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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第六章 野生

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第076話 線の下

除籍の記録の様式に関する定め(抄)


記録の残し方 行を消さない

線の引き方 次項に記す

欄の別 次の各項による


一、記録の残し方


除籍とした個体の行は、記録から消さないものとした。抹消の処理は行わないこととしていた。行を書き替える扱いも置いていなかった。


書き替えた例の有無は、当部門では確かめていない。


残した行の扱いは、当部門の内部の慣行によっていた。


二、線の引き方


除籍とした行には、上から線を一本引くものとした。線は行の左の端から右の端まで引くこととしていた。線の太さは定めていない。


用いる筆記具の別も定めていなかった。線を引いた後の行は、下の字が読める状態のままとする。塗り潰すことは認めない。


認めない旨の理由は本定めに記していなかった。


二の二、線を引く時期


線は除籍の決定の後に引くものとする。


決定の日から何日以内に引くかは定めていない。引かないまま置いた例の有無も、当部門では数えていなかった。数える欄は別の簿冊の側に置いた。


一の二、番号の欄


番号の欄は登載の際に記入する。記入した番号を後から改めた例は、本記録に無い。改める場合の扱いも定めていなかった。


定めるよう求められた例は残っていない。


二の二、三行の年


線の引かれた三行の登載の年は、令和百七十四年、令和百九十一年、令和百九十一年であった。同じ年の二行は、番号の順によって並べてある。並べた根拠を記した書面は当部門に残していなかった。


三、読める状態


読める状態の定義は本定めに置いていない。


読めるか否かを判ずる者の別も置かなかった。判じた例の記載は残っていない。


四、欄の別


本記録の欄は五つとしていた。


登載の年、番号、区分、除籍の年、備考になる。


備考の欄に記入のある行は、登載の総数のうち十一であった。記入の内容を分類した記載は無い。


四の二、区分の欄


区分の欄には、除籍の後の扱いを記入するものとした。


記入し得る語は三つとしていた。三つの別は、外の地域への移送、施設内での継続、その他であった。その他を選んだ場合に内容を書かせる欄は設けていない。


書かせるよう起案した記載も残っていなかった。


五、線を引いた者


線を引いた者を記す欄は、本記録の様式に設けていない。


設けるよう起案した例は開設以来一件あった。当該の起案は保留の扱いのままであった。保留を解く期日を記した書面は無い。


六、線を引いた日


線を引いた日を記す欄も設けていなかった。除籍の年の欄と同じ日であるかどうかを、当部門では確かめていない。


確かめる手順も置いていなかった。


六の二、除籍の決定


除籍の決定は当部門の会議による。会議の記録は別の簿冊へ綴じることとしていた。本記録と当該の簿冊とを引き合わせる手順は本定めに置いていない。


引き合わせた例の記載も残っていなかった。


七、本記録の閲覧


本記録の閲覧は当部門の内部に限ることとしていた。


外部からの申出を受けた例は本年度に零件である。


申出の様式は定めていない。定めるよう求められた例も残っていなかった。


──────────────────


 道は水の縁に沿って下っていく。

 下りは緩い。

 傾きの弱いところが百歩ほど続いて、その先でまた平らになる。

 日は右の側にある。低くなると、影が道の幅より長くなる。私の影の頭は、道の反対の草へ届いている。

 足の裏が痛い。右の踵の外で、歩く度に同じ場所へ当たる。痛み方は歩幅を狭くすると変わった。


 狭くすると、歩数のほうが増える。私は歩数を数えるのをやめた。


 道の右は草で、左が下りになる。落ちた先が水になっている。

 面は昼より暗い。色は一つのままだ。日が低くなっても、近いところと遠いところで分かれない。

 縁に近い場所を歩いてみる。歩くと土が柔らかい。足を上げると、跡が残る。


 跡の縁から水が滲む。滲むまでに三つ数えるほどある。


 私は道へ戻る。

 道の土は乾いている。踏むと粉になって、靴の縁が白くなる。白くなるのは右の靴だ。


 左の靴には草の汁が付いている。乾いたところが黒い。筋は三本になる。

 長さはどれも指の一関節ほどだ。向きは揃っていない。真ん中の一本が短い。

 私は靴を草でこすらない。こすると、右の白いのも落ちる。


 草の中に杭が一本立っている。頭が斜めに切ってあって、上の道で見たものと揃っている。

 高さは膝の下までになる。上に何も結んでいない。


 腹が鳴った。昼に食べたものは二つとも無い。包みの布は畳んで袖の外へ挟んである。


 挟んだ場所は肘の内側で、石とは反対になる。


 水の縁に小屋がある。板で建ててあって、屋根が片方へ下がっている。低いのは水の側だ。


 小屋の前に舟が二つ、裏返して置いてある。底に草が生えている。草の出ているのは片方だけになる。


 舟の脇に木の枠が立っている。枠から縄が下がっていて、先に鉤が付いている。鉤の内に向いた面が光る。


 枠の脚は四本ある。二本が水へ向かって傾いている。傾いた下の土が低い。


 縄は新しくない。撚りが緩んで、途中で毛羽が立っている。立っているのは三箇所になる。


 鉤の外は錆びている。錆は赤い。指で触ると粉が付く。


 私は触った指を服でこすらない。粉は掌の皺に沿って残る。

 小屋の板は横に張ってある。

 下から三枚目までが色の濃い板で、その上は薄い。二つの境は真っ直ぐだ。張り替えた高さだ。


 水の来る高さがそこまでだったのだと思う。

 いまの水の面は、それより低いところにある。


 板の継ぎ目には、隙間が空いているところと、詰まっているところがある。


 詰まっているのは下の三枚だ。指を当てると、上の板からだけ風が来る。


 屋根の端から、細い棒が二本出ている。長さは揃っていない。


 戸の脇に木の札が掛かっている。字は消えかけていて、二つが読める形で残っていた。その二つを、私は読めない。


 小屋の戸が開いた。

 出てきたのは男の人だった。年は分からない。頭の毛は短くて、右が白い。


 この人は私を見る。頭から下まで見て、それから足で一度止まる。


「そこに立ったままでいると日が落ちてから動けなくなるぞ」


 この人が言う。声は低い。


 私は動かなかった。

 この人は戸を大きく開けて、中を顎で示す。それから自分が先に入った。

 入る前に、靴の底をこするところを探した。三和土は無くて、板が直に外へ出ている。こする場所は無い。

 草の上でこすった。土が落ちる。粒は草の間へ入って見えなくなった。


 私は小屋へ入る。


 中は板の間で、真ん中に炉が切ってある。炉には灰が入っていて、下が赤い。上から木が二本渡してあった。


 匂いは煙と、それから魚になる。後のほうは天井から来た。上を見ると、細い棒が渡してあって、何かが吊るしてある。


 数は九つで、どれも揃った向きだ。

 板の間の隅に網が積んである。網は三つで、目の大きさが違う。一番上のものが一番細かい。

 網の脇に木の箱があった。蓋は無い。

 中に石が入っている。石は丸くて、大きさが揃っていた。


 数えると十二ある。用途は分からない。


 壁の板には隙間がある。幅は指の半分ほどで、外の色がそこだけ入ってきた。筋は四本になる。

 角度は揃っていて、下へ落ちている。


 落ちた先は板の間で、そこに埃が浮いていた。

 見えるのは筋の中だけだ。


 埃は落ちない。上がるでも下がるでもなくて、一つの高さで回っている。

 回る速さは筋によって違う。戸に近い一本が一番速い。奥の一本は止まったままだ。


 私は息を吐いてみる。吐くと、筋の中のものが一度に流れる。流れてから、また戻る。


 戻るまでに、四つ数えるほどある。


 棚は壁の高いところに二段ある。上の段には壺と缶が並んでいた。

 順は大きさによっていない。下の段には布と紙が置いてある。紙は束になっていて、上に石が載せてあった。


 この人は湯の入った器を出す。器は木で、縁が欠けていない。


 湯を注ぐ。注ぐ音は高いところから低いところへ変わった。


「湯は冷めるまで待たなくていいから先にそれを飲んでおけ」


 私は器を持つ。持つと掌が熱い。

 口をつける。舌の先が熱くて、一度離す。二度目は少し待ってからにした。


 湯には味がある。塩ではない。

 草の味で、園の薬湯と近い。あちらより苦くない。


 二口目で、喉の奥が緩んだ。

 息が入りやすくなる。

 それから肩が落ちた。落ちる速さは、昨日の朝に布で拭かれた時より遅い。

 器の中を覗く。湯の面に自分の顔が映っている。写るのは目から上で、口は入らない。

 湯気が上がると、映ったものが崩れた。元へ戻るまでに、二つ数えるほどある。


 器の縁に欠けは無い。指でなぞると、一周とも厚みが変わらない。


 外に焦げた跡がある。黒いのは一箇所で、大きさは爪ほどだ。火に近づけすぎた跡だと思う。


 私は焦げたところを手前へ回す。回すと、湯の面が一度傾く。


 この人は炉の向こうに座る。片方の膝を立てた。


 この人の座り方は園の係の人と違う。

 係の人は椅子に座って、こちらは床に座った。ここでは二人とも板の間にいる。高さが揃う。


 同じ高さで人と向き合ったのは、家の卓の四つの器の時になる。あちらは椅子だった。


 私は器を両手で持ったままでいた。


「歩き方で分かるからその足を火のところまで出してみろ」


 私は右の靴を脱ぐ。紐を解くと、輪が先に落ちた。


 脱いだ足を火のほうへ出す。


 この人は私の足首を持つ。手は下からで、爪先は握らない。持ち上げた高さは炉の縁と揃った。


 踵の外を見る。見てから、指で押す。

 押されると痛い。

 私は足を引かない。


「まだ破れる前だから今のうちに塗っておけば二日で乾く」


 この人は棚から小さい壺を出す。蓋を回して開けた。中は白くて、匂いは油になる。


 指の先で取って、踵へ塗る。動きは円で、外から内へ回った。


 回した数は六つだ。

 塗る間、この人は私の顔を見なかった。目は踵にある。


 園の獣医室では、塗る前に必ず番号を読み上げた。それから、書いてある処置の名を言う。ここでは何も言わない。


 塗り終わると、布を巻いた。布は細く裂いてある。巻く向きは足首から爪先へで、最後に端を挟んだ。


 挟んだ場所は甲の上になる。


 この人は私の足を下ろす。それから掌を炉の火にかざした。


 かざした手は大きい。指の関節が太くて、爪の形が四角い。


 左の掌に、横に走った跡が一本ある。跡は白くて、周りより低い。

 この人は棚の別のところから帳面を出す。

 帳面は厚くない。表紙は無くて、上のところを紐で綴じてある。紐の色は褪せていた。


「立ってそこの壁のところまで来て背中を平らに着けてみろ」


 私は立つ。片方の足に布が巻いてある。歩くと当たりが変わった。


 壁の板に、横の線が引いてある。数は多い。下から上へ並んでいて、間は揃っていない。


 この人は私を壁へ背中から着ける。踵を壁につけろとは言わない。私は自分でつけた。


 頭の上へ板を当てる。板は水平になる。


 この人は板の下の縁へ印をつける。つけたのは鉛筆で、線は短い。

 印の位置を、私は横目で見た。

 壁の線の並びの中で、上から四つ目と五つ目の間になる。


 四つ目の線の脇には字が書いてある。読める形は数で、下二桁が消えていた。五つ目の脇には何も書いていない。


 それから帳面を開いて、何かを書いた。その間、私は壁から離れなかった。

 書き終わると、この人は炉の脇の梁を指した。


 梁から縄が下がっている。先に横木があって、その下に輪が見える。


「そこの輪を両手で掴んだら足を床から離してぶら下がっていろ」


 私は輪を掴む。指を組まずに握って、膝を曲げた。

 足が床から離れた。


 縄の上のほうに、丸いものが付いている。丸いものの脇に細い針があって、針が動いた。


 針の下には目盛りがある。刻みの間は細くて、数は五つおきに刻んであった。私の掛かった位置は、刻んである二つの間になる。

 真ん中より上の側だ。


 動いてから止まる。止まった位置で、この人は目を細めた。


 園の秤は数が出る形になる。目を細める人はいなかった。


 帳面へまた書く。


 私は輪から手を離す。すると足が床へ着いた。布を巻いた側が先になる。


「上を向かなくていいからそのままの高さで口を開けていろ」


 私は口を開ける。


 この人は指を入れなかった。顔を近づけて、火のほうへ私の顎を向ける。

 火の側を向くと、口の中が明るくなる。光は奥まで届かない。


 この人は私の唇の上を指で持ち上げた。

 触るのは上だけで、下は触らない。

 持ち上げている間、私は息を止めた。長さは五つ数えるほどになる。


 見た時間は五つ数えるほどある。見終わると、顎から手を離した。

 帳面へ三度目を書く。


 次に、この人は私の掌を取る。両方を火へ向けた。


 指の付け根を親指で押した。場所は四つで、四つとも強さが揃っていた。

 押された場所は、昨日の朝に自分で見た筋の寄っていたところと同じになる。いまは筋が消えている。乾いたのだと思う。


 それから爪を見る。爪は右から順に見て、左の小指で終わった。

 見る時に、爪の先を自分の親指の腹へ当てた。触れたのは十本のうち三本になる。

 どれも右の手だった。左は当てない。

 帳面へ四度目を書いた。


 書いた数を、私は見ていない。

 帳面はこの人の膝の上にあって、字は私の側からは逆さになる。


 園でも同じことをした。背と、体重と、歯と、掌になる。順も揃っている。


 四度書いた。速さは四度とも違う。長いのは二度目で、短いのは四度目だ。


 鉛筆を置く音がした。置いた場所は帳面の上になる。


 この人は帳面を閉じた。閉じてから、紐の側を揃える。

 揃える動きは二度で、二度目は角のところに掛かる。揃え終わると、掌で表を一度押さえた。押さえた場所は真ん中ではなく、紐に近い。


 園の係の人は、票を閉じた後に必ず番号の側を上へ向けた。ここには番号が刷ってある面が無い。

 私は座り直す。


 座り直すと、布を巻いた足が炉から遠くなる。すると巻いた布の中が冷えるのが分かった。冷えるのは表の側からで、皮膚に触れている面は温かいままになる。


 私は足の位置を戻す。順が逆になった。表が先に温まって、内側が後から温まった。

 湯はまだ温かい。器の底に、細かいものが沈んでいた。屑は草のものになる。

 この人は炉に木を一本足す。足すと火が上がって、天井の吊るしたものが影で動いた。


 動く影は壁を横切る。速さは火の高さで変わった。

 高いと速い。壁の横の線の並びに、影が重なる。並びは線が見えなくなって、影が過ぎると出てくる。


 私のところの印は、影が来ても見えていた。鉛筆の線が他より濃い。


 私は袖の内側へ指を入れる。紙は三枚ある。


 一番下の一枚を出す。折り目は一本のままだ。


 開いて、火のほうへ向ける。

 この人はそれを見る。


 見てから、手を出した。

 私は渡す。


 この人は帳面を膝から下ろして、板の間へ置いた。場所は自分の左になる。置いてから、両手で紙を受け取った。

 その時、指を紙の縁へ掛けない。下から支える持ち方をする。


 この人は紙を目から離して持った。距離は腕の長さの半分ほどになる。


 読んでいる時間は長い。三十を数えるほどあった。

 その間、目は上から下へ二度動いた。

 二度目のほうが速い。二度目の途中で一度止まる。止まった位置は紙の真ん中より下になる。

 止まってから、また下まで行った。


「なんの紙ですか」


 私は訊いた。


 この人は答えない。紙を持ったままで指を一度だけ動かす。


 動くのは親指で、紙の縁を撫でる形になる。撫でた場所は下の角だ。


 角は丸くなっている。私が拾った時から丸かったのか、袖に入れている間にそうなったのかが分からない。


 紙の面には、道の土の粉が付いている。付いているのは折り目の内で、開くまで見えなかった。


 この人は紙を炉の明かりへ寄せる。

 寄せてから、指で線をなぞった。


 なぞったのは、上から四つ目の行の線だ。


「そこの行は消さないで線を一本引くだけにしておくんだ」


 この人は紙を私へ返す。渡す時、線のある面を上にした。


「引いた線の下の字は読める状態のままにしておく決まりだ」


 私は紙を受け取る。

 受け取る時、この人の指が離れるのが早い。渡すというより、手から抜けた形になる。


 線の下には四つの字がある。前に見た時と同じ字だ。読める。

 意味は分からない。


 線の上には何も書き足していない。


「誰が引くんですか」


「そういう欄が無いから誰が引いたかは何処にも残らない」


 この人の指は線の上を二度なぞった。二度目は行の右の端で止まる。

 指の下に、字の切れ目がある。先は空いていた。


 この人は帳面のほうへ目をやった。やってから、すぐに戻す。


 帳面は閉じたまま板の間にある。紐の端が私へ向いていた。


 戻す速さは、やる時より速かった。


「いつ引くんですか」


「引いた日を書く欄も無くて年だけが別の欄に入っている」


「年を書く欄は最初に書き込むことになっていて空きが無い」


 この人は炉の灰を棒で寄せる。赤いところが広がる。

 広がったところへ、また灰を戻した。

 私は紙を折り直す。折り目は一本のままにした。袖の内側へ入れると、石の隣で止まった。

 外で水の音がする。舟の底に当たるもので、間は一定ではない。


 三度続けて短く、それから一度長い。長いのの後に、また短いのが来る。私は十まで数えて、そこで並びが繰り返さないと分かった。


 繰り返さないものを数えても、数は残らない。それでも私は数え直した。


「俺は二十二の年に外へ出てそれから四十年ここに住んでいる」


 この人はそれだけ言った。


 言った後、湯の器を持ち上げて、自分の分を注ぐ。量は私のより少ない。


 この人が言ったのは年になる。何処からとも、何をしていたとも言わない。

 私は訊く形を口の中で作った。それから器の湯を飲む。


 私は年を数えようとした。足すと六十二になる。

 六十二という数は、園で一番低い番号の人の年と近い。

 あちらは在籍の長さで番号が決まる。この人には番号が見えない。首の後ろも、腕の内側も、袖に隠れている。


 頭の毛の白いところと、そうでないところを見た。合わせても、六十二には見えない。


 この人は湯を飲んだ。飲む時に音がする。


 私は自分の器を持ち直す。底の草の屑が回った。向きは器を持つ手で決まる。


 この人は棚から袋を出して、中のものを二つ取る。二つとも乾いていて、色が濃い。


 一つを私へ渡す。もう一つは自分で口へ入れる。

 私は受け取ったものを見る。表に皺が寄っている。匂いは魚と近い。

 天井に吊るしてあるものと同じだと思う。


 噛むと固い。固いところが唾で緩むまでに、二十を数えるほどある。

 緩むと塩の味が出た。味は舌の脇でした。


 私はもう一度噛む。二度目も脇でした。

 噛んだ後の口の中に、細い筋が残る。歯の間へ入ったものになる。


 舌で押すと動いた。動いてから、また同じところへ戻る。私は指を入れなかった。

 この人は自分のぶんを噛み終えて、器の湯を飲む。その時、喉が二度動いた。

 戸の隙間の色が、入ってきた時より濃くなっている。四本の筋はもう見えない。


 外はもう暗い。


 戸の隙間から風が入ってくる。風は炉の火を横へ倒した。火はまた立つ。


 この人は棚から布を出して、板の間の隅へ広げる。布は二枚重ねになった。


「そこの布の上で寝て夜が明けるまで戸を開けないでいろ」


 私は布の上へ行く。座ると、下の板の冷たさが布を通ってくる。


 布は二枚とも厚くない。上の一枚は端が擦れていて、糸が出ている。数は三本になる。

 下の一枚は色が濃い。上のものより古いのだと思う。

 園の寝台の敷布は月に一度替えた。替える日は掲示に出る。ここでは訊かなかった。


 この人は炉の反対の側へ寝る。寝る時に上着を脱がない。


 横になる前に、戸の掛け金を確かめた。触れたのは二度で、二度目は手を掛けただけになる。

 それから棚の下の段を見た。目をやっただけで、何も取らない。


 火は落としていない。灰を掛けて、赤いところを残してある。


 私は横になる。


 横になる前に、靴を布の脇へ揃えた。

 爪先を戸へ向ける。園の寝台の下では、爪先を壁へ向ける決まりだった。それを書いた紙は、ここには無い。

 私は爪先を戸へ向けたままにした。


 布を巻いた足は、靴を履いていない。片方を置くことになる。置いた靴の隣に、この人の履物がある。

 二つとも爪先が戸へ向いていた。


 向きは私が置いたものと同じになった。合わせたのではない。置いてから気づいた。


 横になると、天井の吊るしたものが見える。数は九つのままだ。九つのうち二つは、他より小さい。


 小さい二つは端にある。片方は糸が二重に掛けてあった。

 炉の火が板の間の低いところを照らしている。光が当たっているのは私で、この人は影に入る。

 影の側から、時々音がした。布のこすれる音で、間は数えなかった。


 私は目を閉じる。

 閉じても、火の音が残る。木が縮む音で、間は水の音より長い。

 昨日から寝ていない時間は、四十を越えている。数え始めたところで、数が続かなくなった。

 布の下の板に、節がある。背中の右に当たった。場所は動かない。


 私は寝返りを打たなかった。


 夜のうちに一度、目が覚めた。

 覚める前に、外で音がしたのだと思う。音は覚えていない。残っているのは、目が開いた時に天井が見えたことになる。


 覚めた時、この人は起きていた。炉の脇に座って、帳面を開いている。

 鉛筆は持っていない。開いた頁を見ているだけになる。

 私は目を細めたまま見ていた。


 この人は頁を一枚めくる。先の頁も見た。時間は前より短い。


 それから帳面を閉じて、また横になる。火は同じ高さのままだった。


 私はそのまま目を閉じる。それから、開いた頁の数を数えようとした。

 この人がめくったのは一枚で、見ていたのは二頁になる。帳面のどのあたりかは分からない。


 紐で綴じた側からの厚みも、暗くて見えなかった。


 朝になる前に、私はもう一度目を覚ました。


 覚めた時、背中の節の当たる場所が変わっていた。寝返りを打ったのだと思う。

 打った覚えは無い。布の端が肩から外れている。落ちた側は右になる。

 戸の隙間が薄い。外の色が変わっている。


 この人はまだ寝ていた。息の音は長くて、切れ目がある。間は数えなかった。

 板の隙間から入る色は、昨日の夕方より白い。

 筋の数は四本のままで、角度が変わっていた。角度は上へ寄っている。四本とも寄り方が揃っている。

 私は起き上がって、足の布を見る。

 布は緩んでいない。挟んだ端も動いていなかった。


 踵を押してみる。押すと痛い。場所は昨日より狭くなっている。

 布の巻き目は五重だ。甲の上で端が止まっている。


 端の挟み方は、私が自分でやるより浅い。浅いのに緩んでいない。挟む前に一度ねじってある。

 ねじった向きは、外から内になる。私にはその挟み方が出来ない。


 私は布を巻き直さない。


 器は炉の脇に置いたままだ。底の草の屑は乾いて、底に貼り付いている。


 私は器を持ち上げる。持ち上げると、貼り付いたものは動かない。


 器の外の側を指でなぞる。木の目が縦に走っていて、縁の近くで二本が寄っている。寄ったところだけ色が濃い。

 使う人の指がいつも当たる場所になる。当たる場所は、私の持ち方とずれている。


 外の水の音は昨日より低い。風が落ちている。


 戸は開けなかった。

 板の隙間から入る白いものが、床の上で四本の筋になっている。端は棚の下まで届いていた。

 その先に、束ねた紙の角が見える。上に載せてある石は動いていない。


 私は器を元の場所へ置く。向きは取った時と同じにした。


 この人の息の切れ目は、まだ続いている。数えると、切れ目までが六つで、次が七つになった。三度目は六つに戻る。


 四度目からは数えない。数えても、次が前と揃わない。


 私は天井の吊るしたものを見る。九つのうち、端の小さい二つが揺れている。


 揺れの幅は指の半分ほどだ。残りの七つは動かない。

 風は入っていない。それでも揺れている。


 私は数えるのをやめて、板の上に座っている。


 棚の下の段の紙束は、昨日の夕方に見た時と厚みが変わっていない。上の石も同じ位置にある。束の横から、紙の縁の並びが見えた。

 真っ直ぐではない。一枚が他より外へ出ている。


 出ているのは上から数えて七枚目になる。指で押せば揃うと思う。私は押さなかった。


──────────────────


除籍の記録(抄)


登載の年 開設の年から

線を引いた行 三行

読める状態 次項に記す


一、本記録について


本記録は除籍とした個体を登載したものになる。


登載の総数は四十七であった。登載は年の順によっていた。同じ年に二件以上ある場合の順は定めていなかった。


二、線を引いた行


線の引かれた行は三行を数えていた。三行のうち二行は同じ年に登載したものになる。残る一行の登載の年は令和百七十四年であった。


当該の行の区分の欄には、外の地域への移送と記入されていた。


三行とも、線の下の字は読める。


三、読める状態


読める状態の定義は様式の定めに置いていない。本記録の作成の際にも、読めるか否かを判じた記載は残していなかった。判ずる者の別も定めていなかった。


四、備考の欄


備考の欄に記入のある行は十一に上っていた。


十一のうち、線の引かれた行に係るものは一つであった。当該の一つの記入は、四つの字であった。字の意味を注記した記載は本記録に無い。


意味を確かめた例も残っていなかった。


五、除籍の年と登載の年


除籍の年の欄と、登載の年の欄は別に置いてある。二つが同じ行は四十七のうち三十九行になっていた。異なる八行について、異なる事由を記す欄は本記録に無い。


事由を確かめた記載も残していなかった。


五の二、閲覧の記録


本記録の閲覧の記録は別の簿冊によっていた。


本年度の閲覧は当部門の内部で六件に留まっていた。


六件のうち四件は同一の者による。同一の者であるかどうかは、当該の簿冊の氏名の欄で照合する扱いになる。


五の三、備考の四つの字


前項四の記入は四つの字としていた。


四つの字を他の行と照合した記載は本記録に無い。同じ四つの字が他の簿冊にあるかどうかも、当部門では確かめていない。確かめる手順は置いていなかった。


六、線を引いた者と日


線を引いた者と、引いた日を記す欄は本様式に無い。


作成 除籍の事務の係

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