過去の幻影
アパートの一室。自分の部屋なのにチャイムを押すのも慣れた。
しかし、今日は呼び鈴を鳴らすのにひどく緊張する。
意を決してボタンを押すと、くぐもった鈴のような音とともに、奥から足音がした。
ドアが開き、夜道を歩いた目にはまばゆい室内の明かりに切り取られるように、万十郎が姿を現した。
「おかえりなさい」
呼びかけられた瞬間、私は全身の力が抜ける思いがした。
これが安堵というのだろうか。
けれど、いつもと変わらない笑みに、少し違和感を覚える。
「うん。ただいま」
「望月くんも、ありがとうございました」
「ん」
「あの、ありがとうございました」
私も、送ってくれた空也先輩に礼を言う。
先輩は小さく頷くと自室である隣の部屋に入っていった。
ドアを閉め、靴を脱いで上がろうとした瞬間、腕を強く引き寄せられた。
「――え?」
手に持った荷物が落ち、気づくと抱きしめられていた。
「ちょっと、万十郎?」
いきなりなんなのか。頭の中が真っ白になって軽くパニックに陥るも、背に回された腕はぴくりともしない。
そのとき、髪をくすぐるように大きな吐息がもれた。
「――無事でよかった」
胸のこごりを吐き出すように告げられた一言に、私は身じろぎできなくなった。
――心配かけたのだ。
先ほどはいつも通りと思えた態度が、二人になった途端に崩れ去り、感じた違和感が抱きしめられる熱となり背に回される。
穏やかなばかりの万十郎のこころのうちを垣間見た気がした。
私はためらいがちに万十郎の背に手を回す。
「ごめんね」
思った以上に大きな背だった。
「……はい」
髪を梳かれ、言葉もなくどれくらい時が流れたか、やがてゆっくりと離れた。
遠くなる熱が少し寂しい。
実際は一分に満たないだろうけど、私にはずっと長く感じた。
顔が熱い。
……胸のうちも。
夕飯は肉じゃがに卵焼き、豆腐とあげのみそ汁という定番の和食だった。炊飯器で保温されたご飯は温かく、肉じゃがとみそ汁も温め直したのでほかほかと湯気が立ち上っている。玉子焼きは帰宅するのを待って焼いてくれので、出来立てだ。
明かりのついた部屋で温かく迎えてくれて、夕ご飯も湯気がたつ手作り。本当に至れり尽くせりだ。一口食べるごとに、冷えた身体とこころにゆっくりと温度が戻ってくる感じがした。
しらたき入りの肉じゃがが味が染みてホクホクで、少し甘めの玉子焼きも中の半熟具合が絶妙だ。みそ汁はおかわりした。
舌が慣れた味だ。おいしくて、少し懐かしい。
やがて食べ終わり、私は箸をおいて手を合わせる。
「ごちそうさま」
「綺麗にさらえてくれてよかったです。……今日は、少しだけなら夜更かししてもいいですよ」
食欲などないと思っていたのに、食べると止まらなかった。
そして、睡魔などやってきそうもないことを承知しながら、気分を和らげようと軽く言ってくれる言葉に、私は苦笑いした。
「ありがとう。ほんと……」
苦笑いのまま、視界がぼやけた。
溢れ出しそうになるものをこらえて、スンと鼻を啜る。
「万十郎はどこまで知っているの……?」
私の言葉に、片付けようと腰を浮かした万十郎は、再び居住まいを正した。
「……あなたが十二の時に祖母である鈴子さんが亡くなったことと、廃院となって久しい島唯一の診療所を立て直すため、医師になるべく陸に渡ってきたことです」
私は膝に置いた手を強く握り締めた。
「そう。……私は、助かる命を仕方ないと諦めないためにここにいる」
亀の万十郎を助けて二年後、祖母が倒れた。数日前から微熱が続いていたが、夏から秋へと季節の変わり目による不調だと見逃していたため、倒れて初めて重大なことだと知った。
水杜島は病院がなく、唯一開院していた診療所も私が生まれる前に廃院となったため、病気のときは定期船か、救急のときは島の猟師の船にのって本土の病院にかかっていた。
しかし、その日は台風が迫っていて海が荒れていた。
定期船は休航となり、海に慣れた猟師も船を出すことができなかった。
そして、台風が過ぎ去ったあくる日、祖母は息を引き取った。
清々しいほどの晴天だった。
「肺炎だったの」
ちょっと風邪をこじらせただけ。寝てたら治るわ――祖母はそう笑った。
けれど、数日後胸を押さえ高熱にうなされる姿に、子供の私は怖くて、でも目を離すこともできず、少し離れたところで震えていた。
その時には肺炎だと感づいていたのだろう、うつったらいけないと母親に引き離された。
そして、亡くなった。
最後の瞬間は、苦しまず眠るように目を閉じたと言われたことだけは救いだった。
翌年、私は修学旅行で東京に行った。スカイツリーにのぼり、浅草を練り歩き、国会議事堂を見学した。
その道中、私はなれない環境で体調を崩し、近くの病院にかかった。
深夜をまわった時間だが、タクシーで運ばれ、あっという間に大きな病院で診察を受けることができた。
その間にも、救急車のサイレンとともに何人もの患者が運ばれてきた。祖母に近い年齢のひともいた。
島にこんな病院があれば。なくても、異変をすぐに感知できる医院があれば。処置が間に合えば。
祖母は手遅れにならず、今も元気に暮らしていたかもしれない。
希望的観測だ。
現実、祖母は逝った。
誰も責められない。仕方ない。思いながらも、なぜという気持ちが消えなかった。
そして、天啓のように降って沸いた答え。
病院でもなんでも、ないのなら作ればいい。なくなったのなら、作り直せばいい。
私は自嘲気味に笑った。
「子供っぽいでしょ。単純で愚直で。けど、思ったら、もうそれしかないと、誰もやらないなら、私がするしかないと思い込んで。それで、医大に進むための進学校を受験したの」
親は何も言わず、背中を押してくれた。
教師からは厳しいと言われた高校も合格した。大学受験も乗り越えて、今ここにいる。
上手くいっている。
なのに。
「志津子さんを見て、あやちゃんを見て、あれは私とおばあちゃんだと思ってしまった。おばあちゃんは亡くなったのに、志津子さんは救急車で運ばれて大きな病院で治療を受けて、一命を取り留めて。……同じ病気なのに」
再び沸き上がったなぜという思い。
過去と現在がごちゃ混ぜになって頭の中が真っ白になったとき、小町先輩に叱られた。
頬を張られたようだった。いや、その場に幼いあやちゃんがいなければ、実際叩かれていたかもしれない。
「患者を選んじゃいけないのに、おばあちゃんと志津子さんの立場が逆だったらよかったのにと思ってしまった。そんな私が情けなくて……」
手を強く握り締める。泣くな。泣いたらもっと惨めだ。それに、私にはそんな資格はない。
僅かな沈黙。やがて優しい声がふってきた。
「ちとせさんにそこまで想われるなんて、鈴子さんはよいお祖母さんだったんですね」
私は瞬きをして頷く。
「うん。大好きだった」
優しくて、時に厳しくて、私が風邪をひいて寝込んだ時、一晩中側にいてくれた。
忘れたことなどない。
けれど、思い出すのは、倒れたあとの苦しそうな姿ばかり。元気なときの陽気な姿をすっかりしまいこんでいた。
「落ち込んでいたらおばあちゃんが悲しむよね」
陳腐な表現だけど、と照れ交じりに付け足し、顔をあげると、万十郎が目を細めて微笑んでいた。
「はい」
私もつられて少し笑った。
過去の私の幻影と被ったあやちゃん。あの子が再び笑えるように、私は自分にできることをしよう。
まずは明日、小町先輩に謝ろう。送ってくれた空也先輩にもありがとうと言わなければ。
そして、万十郎。
何も言わず、包み込むように見守ってくれて。
子供の気まぐれの人助けならぬ亀助けの恩返しはもう十分すぎるほどだ。
むしろ、有り余って、私のほうが借りが大きくなってしまっている。
――貸し借りの問題ではなく、私自身、万十郎への依存度が高くなっている気がする。
ぼんやりする癖がついてしまったのか、私は万十郎の言葉を聞き逃した。
「……分かっていても、別のひとを好きといわれるのは堪えますね」
「え? ごめん、もう一度」
「いえ。独り言です」
静かな笑みに、私はなぜかむず痒くなり、思わず手の甲をさすった。
左手の印がある場所だ。
無意識に触れたそこはどこか熱を帯びているようで、なんとなく右手のひらで隠した。
「――ねえ」
「はい?」
「白髪に赤い瞳の男性、知ってる?」
返答はなかった。けれど、一瞬にして消え失せた表情が答えを物語っていた。
「あのひとはあやかしなのね?」
一瞬の間。万十郎は僅かに目を伏せて首肯した。
「彼は雪兎のあやかしです」




