第2話 兄の銀貨と、耳たぶの嘘
使いの足音が遠ざかると、入れ違いに軽い靴音が離れへ近づいてきた。
「レオン、いるかい」
次兄のギルベルトだった。片手に水差しを、もう片手に黒檀の小箱を提げている。
「書斎では父上の手前、何も言えなくてね」
ギルベルトは灰しかない暖炉をのぞき込み、気の毒そうに眉を下げた。それから、卓の上に置いたままの手紙に目を留めた。
「グランフェルトの令嬢からか。……あの方は、お前には荷が重いだろうな」
封の切られた手紙が、指先で俺のほうへ押し戻された。
『天秤の令嬢は涙を拭わない』は、令嬢の目から書かれた話だった。レオン・ヴァルティエが出てくるのは、彼女の前で醜態をさらす場面だけだ。この離れでギルベルトと何を話したかなど、一行も書かれていない。
覚えているのは一文だけだった。《その夜も、レオン様は天秤亭で負けたそうです》。侍女がそう伝えても、令嬢は眉ひとつ動かさない。
悪役の夜は、噂話の一行で片づけられる。
「金を貸してやれればいいんだが、あいにく手元が寂しくてね」
ギルベルトの外套の内側で、財布が重たい音を立てた。
壁際に控えたリーゼの右手が、前掛けの陰で指を一本折った。
「ゆうべは早く休んでしまったんだ。お前が倒れたのも、朝になって知った」
二本目。三本目。リーゼは顔を伏せたまま、睫毛の下からギルベルトの横顔だけを追っていた。
ギルベルトは小箱を卓に置いた。銀貨を十枚ずつ五つ積み、俺の前へ押し出す。
「酔い覚ましに一勝負しよう。これは貸しだ。勝ったら返せばいい」
蓋が開いた。
中には、王冠の箔押しの札が五十二枚入っていた。スペード、ハート、ダイヤ、クラブ。2から10に、ジャック、クイーン、キング、エース。
この体の記憶が、遅れて名前を教えてくれた。王冠札。この国では、家督も縁談も領地の境も、これで決める。
一対一の勝負はヘッズアップと呼ぶ。最初に二人がブラインドを置く。小さいほうがスモールブラインド(SB)、大きいほうがビッグブラインド(BB)で、一回ごとに入れ替わる。ハンドを配った後はSBが先に、場札が開いてからはBBが先に賭ける。配られる二枚が自分だけのハンドだ。場には五枚が順に開く。最初の三枚がフロップ、四枚目がターン、五枚目がリバー。手札と場札の七枚から、いちばん強い五枚で役を作る。賭けはハンドを配った後と、場札が開くたびの四度。最後まで降りなかった者同士が札を開くショーダウンで、強い役がポットをさらう。
役の並びも、ロイヤルフラッシュからハイカードまで前世と同じだった。
テキサス・ホールデムだ。呼び名ひとつ違わない。
「どうせ今夜も天秤亭だろう。手を温めておけ。ブラインドは銀貨一枚と二枚でいい」
俺はわざと札を一枚取り落とし、もたもたと拾い上げた。
◇
一回目。SBは俺、BBはギルベルト。俺のハンドはハートのクイーンとクラブのジャック。二枚にそろえて様子を見る。
ギルベルトは札の端をめくり、すっと短く息を吸った。それから唇の片端だけを持ち上げた。
――テルが出た。相当強いハンドだ。
「六枚」
レイズだ。
――ここで降りれば、昨日までのレオンらしくない。酔って札を追いかける三男でいるには、払うしかない。
「受けて立ちますよ」
声を張ってコールした。フロップはスペードの9、ダイヤの4、ハートの2。ギルベルトが四枚を賭け、俺は首をかしげながらコールする。ターンのクラブの7で七枚。俺はまたコールした。リバーのダイヤの3でも、ギルベルトは手を緩めなかった。十一枚。俺は唸ってから、それも受けた。
ギルベルトが開いたのはキングのペアだった。
「お前は昔から、引けもしない札を追いかける」
六と四と七と十一で二十八枚。俺の前の銀貨は二十二枚になった。
二回目。クラブの7とダイヤの2。役の芽もないゴミハンドだ。
今度はギルベルトがSBだ。二枚にそろえてきたので、俺もそのままフロップを見る。ハートのキング、スペードの8、クラブの5。何ひとつかすっていない。
俺は左の耳たぶを指でつまんでから、銀貨を二枚押し出した。
ギルベルトは息を吸わずにコールした。ボードのどれかとペアになった、その程度の手だろう。
ターンはスペードの3。もう一度耳たぶに触れて、四枚を置いた。
ギルベルトの視線が、俺の指先で一瞬止まった。それからコール。
リバーは二人ともチェックだった。俺が7のハイカードを開くと、向こうは8のペアを見せて笑った。
「強がるときは顔に出るな、お前」
そう言いながら、ギルベルトの目は俺の左耳へ流れていた。
――弱い手で張って相手を降ろすのがブラフだ。そのたびに耳たぶに触れておく。ギルベルトに覚えさせたい偽のテルだ。
二と二と四で八枚。残りは十四枚。
三回目。スペードのエースとダイヤのエース。
SBは俺。耳には触れずに、六枚にレイズした。ギルベルトは首をひねってコールする。フロップはクラブの10、ハートの6、ダイヤの6。ギルベルトのチェックを待って俺が六枚を前へ出すと、向こうはあっさり札を伏せた。
ギルベルトの六枚がこちらへ来て、二十枚。
ギルベルトは札を集めながら、俺の左耳へちらりと目をやった。口の端が満足げにゆるむ。
――覚えたな。耳に触れないときは本物だ、と。
札を切り直しながら、ギルベルトは気安く言った。
「まあ、期限の夜明けまではまだ日がある。焦るなよ」
俺は札を切る手を止めなかった。
三十日後の夜明け。その刻限を口にしたのは、さっきのハーゲン商会の使いだけだ。父は書斎で「三千枚」としか言っていない。羊皮紙を読んだ者でなければ、「夜明け」とは言えない。
リーゼの手が、前掛けを握ったまま止まっていた。
四回目。俺はハートの9とクラブの9。SBのギルベルトが二枚にそろえ、俺もチェックして、二枚ずつがポットに入る。
フロップはスペードのジャック、ダイヤの5、クラブの2。俺がチェックすると、ギルベルトが三枚を賭け、俺はコールした。ターンはハートの4。
「十二枚」
ギルベルトは今夜いちばん大きく張った。息は吸わない。口もとも動かない。ただ、銀貨を積む指だけがいつもより速かった。
――何も持っていない。9のペアでコールすれば、この一回は取れる。
だが、ここで受ければギルベルトの目に映る俺が変わる。酔って札を追いかけては負ける三男。そのテーブルイメージが崩れれば、耳たぶの嘘も使えなくなる。
――銀貨十二枚より、俺を見誤らせておくほうが値打ちがある。だから、フォールドだ。
「……降ります」
ギルベルトは満足げに、伏せた二枚を表に返した。スペードの8とダイヤの7。何の役にもなっていない。
「ほらな。お前は押されると引く」
俺は額に手を当てて、うなだれてみせた。二と三で五枚を失い、手元は十五枚になった。
◇
ギルベルトは立ち上がり、俺の前の銀貨を顎で示した。
「それは今夜の足しにしろ。貸しは五十枚のままでいい。天秤亭で勝ったら、まとめて返してくれ」
扉が閉まり、靴音が遠ざかっていった。
――兄の銀貨で、弟を賭場へ送り出すわけか。
卓の上の十五枚を数え直す。ギルベルトへの借りは五十枚。差し引き三十五枚の負けだ。商会への借りは金貨六千枚。銀貨にして六十万枚で、一枚も減っていない。
空だった財布に入れても、薪ひと月分の銀貨四枚を払えば十一枚しか残らない。賭場の下のテーブルでブラインドを六回払えば消える額だ。
「三つです」
リーゼが前掛けから手を離した。
「何が」
「ギルベルト様の嘘です。手元が寂しい。早く休んだ。朝になって知った」
リーゼは折っていた指を、一本ずつ開いて見せた。最後の一本を開く前に、扉のほうをちらりと確かめた。
「嘘を聞かされるのは、慣れておりますので」
「それで、何が嘘なんだ」
「書斎の『倒れたと聞いた』も、嘘でございます」
リーゼは暮れきった窓の外に目をやった。
「ゆうべ、正体をなくした旦那様をこのお屋敷まで運んできたのは、ギルベルト様の馬車でした。裏門でお受けしたのは私です」
俺は銀貨を数える手を止めた。
「御者は旦那様を降ろすと、夜が明ける前に馬の向きを変えました。『天秤亭へ戻る』と言って」




