第1話 リバーの一枚と、処刑までの三十日
最後の一枚が、緑のフェルトの上を滑ってきた。
クラブの3だった。
向かいの男が椅子ごとのけぞって吠える。ディーラーの腕が、俺の前のチップの山をまとめて向こうへ押しやった。ラスベガスで十年かけて積んだ金だ。それが腕のひと振りで消えた。
俺のハンドはエースのペアだった。フロップでエースがもう一枚落ちて、ターンの8でフルハウスになった。相手の3のペアが逆転するには、山に残った最後の3を引くしかない。四十四枚のうちの一枚だ。
だから俺はオールインした。持っているチップを全部、前に押し出した。打ち方は間違っていなかった。
――バッドビート。正しく打っていても、最後の一枚で運にひっくり返される負け方を、俺たちはそう呼ぶ。
リバーにめくられた3の小さな数字を見ていたところで、記憶が切れた。
◇
目を開けると、天蓋があった。
頭の芯が痛む。口の中が古い葡萄酒の味でざらついていた。頬に触れる敷布が、ひやりとするほど滑らかな絹だった。
レオン・ヴァルティエ。十九歳。伯爵家の三男。
その名前が、自分の記憶として頭に浮かんだ。三十四年分の前世の記憶と混ざり合っていく。
日本の小さな店でホールデムを覚え、ラスベガスへ渡って、ポーカーで食ってきた男。それが前の俺だ。
そして、最後の勝負の前の晩のことを思い出した。安モーテルの軋むベッドで眠れずに、スマホでウェブ小説を読んでいた。
『天秤の令嬢は涙を拭わない』。
あの話に出てくる悪役の名前が、レオン・ヴァルティエだった。
放蕩と賭博で借金を作り、三十日後の夜会で婚約者の座を失う。翌朝、誓約の借金を踏み倒した罪人として首を落とされる。読者がすっきりするための役だ。
「……冗談だろ」
扉が二度、硬く叩かれた。
「旦那様が書斎でお待ちです」
入ってきたのは栗色の髪のメイドだった。リーゼ。俺の専属だ。彼女は床に脱ぎ散らかした上着を、指先でつまんで椅子に掛けた。俺とは一度も目を合わせなかった。
◇
書斎の壁には剣が一本飾ってあった。刃に埃が積もっている。
父のオスヴァルト伯爵は机の向こうに座っていた。俺を見ないまま、羊皮紙の束を卓の上で滑らせてよこした。
「金貨三千枚だ」
平民の一家が銀貨三十枚でひと月暮らせる。金貨一枚は銀貨百枚だから、三千枚あればその一家が八百年は食っていける。
窓辺には次兄のギルベルトが立っていた。
「倒れたと聞いて心配したよ、レオン」
ギルベルトは小さく息を吸い、口もとだけで笑った。目尻はまったく動いていない。
前世で何千回も見た顔だった。強い手を握っていて、それを隠しきれない人間の顔だ。人が自分でも気づかずに見せてしまう癖を、俺たちはテルと呼んでいた。
「ヴァルティエの名は、三代かけて王冠札で勝ち取ってきた」
父の指が机を叩く。
「領地の境も、商会の利権も、この屋敷もだ。剣を抜く前に札を配る。天秤の神の掟がある限り、それがこの国のやり方だ。魔力の一滴も持たぬ出来損ないでも、札なら座れる。だがお前は、その札でさえ一度も勝ったことがない」
壁の剣が飾りでしかない理由が、それでわかった。
剣も魔法もある世界なのに、最後に物を言うのは賭けなのだ。
机の下で、指が勝手に拳を作っていた。言い返したくて舌が動きかけた。
――ここで熱くなったら、ティルトだ。大負けした直後に頭に血がのぼって、取り返そうと雑な手を打ち始める。そうなった奴から順に、テーブルを去っていく。
俺は息を吐いて、羊皮紙に目を落とした。
「この借金は、俺の名前で作ったものです。言い訳はしません」
父の眉がわずかに動いた。
「手当は今日で止める。北の離れへ移れ。籍は抜かん。お前は婚約の誓約の花婿だからな」
十二年前、父は公爵との王冠札に勝った。その支払いとして、公爵の娘をこの家に嫁がせる誓約を取った。どの息子に嫁がせるかは、負けた側が選ぶ決まりだった。公爵は腹いせに、家を継げない七つの三男を名指しした。
「公爵家と縁続きになれば、この家は王宮の夜会に呼ばれる家になる。それがヴァルティエのいちばんの財産だ。こちらから壊せば、北の領地を公爵家に差し出すことになる。お前の値打ちは、名前が羊皮紙に書いてあることだけだ」
父は封の切られた手紙を一通、投げてよこした。
《誓約ですから、私はあなたに嫁ぎます。けれど、賭博に溺れる方を夫と思うことは、生涯ございません。 エレオノーラ・グランフェルト》
筆の運びには一画の乱れもなかった。
原作の彼女は、夜会で花婿の座を失う俺を、扇も下ろさずに最後まで見届ける。
◇
北の離れは、暖炉に灰しか残っていなかった。
「薪は月に銀貨四枚分と決まっております。手当が止まりましたので、今月分はございません」
リーゼが鞄を床に置く。持ってきた荷物は、着替えが三着と、空の財布がひとつだった。
「三千枚の借金がある男の部屋にしては、上等だな」
返事はなかった。リーゼは窓の留め金を確かめ、寝台の敷布を一度だけ叩いて伸ばした。そして扉の前で足を止めた。
「……書斎で、一度も嘘をついていらっしゃいませんでしたね」
「聞いてたのか」
「壁際に控えておりました。旦那様は、いつも嘘ばかりおつきになります。覚えていない、次は勝つ、すぐ返す、と」
リーゼは前掛けの端を指に一度巻きつけ、すぐにほどいた。
「今日は、どれもおっしゃいませんでした」
「本当のことを言っただけだ」
「存じております。ですから、気味が悪いのです」
それだけ言うと、リーゼは背を向けた。俺の脱いだ外套を拾い上げ、丁寧に畳んでから寝台の端に置いていった。
◇
日が傾いたころ、離れの扉が叩かれた。
黒い外套の男が、許しも待たずに一歩入ってきた。胸に銀の秤の飾りをつけている。
「ハーゲン商会の使いです。ゆうべのお約束を確かめに参りました」
男が広げた羊皮紙の端で、天秤の印が鈍く光った。下のほうに署名がある。のたくった、酔っぱらいの筆跡だ。間違いなく、この体の字だった。
「金貨三千枚のご借金を倍の六千枚にてお支払いいただくか、さもなくば御身柄を。期限は三十日後の夜明け」
俺はしばらく、その崩れた署名から目を離せなかった。
「それから」
男は羊皮紙をくるくると巻いた。
「今夜、銀の天秤亭へお越しください。お越しにならなければ、逃げたものとみなし、その場で御身柄をいただきます」
背後で、リーゼが息を止めた。
窓の外では、日がもう屋根の端にかかっていた。




