかな声が聞こえた。


「ねぇ……ねぇ……」


 詩織の声だ。耳元に触れるような距離。


「悔しい……悔しい……」


「――なんで私がこんな目に」


「なんで……なんで……なんで!!」


 顔が、目前に迫る。恐ろしいほどの速さで――


◇ ◇ ◇


 激しい頭痛に襲われて目が覚める。


「達希!? 達希!!」


 母の声に引き戻された。


 気がつけば俺は、汗だくでうなされていたようだった。


「……大丈夫か!?」


「ご、ごめん……変な夢を見てて……無意識に……」


「あんたまた……寝ながら無意識に記憶の中に入りすぎちゃったんでしょう。……もうやだ、ほんとに心臓に悪いんだから」


「うん……もう、大丈夫。落ち着いたから」


 母と父はしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いて、自室へ戻っていった。


 ――危なかった。

 思考が深く潜りすぎて、またあの記憶の底に沈んでいた。


 それにしても、あの窓際の水たまり。

 何かが引っかかる。意味があるような、ないような……。


 少しずつ、ばらばらだったピースがつながっていく――

 そんな予感だけが、今は胸の奥に残っていた。


ジリリリリリリリッ――。


アラームの音で目が覚めた。

昨日は、あれこれ考えているうちにそのまま寝落ちしてしまったようだ。


今日からまた、平日が始まる。

学校へ行くのは正直、少し気が重い。


階下に下りると、朝食の匂いが漂っていた。

キッチンでは、母さんがエプロン姿でせわしなく動いている。


「おはよう。達希、大丈夫? 体調は悪くない?」


「ありがとう。昨日は心配かけてごめん。もう大丈夫だよ。」


「それなら良かった。ほら、ご飯できてるから、ちゃんと食べていきなさい。」


いつも通りの朝。

でも、心の奥底にはあの事件の余韻がまだ残っていた。


朝食を済ませ、歯を磨き、制服に袖を通す。

ひと通りのルーティンを終えて、玄関のドアを開ける。


「いってきます。」


外の空気が、少し重たく感じた。

事件のことが、頭の隅からどうしても離れない。


通学路の途中、後ろから小走りの足音が近づいてきた。


「おはよぉーっす、達希!」


振り返れば、相変わらず元気な透の姿。


「おはよう。」


「……あれ? なんかテンション低め?」


「ちょっと考え事してただけ。」


「でさ、金曜日の件――どうだったんだよ?」


「それがさ……」


俺は、あの日あったことをかいつまんで話した。


「マジで!? それ、かなり大ごとじゃん。お前、大丈夫なのかよ?」


「うん。初めて現場見たときは正直ビビったけど、今は平気。」


透の明るさが、少しだけ心のモヤを晴らしてくれる。

そのまま他愛ない話をしながら、教室へとたどり着いた。


中に入ると、すでにねむが来ていて、何人かの友達と談笑していた。

輪の中に入っていくタイミングがつかめず、俺は黙って自分の席へ向かった。


……が、


ぽかっ。


後頭部に軽く衝撃が走った。


「こら! 無視すんな!」


振り返ると、ねむが仁王立ちでこちらを睨んでいた。


「……おはよう。」


「おはよう。」


「昨日は、ちゃんと休めた?」


「うん、帰ってすぐ寝落ちした。」


やりとりを聞いていた透が、ポカンとした顔で俺を見ている。


「授業始まるから、またあとでね!」


ねむはそう言って、小走りで自分の席へ戻っていった。


「えっ……なんでそんなに仲良くなってんの……?」


「まあ、いろいろあって。」


俺が少し照れくさく笑うと、透は納得のいかない顔で「ちぇっ」と舌を鳴らした。


その後、いくつかの授業が過ぎ、昼休みに入った。


「達希、昼一緒に食べようぜー」


「おう。」


「にしても、今日あっついな〜。ジュース買ってくるわ。」


この間のこともあるし、奢ってやるか。


「俺が買ってくるよ。何がいい?」


「え、マジで? じゃあ……コーラで!」


廊下の先にある自販機へと向かう。

缶と紙コップ、二種類の自販機。紙コップの方が安い。


こっちでいっか。

コーラのボタンを押すと、氷がカラカラと落ち、その上から炭酸の音とともに液体が注がれた。


教室に戻ると、透が嬉しそうにコップを受け取った。


「サンキュー! やっぱ暑い日は炭酸だな~!」


透はひと口飲むと、机の上にコップを置く。


「すぐ氷、溶けちゃいそうだよな。机、もうビチャビチャだし。」


透の言葉に目をやると、コップの下から水の輪じみが広がっていた。

とけた氷の水が、机の表面を濡らしていく。


……氷。

……暑さ。


ふと、あのときの情景が脳裏をかすめた。


――窓の下にも、椅子の下にも残っていた不自然な水の跡。

――不自然に残された手首の痕。

――夜に響いた不可解な音と、あの光。


断片だった記憶が、ぴたりと一つに繋がる感覚。


ガタッ。


気がつけば、椅子を勢いよく鳴らして立ち上がっていた。


「……そういうことか! 透、ありがとう!」


透は、何が起きたのか分からず、ぽかんとこちらを見つめていた。


教室のざわめきが、少し遠くに感じる。

俺は、そのままねむのもとへ向かった。


「ねむ、今日の放課後、時間ある? ちょっと、話したいことがあるんだ。」


ねむは一瞬きょとんとして、それから少しだけ驚いた表情になる。


「……あるけど、どうしたの?」


周囲の空気が、少しだけざわついた。


「……たぶん、あの最初のトリック、見えてきたかもしれない。もう一度、常磐学校を見に行きたいんだ。」


そう言うと、ねむは目を見開き、そして静かに、力強く頷いた。


 キーンコーンカーンコーン。


 最後のチャイムが、教室に余韻を残して鳴り終えた。授業が終わり、放課後の時間が始まる。


 透がこちらへ歩いてくる。わかりやすく顔に出ていた。今日も、暇だ、と。


「達希、帰ろーぜ」


「悪い。またねむと常磐高校に行く予定なんだ」


「えー、また? 一人で帰るのって、けっこう退屈なんだけどな……」


 ねむがちらと俺を見た。それを合図にするように、俺は軽く声をかける。


「透も、連れてっていいか?」


「……別に。いいよ」


 返事はあったが、ねむの声には、ほんの少し間があった。乗り気という感じではない。


「やった!」


 透は嬉しそうに鞄を肩にかけた。自分の扱いがどうであれ、気にする様子はない。


 そのとき、背後から声が飛んできた。


「透! 今日、掃除当番だよ!」


「……うわ、忘れてた」


 透は苦々しい顔で俺の方をにらむ。


「残念。お勤めご苦労さん。また今度な」


 軽く手を振って、俺たちは教室を後にした。


◇ ◇ ◇


 ねむと並んで歩くことにも、もう慣れてきた。違和感がないのは、おそらくここ三日間、密度の濃い時間を共に過ごしたせいだ。


 常磐高校へ向かう途中、ねむが問いかけてくる。


「そういえば……気付いたことって?」


「第一のトリックは、だいたい解けた。ただ、犯人はまだ見えてこない。鍵は、たぶん第二のトリックにある」


「優衣は、何かに気付いた。だから殺された。その“何か”を突き止めたいんだ」


「犯人は、少しずつ証拠を消していくと思う。急がなければ、手遅れになる」


 俺は少し黙ってから言った。


「昨夜、記憶の中で詩織と会った。彼女は言っていた――『なんで私なの?』って。幻覚かもしれない。でも、俺はあの人と優衣の無念を、どうしても晴らしたい」


 ねむは、まっすぐな瞳でこちらを見た。


「……うん。絶対に、犯人を見つけよう」


◇ ◇ ◇


 常磐高校に到着すると、校門の前は静まり返っていた。警察車両の姿は見当たらない。事件性なし、と判断されたのだろう。


「まずは、裏庭を見てもいい?」


「裏庭……?」


 理科室の真下にある花壇。そこに立つと、土の一部が不自然に盛り上がっていた。掘り返された痕跡だ。


 やっぱりな。


「次は、屋上を見たい」


◇ ◇ ◇


 階段を上り、屋上の扉を開けると――加瀬刑事がいた。こちらに気づくと、やれやれといった表情で近づいてくる。


「お前たち……他校の生徒だよな? なんで毎回ここにいるんだ」


「アハハ……ちょっと、調べたいことがありまして」


「屋上か……」


 ため息交じりに扉を開けると、コンクリートの屋上が目に入った。


 その瞬間、あの夜の記憶がフラッシュバックする。

 フェンスの向こう側から飛び降りた優衣の姿が。


 今は昼だが、屋上にはまだ二人の警察関係者が残っていた。


「もう捜査はほとんど終わりだ。自由に見ていいぞ」


 加瀬は短くそう言うと、手をポケットに突っ込んで向こうを向いた。


◇ ◇ ◇


 屋上は、驚くほどシンプルな構造だった。


 鉄柵で四方を囲まれ、足元は灰色のコンクリートが広がっている。人工的で無機質な静けさが支配していた。


 フェンスは腰の高さほどで、安全対策として設置されているようだが、見上げれば空は広い。開放感は否応なく感じられる。


 屋上に通じる扉は一つだけだった。

 それは、屋上にぽつんと建つ白い設備棟の正面に取りつけられている。壁には配管が這い、横には無骨な非常用はしご。そして、その上には小さな給水塔が設置されている。


 壁面には、いくつかの金属製のフックのような金具が取り付けられているだけだった。


(屋上の扉を開けた真正面――そこが、優衣が飛び降りたフェンスの位置だ。

扉の背後には、設備棟の壁があり、非常用のはしごとパイプ、いくつかの壁付けの金具が取りつけられている。

つまり、はしごや金具は扉の「背面側」、優衣の落下地点はその「正面側」――この屋上に出て最初に目に入る場所、というわけだ)


 俺ははしごや周辺を一通り確認してみる。だが、目立った痕跡はない。


 最後に、優衣が飛び降りたあたりの柵に目をやると――

 ちょうど柵に何かが擦れたような跡が二か所、残っていた。

 太さや位置から見ても、それはまるでワイヤーが引っかかっていたかのようだった。


◇ ◇ ◇


 やがて、ねむと一緒に加瀬の元へ戻った。


「……優衣が飛び降りたあの日、校内にいた人たち。経歴や行動記録なんかも、調べたんですか?」


「もちろんだよ」


 加瀬は肩をすくめ、面倒くさそうな様子で――けれど、どこか観念したような口調で、話し始めた。


「大迫先生は、昔はかなり優秀だったらしい。

理系の賞を狙えるくらい、研究熱心だったって話だ」


 加瀬は一度言葉を切り、ほんの少し声を落とす。


「でも……ある“不祥事”がきっかけで、すべてがなかったことにされたらしい」


「……不祥事?」


「噂程度の話だよ。もう十年以上前のことらしいし、詳細は分かっていない。

どうやら、ある女子生徒との関係が取り沙汰された――という噂がある。だが、信憑性は薄い。相手の特定にも至ってないし、本人もその件には、一切口を閉ざしているそうだ」


 加瀬はまっすぐ俺を見ながら、静かに言った。


「次に河野先生だが、彼は関東の国立大学で物理を専攻していた。

……ただ、途中で進路を変えて、国語の教員免許を取っている。やや変わった経歴だが、まあ珍しいってほどでもない」


 俺は視線を落とし、言葉の断片を頭の中で並べていく。


早乙女 杏樹(さおとめ あんじゅ)さんと風間健人(かざま けんと)くんについても、特に怪しい点は見当たらない」


――あの二人の苗字、ここで初めて知ったな。


「早乙女さんは、被害者ふたりと同じバドミントン部。高嶺さんとはレギュラー争いもあったが、表向きの関係は良好だったらしい。

風間くんは……まあ、よくある話だ。高嶺さんの元恋人で、今は破局。ただ、彼のほうは未練があったみたいで、何度かアプローチを続けていたようだ。交友関係も多少荒れてるらしいが、今回の件との直接的な関係は見つかっていない」


 加瀬はそこで言葉を止めた。


 少し考えてから、俺は静かに口を開いた。


「つまり、今のところ……誰にも明確な動機がない。そういうことですね」


 加瀬は、やや強い口調で返してきた。


「……何度言わせる気だ。これは“ただの自殺”だよ。動機も証拠も、あるわけがない」


 その抑えた声音に、言い返す気力ごと奪われる。


「……ありがとうございます。いろいろ教えてくださって」


 俺は頭を下げた。

 加瀬はふん、と鼻を鳴らすと、背を向けて警察官たちのほうへと戻っていった。


◇ ◇ ◇


 屋上を後にする。


「達希、何か分かった?」


「いや……はっきりしたことはない。ただ、現場をくまなく見て、ひとつだけ。

フェンスに、ワイヤーのようなものが擦れた痕が二か所残っていた。あれは……不自然だ」


 俺は腕を組んだまま、考えを巡らせる。


「そういえば――一か所だけ、まだちゃんと確認してない場所がある」


「どこ?」


「一階の、封鎖されてたトイレ。あの日は焦っていて、ちゃんと見られてなかったから」


「そうだね。あのときは……余裕なかったし。行ってみようか」


 俺たちは階段を下りながら、あの日の記憶を思い返していた。


 ちょうどそのとき、階下からふたりの教師の会話が聞こえてきた。


「だからさ、もっと早く南京錠をスマートロックに替えとけばよかったのに」


「スマートロック?」


「銀色の本体に、上にU字の金属の輪がついてるやつ。見た目は普通の南京錠とほぼ同じだけど、アプリ連動で開けられるやつね」


「ああ、あれか。前に買って保管してたんだよね? でも、みんな面倒くさがって誰も動かなくて、結局そのまま倉庫で放置されてたっていう」


「うちの先生たち、新しいものには腰が重いからさ。

古い南京錠なんて、生徒に番号知られてたらしいよ」


「……そりゃ、入ろうと思えば入れるわけだ……」


「でも今回の件で、さすがに動くって。やっとスマートロックに替えるらしいよ」


「……まあ、今さらだけどね」


 そのまま立ち去ろうとしたところで、もう一人の先生がぽつりとつぶやいた。


「あ、そういえば……南京錠の話、続きがあったのよ。保管してたスマートロックと、なぜか教室のカーテンが一枚だけ、消えてたんだって」


「えっ? なんでまた……そんなの使う人いないでしょ」


「ね。不気味だよね。なんか、嫌な予感がするっていうか……」


 俺は足を止め、耳を澄ませていた。


 ……スマートロックの南京錠、そしてカーテン。


 どこかのピースが、音もなく、静かに噛み合ったような感覚。


「達希?」


 ねむの声に、現実へ引き戻された。


「ああ……いや、なんでもない。行こう」


 静かに答えて、歩き出す。


 ――真実は、すぐそこにある気がした。


 トイレに到着した俺たちは、周囲をゆっくりと見回した。

 女子トイレの入り口には、まだ「修理中」と書かれた張り紙が貼られたままだ。


 まずは男子トイレを確認してみたが、特に異常は見つからない。

 念のため、女子トイレも見ておくことにした。


 ――とはいえ、男の俺がひとりで入るのは、やっぱり気が引ける。

「先に見てもらっていい?」とねむに頼むと、彼女は軽くうなずき、足音を忍ばせて中に入っていった。

 数秒後、俺も続く。


「……特に変わったところは、ないみたいだね」


「……うん。たぶん」


 ねむがそっと答えた。その声に、少しだけ不安がにじんでいた。


 何気なく床に視線を落としたとき、俺は違和感に気づいた。

 タイルの一角に、赤い土のようなものがうっすらと残っている。


「……これって……」


 しゃがみ込んで、指先でそっと触れてみる。

 赤くて、細かくて、どこかざらついた手触り。

 花壇の土だ――そう直感的に思った。


 本来、こんな場所にあるはずがない。

 小さな疑問が、心の隅にそっと引っかかった。


 その他には、特に変わった点は見つからなかった。

 俺たちはトイレを出て、誰もいない廊下に戻った。


 外はもう日が沈みかけていて、校舎の中は静寂に包まれていた。

 遠くで風がガラスを鳴らす音だけが、かすかに聞こえる。


「どう? 何か気になること、あった?」


 ねむが横で問いかけてくる。

 その瞳は、まっすぐ俺を見ていた。


「いくつか引っかかる点はあったけど……まだ繋がりが見えない。

でも、これ以上調べられる場所もなさそうだし……今日はここまでにしようか」


「うん」


 会話はそれだけだった。

 俺たちは無言で、校舎をあとにした。


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