①
また、“見つかった”らしい。
今度は、公園のトイレ。
制服のまま、うつ伏せで倒れていたって。
ニュースの見出しには「原因不明の心停止」と書かれていたけれど、
SNSでは、またあの名前が囁かれている。
──「死薬師」。
薬で殺すのに、指一本触れず、証拠も残さない。
都市伝説みたいな話だけど、それと重なるように女子高生が次々と死んでいるのは、ただの偶然だろうか。
俺はスマホの画面を閉じて、ため息をひとつついた。
最近は、やけに暗いニュースばかりが目につく気がする。
俺のことを“地味だ”とか“やる気がなさそう”って言うやつは、たぶん多い。
そして、それはおそらく正しい。
寝ぐせ気味のくせ毛は面倒でそのまま、授業中もノートは白紙に近い。
何かに必死になった記憶なんて、ここ最近はない。
教室では浮いているし、誰かと積極的に喋ることもない。
俺のことを好きって人はいないだろうし、きっと、嫌ってるやつもいると思う。
それをわざわざ口に出すやつはいないけど、空気を読めばだいたい分かる。
目をそらされたり、話しかけられなかったり。
無視ってほどじゃないけど、確かに“線”はある。
でも、だからって、悲しいとか悔しいとか、そういう感情はあんまりない。
俺は俺で、静かに過ごしてるだけだから。
ただ――
たまに、ほんの少しだけ、違う場所にいたかったと思う時がある。
……だけど。
何も考えてないわけじゃない。
目立たなくても、俺なりに周りを見てるし、考えてる。
たとえば、誰かが嘘をついたときの、ほんのわずかな目線の動きとか。
誰も気づかないような、教室の空気の違和感とか。
俺は、そういう“変化”には敏感なほうだ。
でもそれを口にすることは、ほとんどない。
だって、言ったってどうせ信じてもらえないし、言う場面もなかったから。
──今までは。
「……ふぁ〜、ねむ……」
寝癖のついた髪をかきながら、俺――日下 達希は、いつも通りの登校路を歩いていた。
朝の空気は少しだけひんやりとしていて、肌に触れる風が心地いい。正直、もう少しだけ布団の中にいたかった。
「おはよーっす、達希!」
やけに元気な声が、背後から飛んできた。
竹村 透。中学からの腐れ縁で、今でもつるんでいる数少ない友人だ。
短めの茶髪に、人懐っこい笑顔。テンションがやたら高くて、声が一段大きいのが玉にキズ。たまに周囲からうるさがられている。
「昨日のアニメ見た? 作画良かったし、もうマジで神回だったんだけど!」
「……見たよ。たしかに、作画はすごかった。話も、よくできてたと思う」
俺の返事はあっさりしていたけれど、透は満足そうにうなずいていた。
そんな他愛のない会話を交わしながら、俺たちは学校の門をくぐる。
【光ヶ丘高等学校】
俺たちが通う高校だ。
渋谷までは電車で四十分。でも、都心の喧騒とは、ほんの少し距離がある。
最寄り駅には昔ながらの商店街が残っていて、カフェやファストフードもすぐに見つかる。
少し離れた場所にはショッピングモールがあって、休日には地元の学生でにぎわっている。
都会でもなく、田舎でもない。そんな、ちょうどいい街。この学校も、その町に自然に溶け込むように建っていた。
◇ ◇ ◇
教室に入ると、透は前の方の席へ。俺は窓際のいちばん後ろの席へと向かった。
椅子に腰を下ろし、少しだけ目を閉じる。授業が始まるには、まだ時間がある。
立ち上がって透にでも話しかけようかと考えた、そのとき。
「邪魔だよ。どけよ」
扉が勢いよく開き、不良グループが騒がしく入ってきた。
その中の一人と、すれ違いざまに肩がぶつかる。
「……ごめん」
「チッ」
舌打ちだけを残して、不良たちは教室の奥へ向かっていった。
特に問題にはならなかったようで、教室の空気も、何事もなかったかのように流れていく。
俺は何気なく、さっきの不良の背中を目で追った。
――肩に、葉っぱがついていた。細長くて、縁にギザギザのある形。あの木、校舎裏のトイレ付近にしか生えてない。
ズボンの裾には、乾きかけた泥がうっすらとこびりついていた。
ポケットの裏地が、少しだけ外に飛び出している。
(……なんで、あの葉っぱがついてたんだろう)
ほんの少しだけ、気になった。
それだけのことだった。
◇ ◇ ◇
昼休み。透が弁当を片手にやってくる。
「なあ、最近また敵強くなってない? ランク、全然上がらねーわ」
「うん。マッチングで当たる相手、上手すぎる。全然勝てない」
適当に相づちを打ちながら、不良たちのグループが教室に戻ってくるのを目にする。
「鍵なくしたっぽいんだけど」
リーダー格の不良が、小さくぼやいた。
「カバンの中、見た?」
「もう見たって。どこで落としたんだよ、マジで……
くそっ、イラつくぜ!」
そのまま、机を蹴りつけた。鈍い音が響き、教室の空気が一気に冷え込む。
誰も、何も言わない。話題に触れれば、火の粉が飛んでくるのが分かっていた。
――そのときだった。
俺は、静かに記憶を手繰った。
肩の葉っぱ。ズボンの泥。ポケットの裏地。
午前七時五十八分。教室に入ってきたとき、一瞬だけ見えた。
それぞれは些細な情報。でも、組み合わせると、ひとつの答えが浮かび上がってくる。
「……たぶん、裏のトイレのあたりだと思う」
自分の口からその言葉が出たとき、少しだけ驚いた。
頭で考えるより先に、口が勝手に動いていた。
「え?」
「朝、たぶん──そっちにいたよね。
肩に、葉っぱがついてた。あの木、トイレの裏にしか生えてないから。
ズボンにも、うっすら泥がついてた。……たぶん、何か鍵と一緒にポケットに入れていた物を取り出すときに、そのとき落としたんじゃないかな。スマホとか」
「…………」
不良たちがしばらく沈黙してから、リーダー格の男が立ち上がった。
「見てくるわ」
◇ ◇ ◇
しばらくして、彼は鍵を手に戻ってきた。
「……マジで落ちてた。なんでわかったんだよ?」
「ただ……見えてただけ」
俺は視線を外した。
不良は一瞬だけ、何かを言いかけて――やめたようだった。
そのまま、黙って席へ戻っていく。
(……また、やっちゃった)
別に、特別なことをしたつもりはない。
でも、昔からこうだ。覚えていたことや推測したことを口にすると、よく思われないことが多い。
――その視線に気づいたのは、ただの偶然だったのかもしれない。
けれど。
あのとき、教室の隅から俺をじっと見ていた“誰か”がいた。
興味を含んだ、静かな視線。
気のせいかもしれない。
でも、もしかすると──その“誰か”が、俺を“何か”に巻き込んでいくことになるのかもしれない。
最後授業のチャイムが鳴った。
キーンコーンカーンコーン――この学校の日常は、いつもその音で締めくくられる。
俺は肩を回しながら、深くひとつあくびをした。
今日も、特に何もなかった。
何も起きなかった日は、無事だった日と考えていい。そう思っていた。
「達希、帰ろーぜ!」
透が弁当を食べたときと同じテンションで言ってくる。
このあたりの彼の元気さには、ある種の安定感すらある。
「うん、疲れすぎて、そろそろ限界だ」
そんな軽口を返しながら、鞄の中身を確認する。
ノートに教科書、配られたプリント類――それらを無言で押し込んでいると、背後から声がした。
「ねぇ!」
女子の声だった。声の調子からして、怒ってはいない。かといって親しげでもない。
呼び止める、というより、確認するような声。
聞き違いだと思って、無視することにした。
俺が誰かに用事を頼まれるようなタイプだとは思えない。思いたくもなかった。
「……ねぇってば!」
二度目ともなると、もう聞こえなかったフリは通用しない。
仕方なく振り返ると、そこにいたのは柚木ねむだった。
小柄な体に長い黒髪。その中にところどころ、光の角度によって金に見えるメッシュが混ざっている。
落ち着いた目元と、あまり感情の動きを見せない表情。
無口というより、必要なことしか言わないタイプ。俺は、彼女にそんな印象を持っていた。
「ちょっと、お願いがあるんだけど。いい?」
目は、確かに俺を見ていた。
間違いなく、俺に言っているらしい。
話しかける相手を間違えているのではないか――そんな疑問が頭をよぎった。
けれど、それを問い返すほどの余裕もなかった。
「俺に……?」
「うん。少しだけでいいから話を聞いて欲しいの」
透の視線を感じた。
まっすぐこちらを見ている。普段とは違う驚きの色を含んだ顔だった。
透の気持ちはよくわかる。俺も、同じ顔をしていると思う。
言われるがまま、ねむのあとについて教室を出た。
廊下の隅、人気の少ない場所で彼女が立ち止まる。
「実は、助けてほしいことがあって」
「助ける? 俺が? 君を?」
「うん。別の高校にいる子なんだけど……2日前から、急に連絡が取れなくなったの。
LINEも既読にならないし、電話もずっとコール音だけ。……こんなの、初めてで。
その子、前にちょっと……親とのことで悩んでたことがあったみたいで。
家に帰りたくないって言ってたこともあったの」
「……何か、あったのかも」
「たぶん、まだ事件とかじゃないと思う。でも──」
少しだけ言いよどんでから、ねむは目線を伏せた。
「……この前、“誰かに見られてる気がする”って言ってたの。だから、なんか……変な予感がして」
その声は、普段よりもほんの少しだけ小さかった。
それが、不安のあらわれだと気づくのに、時間はかからなかった。
「それで、なんで俺なの?」
「さっきの観察、鋭かった。……ただの偶然には思えなかったし」
ねむは俺を見たまま、ほんのわずかに口元を動かした。
「細かいことを、ちゃんと覚えてる人じゃないと、あんなふうに言えないと思ったから。
ひとりで他校に行くのも、ちょっと不安でさ。私、男子の友達いないから。
達希って、普段から冷静だし……なんか、一緒にいたら安心できそうな気がしたんだ」
「その子の高校まで、一緒に来てくれない?
話を聞くだけでいいの。何もなければ、それで終わるから」
俺は、断る理由を探した。
目立つのは苦手だ。知らない人と関わるのも、得意じゃない。
だいいち、俺なんかにできることがあるとは、どうしても思えなかった。
けれど、彼女の目を見てしまった。
そこには、明確な「期待」があった。
それが、自分に向けられたものだとわかってしまった以上――俺は、断れなかった。
「……わかった。ついて行くだけなら」
「ほんと? ありがとう」
その言葉と同時に、ねむの表情がふわりと変わった。
口角が少しだけ上がったその顔は、たしかに笑っていた。
ねむが笑うのは、珍しいことじゃない。
むしろ、あの笑顔は、ずっと前から俺の知っている“日常”の一部だ。
それなのに。
今日のそれは、なぜか少しだけ胸に残った。
ほんの一瞬、可愛い、と思ってしまったのが悔しいくらいに。
俺は、その笑顔から目をそらせなかった。
「透、ごめん。今日は先に帰っててくれる?」
「……ああ、はいはい。女子と二人でおでかけですね。よかったですねー」
透はわざとらしい声でそう言って、肩をすくめてみせた。
冗談半分ではあるが、その言い方に、ほんの少しだけ棘があった。
その棘が、ほんの少しだけ寂しさに聞こえたのは──
気のせいだったのかもしれない。
ヒラヒラと手を振りながら、透は去っていった。
俺はその背中を少しだけ申し訳なく思いながら、
(今度、何か奢っておくか)
と小さく決意した。
放課後の静寂の中で、彼女の存在だけが、やけに鮮明だった。
「ありがとう。じゃあ、ちょっと帰りの準備してくるね」
ねむは、どこか明るい声音でそう言って、小さく頭を下げた。
その表情には、少しだけ嬉しさがにじんでいた気がする。
「……わかった。先に校門で待ってるよ」
俺は、少しだけホッとしていた。
彼女と並んで歩くことに、照れとは少し違う、妙な居心地の悪さがあった。
人目が気になる。ねむは小柄で可愛らしく、ほどよい距離感が心地よく、隠れファンも多い。
そんな目立つねむの隣にいることで、何かを誤解されたくない──そんなふうに考えてしまう自分がいた。
廊下を抜けて窓の外を見ると、グラウンドでは運動部が汗を流していた。
声とボールの音が風に乗って届いてくる。
その光景が、自分とは遠い場所のものに思えた。
校門でスマホをいじっていると、軽い足音が後ろから近づく。
「お待たせ。……待っててくれて、ありがと」
声のトーンは、さっきよりも柔らかかった。
それだけで、少し安心したような気がした。
「うん。大丈夫。……行こっか」
並んで歩くのは、予想していたほど気まずくはなかった。
むしろ、歩幅を合わせるたびに、妙な安心感があった。
「その学校って、どこにあるの?」
「そんなに遠くないよ。歩いて20分くらいかな……ほんとに、ありがと。ついてきてくれて」
その「ありがとう」に、少しだけ胸が鳴る。
特別なことをしているつもりはない。
でも、誰かに感謝されるというのは、悪くない。
「困ってるみたいだったし。……当然でしょ」
「ふふ……そういうとこ、優しいね」
ねむがうつむきながら笑う。
横顔が思いのほか近くて、思わず目を逸らした。
──沈黙が、しばらく続く。
けれど、それは不快なものではなかった。
話さなくても、なぜか落ち着いていられる。
そんな空気をまとったまま、ふたりで並んで歩いていた。
◇ ◇ ◇
住宅街を抜けると、だんだんと街の雰囲気が変わっていく。
制服の色が違う生徒たちが、ちらほらとすれ違い始めた。
「その子とは、どうやって知り合ったの?」
「SNS。好きなアイドルが同じで、ファンサイトで意気投合したの。
ライブに行ったり、メッセージのやり取りしたりして……自然と仲良くなった感じ」
「へえ、推し活ってやつか……」
「うん。それにね、その子、私と背丈が似てたの。
だからかな……どこか、他人な気がしなくて。
性格は全然違うんだけど、だからこそ一緒にいて落ち着いた。……少し、憧れてたのかも」
ねむの視線が、ゆっくりと歩道の先へと向けられていた。
「でもね……今思えば、本当のこと、あんまり知らなかった気がする」
「……SNSって、そういう距離感かもね」
「うん。近いようで、遠い。
話してたことも、どこまで本音だったのか分からないし……」
その言葉に、うまく返せる言葉は見つからなかった。
◇ ◇ ◇
やがて、ねむが足を止める。
「……あれだと思う」
彼女の指差した先には、少し古びた校舎が見えてきた。
灰色のコンクリートがむき出しの、飾り気のない建物。
門の上に掲げられた看板には、こう書かれていた。
【常葉高等学校】
門をくぐると、横に長く伸びた三階建ての校舎が現れる。
その中央には、狭い中庭と、小さな植え込み。
どこにでもあるような風景なのに、どこか、空気が澱んでいた。
体育館の方からは、部活の掛け声がかすかに聞こえる。
けれど、ねむがじっと見つめていた校舎の一角だけが、妙に静かだった。
蝉の声が、そこだけ遠ざかって聞こえる気がした。
「……あの子、本当にここにいるのかな」
ぽつりとつぶやいたその声には、本人も気づいていないほどの不安がにじんでいた。
俺は、その言葉に答えなかった。
ただ、ねむと同じ方向を、黙って見つめていた。
そのとき――
校舎の二階。
窓の奥に、何かが“動いた気がした”。
視線を感じた。ほんの一瞬、誰かと目が合ったような──そんな錯覚。
けれど次の瞬間には、そこには誰もいなかった。
俺は何も言わなかった。
ただ、胸の奥に、不気味な冷たいものが流れたのを感じていた。
──背中を撫でるような、なまぬるい視線の感触だけが、妙にリアルだった。
中庭を横切っていたときだった。
ちょうど校舎の扉が開いて、一人の女子生徒が出てきた。
その瞬間、ねむの足がぴたりと止まる。
「すみません。高峯 詩織さんって、今どこにいるか知ってますか?」
ねむが迷いなく声をかけると、相手の生徒は少しねむの勢いに驚いたような顔で答えた。
「あー、詩織なら、まだ教室にいたと思う。もうすぐ出てくるんじゃないかな」
どうやら、運よく同じクラスの子だったらしい。
「……無事だったんだ。よかった……」
ほっとしたように、ねむが小さく息を吐いた。
それを見ていると、俺も同じくらい安心してしまう。
何か、大ごとじゃなくてよかった。
「よかったね。じゃあ、俺はここで――」
軽口を叩いてみたけど、ねむの視線がすぐに刺さる。
じとっと睨まれて、慌てて口をつぐんだ。
「……冗談です」
俺はねむの隣に立ったまま、おとなしく詩織が出てくるのを待つことにした。
ほどなくして、教室の方から人影が現れる。
ねむと同じくらいの背丈。茶色いウェーブの髪に、大きな目。
ぱっと見、少しギャルっぽい雰囲気だけど、どこか柔らかい印象のある子だった。
「詩織!」
ねむが声をかけると、その子は驚いたようにこちらを振り向いた。
「……ねむ!? なんでここに!?」
「連絡取れなかったから……心配して来たんだよ」
言葉に強く感情が混ざっていた。
それだけ心配していたということだろう。
「ごめんごめん、スマホ壊れちゃってさ。今日中に機種変行くつもりだったんだけど、バタバタしててさ」
詩織はバツが悪そうに笑って、後頭部をかく。
その仕草は思ったより子どもっぽくて、ねむの心配をよそに気楽なものだった。
次の瞬間、詩織がこちらを見た。
そして、にやりと笑う。
「……え、もしかして彼氏できた?」
「ち、ちがうってば!!」
ねむが顔を真っ赤にして全力で否定した。
そこまで否定しなくてもとは思ったけど……まあ、否定される側としては、特に言うことはない。
「じゃあ、大丈夫なんだよね?」
ねむが、ようやく安心したように言うと、詩織もゆるく頷いた。
「うん。……でも、ちょっと気になることがあってさ。勘違いだと思うんだけど……」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、表情の陰りが見えた。
──けれど、それも一瞬で吹き飛ぶ。
「あ、やばっ! 今何時!? スマホ持ってないんだった!!」
詩織は急に焦り出して、くるくると周囲を見回す。
「スマホショップ閉まっちゃう! ……じゃ、また夜連絡するね!
彼氏さん、ねむのこと大事にしてあげてねーっ!」
「ちがうってばーー!!」
詩織は笑いながら、手を振って校門の向こうへと駆けていった。
背中が見えなくなるまで、そのテンションはまったく落ちなかった。
「……もう。ほんと自由すぎる」
ねむが苦笑まじりに言う。
けれど、その声には安堵が混じっていた。
「でも、無事で……よかったね」
「うん、本当に」
ねむは、その言葉を繰り返すように、ぽつりとつぶやいた。
二人の間に流れる空気が、さっきまでより少しだけ柔らかくなった気がした。
「じゃ、もう用事も終わったし、帰ろっか。知らない学校って、居心地悪いし」
「……ついてきてくれて、ありがとう。
今度なにかお礼するね」
「……楽しみにしてるよ」
小さなやりとりを終えると、俺たちは、来たときと同じ道を引き返し始めた。
日が少し傾きはじめていて、歩道の影が伸びている。
さっきまで張り詰めていた空気が、どこかやわらかくなった気がした。
──けれどこのときは、まだ気づいていなかった。
詩織の口にした「ちょっと気になること」が、
思っていたよりも、ずっと深い場所へつながっているなんて。




