第067話 覚えないほう
予防の接種に係る実施の要領(抄)
実施の回次 本年度 第一回
実施の場所 居住区分の診療の窓口
要する時間 一体につき七分
一、要領の性質
本要領は、個体に対する予防の接種の手順を定めたものであった。制定は令和百九十四年になる。改定の履歴は次項に記す。
改定は五回を数える。直近の改定は令和二百十一年で、要する時間を九分から七分へ改めた。
改めた根拠を記した書面は当部門の綴りに残っていなかった。
二、回次
園内に在る個体については、年に二回、春と秋の各一回を実施するものとした。
相手方へ引き渡した個体については、年に一回実施するものとした。時期は春の一回になる。
二つの回次が違う理由を記した書面は当部門に無い。照会は本年度に二件あり、二件とも「要領の定めによる」と回答している。
回次を揃えるよう求めた例は前年度に一件あった。当該の求めは受理し、以後の処理の記載は残っていなかった。
三、手順
体温を測り、体重を確かめ、それから接種する。三つの順は本要領で定めた。順を替えた例の数は当部門で数えていない。
体温の上限は三十七度五分とし、超えた場合の扱いは別の要領によるものとした。
接種の部位は上腕の外側とした。左右の別は定めていない。左を用いた例が本年度に多いと伝えられている。
針は一体ごとに替える。替えた本数を数えた書面は当部門で作っていない。数えるよう求めた例も無かった。
四、記録
接種の後に、実施の日と部位を個体票へ記入する。記入する者は実施した者とした。記入の期限は当日とする。
期限を過ぎた例は本年度に四件あり、四件とも受理していた。
腫れの有無を記入する欄は個体票に設けてあった。大きさを記入させる扱いは置いていない。写しを相手方へ渡す扱いも無かった。
五、事後
接種の後の三日は、屋外へ出す時間を短くするよう相手方へ伝えるものとした。伝えた例は本年度に十九件ある。伝え方は口頭による。
伝えた旨を控える欄は実施の簿に設けてあり、十九件のうち控えたのは十一件であった。
短くする幅は定めていない。守られたか否かを確かめた例も本年度に無かった。
四日目以降の扱いは本要領に記していない。
六、費用
費用は要しない。要しない旨は実施の前に相手方へ伝えるものとした。伝えた例は本年度に十九件ある。
相手方から費用の申し出があった例は本年度に二件あり、二件とも受けていなかった。
受けない旨を定めた書面は当部門にあり、写を相手方へ交付する扱いは置いていなかった。
──────────────────
左の腕の外側に、丸い跡が一つある。押すと、まだ少し硬い。周りより温かい。
四日前の午後に付いた。窓口の台に腕を載せて、七分で終わった。
台は木で、上に白い布が敷いてある。布の端が二箇所ほつれていた。
腕を載せると、布の下の木が硬い。肘のところが先に当たる。
係の人は体温を測り、それから体重を確かめた。
五十三・四と読み上げた。男の人が横で紙を見ている。読み上げた数を、その紙へ書き入れる。
針は箱から出す。箱の中に同じものが並んでいて、数は十二ある。使うのは端の一本になる。
抜いた後の空きは、そのままにしてあった。
跡の色は薄い紫で、縁のほうが黄に寄っている。大きさは爪の三つぶんになる。
初めの日は、袖が触れると気づいた。今日は袖では気づかない。
園でも同じ場所へ入れた。あちらは年に二回で、春と秋になる。
秋の一回は、廊下の端の部屋で並んで受けた。列は二十四人で、私は前から十番目だった。
前の人の腕が出るところまでは見える。針が入る瞬間は、体が邪魔になって見えない。入った後に、係の人が親指で押さえる。
時間は人によって違う。長い人と短い人がいる。短いほうが早く終わって、次の者が呼ばれた。
腕を上げると、肩のところが少し引っ張られる。
上げる幅は昨日より大きい。真っ直ぐ上まで行く。園にいた時は、上げてから十を数える決まりがあった。
ここでは誰も数えない。私は自分で十まで数えて、それから下ろす。
日曜の朝は、この家では三人が遅い。私は六時十分に目が開く。布団を畳んで、部屋の隅に座る。
板が一度鳴る。畳む時の音だ。
布団は三つに折る。折ってから、上へ枕を載せる。
枕の縫い目が上を向くようにする。これは誰にも言われていない。私がそうしているだけになる。
石は枕の側にある。滑らかな面が上で、穴の面が床に着いている。布団を動かす時は、石を一度どける。
どけて、また同じところへ戻す。
窓の外は明るい。五月に入ってから、この時刻でもう影が短くなった。
庭の物干しの竿が二本、影を落としている。二本の影の間は、竿の間より狭い。
庭の隅の土は乾いていた。先週まであった小さい足跡は消えている。
雨が降ったのは三日前になる。その夜だけ屋根の音が長い。
窓の硝子には、下から三分の一のところに横の筋が一本ある。
拭き残しだと思う。朝の日が低いうちだけ、その筋が見える。上がると消える。
八時に階段の音がした。二度で上まで来る。翔太だ。
朝の器は四つで、私のぶんは右の端になる。白い粒と、汁と、焼いたもの。焼いたものの端が黒い。
噛むと苦い味が舌の奥に残った。
汁の中に緑のものが三つ入っている。翔太の器には二つしか入っていない。
この子は緑のものを先に箸で寄せて、器の縁へ並べる。それから残りを食べる。
女の人がそれを見て、何も言わない。前は口に出していた。止んだのは四月からになる。
男の人が新聞を四つに畳む。
「今日は二人で出る。戻りは四時になる」
男の人が言った。女の人が頷いて、卓の上の器を寄せる。
「留守番をお願いね。翔太と仲良くしていてね、あなたたち二人で」
女の人が私へ言う。目はこちらへ来て、それから翔太のほうへ動いた。
二人が出たのは十時十五分になる。玄関の戸が閉まる音は二度に分かれる。
一度目が軽くて、二度目が重い。鍵の音は聞こえない。
家の中の音が減る。時計の音だけが居間の壁から来た。
私は台所の器を洗った。四つと、汁の椀が四つ、箸が四膳になる。洗う順は決めていない。
女の人は手前から洗う。私は大きいものから洗う。
拭いて、棚へ戻す。私の器は一番下の段の右になる。
置く時に、縁が隣の器に当たった。当たると小さい音が出る。音は一度で止まる。
翔太が二階から下りてくる。手に平たい箱を持っている。箱の角が一つ潰れていて、そこだけ色が明るい。
「来い。俺の部屋でやる」
この子が言う。私は立ち上がって、階段を上がった。
二階の廊下は、下より板が細い。歩くと三箇所で鳴る。鳴る場所は端から二枚目、五枚目、九枚目だ。
九枚目の音が一番低い。踏む位置を端に寄せると鳴らない日もある。四十七日のうち六日は、鳴らさずに通れた。
子ども部屋の床には物が広がっている。四角いものと丸いもの、それから細長いものになる。私が入ると、翔太が足で寄せて場所を作る。
作った場所は畳一枚ぶんほどになる。寄せた物は部屋の隅で山になった。
上のほうから二つ落ちる。この子は拾わない。
箱の蓋を開ける。中に色の付いた札が入っている。数は数え切れない。
札は四角で、厚みは紙の五枚ぶんほどある。
角は丸く落としてあった。一枚だけ、角の丸みが浅いものが混ざっている。色は青で、縁に細い傷が入る。
「ここに座れ。手はここ」
この子が床を指す。私はそこへ座った。膝を揃えて、手は膝の上に置く。
翔太が札を三枚出して、私の前に並べた。左から赤、青、赤の順になる。
「同じ色を取れ。赤だ」
この子が言う。私は赤の札に手を伸ばした。左の端の一枚を取る。
「そうだ。次を並べるぞ」
次の並びは青と青と赤になる。私は赤を取った。
三度目、四度目と続いた。取るまでの間は、どちらも二つ数えるほどになる。
翔太は取った札を見ない。私の手の動く先だけを見ている。見ている間、この子の口は少し開いていた。
息の音がこちらまで届く。
五度目の並びで、翔太が指を鳴らす。
「今度は違うほう。青を取れ」
私は手を止めた。並んでいるのは赤、赤、青になる。
青は右の端にあった。そこへ手を伸ばして、途中で止まる。
手が止まる。この子の指が同じ札の上にある。
「取れよ。もっと早くしろ」
この子が言う。私は手を引いて、それからもう一度伸ばした。
二度目は届いた。青を取って、膝の上へ置く。
「遅い。もう一回やるぞ」
同じ並びをもう一度作る。今度は先に取った。
六度目、七度目。
取るまでの間が、二つから一つへ短くなった。短くなると、この子は次を出すのが速くなる。出す間隔も詰まった。
八度目の並びで、翔太が色を三つにした。赤と青と黄になる。
「黄色だ。それだけ取れ」
私は黄に手を伸ばす。黄は真ん中にあった。取る時に、隣の赤が動いた。
動いた赤が、青の上へ半分乗る。
翔太が並べ直した。その間に、私は三つ数える。
直す時、この子は札の縁を指で押して端を揃える。真っ直ぐになるまで手を離さない。
揃った並びは、間隔が指の一本ぶんになる。前の並びは二本ぶんあった。
「触るな。取るだけにしろ」
この子が言った。声は大きくない。
九度目。今度は動かさずに取れた。
十度目もそうなる。十一度目で、私は黄を取ろうとして、指が赤に触れた。
触れた赤は動かない。それでも翔太は並べ直す。
十二度目、十三度目。この二回は、色が三つのままだった。私は両方とも取れている。
その後で、翔太が何か短く言った。中身は聞き取れない。
十四度目の並びは、色が四つになる。赤と青と黄に、緑が加わった。
「緑だ。それは分かるだろ」
この子が言う。私は緑を見た。
緑は左から三枚目にある。手を伸ばす前に、翔太が指を床へ二度当てた。当てた場所は、私の膝の前になる。
私は緑へ手を伸ばした。指が緑に触れて、そこで隣の黄が動く。
黄は緑の右にあった。動いた黄が、緑の下へ潜る。
翔太の手が上がった。
一度目は私の左の肩に当たる。
開いた手で、こちらへ来た面は掌の側になる。音が一つ出た。乾いた音になる。
二度目は同じ肩の、少し上に当たった。一度目より下から来る。三度目は腕になる。
外側の、丸い跡のあるところだった。
三度とも、この子は数を口に出す。一、二、三と言った。
数の間隔は揃っている。一と二の間と、二と三の間が同じ長さになる。言う声の高さも三度とも変わらない。
三度目の後、私は上体が右へ傾いた。膝を立てて支えようとして、床の札の上で足が滑る。
滑った先で、右の膝が床につく。ついた場所は板の継ぎ目の上になった。
膝の下で札が三枚潰れる。音は紙のものになる。
潰れたのは赤が二枚と青が一枚だ。青のほうは折り目が斜めに入る。赤の二枚は真ん中で折れていて、折れ目の白い線が表に出た。
翔太は手を下ろして、箱のほうへ体を向ける。向ける時に、この子の膝が床の札を一枚踏んだ。踏んだ札は動かない。
「あーあ。折れたじゃんか」
この子が言う。折れた札を拾って、指で伸ばす。形は戻らない。
折れ目のところだけ、色が薄くなっている。表の紙が剥がれかけていた。
私は膝を床から離す。継ぎ目のところに、膝の形の跡が残っていた。
跡はすぐに消える。消えるまでに五つ数える。
板の継ぎ目には細かい埃が入っている。膝が乗ったところだけ、その埃が押されて平らになった。指でなぞると、平らなところと、そうでないところの差が分かる。
肩の当たったところが熱い。
範囲は打たれた場所より広い。先は首の付け根のほうへ届く。腕の跡のところは、押すと硬い。
熱の縁のところは、はっきりした線になっていない。手を置くと、置いた掌の内側が先に温くなる。掌を離すと、離した順に温さが引いていく。
引くまでに七つ数えた。
左の腕は真っ直ぐ上まで上がらない。途中で止まる。途中というのは耳の高さのあたりだ。
私は右の手で袖を直した。袖の端が二回折れている。
折り目を伸ばすと、内側に糸のほつれが一本出ていた。長さは爪の半分ぶんになる。
引くと抜けそうに見える。私は引かずに、袖の内側へ押し込んだ。
翔太が箱に札を戻しはじめた。色ごとに分けて入れている。
赤から青、黄から緑の順になる。折れた三枚は緑の下へまとめて入れた。
入れ終わると蓋を閉める。
片側が先に嵌って、もう片側は押すと嵌る。押す時に、この子の指が白くなる。白くなるのは爪の付け根のところだ。
「次はできるだろ。今度は俺が並べる」
この子が言う。それから札を出して、また三枚並べた。並びは青、黄、青になる。
「青。両方じゃなくて左」
私は左の青を取る。手は止まらない。
翔太が笑った。声は三つで、三つ目が短い。
「な。ちゃんと覚えるじゃん」
この子が言う。私の膝の上には札が七枚ある。取った順に重ねてある。
十二時になった。翔太が下へ行って、戸棚から袋を出してくる。
袋の中は乾いたものだ。二人で分ける。私のぶんは四つになった。
分ける時、この子は自分の側へ六つ置いた。数えてから、一つをこちらへ寄せる。寄せた後の数は、五つと五つになった。
噛むと音が出る。翔太のほうが速く噛む。その間に、この子は足を二度組み替える。
袋の口は開いたままで、卓の上に置いてある。中に粉が残っていた。粉は袋の底の角に寄っている。
指を入れると付く。私は入れなかった。
午後になると、この子は箱を片づけて、別のものを出した。細い棒を組んで、高くしていくものになる。私は横で見ている。
組む手つきは速い。棒と棒の間に指を入れて、位置を直す。直す時に、下のほうが一度揺れた。
揺れても倒れない。
棒は全部で三十本ほどある。長さは同じで、色は木のままだ。
端が黒いものが四本混ざっていた。焦がしたのだと思う。
黒い端は組んだ時に外へ向く向きに置いてある。この子はそれを揃えて置いた。
段が上がるにつれて、この子は膝を伸ばして立った。すると、置く手が上から来る。
上から置くと、下の段が少し沈む。沈む幅は棒の厚みの半分ほどになる。
高さが肩まで来たところで、翔太が私に一本渡した。
「置いてみろ。てっぺんだ」
私は棒を受け取った。
両手で持って、上まで運ぶ。置く前に手が止まった。止まったのは、置く向きが決まらなかったからになる。
横に置くのか、縦に置くのか、この子は言わない。
私は横に置いた。棒が乗る。
その瞬間に、下から二段目が滑った。動いたのは右の一本で、外側へ抜ける。行った先に他の棒は無い。
全体が右へ傾いて、それから落ちた。落ちる音は長い。棒が床で二度跳ねて、そのうち一本が机の下へ入る。
机の脚の下に、さっき落ちたものが入ったままだった。
翔太が机の下を覗く。手を入れて、届かない。それから体を起こして、私を見た。
「取れ。あんたの手が細い」
この子が言う。私は床へ伏せて、机の下へ腕を入れる。入れるのは右の腕になる。
左は上げると途中で止まる。使わずに済ませた。
指の先が棒に触れる。触れてから引くまでに、四つ数える。引き出した棒には、灰色のものが付いている。
埃だと思う。
付き方は片側に寄っていて、反対の面には何も無い。床に触れていた側になる。
指でこすると取れる。取れた分は指の腹に移った。
翔太がそれを受け取って、袖で拭いた。それから、また組みはじめる。
拭いた袖の内側に、灰色の線が一本付いた。この子はそれを見ていない。
私は右の腕を床から起こす。
肘の内側に板の跡が付いていた。三本の線になる。板の継ぎ目の形で、消えるまでに十を数えた。
三時を過ぎて、この子は下へ下りていった。私も後から続く。階段の五段目は、右の端を踏んで鳴らさない。
下りる途中で、左の肩が壁に触れた。当たった場所だけ、布の下で熱が動く。私は右へ寄って、壁から離れた。
離れると熱は止まる。
居間の時計は三時五十分を指していた。長い針は十の上にある。短い針は三と四の間で、四のほうに寄っていた。
私は長い椅子の右の端へ座る。腰を下ろすと、右の膝の内側が少し張る。
昼に床へついたところだ。押すと硬さは無い。
窓の外は明るいままで、庭の竿の影が朝より長い。向きも反対になる。
影の先は塀の下まで届いている。そこから影が塀を上がる。
四時十分に玄関が開く。
二人が戻ってきた。女の人が先に入って、荷物を台所へ運ぶ。男の人は後から入り、上着を鉤へ掛ける。
荷物は紙の袋が二つと、細長い包みが一つになる。片方の袋は上が開いていた。そこから緑の葉が出ている。
葉の先が袋の縁より外へ折れていた。
女の人が荷物を置いて、こちらへ来た。途中で一度足を止める。場所は居間の入口から二歩ぶん入ったところになる。
女の人が私の顔を見て、それから肩のところを見る。
「あらあら、赤くなってるじゃないの。あなた、どうしたのそこは」
女の人が言った。私は口を開かない。
翔太が居間の入口に立っている。
「転んだ。札の上で滑った」
この子が言う。嘘ではない。私は札の上で滑った。
女の人は頷いて、台所の抽斗から白い箱を出した。中に平たいものと、細い管が入っている。
箱は判の入っている抽斗とは別で、一段上になる。開ける時に音が長い。
平たいものは紙に包まれていて、包みの角が四つとも折り込んである。管の口には小さい蓋が付いていた。蓋は回すと外れる。
私を椅子へ座らせて、袖をまくる。まくると、肩と腕の両方が出た。
まくった袖は肘の上で止まる。その位置を、この人は二度直した。
「じっとしていてね。しみるかもしれないけど、あなた、我慢できるわね」
女の人が言う。管から出したものを、指の腹で塗った。
塗る幅は赤くなっているところより広い。上のほうまで届く。
塗る速さは一定で、往復の幅も変わらない。指の腹だけを使っている。
この人の指は、赤いところを通り越して、その先まで撫でた。
撫でた先は肩の骨のところで、そこは赤くなっていない。三度往復して、それから指を離す。その時に、少し引っかかった。
塗ったところが冷たくなる。
十を数える間に、それが消えた。後に残るのは、塗る前より少し高い温度になる。薬のためか手のためかは分からない。
女の人は指を紙で拭く。その紙を二つに折って、卓の端へ置いた。折り目のところに薬が付いて、紙の色が変わる。
その部分は透けて見えた。
女の人が白い箱を閉じて、卓の上に置く。閉じる音は二度に分かれる。
一度目が留め具で、二度目が蓋になる。順はいつもこれになった。
「今度からは気をつけてちょうだい。階段でも、お部屋でもね、あなた」
この人が言った。それから台所へ入る。水の音が始まった。
水は最初だけ強い。五つ数えるほどで細くなる。
細いままの時間のほうが長い。今日は六十を二つ数えるまで続いた。
男の人が卓の端で紙を書いていた。
用紙は小さくて、罫が三本入っている。書いている間に、二度手が止まった。場所は同じところになる。
二本目の罫の途中で、字の高さの半分ほど書いたところだ。止まった後、この人は女の人のほうを見ない。窓へ目を向けて、それから続けた。
続けた字は、前より少し大きい。罫の上へはみ出している。
書き終わると、紙を折らずに白い箱の上へ置く。
夕方、廊下の窓が赤くなる。光は床を進んで、階段の一段目で切れた。切れた先の段は暗い。
上の段のほうが先に暗くなる。
翔太が二階から棒の箱を持って下りてくる。今度は倒れなかったらしい。高さを手で示す。
手の位置は、この子の胸のあたりになる。実際の塔はそれより低い。示す時の手は、いつも少し上へ行く。
「見に来いよ。まだ立ってる」
この子が言う。私は二階へ上がる。
その時、左の腕は体の横に下ろしたままにした。手すりは右で持つ。すると、体が壁のほうへ寄った。
棒の塔は机の横に立っていた。段は九つある。
下から三段目だけ、棒の向きが揃っていない。一本が斜めに入っている。
斜めの角度は、上から見ると他の棒と十度ほど違う。触ると動きそうに見えた。
実際には動かない。両側から他の棒が押さえている。
斜めの一本は、私が拾ったものになる。
埃の跡が細く残っていた。跡は棒の下側に付いている。塔に組まれた今は、その面が内へ向く。
外から見て分かるのは、斜めであることだけになる。
翔太が横に来て、上から二段目を指す。その時に、指の先が棒に触れそうになった。手前で止まった。
止め方は机の下から棒を取る時より慎重になる。
「ここが難しい。俺だけできる」
この子が言う。それから、自分で一本足した。段が十になる。
翔太が私の顔を見て、それから塔へ戻った。上の段を指で押さえて、位置を直す。
それから一歩下がって全体を見た。見る長さは五つ数えるほどになる。
「明日も置いとけ。誰も触るな」
この子が言う。触る者はこの家に三人いる。私は入っていないのだと思う。
夕食の器は四つになった。私のぶんの白い粒は、朝より柔らかい。噛む回数は同じで、飲み込むまでの間だけが短くなった。
箸を持つのは右になる。左は卓の縁へ置いたままにした。
置いたままでも誰も何も言わない。園では両手を出す決まりがあった。
女の人が卓を拭く。
今日は向こうから手前へ拭いて、縁を二度回った。拭き終わってから、白い箱を抽斗へ戻した。その前に、蓋を一度開けて中を見る。
管の残りを確かめたのだと思う。開けている間は三つ数えるほどになった。
男の人が書いた紙は、箱の上に載ったまま抽斗へ入る。折らずに入れた結果、角が斜めになる。抽斗は最後まで閉まる。
紙の角が挟まる音は出ない。
夜、私は布団の上に座った。石は枕の側にある。
今日は少し右へ寄っていた。布団を畳む時に指が当たったのだと思う。
袖の折り返しへ右の指を入れる。紙はそこにある。折り目は三本のままだ。
左の袖からは入れられない。腕を曲げると、肩のところが引っ張られた。
右で入れると、指の向きが逆になる。紙の角に当たる指も替わった。
いつもは中指の腹が先に当たる。今日は人差し指の側が先に当たる。
左の腕を上げてみた。
耳の高さで止まる。昼と同じ高さになる。下ろす時のほうが速い。
肩の熱は引いていた。押すと、押した幅より広いところが動く。範囲は指の三本ぶんになる。
押す強さを変えても、動く幅は変わらない。弱く押しても同じところまで動いた。強く押した時だけ、腕の跡のほうに何か響く。
長さは短い。
塗ったものの匂いが、まだ袖の内側に残っていた。薄荷に近い。
園の処置室の匂いとは違う。あちらはもっと鼻の奥で止まる。
明かりを消してから布団まで三歩ある。歩く先は暗い。それでも壁の位置は分かった。
布団に入ってから、左の肩を下にしてみる。そうすると、床の硬さが肩へ来る。
右へ返す。返すと来なくなる。
園の寝台は板の上に敷布が一枚だった。ここは下に厚いものが入っている。厚いものの中には細かいものが詰まっていて、押した形がしばらく残った。
朝に起きた後、私はそこを手で二度撫でて平らにする。撫でる向きは足のほうから頭のほうになる。逆からは撫でない。
二度で足りない日は三度になった。今日は二度で足りている。
厚さは指の三本ぶんある。それでも、肩を下にすると床が届く。
天井の板は、暗くても継ぎ目の線だけが見える。
線は七本ある。そのうち、右から二本目だけ間が広い。板が一枚ぶん違うのだと思う。
園の居室の天井には線が無かった。あちらは一枚の面で、継ぎ目の代わりに丸い跡が並んでいた。跡の数は十二で、四つずつ三列に並ぶ。
数え直しても十二だった。
ここの七本は、数え直すと七本になる。数える度に同じ数が出る。
──────────────────
手当の記録(写)
手当をした者 相手方
手当の部位 左の肩および左の上腕
使った物 塗り薬 一本
一、本記録について
本記録は相手方が任意で付けるものであった。当部門へ提出させる扱いは置いていない。提出された例は前年度に一件あった。
用紙は当部門が交付した小型のもので、罫は三本であった。内訳は部位と、使った物と、経過とした。刷りの色は薄い青になる。
本年度に交付した枚数は四十一である。
二、部位
記入された部位は左の肩および左の上腕であった。二箇所を一枚へ書かせる扱いは本様式に定めている。三箇所以上の場合は二枚目を用いるものとした。
本件は一枚で足りていた。二枚目を用いた例は本年度に三件ある。
上腕については、本年度第一回の接種の部位と重なる。重なった場合の記載は求めていない。
接種は五月二日に実施し、部位は左の上腕の外側であった。腫れの有無の欄には「有」と記入されている。
三、原因
原因の欄には「転倒による」と記入されていた。場所の欄には「二階」とあった。
原因を申し出た者の別を記入させる欄は本様式に置いていない。相手方が書いたか、個体が述べたかは、本記録からは決まらなかった。
四、経過
経過の欄には「三日で消えると思う」と記入されていた。記入した日を書かせる欄は本様式にある。当該の欄は空であった。
経過の欄は文の形で書かせるものとする。文字数の上限は設けていない。前年度に記入された文字数の平均は九字になる。
再度の手当の有無を記入させる扱いは置いていなかった。
五、本記録の扱い
本記録は相手方が保管する。当部門は写を受け取っていない。
本様式は年度ごとに刷り直していた。前年度の様式には経過の欄が無く、罫は二本であった。
本記録に、傷を負った時刻を記す欄は置いていない。




