④
声のした方向を見ると、明るい髪の男子生徒が、大迫先生の胸ぐらをつかんでいた。
制服の着崩し方と、睨みつけるような目つきは、教師に向ける態度とは思えなかった。
「見たんだよ、俺……お前と詩織が、二人きりで話してるところを!」
「そのあと、詩織……泣いてたんだよ! なぁ……お前、詩織に、何かしたんだろ!」
荒い息のまま、彼は怒鳴り続けた。
「健人、やめて! 先生に八つ当たりしないで!」
優衣と杏樹が、慌てて彼を引き止めようと声を上げた。
少し遅れて、警察官たちも騒ぎに気づき、間に割って入ってくる。
そのあいだも、大迫先生は一言も発せず、ただ睨み返していた。
その無言の視線からは、怒りも否定も読み取れない。……ただ冷たい。
その冷たさに、むしろ背筋が粟立った。
「健人、かわいそうに……詩織のこと、ずっと好きだったのにね」
「二年生になる前にフラれたけど、また付き合えるって、思ってたみたい」
周囲の生徒たちの小声が、断片的に聞こえてくる。
――あの男子生徒、健人は、詩織の元恋人だったらしい。
騒ぎがようやく落ち着きはじめた頃、俺は大迫先生の方へ歩み寄った。
「……大迫先生。少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」
質問の意図は伝わったはずだった。
けれど、大迫先生はちらりとこちらを一瞥しただけで、何も言わずに背を向けた。
そのまま、足音も立てず、静かに去っていく。
「……なんなの、あの態度。感じ悪すぎ……」
隣で、ねむが声を落とした。
否定できなかった。先生のあの無反応は、明らかに――普通ではなかった。
◇ ◇ ◇
やがて現場の確認が済んだのか、警察にうながされて、俺たちは校舎の外に出た。
校門のそばに、健人、優衣、杏樹の三人が立っていた。
目が合うと、優衣がなにかを囁き、健人がこちらに向かって歩いてくる。
「……お前ら、詩織の友達なんだろ? 少し、話を聞かせてくれ」
言い方はぶっきらぼうだった。
けれどその声の奥には、怒りよりも揺れがあった。
戸惑い。焦り。そして――悔しさ。
きっと、まだ心の整理がついていないのだろう。
ねむが、詩織との出会いから、今までのことを簡単に説明した。
健人は、それを黙って聞いていた。
「……そっか。結局最後は会えなかったのか。詩織が、何を伝えたかったのか……もう、分からないな」
喪失と、自分に頼ってくれなかったことへの無力感が、彼の背を少しだけ丸くさせていた。
ねむが、そっと問いかける。
「三人とも、詩織さんとは……前から仲が良かったの?」
「俺と杏樹と詩織は、中学からずっと一緒だった。
優衣は高校に入ってから。バド部が同じで、クラスも同じだったし……自然と、ね」
詩織と三人の関係は、思っていた以上に深く、長いものだったらしい。
――なら、あのとき詩織が口にしていた “家庭の事情” という言葉にも、やっぱり重みがある。
言いづらいのは、わかってる。けれど、それでも。
「……さっき、“家庭のこと”って言ってたよね。
無理にとは言わないけど、もしよかったら……どんなことだったのか、聞かせてもらえないかな?」
沈黙が、まるで薄い霧のように辺りを包んでいた。
その中で、杏樹がそっと口を開いた。
「……中三の頃、詩織のお母さんが亡くなったの。
本当に、大好きだったみたいで……あのときの落ち込み方は、見ていて辛いくらいだった」
言葉を選びながら、杏樹は静かに続けた。
「お父さんは、良い人とは言えなかった。酒とギャンブル……典型的なダメなタイプ。
でも、それでも家庭が成り立ってたのは、お母さんがいたから。
彼女がいなくなってからは、そのバランスが、完全に崩れちゃったんだと思う。
働かなくなって、お金も底をついて……詩織は部活をやめて、バイトを探してた。
学校すら、やめるかどうか迷ってたみたい……」
聞きながら、胸の奥がじんと痛んだ。
同じ制服を着て、同じ授業を受けていても、その背後には知らない事情がいくらでもある。
「さっき話していた、“良くない噂”って……?」
俺がそっと尋ねると、杏樹は視線を落としたまま、唇を動かした。
「……ある日から、大人の男と一緒にいたって話を聞いたの。スーツ姿の人と。
詩織が知らない車から降りてくるところを見たって子もいて……それで、“パパ活なんじゃないか”って」
「ふざけんなよ……詩織が、そんなこと……!」
健人が低く、怒りを押し殺したような声で言った。
その拳が、わずかに震えていた。
杏樹は少し黙ってから、唇をかすかに震わせて言う。
「……でも、もしその男が今回のことに関係してたとしたら」
その言葉が、空気を一瞬きしませた。
杏樹は自分の発言に気づいたように、そっと目を逸らした。
俺は、意図的に話題を切り替えるように問いかけた。
「昨日の夜って、みんな何してた?」
優衣が、少しだけ躊躇ってから答える。
「部活が終わってから、私と杏樹は一緒に帰ったよ。その後は、ずっと家にいた」
「……私も同じ」
杏樹もうなずく。
健人も、少し口調を和らげて言った。
「俺は友達と遅くまで一緒にいて……そのあと、家に帰って寝た」
三人の表情に、作り物の影はなかった。
「……ありがとう。話しづらいこともあっただろうに」
これ以上、踏み込むべきではない。
そう判断して、俺たちはその場を離れた。
◇ ◇ ◇
街の空気は、少し湿っていた。
セミの声も、どこか遠くに感じられる。
「何か、見えてきた?」
ねむが問いかける。
「少しだけど……。さっきの事情聴取の内容と照らし合わせたい。
一度どこかで落ち着こうか。腹も減ってきたし」
「……そうだね。少し、休みたい」
歩道の先、小さな喫茶店が視界に入った。
木の枠で囲まれたガラス戸に、小さな鉢植えがいくつも並べられている。
どこか懐かしい、控えめな佇まいの店だった。
「……ここにしようか?」
「うん。雰囲気、よさそうだね」
そっと扉を開けると、涼しい空気が迎えてくれた。
白壁に、木目のテーブル。
午後の日差しがゆるやかに差し込んでいて、店内には静かな音楽が流れている。
空調も程よく効いていて、暑さも、さっきまでの緊張も、すっと引いていった。
「こちらへ、どうぞ」
店員に案内されて、二人掛けのテーブル席に腰を下ろす。
冷たい水が運ばれ、ふたりの前に置かれた。
俺は、グラスを手に取って一口飲むと、深く息を吐いた。
――さあ、状況を整理していこう。
メニューに視線を落とす。
正直、そこまで空腹というわけでもないが、何か口に入れておいた方が、思考の巡りがよくなる気がした。
「ねむは、何にする?」
「うーん……あんまり、食欲わかないかも」
「……俺も同じ。お腹は空いてるんだけど、なんか、食べる気になれなくてさ。
ひとつ頼んで、半分こしようか」
「……それなら、少しは食べられるかも。ありがと」
ねむは、かすかに笑ってくれた。
無難に、サンドウィッチが数種盛られたランチセットとアイスカフェラテを2つ選ぶ。
注文が届くまでには、少し間があった。
俺は頭をかきながら、静かに話し出す。
「まず、事件の整理をしておこう。
場所は理科室。現場は、完全な密室状態だった。
前後のドアも、すべての窓も、きちんと閉じられていた」
「高野さんと大迫先生が、鍵が閉まってたって証言してたよね?」
「そう。
で、その二人が扉を開けて、遺体を発見。悲鳴を聞いて、最初に駆けつけたのが河野先生。
その後、俺たちや他の生徒たちが集まってきた……という流れだな」
コップの水をひと口含み、咳払いしてから続きを継ぐ。
「遺体のそばの机には、薬品の瓶、注射器、ペットボトル。
床には水がこぼれていて、パイプ椅子が転がっていた。
首吊りのロープは、天井の換気パイプにかけられていた。」
「……聞いてると、やっぱり自殺だったのかなって……思えてきちゃう」
ねむの声は沈んでいた。
俺は、ほんのわずかに息を吸い、言葉を慎重に選ぶ。
「いや、そうとも言いきれない。
不自然な点はいくつかある。たとえば――なぜ、理科室なんだ?
わざわざ放課後まで隠れてまで、あそこで自殺する必要があっただろうか?」
「……うん、そうだよね。
誰かが“そこ”にしたように思える、そんな違和感がある」
ふたりの間に、短い沈黙が流れる。
そのとき、タイミングよく注文が届いた。
サンドウィッチと、アイスカフェラテ。
「あ……来たね」
俺は少し肩の力を抜くように言った。
「……とりあえず、食べようか。考えるには、腹ごしらえが大事だからな」
「ふふっ、なんだか、探偵っぽい」
ねむは、さっきよりもわずかに柔らかい笑みを見せてくれた。
その表情に、さっきまでの張りつめた空気が、ふっとゆるんだような気がした。
「うん。美味しそう、食べよ」
そう言って手を伸ばす彼女の仕草に、どこか安心する。
俺はサンドウィッチを手に取り、口に運ぶ。
ねむも、少し遅れて、それに続いた。
「……ほかにも、妙に感じる点がある。
説明はつく。でも――それが“作られたもの”だとしたら?」
「たとえば?」
「……たとえば、換気パイプだ。
ロープがかけられていた位置に、詩織の身長じゃ届かない」
「詩織、小柄だったもんね。私と同じくらい」
「うん。パイプの高さが250センチ前後だとして、机に登っても、それだけじゃ足りない。
さらに椅子か、踏み台のようなものが必要になる」
「わざわざ、そんな面倒なこと、自分からやるかな……?」
「そう。それが、引っかかる。
もっと他に場所はあったはずなのに、なんで“そこ”だったのか」
俺は、サンドウィッチの最後の一切れを口に放り込む。
ねむも、同じように食べ終えた。
どうやら、少しは食欲が戻ってきたらしい。
きっと、ねむも、少しだけ落ち着きを取り戻せたのだろう。
「……最後に、“水”と“熱気”だ」
「水と……熱気?」
「第一発見者の2人が、理科室のドアを開けた瞬間、“もわっ”とした熱気を感じたって言ってた。
それに加えて、部屋に残ってた大量の水」
「ペットボトルの水がこぼれたんじゃないの?」
「そう思うのが自然だけど……床に広がった大量の水たまりは、明らかにそれだけじゃ説明がつかない」
俺はふと、視線を天井に向けた。
まるで、そこに答えがあるかのように――
「……“熱気”と“水”。
そこに、何かある気がする。
あとは――俺の記憶に、聞いてみるしかないか……」
俺たちは、食事を終えた。
カフェラテをひと口。ふわりと甘く、ほろ苦い香りが口の中に広がる。
「うん、元気チャージできたかも。……じゃあ、続きを話そ?」
ねむが明るい声でそう言った。
まるで、さっきまでの沈黙が嘘だったかのようなスイッチの入り方に、思わず少し笑いそうになる。
「……そうだね。でも、続きを話すには、もっと細かい情報が必要だね」
俺はそう言いながら、そっと視線を伏せた。
「ちょっと待っててもらってもいい?」
「うん、いいよ?」
ねむは小さく首を傾け、不思議そうに相槌を返す。
俺はひとつ、深く息を吸った。
そして、目を閉じる。
呼吸を整え、意識を静かに沈めていく。
波紋が消える湖面のように、思考を平らにして――
記憶の奥へと、沈んでいった。
――あの時の、あの現場へ。
◇ ◇ ◇
ねむが前を走っていた。俺はその背中を追うように、無我夢中で足を動かしていた。
廊下の先、教室の前には人だかりができていた。
腰を抜かして尻もちをついているのは、第一発見者の高野。
眉間に皺を寄せるのが癖の大迫先生も、今はただ呆然と立ち尽くしている。
河野先生の目も虚ろで、焦点は合っていなかった。
俺たちは、教室の前にたどり着き、中を覗き込む。
――そこにあったのは、詩織だった。
教室の中央。
首を吊られたまま、静かに揺れていた。
足元には、パイプ椅子。ただし、それは倒れていなかった。
ただ、ぽつんと、置かれているだけ。
その下には、ペットボトル一本分ほどの水たまり。
そして――その中心に、赤いリボン。学生服のものだ。
彼女は半袖の制服を着ていた。
首筋には、ぱっと見た限りでは不自然な点はない。……いや、正確には、怖くて、ちゃんと見られなかっただけかもしれない。
ふと、目が手首に留まる。
――何か、うっすらとした痕が残っていた。
それだけじゃない。
教室のパイプの一部にも、妙な跡がついていた。
その瞬間、鋭い痛みが頭を貫いた。
思わず体が跳ね、視界が揺れる。
額からは汗がにじみ、喉の奥が焼けつくように渇いていた。
◇ ◇ ◇
「……だいじょぶ? ……じょうぶ?」
それは、聞き慣れたはずの声だった。
静かで、どこかやわらかくて。
顔を上げると、ねむが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
俺は黙って水を手に取り、一気に飲み干す。
喉の奥がようやく、少しだけ人間に戻った気がした。
「……大丈夫。もう少しで、掴めそうだったけど……脳の限界が来てしまった」
「達希、顔色が……すごく悪いよ。ホントに、無理しないで」
「ありがとう。今日は、ここまでにしておくよ」
そう言って、冷たいおしぼりで額を拭った。
記憶の中で見た映像が、頭の奥にこびりついたまま、離れなかった。
「手首に、うっすらと痕があった。ロープじゃない、別の何かで……でも、あれは確かに、腕を固定していた痕跡だ」
「じゃあ、やっぱり……」
「……あぁ。詩織は、殺された可能性がある。
腕も、あのパイプも。誰かの手が加わっていた……明日になれば、現場の規制も少し緩んでるはずだ。もう一度、行ってみよう」
「うん……そうだね。今日はもう、出来ることもなさそうだし」
気づけば、窓の外は夕焼けに染まっていた。
朱に染まる街の色は、どこまでも穏やかで、少し切ない。
「……遅くなると、家の人が心配する。帰ろうか」
「うん。こんな事件のあとだしね、ウチの親、心配性だから」
「家の近くまで送るよ」
「ありがとう」
俺たちは席を立った。
扉の外に広がる街の夕暮れは、まるで、さっきまで記憶の中で見た“死”の気配なんてなかったかのように、静かだった。
「ほんと、大変な一日だったね。……まだ、気持ちも落ち着いてないと思うから、今日はゆっくり休んで。
明日は少し遅めに――十五時の集合にしよう。あまり早すぎると、規制線で現場に入れないかもしれないから」
「……うん、わかった。十五時に、いつもの交差点で。
ほんとに、ありがとう。達希が来てくれなかったら……私、きっとあんなに冷静ではいられなかったと思う」
「気にしないで。それじゃ――また、明日」
ねむの家の近くで別れたあと、俺は一人、足早に帰路についた。
事件のあとの夜道は、いつもより少しだけ、闇が濃く見えた。
(容疑者になりそうな人物は、まだ誰も見つかっていない。やっぱり外部犯……噂の“死薬師”による犯行なのか。
詩織が会っていたっていう、グレーのジャケットの男。だとしたら――どうやって、密室の中に入り込んだ?
わからないことばかりだ)
そんなことをぼんやり考えているうちに、家に着いた。
「ただいま」
「おかえり。汗、かいてるでしょう? 先にお風呂入りな」
玄関に顔を出した母の声が、妙に優しく聞こえた。
まるで、昨日のことなんて何も知らない人の声みたいに。
日常という名の風景が、今日は少しだけ、尊く思える。
◇ ◇ ◇
風呂を済ませ、夕食を終えると、部屋に戻った。
ベッドに身を沈め、スマホを手に取る。
“死薬師”――
そう検索窓に打ち込むと、すぐにいくつかの記事が表示された。
《薬物による自殺か。類似の薬物が使われた痕跡――噂の死薬師の犯行か》
《数件の事件で同一成分の薬物。犯人は死薬師?》
似たようなニュースが、スクロールするたびに並んでいく。
根拠は曖昧で、内容も断片的だ。
けれど、確かに名前だけは、いくつもの記事に登場していた。
(死薬師……今回の事件と、繋がっているのか?)
スマホの画面を見つめ続けた目が、じんわりと重たくなる。
そのまま、いつの間にか、眠りに落ちていた。
◇ ◇ ◇
ふと目が覚めて、しばらく天井を見つめていた。
時計に視線を移すと、十一時を少し回っていた。
思ったより寝てしまったな――そんなことを考えながら、のそのそと体を起こす。
(十五時に、交差点……そろそろ支度しないと)
食卓に向かうと、味噌汁の香りがふわりと鼻をくすぐった。
母はテレビに視線を向けたまま、お茶をすすっている。
「おはよう。よく寝てたわね。お昼ごはん、今から用意するね」
「……うん。ありがとう」
テレビの音声が、何気ない朝にそっと割り込んでくる。
《昨日午前、常磐高等学校で女子生徒が校舎内で首を吊った状態で発見され、その場で死亡が確認されました。現場からは薬物を使用した痕跡も見つかっており、警察は自殺の可能性も含めて調べを進めています》
「……あら、常磐高校ってすぐ近くじゃない。怖いわねえ」
母のその言葉が、まるで他人事みたいに耳に届いた。
昨日の出来事は、やっぱり――現実だった。




