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日下に灯る推理  作者: 三毛猫
死薬師と放課後に消えた少女達
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2/7

 また、“見つかった”らしい。

 今度は、公園のトイレ。

 制服のまま、うつ伏せで倒れていたって。


 ニュースの見出しには「原因不明の心停止」と書かれていたけれど、

 SNSでは、またあの名前が囁かれている。


 ──「死薬師(しやくし)」。


 薬で殺すのに、指一本触れず、証拠も残さない。

 都市伝説みたいな話だけど、それと重なるように女子高生が次々と死んでいるのは、ただの偶然だろうか。


 俺はスマホの画面を閉じて、ため息をひとつついた。

 最近は、やけに暗いニュースばかりが目につく気がする。


 俺のことを“地味だ”とか“やる気がなさそう”って言うやつは、たぶん多い。

 そして、それはおそらく正しい。


 寝ぐせ気味のくせ毛は面倒でそのまま、授業中もノートは白紙に近い。

 何かに必死になった記憶なんて、ここ最近はない。

 教室では浮いているし、誰かと積極的に喋ることもない。


 俺のことを好きって人はいないだろうし、きっと、嫌ってるやつもいると思う。


 それをわざわざ口に出すやつはいないけど、空気を読めばだいたい分かる。

 目をそらされたり、話しかけられなかったり。

 無視ってほどじゃないけど、確かに“線”はある。


 でも、だからって、悲しいとか悔しいとか、そういう感情はあんまりない。

 俺は俺で、静かに過ごしてるだけだから。

 ただ――


 たまに、ほんの少しだけ、違う場所にいたかったと思う時がある。


 ……だけど。

 何も考えてないわけじゃない。


 目立たなくても、俺なりに周りを見てるし、考えてる。

 たとえば、誰かが嘘をついたときの、ほんのわずかな目線の動きとか。

 誰も気づかないような、教室の空気の違和感とか。


 俺は、そういう“変化”には敏感なほうだ。

 でもそれを口にすることは、ほとんどない。


 だって、言ったってどうせ信じてもらえないし、言う場面もなかったから。

 ──今までは。 


「……ふぁ〜、ねむ……」


 寝癖のついた髪をかきながら、俺――日下 達希(ひのした たつき)は、いつも通りの登校路を歩いていた。

 朝の空気は少しだけひんやりとしていて、肌に触れる風が心地いい。正直、もう少しだけ布団の中にいたかった。


「おはよーっす、達希!」

 やけに元気な声が、背後から飛んできた。


 竹村 透(たけむら とおる)。中学からの腐れ縁で、今でもつるんでいる数少ない友人だ。

 短めの茶髪に、人懐っこい笑顔。テンションがやたら高くて、声が一段大きいのが玉にキズ。たまに周囲からうるさがられている。


「昨日のアニメ見た? 作画良かったし、もうマジで神回だったんだけど!」


「……見たよ。たしかに、作画はすごかった。話も、よくできてたと思う」

 俺の返事はあっさりしていたけれど、透は満足そうにうなずいていた。


 そんな他愛のない会話を交わしながら、俺たちは学校の門をくぐる。 


光ヶ丘(ひかりがおか)高等学校】


 俺たちが通う高校だ。

 渋谷までは電車で四十分。でも、都心の喧騒とは、ほんの少し距離がある。


 最寄り駅には昔ながらの商店街が残っていて、カフェやファストフードもすぐに見つかる。

 少し離れた場所にはショッピングモールがあって、休日には地元の学生でにぎわっている。

 都会でもなく、田舎でもない。そんな、ちょうどいい街。この学校も、その町に自然に溶け込むように建っていた。


◇ ◇ ◇


 教室に入ると、透は前の方の席へ。俺は窓際のいちばん後ろの席へと向かった。

 椅子に腰を下ろし、少しだけ目を閉じる。授業が始まるには、まだ時間がある。


 立ち上がって透にでも話しかけようかと考えた、そのとき。


「邪魔だよ。どけよ」

 扉が勢いよく開き、不良グループが騒がしく入ってきた。

 その中の一人と、すれ違いざまに肩がぶつかる。


「……ごめん」


「チッ」

 舌打ちだけを残して、不良たちは教室の奥へ向かっていった。

 特に問題にはならなかったようで、教室の空気も、何事もなかったかのように流れていく。


 俺は何気なく、さっきの不良の背中を目で追った。


 ――肩に、葉っぱがついていた。細長くて、縁にギザギザのある形。あの木、校舎裏のトイレ付近にしか生えてない。

 ズボンの裾には、乾きかけた泥がうっすらとこびりついていた。

 ポケットの裏地が、少しだけ外に飛び出している。


(……なんで、あの葉っぱがついてたんだろう)

 ほんの少しだけ、気になった。

 それだけのことだった。


◇ ◇ ◇


 昼休み。透が弁当を片手にやってくる。


「なあ、最近また敵強くなってない? ランク、全然上がらねーわ」


「うん。マッチングで当たる相手、上手すぎる。全然勝てない」

 適当に相づちを打ちながら、不良たちのグループが教室に戻ってくるのを目にする。


「鍵なくしたっぽいんだけど」

 リーダー格の不良が、小さくぼやいた。


「カバンの中、見た?」


「もう見たって。どこで落としたんだよ、マジで……

 くそっ、イラつくぜ!」


 そのまま、机を蹴りつけた。鈍い音が響き、教室の空気が一気に冷え込む。

 誰も、何も言わない。話題に触れれば、火の粉が飛んでくるのが分かっていた。


 ――そのときだった。


 俺は、静かに記憶を手繰った。


 肩の葉っぱ。ズボンの泥。ポケットの裏地。

 午前七時五十八分。教室に入ってきたとき、一瞬だけ見えた。


 それぞれは些細な情報。でも、組み合わせると、ひとつの答えが浮かび上がってくる。


「……たぶん、裏のトイレのあたりだと思う」

 自分の口からその言葉が出たとき、少しだけ驚いた。

 頭で考えるより先に、口が勝手に動いていた。


「え?」


「朝、たぶん──そっちにいたよね。

 肩に、葉っぱがついてた。あの木、トイレの裏にしか生えてないから。

 ズボンにも、うっすら泥がついてた。……たぶん、何か鍵と一緒にポケットに入れていた物を取り出すときに、そのとき落としたんじゃないかな。スマホとか」


「…………」


 不良たちがしばらく沈黙してから、リーダー格の男が立ち上がった。


「見てくるわ」


◇ ◇ ◇


 しばらくして、彼は鍵を手に戻ってきた。


「……マジで落ちてた。なんでわかったんだよ?」


「ただ……見えてただけ」


 俺は視線を外した。


 不良は一瞬だけ、何かを言いかけて――やめたようだった。

 そのまま、黙って席へ戻っていく。


(……また、やっちゃった)

 別に、特別なことをしたつもりはない。

 でも、昔からこうだ。覚えていたことや推測したことを口にすると、よく思われないことが多い。 


 ――その視線に気づいたのは、ただの偶然だったのかもしれない。


 けれど。

 あのとき、教室の隅から俺をじっと見ていた“誰か”がいた。


 興味を含んだ、静かな視線。


 気のせいかもしれない。

 でも、もしかすると──その“誰か”が、俺を“何か”に巻き込んでいくことになるのかもしれない。


 最後授業のチャイムが鳴った。

 キーンコーンカーンコーン――この学校の日常は、いつもその音で締めくくられる。


 俺は肩を回しながら、深くひとつあくびをした。

 今日も、特に何もなかった。

 何も起きなかった日は、無事だった日と考えていい。そう思っていた。


「達希、帰ろーぜ!」

 透が弁当を食べたときと同じテンションで言ってくる。

 このあたりの彼の元気さには、ある種の安定感すらある。


「うん、疲れすぎて、そろそろ限界だ」


 そんな軽口を返しながら、鞄の中身を確認する。

 ノートに教科書、配られたプリント類――それらを無言で押し込んでいると、背後から声がした。


「ねぇ!」


 女子の声だった。声の調子からして、怒ってはいない。かといって親しげでもない。

 呼び止める、というより、確認するような声。


 聞き違いだと思って、無視することにした。

 俺が誰かに用事を頼まれるようなタイプだとは思えない。思いたくもなかった。


「……ねぇってば!」


 二度目ともなると、もう聞こえなかったフリは通用しない。

 仕方なく振り返ると、そこにいたのは柚木(ゆずき)ねむだった。


 小柄な体に長い黒髪。その中にところどころ、光の角度によって金に見えるメッシュが混ざっている。

 落ち着いた目元と、あまり感情の動きを見せない表情。

 無口というより、必要なことしか言わないタイプ。俺は、彼女にそんな印象を持っていた。


「ちょっと、お願いがあるんだけど。いい?」


 目は、確かに俺を見ていた。

 間違いなく、俺に言っているらしい。


 話しかける相手を間違えているのではないか――そんな疑問が頭をよぎった。

 けれど、それを問い返すほどの余裕もなかった。


「俺に……?」


「うん。少しだけでいいから話を聞いて欲しいの」


 透の視線を感じた。

 まっすぐこちらを見ている。普段とは違う驚きの色を含んだ顔だった。

 透の気持ちはよくわかる。俺も、同じ顔をしていると思う。


 言われるがまま、ねむのあとについて教室を出た。


 廊下の隅、人気の少ない場所で彼女が立ち止まる。


「実は、助けてほしいことがあって」


「助ける? 俺が? 君を?」


「うん。別の高校にいる子なんだけど……2日前から、急に連絡が取れなくなったの。

 LINEも既読にならないし、電話もずっとコール音だけ。……こんなの、初めてで。

 その子、前にちょっと……親とのことで悩んでたことがあったみたいで。

 家に帰りたくないって言ってたこともあったの」


「……何か、あったのかも」


「たぶん、まだ事件とかじゃないと思う。でも──」

 少しだけ言いよどんでから、ねむは目線を伏せた。

「……この前、“誰かに見られてる気がする”って言ってたの。だから、なんか……変な予感がして」

 その声は、普段よりもほんの少しだけ小さかった。

 それが、不安のあらわれだと気づくのに、時間はかからなかった。


「それで、なんで俺なの?」


「さっきの観察、鋭かった。……ただの偶然には思えなかったし」

 ねむは俺を見たまま、ほんのわずかに口元を動かした。

「細かいことを、ちゃんと覚えてる人じゃないと、あんなふうに言えないと思ったから。

 ひとりで他校に行くのも、ちょっと不安でさ。私、男子の友達いないから。

 達希って、普段から冷静だし……なんか、一緒にいたら安心できそうな気がしたんだ」


「その子の高校まで、一緒に来てくれない?

 話を聞くだけでいいの。何もなければ、それで終わるから」


 俺は、断る理由を探した。

 目立つのは苦手だ。知らない人と関わるのも、得意じゃない。

 だいいち、俺なんかにできることがあるとは、どうしても思えなかった。


 けれど、彼女の目を見てしまった。

 そこには、明確な「期待」があった。

 それが、自分に向けられたものだとわかってしまった以上――俺は、断れなかった。


「……わかった。ついて行くだけなら」


「ほんと? ありがとう」


 その言葉と同時に、ねむの表情がふわりと変わった。

 口角が少しだけ上がったその顔は、たしかに笑っていた。


 ねむが笑うのは、珍しいことじゃない。

 むしろ、あの笑顔は、ずっと前から俺の知っている“日常”の一部だ。


 それなのに。

 今日のそれは、なぜか少しだけ胸に残った。


 ほんの一瞬、可愛い、と思ってしまったのが悔しいくらいに。


 俺は、その笑顔から目をそらせなかった。 


「透、ごめん。今日は先に帰っててくれる?」


「……ああ、はいはい。女子と二人でおでかけですね。よかったですねー」

 透はわざとらしい声でそう言って、肩をすくめてみせた。

 冗談半分ではあるが、その言い方に、ほんの少しだけ棘があった。


 その棘が、ほんの少しだけ寂しさに聞こえたのは──

 気のせいだったのかもしれない。


 ヒラヒラと手を振りながら、透は去っていった。


 俺はその背中を少しだけ申し訳なく思いながら、

(今度、何か奢っておくか)

 と小さく決意した。


 放課後の静寂の中で、彼女の存在だけが、やけに鮮明だった。


「ありがとう。じゃあ、ちょっと帰りの準備してくるね」

 ねむは、どこか明るい声音でそう言って、小さく頭を下げた。

 その表情には、少しだけ嬉しさがにじんでいた気がする。


「……わかった。先に校門で待ってるよ」


 俺は、少しだけホッとしていた。

 彼女と並んで歩くことに、照れとは少し違う、妙な居心地の悪さがあった。

 人目が気になる。ねむは小柄で可愛らしく、ほどよい距離感が心地よく、隠れファンも多い。

 そんな目立つねむの隣にいることで、何かを誤解されたくない──そんなふうに考えてしまう自分がいた。


 廊下を抜けて窓の外を見ると、グラウンドでは運動部が汗を流していた。

 声とボールの音が風に乗って届いてくる。

 その光景が、自分とは遠い場所のものに思えた。 


 校門でスマホをいじっていると、軽い足音が後ろから近づく。


「お待たせ。……待っててくれて、ありがと」

 声のトーンは、さっきよりも柔らかかった。

 それだけで、少し安心したような気がした。


「うん。大丈夫。……行こっか」

 並んで歩くのは、予想していたほど気まずくはなかった。

 むしろ、歩幅を合わせるたびに、妙な安心感があった。


「その学校って、どこにあるの?」


「そんなに遠くないよ。歩いて20分くらいかな……ほんとに、ありがと。ついてきてくれて」

 その「ありがとう」に、少しだけ胸が鳴る。

 特別なことをしているつもりはない。

 でも、誰かに感謝されるというのは、悪くない。


「困ってるみたいだったし。……当然でしょ」


「ふふ……そういうとこ、優しいね」

 ねむがうつむきながら笑う。

 横顔が思いのほか近くて、思わず目を逸らした。 


──沈黙が、しばらく続く。

 けれど、それは不快なものではなかった。

 話さなくても、なぜか落ち着いていられる。

 そんな空気をまとったまま、ふたりで並んで歩いていた。


◇ ◇ ◇ 


 住宅街を抜けると、だんだんと街の雰囲気が変わっていく。

 制服の色が違う生徒たちが、ちらほらとすれ違い始めた。


「その子とは、どうやって知り合ったの?」


「SNS。好きなアイドルが同じで、ファンサイトで意気投合したの。

 ライブに行ったり、メッセージのやり取りしたりして……自然と仲良くなった感じ」


「へえ、推し活ってやつか……」


「うん。それにね、その子、私と背丈が似てたの。

 だからかな……どこか、他人な気がしなくて。

 性格は全然違うんだけど、だからこそ一緒にいて落ち着いた。……少し、憧れてたのかも」


 ねむの視線が、ゆっくりと歩道の先へと向けられていた。


「でもね……今思えば、本当のこと、あんまり知らなかった気がする」


「……SNSって、そういう距離感かもね」


「うん。近いようで、遠い。

 話してたことも、どこまで本音だったのか分からないし……」


 その言葉に、うまく返せる言葉は見つからなかった。 


◇ ◇ ◇ 


 やがて、ねむが足を止める。


「……あれだと思う」


 彼女の指差した先には、少し古びた校舎が見えてきた。

 灰色のコンクリートがむき出しの、飾り気のない建物。

 門の上に掲げられた看板には、こう書かれていた。


常葉(ときわ)高等学校】


 門をくぐると、横に長く伸びた三階建ての校舎が現れる。

 その中央には、狭い中庭と、小さな植え込み。

 どこにでもあるような風景なのに、どこか、空気が澱んでいた。


 体育館の方からは、部活の掛け声がかすかに聞こえる。

 けれど、ねむがじっと見つめていた校舎の一角だけが、妙に静かだった。


 蝉の声が、そこだけ遠ざかって聞こえる気がした。


「……あの子、本当にここにいるのかな」


 ぽつりとつぶやいたその声には、本人も気づいていないほどの不安がにじんでいた。


 俺は、その言葉に答えなかった。

 ただ、ねむと同じ方向を、黙って見つめていた。 


 そのとき――


 校舎の二階。

 窓の奥に、何かが“動いた気がした”。


 視線を感じた。ほんの一瞬、誰かと目が合ったような──そんな錯覚。


 けれど次の瞬間には、そこには誰もいなかった。


 俺は何も言わなかった。

 ただ、胸の奥に、不気味な冷たいものが流れたのを感じていた。


 ──背中を撫でるような、なまぬるい視線の感触だけが、妙にリアルだった。


 中庭を横切っていたときだった。

 ちょうど校舎の扉が開いて、一人の女子生徒が出てきた。

 その瞬間、ねむの足がぴたりと止まる。


「すみません。高峯 詩織(たかみね しおり)さんって、今どこにいるか知ってますか?」


 ねむが迷いなく声をかけると、相手の生徒は少しねむの勢いに驚いたような顔で答えた。


「あー、詩織なら、まだ教室にいたと思う。もうすぐ出てくるんじゃないかな」


 どうやら、運よく同じクラスの子だったらしい。


「……無事だったんだ。よかった……」

 ほっとしたように、ねむが小さく息を吐いた。

 それを見ていると、俺も同じくらい安心してしまう。

 何か、大ごとじゃなくてよかった。


「よかったね。じゃあ、俺はここで――」

 軽口を叩いてみたけど、ねむの視線がすぐに刺さる。

 じとっと睨まれて、慌てて口をつぐんだ。


「……冗談です」

 俺はねむの隣に立ったまま、おとなしく詩織が出てくるのを待つことにした。


 ほどなくして、教室の方から人影が現れる。

 ねむと同じくらいの背丈。茶色いウェーブの髪に、大きな目。

 ぱっと見、少しギャルっぽい雰囲気だけど、どこか柔らかい印象のある子だった。


「詩織!」


 ねむが声をかけると、その子は驚いたようにこちらを振り向いた。


「……ねむ!? なんでここに!?」


「連絡取れなかったから……心配して来たんだよ」


 言葉に強く感情が混ざっていた。

 それだけ心配していたということだろう。


「ごめんごめん、スマホ壊れちゃってさ。今日中に機種変行くつもりだったんだけど、バタバタしててさ」


 詩織はバツが悪そうに笑って、後頭部をかく。

 その仕草は思ったより子どもっぽくて、ねむの心配をよそに気楽なものだった。


 次の瞬間、詩織がこちらを見た。

 そして、にやりと笑う。


「……え、もしかして彼氏できた?」


「ち、ちがうってば!!」


 ねむが顔を真っ赤にして全力で否定した。

 そこまで否定しなくてもとは思ったけど……まあ、否定される側としては、特に言うことはない。


「じゃあ、大丈夫なんだよね?」


 ねむが、ようやく安心したように言うと、詩織もゆるく頷いた。


「うん。……でも、ちょっと気になることがあってさ。勘違いだと思うんだけど……」


 その言葉に、ほんの一瞬だけ、表情の陰りが見えた。


──けれど、それも一瞬で吹き飛ぶ。


「あ、やばっ! 今何時!? スマホ持ってないんだった!!」

 詩織は急に焦り出して、くるくると周囲を見回す。


「スマホショップ閉まっちゃう! ……じゃ、また夜連絡するね!

 彼氏さん、ねむのこと大事にしてあげてねーっ!」


「ちがうってばーー!!」

 詩織は笑いながら、手を振って校門の向こうへと駆けていった。

 背中が見えなくなるまで、そのテンションはまったく落ちなかった。


「……もう。ほんと自由すぎる」

 ねむが苦笑まじりに言う。

 けれど、その声には安堵が混じっていた。


「でも、無事で……よかったね」


「うん、本当に」

 ねむは、その言葉を繰り返すように、ぽつりとつぶやいた。


 二人の間に流れる空気が、さっきまでより少しだけ柔らかくなった気がした。


「じゃ、もう用事も終わったし、帰ろっか。知らない学校って、居心地悪いし」


「……ついてきてくれて、ありがとう。

 今度なにかお礼するね」


「……楽しみにしてるよ」


 小さなやりとりを終えると、俺たちは、来たときと同じ道を引き返し始めた。

 日が少し傾きはじめていて、歩道の影が伸びている。

 さっきまで張り詰めていた空気が、どこかやわらかくなった気がした。


──けれどこのときは、まだ気づいていなかった。


 詩織の口にした「ちょっと気になること」が、

 思っていたよりも、ずっと深い場所へつながっているなんて。


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