うさぎとかめ
新雪のような純白の髪、そこに滴り落ちる一滴の血のように赤い瞳。
夕焼け空に舞う風花にしっくりと似合う風貌。
出会いも見た目も普通とは言えない和服の青年。
最も身近にいる非科学的な存在である万十郎を思えば、彼が似た存在であると察することはできた。
なにより、去り際に告げた「亀の君によろしく」という一言。
それは、万十郎をさしているとしか思えなかった。
青年は万十郎を知っている。そして、万十郎も彼を知っている。
私が帰宅した時に、無事を安堵したことがそれを裏付けている気がした。
帰宅が遅くなって心配するといっても、あくまで志津子さんが倒れた現場に遭遇しただけなら、心中を察するにとどまるはず。
無事でよかったと安堵するということは、身の危険が潜んでいたということ。
つまり、和服の青年が、万十郎にとって敵かそれに近い存在であったということ。
「――違う?」
「もうすっかり冷静ですね」
推測した反応を窺うと、万十郎は苦笑した。
「確かに仲は良くないです。僕は亀であちらは兎ですから」
「かけっこでもしたの?」
「ちょっと殺し合いを」
ちょっと喧嘩をというように軽く言う。
なるほど、あやかしなりの異文化交流ね、と私は納得――
「するわけない!」
バンッとテーブルを叩いた。手のひらが地味に痛い。
「ちとせさん?」
「殺し合いって……ほんとに命かけての? 喧嘩じゃなくて?」
「はい」
おとぎ話のうさぎとかめは幼児向けに作られた物語だとしても、大人でもひく現実だ。もっとオブラートに包んでほしい。
いや、命のやり取りはなしでお願いしたい。
「十年前、僕を助けてくれた時のこと覚えてますか」
「……幼馴染の陽太が、亀だったあなたをいたずらしてたのを、私が止めたことでしょ」
「そうです。けど、おかしいと思いませんか。そもそも人間が生活する場所に、変化すらできないあやかしが瀕死の状態で転がっているんです」
「それは……」
では、なにか。万十郎を瀕死の状態にして転がしたのが、あの兎の青年だというのか。
万十郎は苦い表情で遠くを見た。
「元々、あやかしの世界――幽世では、兎と亀は仲が良いとはいえない間柄でしたが、ちょっとしたいざこざから、種族同士の争いとなって、負傷したところ追撃されました。現世に逃げたはいいものの、追い打ちにあいまして……。逃げる途中、転がりに転がって気付いたら幼いあなたに抱かれていました」
私はテーブルに突っ伏しそうになった。
なんだ、その民族間の紛争のような事態は。
「なんともお恥ずかしい話です」
ほんとに恥ずかしそうにしている万十郎にも頭を抱える。
しかし一番は、その言葉をすんなりと受け入れる私自身に対してだ。
万十郎がやってきて二か月ほど。目に見えるものしか信じないといった私は遥か彼方へ行ってしまったようだ。
――そういえば。
アパートにやってきた日、万十郎は亀の姿に変化した。
そのとき、甲羅に大きな傷跡があったのを覚えている。ひとの姿では、今思い出しても恥ずかしい裸体騒ぎがあって確認していないけど、その背中にもあるのだろう。
あの傷跡は、もしかして。
「甲羅の傷は彼が……?」
万十郎は苦笑した。
痛いところを突かれたという表情が答えだった。
だからあれだけ心配したのか。
私は深く息をついた。
「……とにかく、無事でよかったわ」
「はい。望月くんから、ちとせさんが彼と遭ったと聞いて本当に心配しました」
「いや、私じゃなくてあなたが……」
言いかけて口をつぐんだ。
「小町先輩と空也先輩も彼と関係があるの?」
和服の青年は去り際に、隣にいるなりそこないにもよろしくといった。
その時側に居たのは小町先輩だ。その他、周囲には誰もいなかった。
なら、彼のいうなりそこないとは小町先輩のことをさすけれど……。
――本当に?
小町先輩ほど完璧という言葉の似合うひともいない。
見た目、家柄、性格すべて申し分ない。親しい人には見せる弱みも、内面はどこにでもいる普通の女性なのだと親近感がわく。
そして、空也先輩は彼のほうから赤目の青年のことを聞いてきた。
肯定すると難しい顔をしていたし、知らない間柄ではなさそうだ。
そこまで考えて、私は首を振った。
「待って。本人に聞くべきね」
関係があるにしろ、なにか事情があるのだろう。
本人たちのいない場所で勝手に推測するのはよくない。
私はひとつ息をついた。
なんだか、色々あって疲れた。
「お風呂の準備をしますね」
万十郎の申し出をありがたく受け入れた。
その後、お風呂に入ってさっぱりしたことで気分も落ち着き、夢を見ることもなくぐっすり眠った。
そして翌朝。
万十郎の姿が消えていた。
☆ ☆ ☆
日付が変わってしばらく。虫や草木も眠りにつく深夜、ひとつの人影があった。
着物を纏い、闇の中でもなお際立つ白髪が印象的な青年だ。
夜闇の中、月光に浮かび上がるように立つ彼は、この世のものとは思えない美しさだ。だが、人の世とは違う世界の住人だという点では、あながち間違いとはいえない。
ふとした風に吹かれ、白髪がさやと揺れる。長い前髪から現れた瞳は赤。儚げな美しさが、妖艶な美にとってかわる。
星月さえも呼吸を忘れそうな静寂の中、土を踏む音が聞こえた。
青年はゆるりと振り向いて口を開いた。
「久しいな」
現れたのは万十郎だ。
多くの女性が頬を染めるであろう伸びのいい低音にも眉一つ動かさず、青年まであと数歩というところで立ち止まった。
そして、いつもと変わらない笑みを浮かべる。
「再びお会いするとは思いませんでした」
「俺もだ。貴殿は十年前に死んだと思っていた。生き永らえても、あの傷では長くはないと」
「確かに、あのままでは死んでいたでしょうね。丁寧に追撃までしてくださって、現世まで追いかけてきたのかと思いましたよ」
「追おうにも、門を破壊されてはどうにもならないだろう」
万十郎は内心息をついて、背中の古傷に思いをめぐらす。
十年前、現世に渡る際、わけあって界を渡る門を破壊した。前代未聞の暴挙だが、現世にまで追われては今ここに立っていなかっただろう。
「貴方につけられた傷が癒えるまで十年もかかるとは思いませんでした」
「人間などを庇い傷を負うなど、助かっただけでも重畳だろう」
「あの時の行動は、自賛できるものだと今でも思っています」
幼い子供。優しくて強い彼女。
すべての始まりだ。何度でも繰り返すだろう。
それに、平和な水杜島に、天災がひとの形になった目の前の存在が現れるのを阻止しただけでも、自らの行動は正しかったといえる。
けれど、十年経って青年は現世にやってきた。
なぜ、今頃。どうやって。
「人間嫌いの白夜殿が、今頃になって現世に来るとは思いませんでした」
白夜と呼ばれた青年は、不快そうに眉根を寄せた。
「最近になって新たな門が見つかったのだ。調査しようにも、界を渡った経験があるものはごく僅か。不測の事態に備え、かつての門の管理者を知り合いに持つ俺に白羽の矢が立った」
「それは……」
不幸な偶然に、万十郎は頭痛を覚えた。
しかし、次の言葉に緊張を帯びる。
「門を渡った先は幽世の田舎に似た素朴な島だった。――水杜といったか」
「まさか、島でなにを――」
彼女の故郷。
あやかしと深いつながりを持つ場所だ。
けれど、そんなこと彼女には関係ない。
万十郎の大切なひとの根幹ともいうべき島が、この天災とも称されるあやかしに荒らされたならば――。
気色ばむ万十郎に、白夜は肩をすくめた。
「なかなかいい表情だが、残念ながらなにもしていない。さすがに、界を渡ってすぐ力をふるおうとは思わんさ」
「そうですか……」
万十郎は内心息をつく。
白夜は微笑を浮かべながら、着物の袖で口元を覆う。
「だが、貴殿の霊力の残り香を感じたときは驚いた。そして、残り香を追ってたどり着いたのがこの地だ。島とは違い、なんとも息苦しい場所だ」
「人間の土地なので」
「だとしても、霊力のかけらも感じない不快な地であることは変わりない。そして、ようやく貴殿を見つけたのだが――」
赤目が万十郎を見据える。
「まさか、脆弱な人間に服していたとはな」
軽蔑の響きだった。
「人間の女の左手に二色の亀甲紋を視たときの俺の心境が分かるか」
「貴方には関係のないことです」
「確かにその通りだ。しかし、あやかしの誇りを忘れたものは見過ごせない」
「現世ではあやかし同士の揉め事はご法度ですよ」
「そんなもの、現世に住まう弱きあやかしが勝手に決めた理屈だ」
儚げな風貌ながら好戦的な白夜の口調に、万十郎は息をつき、僅かに瞳を伏せる。
「だから、彼女に接触したんですか」
不快そうな表情をしていた白夜が、そっと笑む。
「たかが十年前の縁で貴殿が服した相手がどのような者か見に来たのだ。ただの貧相な小娘だったな」
「……ずいぶん、つまらないことをしてくれましたね」
あやかしの霊力は現世の住人である人間には馴染みがない。
側にいるだけで当てられて体調を崩すひともいるだろう。特に、病を抱えた老人などは。
――なるほど。確かに、人間社会に適応することは大切ですね。
現世に住まうあやかしが人間と共存するために自然と行っていることを、目の前の青年はしていない。
万十郎もちとせに指摘されるまで気にもしなかった。
もし、幽世と同じように霊力を放出したまま過ごしていたら、老婦人はもっと早く倒れ、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
万十郎の行動が、彼女が辛い過去を思い起こし、その笑顔を奪っていたかもしれない。
結局、危惧したとおりになってしまったが、これ以上彼女を苛むものから遠ざけたかった。
「そのまま幽世にお帰りください」
「ならば、貴殿も戻ってくればいい」
「なにを――」
「俺以上に息苦しそうにしているのに、なぜ現世にとどまり続ける」
万十郎は息をのんだ。
白夜は淡々と続ける。
「現世はあやかしには住みにくい。特に幽世のあやかしにはな。一見そうと分からないが、立っているのもやっとの状態だろう。戦場で対峙した俺には分かる。今の貴殿は力を使うまでもなく倒せる」
戦場でまみえたときと同じ赤い瞳で見据えられて、万十郎はよろめいた。
白夜はあの時と変わらない。強い霊力を持っている。
けれど、万十郎は。背に大きな古傷を抱えた自分は。
「現世にいては人間の女に寄生するだけではないのか」
目の前が暗くなる。
かつて見た幼い姿が蘇る。
家族に囲まれ幸せそうに笑う姿。祖母を亡くし膝を抱え泣く姿。がむしゃらに突き進む危うい姿。忘れた再会に戸惑う姿。作った食事を美味しいと笑う姿。少しずつ万十郎を受け入れ、表情に変化が現れ――。
胸の中で懺悔する細い身体。
「このように隙ができる」
気づけば囁き声が届くほど近くに白夜がいた。




