②
帰り道、日が傾きはじめた空の下を並んで歩いていた。
思ったよりも風が涼しくて、昼間の蒸し暑さが嘘のようだった。
隣を歩くねむは、しばらく黙っていたけれど、ふいに小さく口を開いた。
「今日はありがとう。……ほんと、すごく助かったよ。
ひとりで他校に行くなんて、正直けっこう怖かったんだ……」
「いや……俺は、ただついて行っただけだし」
軽く首をすくめて、視線を少し逸らす。
感謝されるほどのことでもない。
けれど、そう言われて悪い気はしなかった。
透以外の誰かと並んで帰るなんて、ほんの少し前までなら想像もしてなかった。
それが、女の子だなんて……なおさらだ。
ねむの家が、うちから徒歩十五分ほどの距離にあることも、今日初めて知った。
同じ学校に通っていても、関わらなければ見えてこないことは、案外たくさんある。
「そういえばさ。朝……なんで鍵の場所、分かったの?」
ねむが、不意に尋ねてきた。
少し迷ってから、俺は静かに切り出す。
「……ちょっと、変な話になるけど。……俺、“目に入ったもの”って、けっこう正確に覚えてるんだ」
ねむが小さく首をかしげるのを見て、俺は続けた。
「一度見た景色を、映像みたいに思い出せる。色とか位置とか、細かいところまで。
“覚えてる”というより、“残ってる”って感じに近いかな……頭の奥に」
言いながら、自分でもその言葉に少しだけ引っかかっていた。
能力というには、不格好すぎる。
「でも、役に立ったことなんて、ほとんどない。
むしろ、気持ち悪がられたり、嫌なことばかり覚えてたりしてさ……
人の発言の矛盾とか、つい気づいちゃうんだよね。
悪気はなくても、空気を悪くしちゃうことがある。
それに、見たくないものまで、勝手に記憶に残っちゃうこともあるんだ」
そう言いながら、ねむの反応をうかがった。
引かれたらどうしよう。黙られたらどうしよう。
そんな不安が、頭の奥に浮かんでいた。
けれど――
「……それって、すごくない?」
ねむの声は、驚くほど明るかった。
「勉強とかも覚え放題ってことじゃん! めっちゃ羨ましいよ!」
それだけじゃなく、少しだけ真剣な目をして続ける。
「……でも、それって……つらくない?
忘れたいことまで、残っちゃうのって」
その言葉に、思わず息を詰めた。
そんなふうに言われたのは、初めてだった気がする。
「……いや、まあ、慣れたよ。
でも、万能ってわけじゃないんだ。ひとつの記憶を再生すると、他の記憶にはすぐに切り替えられないし……
長時間、同じ記憶を見ていられるわけでもない。
あと、使ったあとはしばらく“クールタイム”が必要になる」
「へえ、クールタイムってゲームみたい」
「ほんとそれ。テストとかでも、社会の暗記問題にちょっとだけ使えるくらい。
便利っちゃ便利だけど……そんなもんだよ」
「それでも十分すごいよ。
いつか絶対に、役に立つときが来るって。……私も特殊能力欲しいなー」
そう言ったあと、ねむは少し照れくさそうに笑った。
そして、ほんの少しだけ声を落として、付け加える。
「何かあったら……私のことも、助けてね?」
その言葉が、なぜか心の奥に静かに染み込んでいくような気がした。
誰かに肯定されるって、こんなにも、あたたかいものだったんだな。
そんなあたりまえのことを、いまさら知った気がした。
◇ ◇ ◇
気づけば、交差点の手前に立っていた。
ここで、ねむとは別れる。
「ねえ、LINE……交換してもいい?」
少し迷うように言ったあと、ねむは微笑んだ。
「達希とは、いい友達になれそうな気がする」
その言い方が、なんだか少し照れくさくて、俺はうなずきながらスマホを取り出した。
「……うん。いいよ」
ほんの数秒のやりとりだった。
でも、画面に並んだ名前とアイコンを見て、胸の奥がほんの少しだけ、温かくなった気がした。
「じゃあ、また。LINEするね!」
「うん。気をつけて帰って」
手を振って歩いていくねむの背中が、角を曲がって見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。
LINEを交換しただけ。たったそれだけのことなのに、いつもより夜道が明るく感じた。
そして、ひとりで夜の道を歩く。
家にたどり着き、玄関のドアを開けた瞬間――
ふわっと、鼻に懐かしい香りが漂う。
「今日は……カレーか」
「ただいま」
心が少しだけ、あたたかくなった。
ねむと、ほんの少し仲良くなれた気がして。
けれどその裏で、
あの校舎の窓から感じた“視線の記憶”だけが、なぜか頭から離れなかった。
夕飯を終え、風呂から上がり、自室に戻る。
濡れた髪をタオルで拭きながら、小さくため息をついた。
「……ふぅ、さっぱりした」
明日は土曜日。学校は休み。
少しくらい夜更かししてもいいだろう、という甘えが頭をかすめる。
リモコンに手を伸ばしかけた、そのとき。
テーブルの上のスマホが震えた。透からだった。
《で、あの後どうなったんだよ?》
《いや、別に。ついて行っただけだし》
《本当に?》
《本当。月曜にまた話すよ》
──それ以上、語るようなことでもない。……はずだった。
けれど、透の言うとおり、普段の俺なら絶対に関わらなかったはずの出来事だ。
ゲームを起動する。こういう時間が、いちばん心が休まる。
外では、ぽつりぽつりと雨の音がし始めていた。
静かで、不規則なそのリズムに耳を傾けていると、再びスマホが震えた。
やけに今日は通知が多い。
画面に浮かんだ名前で、指が一瞬止まる。
──柚木ねむ。
《今日はありがとう。ところで、明日って何か予定ある?》
一瞬、息をのむ。
予定なんてない。でも──この文面は、どういう意味だ?
……いや、考えすぎか。
自分にそう言い聞かせて、なるべく自然に返信を打つ。
《特にはないけど……何かあった?》
すぐに返事が来た。
《あの後、少しだけ詩織と話したの。なんか怯えてる感じで、小声で喋ってて……
それで、明日の朝10時に学校で会いたいって。直接話したいことがあるって言ってた。
できれば……達希にも、一緒に来てほしいな》
──文末の一言が、妙に心に残った。
頼られているような響きが、そこにあった。
断る理由はない。
いや、むしろ、自分にできることなんてあるのかすら分からない。……それでも。
《わかった。じゃあ、今日別れた交差点で待ち合わせにしよう》
送信を終えると、小さく息をついた。
明日は早起き。ちょっと残念だけど、それほど悪い気もしなかった。
◇ ◇ ◇
午前八時半。
アラームの音に目を覚ます。
重たいまぶたをこじ開けて、のそのそと布団から出る。
階下から、母の声が聞こえる。
「珍しく早起きじゃない。どこか行くの?」
「ちょっとね」
理由を言うのは、なぜか気恥ずかしかった。
「朝ごはん、用意してるから食べていきな」
「ありがとう」
トーストと目玉焼き。
変わり映えのしない朝の景色が、今はどこかやけに穏やかに感じられた。
しっかり食べて、歯を磨いて、服を着替える。
Tシャツにジーンズ。普段どおり、飾り気のない自分らしい格好。
玄関を開けると、昨日の雨が嘘みたいに晴れていた。
空気は少し重たい。夏の湿気が肌にまとわりつく。
集合場所までは、少し距離がある。
それでも、足取りは思ったより軽かった。……理由は、言わなくても分かっている。
◇ ◇ ◇
──早く着きすぎたかもしれない、と思った頃。
向こうに、白いワンピースの姿が見えた。
ねむだった。
今日は髪を下ろしていて、軽く巻いた毛先が風に揺れている。
昨日よりも少しだけ、大人びて見えた。
「おはよう。……ごめん、待たせちゃった?」
「ううん。こっちが勝手に早く来ただけだから」
そんな他愛のない会話が、今は少しだけ特別に感じられた。
「じゃあ、行こっか」
ふたり並んで、昨日と同じ道を歩き出す。
「そういえば、昨日の詩織さん……どんな感じだった?」
問いかけると、ねむは少し考えるように言葉を選んでから、答えた。
「んー……声、ちょっと小さかったかな。周りも、なんだか静かだったし。
急いでたみたいで、『明日話す』って、それだけ。
怖がってた、ってほどじゃないけど……なんか、話しを続けにくい雰囲気だった。
誰かと一緒にいたのかもしれない」
「……そっか」
「朝、LINE送ってみたけど……まだ既読つかなくて」
ねむの声が、ほんの少しだけ沈んだように聞こえた。
胸の奥がざわりと波立つ。
思っていたより、軽い話じゃないのかもしれない。
けれど、ねむの表情は崩れなかった。むしろ静かだった。
「……まあ、気づいてないだけかも。でも、なんか、ね」
「うん。行こう」
俺の返事に、ねむは小さくうなずいて、足を速める。
その背中を追いながら、胸の奥で、言葉にならない予感が静かにふくらんでいくのを感じていた。
週末の通学路は、いつもより空が広く見えた。
静かな校舎が、遠くにぽつんと浮かんでいた。
まるで時間が止まったような、人気のない静けさ。
けれどその沈黙には、何かがひっそりと待ち構えているような気配があった。
校門の前で、ねむはスマホを取り出し、画面をしばらく見つめていた。
「……やっぱり、既読つかない」
声は静かだった。けれど、その奥に、わずかな沈みがにじんでいた。
続けて電話をかける。
数秒の呼び出し音。けれど、通話は自動で切れた。
「寝てるのかな……ごめんね、付き合わせちゃって」
「いや、ねむさんが謝ることじゃないよ」
そう返すと、ねむは小さく眉をひそめて、ふっと笑った。
「……その“ねむさん”って、やめて。なんか、くすぐったい。……ねむ、でいいよ」
「ねむ、ね……。じゃあ、そう呼ばせてもらうよ」
自分の声が、少しだけ上ずっていたことに気づいた。
それを察したのか、ねむは肩を揺らして笑っていた。
校門の前でただ待っていても、何も始まらない。
俺たちは、校舎のまわりを歩いてみることにした。
校舎は、見た目よりも古かった。
壁や廊下はくすんでいて、窓ガラスの隙間から入り込む風も、どこか冷たい。
遠く、グラウンドの方から野球部らしき掛け声が聞こえていた。
けれど、それすらも、この静寂の中では小さく、遠い。
そのとき――
「きゃあああああっ!!」
甲高い悲鳴が、空気を裂いた。
「校舎の中……!」
ねむが先に反応していた。
言葉より早く、足が動いていた。
俺も、遅れて走り出す。
正門を抜け、廊下を駆け、一階、そして二階へ。
誰もいない校舎に、靴音だけが響き渡った。
廊下の先、教室の前で、生徒がひとり、腰を抜かして座り込んでいた。
「他の先生も呼んでこい!」という叫び声。
もうひとりの生徒が、階段を駆け下りていく。
俺たちもその場に追いつく。
集まっていた先生、生徒たちの隙間から、中を覗いた。
そこで、時間が止まった。
――理科室だった。
古びたスチール扉の奥。天井から、少女が吊られていた。
詩織だった。
揺れていない。逆に、それが不自然なほど静かだった。
風は吹いていないはずなのに、彼女の制服の裾だけが、どこかゆっくりと揺れているように見えた。
足元には、倒れたパイプ椅子。
その近くには、転がった500mlのペットボトル。中身はすべて床にこぼれ、水たまりのように広がっていた。
淡く光が反射して、そこだけ別の時間が流れているかのようだった。
机の上には、使われた注射器がひとつ。空のまま、横たわっている。
誰も、言葉を発しなかった。
教師も、生徒も。俺も、ねむも。
ただ、その場に立ち尽くしていた。
吸い込まれるように、目を逸らせずに。
「……ねむ」
隣にいる気配が薄れていくような気がして、俺はその名を呼んだ。けれど、その声はかすれていて、届いたかどうかもわからなかった。
耳鳴りのような静寂の中。
自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
誰も動けなかった。
教室の空気が、遠くのほうで固まってしまったみたいだった。
その沈黙を、教師のひとりが破る。
「警察……警察! 誰か、連絡を!」
声の主は、黒髪をきちんと整えた若い教師だった。整った顔立ちなのに、今はどこか頼りなさげに見えた。
彼は一歩踏み出し、ゆっくりと部屋の中へ入っていく。
そのときだった。
──パシャッ。
湿った音が、教室の床に響いた。
床に何かがこぼれていたのだろう。彼の足が、それを踏んだ。
目を凝らすと、遺体の近くにいくつかの異物が転がっていた。
片方だけのローファーが、床に転がっていた。
そのすぐそばには、パイプ椅子。足場として使われたのだろう。
そして──制服の胸元についていたはずの赤いリボンも、無造作に落ちていた。
教室の天井。中央付近に、銀色の太いパイプが一本、横向きに走っていた。
古い理科室によくある、薬品の煙やガスを外へ逃がすための換気設備だ。
そのパイプにロープが掛けられ、一本の縄が真っ直ぐに垂れ下がっていた。
先端の輪が、詩織の首を締めていた。
そのすぐ脇には、500ミリリットルのペットボトルが横倒しに落ちていた。
大量の水が、床一面に広がっていた。
ペットボトルからこぼれたのだろうか──それにしては、多すぎる気がした。
水は、遺体の下から滲むように広がっていた。
まるで、彼女が流せなかった涙の代わりのように。
もうひとりの年配の教師が、ポケットからスマートフォンを取り出し、慌ただしく番号を押していた。
「詩織!」
女子生徒が二人、泣きそうな顔で教室に駆け込もうとする。
だが、教師の腕に遮られて、それ以上は進めなかった。
ねむは、その光景をただ見ていた。
目を見開いたまま、夢の中にでもいるように。
俺も、声が出なかった。
思考は止まっていたのに、なぜか視覚と記憶だけは妙に冴えていた。
──脳が、勝手に焼きつけていた。
誰がどこに立っていて、何を言ったか。声のトーンまでも。
しばらくして、警察がやって来た。
制服の男たちが規制線を張り、俺たちは校舎の外へと出されることになった。
俺はねむの隣に立った。何も言わずに。
しばらくして、ねむがぽつりと呟いた。
「なんで……こんなことに……」
かすれた声だった。
震えていて、それだけで──泣いていると、わかった。
少し離れたところに、さっきの女子生徒たちがいた。
肩までの茶髪の子が、しゃがみこんで泣いていた。顔立ちは少し童顔で、まだ中学生のような幼さが残っている。
もう一人──長身で黒髪のロングヘアの子が、そっと背を撫でていた。切れ長の目元が印象的で、どこか大人びた雰囲気だった。
そのとき、警察官たちの会話が耳に入ってきた。
「……またか」
「あぁ、たぶん今回も同じ系統の薬物だろうな。検出しづらいうえに、仮に出ても新しく合成された成分だから、分析も捜査も難航してるらしい。……今年に入って、これで何件目だ?」
「死亡例だけじゃなく、使っただけのケースまで入れると、かなりの数になるらしい。“死薬師”って呼ばれてる売人が出どころだとか」
「噂が一人歩きして、都市伝説みたいになってるらしいな」
耳が、勝手にその言葉を拾っていた。
「まあ、今回もたぶん不可解な点はなし……自殺で処理されるだろうな」
その瞬間、隣でねむが動いた。
「詩織は……そんな子じゃありません!」
震える声だった。けれど、その一言に、抑えきれない感情が詰まっていた。
「前の日、私、電話で話しました。詩織、怯えてたんです……絶対に、事件です!」
警察官は困ったように頭を掻き、目を逸らしてどこかへ行ってしまった。
しばらくして、年配の刑事がやって来た。
事情を聞いて回っているようだった。
「少し、お話を伺ってもいいですか?」
──どうやら、次は俺たちの番らしい。




