第3話 隣のテーブルと、まぐれの銀貨
離れを出る前に、銀貨を四枚、専属メイドのリーゼの手のひらにのせた。
「薪代だ。今月の分」
リーゼは四枚を見下ろし、それから卓に残った十一枚に目を移した。次兄のギルベルトが置いていった銀貨の残りだ。
「……ギルベルト様の銀貨を、そのまま賭場へお持ちになるのですね」
「ほかに持っていない」
「下のテーブルでも、一晩もちません」
そう言いながら、リーゼは自分の外套を取ってきた。付いてくるつもりらしい。
◇
銀の天秤亭の扉を開けると、煙と人の声がいっぺんに押し寄せてきた。蝋燭の下で、王冠札をめくる乾いた音がそこらじゅうで鳴っている。
入口の近くでは、粉まみれの商人が二人、来月の小麦の値で揉めていた。
「三枚だ」
「四枚より下げる気はない。札で決めよう」
奥の卓では、絹の上着の貴族たちが地図を広げていた。川筋がずれた牧草地の境も、札でつけるらしい。
帳場の男は俺の顔を見て、鼻で笑った。
「主のハーゲンは今夜出ております。坊ちゃんは下のテーブルへ。席が空くまでお待ちを」
店の奥は一段高く、そこが奥のテーブルだった。いちばん暗い席に、札に手を付けない男がひとり座っている。男が手を組み替えると、指のあたりで灯りがちかりと跳ねた。
◇
待つあいだ、隣の卓の後ろに立った。
ボードはハートの7、ハートのクイーン、スペードの2。ターンでダイヤの9。残りは四人だ。フロップが開いてから先に動くのはSBの赤い帽子の男で、最後は右端の髭の男。前に目印の駒が置かれた席、ボタンだ。
「リーゼ」
小声で呼ぶと、リーゼは嫌そうに半歩だけ寄ってきた。
「右端の髭の男は、相当強い。三枚そろったか、その辺りだ」
髭の男はフロップから一度もボードを見ていない。銀貨を積み直したあとは、肘も動かさなかった。
――札を一枚に決めつけない。この辺りのハンドだと幅で囲う。レンジで読めば外さない。
「隣の若いのはワンペア。たぶんクイーンだ。クイーンが開いたとき、自分の札をめくり直していた。太った商人はハートを待っていて、ターンで外れてため息をついた」
リバーはクラブの4。
赤い帽子の男が銀貨を二十枚押し出し、誰も何も言わないのに大声で笑った。
「あれは何も持っていない」
太った商人は札を伏せたまま放った。若い男と髭の男はコール。
赤い帽子はスペードのジャックとクラブの10。ストレートになりそこねた、役なしだ。若い男はクイーンのペア。最後に髭の男が、7を二枚静かに置いた。スリーカード。
降りた太った商人が、伏せた札を悔しそうにめくった。ハートの5と8。
「ハートさえ落ちてりゃなあ」
隣の卓がどっと沸いた。こちらを振り返る者はいない。
ただ、俺の袖が小さく引かれた。リーゼの指先が袖の端をつまんでいて、すぐに離れた。
「……どうして、お分かりになったのですか」
声がかすれていた。
「札を当てたんじゃない。あの髭は、強いときほど動かなくなる。だから『この辺りの手』と、幅で見ただけだ」
リーゼは黙って髭の男の肘を見た。それから、俺の顔を見た。一歩下がったが、それ以上は離れない。次の札が配られると、爪先立ちで俺の肩越しにのぞき込んだ。
「次は、どなたが強いのですか」
自分の声の大きさに気づいたらしい。リーゼは口を両手で押さえ、それから何事もなかったように背筋を伸ばした。耳だけが赤かった。
◇
赤い帽子の男が舌打ちして立ち上がり、残りの銀貨をさらって出ていった。
空いた席を、帳場の男が顎で示した。さっきまで後ろから眺めていた卓だ。六人掛けで、ブラインドは銀貨一枚と二枚。
席に着くとすぐにBBの二枚を払い、そこから一巡、全部降りた。SBの一枚も払って、手元は八枚。
そのあいだに分かったことがある。鉤鼻の男はどんな手でもほとんど降りず、札が配られるたびに杯へ口をつける。一度だけ杯に触れずにレイズした回があり、そのときはエースのペアを開いた。
――強いハンドのときだけ飲まない。そのくせ何でも払ってくる。上等なフィッシュだ。
一回目。またBBが回ってきた。SBは隣の男。二枚を置いて、手元は六枚。ハンドはハートの9と8。鉤鼻が二枚でついてきて、SBは降りた。俺はチェック。ポットは五枚。
フロップはハートのキング、ハートの4、クラブの10。
先に動くのは俺だ。チェックすると、鉤鼻は杯をあおってから二枚を賭けた。
――山に残るハートは九枚。俺を勝たせるアウツだ。前世のポーカーの確率で言えば、次の一枚で当たるのは約19%。七枚のポットに二枚を払うなら、22%当たれば元が取れる。一枚だけなら少し足りない。だが飲んでいる鉤鼻はターンで大きく打たない。リバーまで二枚見られれば約35%。当たれば最後まで払う相手だ。
――ポットオッズは足りている。
コールして、手元は四枚。ターンはダイヤの2。二人ともチェック。
リバーはハートの3。
ポット九枚に、残りの四枚を押し出した。オールインだ。鉤鼻は唸ってコールし、10のペアを開いた。
俺がハートを五枚並べると、向かいの男が手を叩いた。
「引けもしない札を追って、本当に引きやがった!」
「勘定もできない坊ちゃんに、天秤の神様が味方したらしい」
十七枚が戻ってきた。この体が王冠札で初めて勝った銀貨だった。
二回目。SBの一枚を払って降りると、次はボタンの席だった。フロップが開いてからは、最後に動ける。SBは向かいの男、BBは鉤鼻。ハンドはスペードのエースとクラブのキング。五枚にレイズした。SBは降り、鉤鼻は杯をあおってコール。ポットは十一枚、手元は十一枚。
フロップはダイヤのキング、スペードの8、ハートの3。BBの鉤鼻がチェックし、俺は六枚。鉤鼻は飲んでからコール。手元は五枚。
ターンはクラブの5。チェックを待って、残りの五枚を前へ出した。
「さっきのはまぐれだ。どうせ今度は何も持っちゃいない」
鉤鼻はコールし、8のペアを開いた。リバーはスペードの2。
三十三枚。
「おいおい、二度目だぞ」
「先月はここで外套まで取られた坊ちゃんだぞ。考えなしに張るから、ツキのほうが面白がって寄ってくるんだ」
帳場の男まで寄ってきて、俺の山を見下ろした。
「坊ちゃん、ツキは逃げ足が速い。今のうちに倍を張りなされ」
誰ひとり、俺が鉤鼻の杯を見ていたことに気づかない。後ろでリーゼだけが、杯と俺の横顔を交互に見ていた。
顔を上げると、奥の暗がりの男がまだこちらを向いていた。指の上で、灯りがゆっくりと回る。
――負けてばかりの常連が急に勝ち出せば、奥のテーブルに知らされる。いずれハーゲンと一対一で座る日まで、俺はたまたまツイた馬鹿でいなければならない。
SBとBBで三枚を払って降り、手元は三十枚。
三回目。SBとBBは向かいの二人。ハンドはダイヤのクイーンとジャック。ひとつ前の席で、鉤鼻が四枚にレイズした。杯に指一本触れていない。
――相当強い。たぶん、俺より上だ。
俺は勢いよく四枚を放り込んだ。ブラインドの二人は降り、ポットは十一枚。手元は二十六枚。
フロップはスペードのクイーン、クラブの7、ハートの4。先に動く鉤鼻が五枚を賭けた。杯は乾いたままだ。
俺はわざと口もとを緩め、考えるふりもせずに五枚を放り込んだ。いい札が来て浮かれている坊ちゃんの顔だ。手元は二十一枚、ポットは二十一枚。
ターンはダイヤの2。鉤鼻は八枚。
俺は銀貨に手を伸ばし、引っ込め、頭を抱えてから札を伏せた。
「……やっぱり、やめておきます」
「ほら見ろ、まぐれだ」
鉤鼻は得意げにキングを二枚返した。卓に笑いが広がる。
「怖くなったら降りる。運だけの坊ちゃんは、そんなもんさ」
帳場の男も肩をすくめて離れていった。奥の暗がりの男は、もうこちらを見ていなかった。
俺は頭をかきながら席を立った。
二十一枚。種銭の十一枚が、ほぼ倍になった。商会への借りから見れば、砂粒ほどの額だ。
財布に銀貨を落とすと、リーゼが半歩近づいて言った。
「降りるとき、一度も迷っていらっしゃいませんでした」
「迷ったふりはしただろう」
「はい。下手でございました」
リーゼは前を向いたまま、口の端をわずかに引き結んだ。
◇
出口の扉を押し開けたところで、柱の陰から男がひとり出てきた。
頬に古い傷のある男だった。男は俺の横をすり抜け、リーゼの前に立ちふさがった。
「よう、男爵家のお嬢さん。まだ伯爵家で拭き掃除か」
リーゼの足が止まった。返事はしない。外套の襟を、片手で喉もとまで引き上げた。
男は外套の胸を軽く二度叩いた。合わせ目から、天秤の印を押した羊皮紙の端がのぞいている。
「親父さんの証文、まだ俺が預かってる」




