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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第五章 譲渡

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第066話 わたしの帳面

相手方の側の記録簿に係る勧奨(抄)


勧める先 個体を迎えた相手方

備付の始期 引き渡しの日

記載する事項 次条に掲げるもの


一、勧奨の性質


本勧奨は、相手方が自ら記録簿を備えることを勧めるものとした。備えなかった場合の扱いは定めていない。


記録簿は当部門から交付しないものとした。交付した例は本年度に無かった。求められた例は三件ある。


記入の要否を定めた書面は当部門に無い。


二、掲げる事項


体重、給餌の量、投薬の有無、屋外へ出した回数の四つを掲げた。


四つを掲げた根拠は本勧奨に記していない。五つ目を掲げるよう求められた例は前年度に一件あった。当該の求めに対する回答の写は残っていない。


四つの順は本勧奨に定めていない。書き加えた例は前年度に六件あった。


掲げた四つを全部書かせる定めは無い。一つだけを書いた例が前年度に十七件あった。


三、様式


様式は市販のものによるものとした。当部門が指定した例は無かった。示された品の名を控える欄は、受付の簿に設けてある。


表紙の色、綴じの向き、頁の大きさについての定めは置いていない。大きさは半紙の四つ折りに近いものが多い。


罫を自ら引き足した例は本年度に二件ある。引き足した部分の扱いは、本勧奨に定めていない。二件とも縦の線であったと聞いている。


頁の数は相手方が選ぶものとした。一年で一冊とする例が多いと聞いている。


四、点検


当部門は記録簿を点検しないこととした。点検を要する旨の記載も本勧奨に無い。点検した例も本年度に無い。点検する旨の起案は前年度に一件あり、決裁を経ずに綴りへ戻されていた。


相手方から示された例は前年度に四件あった。四件とも受け取らずに返している。返す際の文言は口頭による。


五、保存


保存の期間は定めていない。相手方が処分した場合の届出も求めていなかった。


個体を返還した場合に記録簿をどう扱うかは、本勧奨に記していない。返還の例は本年度に二件あった。二件とも記録簿の所在を確かめていなかった。


処分した例の数は当部門で数えていない。


六、由来


本勧奨は令和二百八年の会議で決めたものであった。議事の写は当部門に残っていない。


会議の名は「飼養に係る打合せ」と伝えられている。開いた回数は控に無く、出席した者は三名と伝えられている。


決めた時の理由を記した書面も残っていなかった。当時の担当は既に他の部門へ移っている。


本勧奨を相手方へ示す時期は定めておらず、示さなかった例の数も当部門では数えていない。


──────────────────


 帳面は台所の窓の下の抽斗に入れてある。表紙は薄い緑で、角が二つ折れている。買った時から折れていた。


 中の罫は横に十六本ある。私はそこへ縦の線を四本足した。

 定規を当てて引いた。それでも四本とも太さが揃わない。二本目が太くて、四本目が細い。二本目が一番太くて、四本目が細い。

 綴じは糸ではなくて、金具が二つで留めてある。上の金具は少し緩い。

 頁をめくると、上のほうだけが先に動く。下は遅れて付いてくる。

 紙は薄い。裏から見ると、前の日の字が透ける。数の形は透けても読めるが、字は読めない。

 翔太の学校の帳面は、これより厚い紙だ。指で弾くと音が違う。

 窓の側へ持っていくと、二枚先まで見えた。

 四月三十日の頁を開く。今日で四十一頁目になる。

 一頁が一日だ。三月二十一日から欠かさずに来ている。


 最初の三日ぶんは、鉛筆ではなくて黒のもので書いた。途中で鉛筆に替えた。

 替えた理由は、書き直せる側を選んだことになる。実際に書き直したことは一度も無い。


 黒で書いた三頁は、いまも他の頁より濃く見える。指で触ると、字のところが少し盛り上がっている。


 左の端に日付を入れる。そこから右へ体重と食べた量、薬と外へ出た回数が並ぶ。その四つの右に、私が足した欄が三つある。


 足したのは四日目の朝だった。四つでは足りない。その朝のうちに定規を出した。

 線を引く前に、鉛筆の先で薄く当たりを付けている。当たりの線は消しゴムで消した。消した跡は三頁目の右の端に残っていて、いまも指でなぞると分かる。


 起きた時刻。笑ったか。匂いの三つになる。


 匂いの欄には「石鹸」と書く日が多い。昨日は「なし」だった。

 三月の終わりの頃は「園」と書いた日が四日ある。あの匂いは、いまはもうしない。


 何の匂いだったかを、いま思い出そうとすると出てこない。消毒のものと、板と、それから固い石鹸が混ざったようなものだった。


 鉛筆は抽斗の決まったところに寝かせてある。芯は昨日削った。

 削りかすは新聞紙の上へ落として、まとめて捨てる。形は翔太の鉛筆削りのものと違う。あちらは巻いていて、こちらは薄い破片になる。


 削るのは小刀で、これは私の父のものだった。柄は木で、握るところが黒くなっている。刃の根元に細かい錆が出た。

 錆は落とせば落ちるが、落とすと刃も薄くなると言われた。それで置いてある。

 台所の窓は東を向いていて、七時を過ぎると流しの縁まで日が来る。今朝は縁の手前で止まっている。雲が出ているのだと思う。


 湯を沸かす。薬缶の底が鳴りはじめるまでに、いつも百四十を数えるくらいかかる。その間に洗濯機を回した。


 洗剤は蓋の内側の線まで入れる。線は二本あって、上のほうを使う。

 下の線で足りた例は、うちでは一度も無い。四人ぶんの洗い物には足りないのだと思う。


 四人ぶん、と数えるようになったのは四月に入ってからだ。三月のうちは、指が三本のところで一度止まっていた。


 洗い物は昨日より少ない。あの子の作業着は、もう出さなくなった。

 家のものを着せている。上は生成りで、下は紺。


 紺のほうは膝の裏が薄くなってきた。買い足そうと思っている。


 翔太のものは膝の前から薄くなる。同じ場所が減るわけではない。


 寸法は上が九号、下は丈を五センチ詰めた。詰めた分は内側へ折り込んで縫ってある。

 折り込みを解けば伸びる。伸ばす日が来るかどうかは、まだ分からない。

 園の人は大きくなるとは言わなかった。小さくもならないとも言わなかった。


 二階で足音がした。二度。翔太が起きる時は、いつも二度で階段の上まで来る。


 翔太の部屋の扉は、開ける時にいつも一度引っかかる。今朝もその音がした。


 あの子の部屋のほうからは音がしない。あの子は先に起きていて、布団を畳んで、部屋の隅に座っている。

 私が階段を上がる音を聞いてから、扉のところへ来る。


 その順は来た日から動いていない。

 最初の朝だけ、私が扉を開けた。中でこの子が立っていて、こちらを見た。立っていた場所は、いま座っている隅と同じところになる。


 薬缶が鳴った。火を止めて、急須へ湯を入れる。

 葉は昨日の残りを足した。二人ぶんには少し薄い。

 あの子には湯を薄めて出す。翔太のものと濃さが違う。園では白湯だったと聞いた。はじめは白湯にしている。


 四月に入ってから、少しずつ葉を入れている。残す日は無い。


「おはよう。今日はね、月末の紙を書くのよ。あなたも座っていてね」


 私は階段の下から言う。返事は上から来た。


「はい。座ります」


 声が細い。この家に来てからずっとこの高さで、大きくならない。喉を痛めているのかと思って、一度お医者様の話をしたことがある。

 夫は園の記録に喉の項は無いと言った。それで済ませてある。

 あの子が下りてくる。階段の音は五段目で消える。五段目の右の端を踏むと鳴らないのを、この子は覚えたらしい。翔太は同じ端でも鳴らす。

 翔太が同じ場所を踏むと鳴る。体の重さが違うのだと思う。


 三人で朝を食べる。夫は七時四十分に出る。今日は月曜で、鞄が重い。


 あの子の器は右の端にある。並べる位置を替えたことはない。翔太の器は左で、こちらは日によって少し動く。

 最初の日に、たまたまそこへ置いた。次の日も同じところへ置いたら、この子が先にその前へ立った。


 それから四十日、位置は動いていない。


 夫が新聞を畳んで、卓の端へ寄せた。汁の椀を持ち上げて、二口飲む。飲む間、目は椀の縁より下にある。


「月末の紙は今日中だ。窓口は四時までになる」


 夫が言った。私は頷いて、帳面の背を指で押さえる。


「返す時に控を貰っておけ。番号は控の右上にある」


 夫はそれだけ言って、椀を置いた。

 紙のことは、この人が先に覚えた。私は帳面を先に覚えている。


 卓の上へ体重計を出した。台所の隅に置いてある。白くて、上に硝子が張ってある。

 目盛りは百グラム単位まで出る。硝子の下に電池が二つ入っていて、去年替えた。


 替えた日は帳面より前だ。何処にも書いていない。


「乗ってちょうだいね。裸足のままでいいのよ、あなたはそのままで」


 あの子が靴下を脱ぐ。脱いだ靴下は畳んで、椅子の上に置いた。畳み方は端を内へ入れる形になる。洗濯物を返す時の私の畳み方と同じだ。


 乗る。硝子の面に足の裏が付くと、縁のところが少し曇った。

 数が出るまでに四つ数えるくらいかかる。最初に出る数は高く、それから下がって止まる。翔太が乗る時も、下がり方は同じ形になる。

 五十三・二。


 三日前は五十二・八だった。四百グラム増えている。翔太は同じ三日で百グラム動く。

 私は帳面へ書き入れる。字は小さくなりすぎないように、罫の高さいっぱいに書く。


 来た日の数は四十九・六だった。頁の一番上に書いてある。その下に四十日ぶんが並んでいて、いま指で追うと、下がった日が九つある。

 九つのうち三つは続いていた。四月の七日から九日にかけてになる。あの三日は、私が風邪をひいていて、汁を薄くしていた。


 書いている間、あの子は台の上に立ったままでいる。降りていいと言うまで降りない。


「もういいわ。ありがとうね。あなた、ちゃんと増えていますのよ」


 あの子が台から下りる。下りる時に、右の足から先に着けた。


 次の欄は食べた量になる。今朝は白い粒が一杯と、汁と、卵。

 卵は半分残した。残した分は書かない。全部食べた日と、残した日を分けて書く決まりにしてある。


 私が決めた決まりで、園から言われたものではない。


 薬の欄は空になる。この家へ来てから薬は一度も使っていない。

 空の欄が四十一並ぶと、頁の真ん中に白い帯が出来る。私は横棒を一本ずつ入れている。

 横棒の長さは欄の幅の半分にしてある。端まで引くと、罫に紛れた。


 外へ出た回数は、今日はまだ零だ。夕方までに一度は連れて出る。


 私が足した三つの欄へ移る。起きた時刻は六時十分。これは音で分かる。

 あの子は起きても部屋を出ない。床の板が一度だけ鳴るのを聞く。

 鳴るのは布団を畳む時だと思う。畳んで、隅へ運んで、そこで音が止まる。


 六時十分より前に鳴った日は、四十一日のうち二日ある。どちらも雨の日だった。


 笑ったかの欄は、昨日まで八日ぶん続けて「なし」だった。その前は川へ行った日で、あの日だけ「あり」と入れてある。


 匂いの欄に何を書くか、いつも少し迷う。石鹸の日と、外の日と、なしの日がある。今日はまだ決められない。


 卓を拭いてから、私は座り直した。あの子は私の右の椅子にいる。背筋が真っ直ぐで、手は膝の上で重なっていた。


 この座り方は、来た日からずっとこのままになる。

 私が触ると、この子は一度だけ息を止めて、それから戻る。


 手の下で、肩の骨が動く。骨の出ているところが、着ているものの上からでも指に当たる。


「痩せているのは、はじめのうちだけですって。だんだん丸くなるそうよ」


 私はそう言った。誰から聞いたのかを、いま思い出せずにいる。引き渡しの日に係の人が言ったのかも知れない。


 あの子は返事をしない。目はこちらへ来て、それから卓の上へ落ちた。


 翔太が二階から下りてくる。八時になっている。今日は学校が休みだ。


「あんた、俺の部屋来いよ」


 翔太が言う。あの子は私を見た。私が頷くと、立ち上がって、椅子を元の位置へ戻してから出ていく。

 椅子を戻すのも、誰も教えていない。

 翔太は九つで、去年から背が四センチ伸びた。柱の傷で分かる。傷は台所の柱に付けてあって、下から数えて六本目が今年になる。

 六本の間隔は同じではない。去年と今年の間が一番広い。


 あの子の背も測ろうと思って、一度だけ柱の前に立たせた。傷は付けなかった。

 翔太の傷と並べると、どちらが上か下かが柱に残る。

 その時は付けずに済ませた。

 二人が上がってしまうと、台所は静かになった。私は洗濯物を干しに出る。

 物干しは南の庭で、竿が二本ある。

 風は弱い。シャツを掛けると、裾がほとんど動かなかった。


 紺の下ばきを掛ける時に、膝の裏の薄いところを日に透かしてみた。糸が二本ぶん減っている。


 竿は二本とも金属で、右のほうが少し撓む。重いものは左へ掛けることにしてある。

 洗濯挟みは籠に入れてあって、色は三種類ある。数えたことはない。


 庭の隅の土に、小さい足跡が並んでいた。翔太のものではない。もっと小さい。

 鳥かも知れない。数えると七つある。


 塀の外を班の人が通っていく。挨拶をして、天気の話を二言する。

 先週の回覧のことは、どちらからも出なかった。


 あの人の家にも一人いる。去年の秋から一緒にいる。うちより半年早い。

 庭の物干しは、あちらのほうが一本多い。

 竿の高さも少し低くしてある。

 訊けばいろいろと教えてくれるのだと思う。

 訊いたことは一度も無い。


 戻って、卓の上の紙を出した。

 月末に出す報告になる。

 園から郵便で来て、記入して、返す。

 返す先は居住区分の窓口だ。

 用紙は一枚で、欄は四つ。体重と給餌、投薬と屋外になる。

 紙は帳面のものより厚くて、罫の色が薄い青になる。帳面の罫は灰に近い。


 右の上に番号が刷ってあって、その下に受付の印を押す四角がある。

 四角の中は空のままだ。


 窓口で押すのだと思う。

 前の月に返ってきた控には印が付いていた。


 卓の上を一度拭いてから、用紙を広げた。

 皺にならないように、角を四つとも押さえる。押さえたところに指の跡が付いた。

 息を掛けると消える。

 消えたあとに、紙の表がわずかに波を打つ。

 乾くと元へ戻った。


 私は帳面を開いて、四十一頁ぶんを右から左へ見ていく。

 体重の欄は、四十一の数のうち二十六が増えて、九が減って、六が同じだった。


 報告の欄には、月末の一つだけを書けばよいことになっている。

 五十三・二と書き入れた。


 給餌の欄は、一日の平均を書く。帳面に付けているのは一度ぶんだ。

 朝と昼と夕で、どれも四百三十グラムになる。四十一足して割っても同じだ。

 どちらで書くのかを示す一行が、用紙にも手引にも無い。

 計算は紙の端でやって、後から消した。

 消しゴムを掛けた場所が、光の向きによっては白く見える。


 割り切れずに、小数の二桁目を切った。

 切り上げるか切り下げるかの指示は用紙に無い。


 前の月は切り上げたはずだが、控を見返していない。


 投薬の欄には斜めの線を引く。零の書き方は用紙の何処にも書いていない。私は線にした。


 屋外の欄は九になる。

 四十一日で九回だ。


 四つが埋まった。帳面のほうは七つの欄が埋まっている。三つが行き先を持たない。


 行き先の無い三つを、私はもう一度読んだ。

 読んでも、用紙のどの欄にも入らなかった。

 入れる場所を作れば入る。

 作ってよいとは書いていない。


 起きた時刻と、笑ったかと、匂い。


 用紙をひっくり返してみたが、裏は白いままだった。

 罫も刷っていない。白い面を灯りへ向けると、表の罫が透けて見える。

 位置は裏から見ると左右が入れ替わる。

 欄を足していいとは、何処にも書いていない。

 足してはいけないとも書いていない。


 私は表へ戻して、下の余白へ一行だけ書き添えた。

 書くところを決めるのに少し迷って、四角の印の下から始める。

 一行は罫の無いところを真っ直ぐに引く形になる。途中で右へ下がった。下がったのは終わりの三字ぶんで、直そうとして、そのままにした。


 書いた後で、鉛筆の先を見た。芯が少し丸くなっている。

 削り直すほどではない。抽斗へ戻す時に、先を奥へ向けて置いた。


 昼は三人で食べた。夫は出ている。器は三つになる。

 あの子の器は右の端で、朝と位置が動かない。


 昼のあとに、私は台所の抽斗をもう一度開けた。帳面の四十一頁目は開いたままにしてある。風で頁が返らないように、上に小刀を寝かせておいた。


 小刀の刃は閉じてある。閉じてあっても、紙の上に置くと重みで少し沈む。


 昼を過ぎて、二階から音が二度した。一度目は硬い音で、二度目は柔らかい。

 私は下から声を掛けた。返ってきたのは翔太の声だけになる。


「なんでもない。落ちただけ」


 私は階段を三段上がって、そこで止まった。上には行かない。

 二人でいる時に入ると、翔太が黙る。黙る時間は、入った長さより長くなる。


 下りて、洗い物の続きをした。皿は六枚で、いつもより一枚多い。

 多い一枚は昼に使った小皿だ。あの子が卵の殻を載せていた。翔太は殻を器の縁へ置く。

 殻は捨ててあった。誰が捨てたのかは分からない。


 夕方、あの子を連れて外へ出た。紐は玄関の鉤から取る。右の鉤に掛かっていて、輪のほうが下を向いている。


 鉤は二つで、左には夫の上着が掛かる日と、掛からない日がある。今日は掛かっていない。

 紐は届いた日から一度も洗っていない。編んだところに土の色が入ったままになる。


 箱の底の紙には、長さと材質だけが刷ってある。洗い方は口で聞いた。


 外は昼より涼しい。あの子の手首へ輪を通すと、いつもより一つぶん余った。痩せているのは腕から先に出るのだと思う。


 通す時に、指がこの子の手首の内側に触れる。脈のところより少し上になる。

 触れた場所は、いつも同じところになった。私の手の癖なのだと思う。


 道の畑では黒い筋が十一本になっていた。緑の丈は爪の四本ぶんある。


 道の途中で、あの子が一度だけ足を止めた。畑の向こうを見ている。何かいるのかと思って私も見たが、土と、遠くの屋根しか見えない。

 私が紐を軽く引くと、この子はすぐに歩き出した。引いた力は、ほとんど掛けていない。


 二十分ほどで戻った。屋外の欄は十になる。帳面の側も十だ。

 報告の側は九のままにしてある。書き入れた後に増えた。直していない。


 直す欄が用紙に無い。

 夕食のあと、翔太が二階へ上がって、夫は新聞を広げた。

 私は帳面を出して、今日の三つの欄を埋める。


 起きた時刻は六時十分。笑ったかの欄はなし。匂いは石鹸にした。

 鉛筆を置いて、頁を閉じる前に、四十一の頁を親指で送ってみた。紙の音が四十一回する。学校の帳面を送る時より高い。途中で二度、指が滑って二枚まとめて送る。


 送る速さを変えると、音の高さが変わる。速いと乾いた音になって、遅いと擦れる音になった。遅いほうで、もう一度端から送り直す。


 実際に鳴った音は三十九回になる。


 帳面を抽斗へ戻す。鉛筆はその上へ寝かせる。抽斗は途中で一度引っかかる。

 押し込むと最後まで入った。


「今日はね、四百グラム増えたのよ。あなたが測ってくれたおかげね」


 私は居間へ入って、あの子へそう言った。あの子は長い椅子の右の端に座っている。窓に近いほうだ。


 この場所も、決めたのは私ではない。三日目の夜にそこへ座って、それきり動いていない。


 椅子の布は、右の端だけ沈みが深くなってきた。手で押すと、左より一つぶん深い。

 左は翔太が座る。この子は座るというより落ちる。沈みは近い深さになると思っていた。

 ならないのは、座っている時間が違うためになる。


 膝の上に石が一つ載っている。川で拾ったものらしい。薄くて、上の面が滑らかだ。

 私は一度だけ手に取ったことがある。掌に載せると、思ったより冷たかった。


 冷たいのは石そのもので、置いてある場所ではない。部屋は暖かい。


 私はその横へ座った。座ると、あの子の体が半分ぶんこちらへ寄る。寄ったのではなくて、布が沈んだのだと思う。


 この子の髪は来た日から二度切った。翔太は同じ間に三度切っている。切ったのは私で、鋏は裁縫箱のものを使う。

 一度目は肩の下まであった。いまは肩の骨に届かない。


 切った髪は新聞紙にまとめて捨てた。捨てる前に、少しだけ手に取って見ている。

 太さは翔太のものより細い。色は光に当てると少し赤く見えた。翔太の髪はどの向きから見ても黒いままだ。


 腕を回して、肩を抱いた。


 息が止まる。数えると二つぶん止まって、それから戻った。

 腕は下りたままで、上がってこない。膝の上の石も動かない。


 あの子の髪から石鹸の匂いがする。今朝の欄に書いたものと重なる。

 うちの石鹸は白い。箱に薄荷の絵が刷ってあって、園のものとは形が違うはずだ。使い始めて三つ目になる。

 一つが四十日ほど保つ。三つ目に移った日は、四月十二日の頁の罫の外へ小さく入れてある。


 罫の外へ書くのは、その一箇所しかない。三つ目に移った日を、私は帳面の端へ小さく入れておいた。


 匂いは髪の根元のところが一番強い。頬を近づけると、その下に別のものが少しある。

 湯上がりの肌の匂いだと思う。翔太にも同じものがある。

 私は少し力を入れた。肩の骨が手のひらの下で動いて、それから止まる。

 背中は硬い。撫でると、背骨の一つ一つが数えられた。


 夫が新聞をめくる音がした。こちらは見ていない。この人はうちへ来ることを決めた時から、こういう場面に入ってこない。


 決めたのは私だ。書類を出したのも、面会に行ったのも私になる。この人は判を押しただけで、押す時にも何も言わなかった。


 嫌がってはいない。二人ぶんの手続きを、一人でやったというだけになる。


「よかったわねえ。うちの子になって、大きくなって。あなた、幸せね」


 私はそう言った。言ってから、自分の声が少し湿っているのに気づく。


 あの子は動かない。目は窓のほうを向いている。外は暗くなっていて、硝子にこちらが映っていた。

 映りは奥のほうが濃い。手前の灯りが強いためになる。


 映っているのは二人ぶんだ。私の腕があの子の肩から胸のほうへ回っている。


 しばらくそのままでいた。時計の秒針の音が、居間の壁から来る。六十を三つ数えたところで、私は腕を解いた。


 数えている間、あの子の頭は動かなかった。首の後ろの毛が私の腕に触れている。触れているところだけが、少しずつ温かくなった。


 温かくなるのは私の腕のほうかも知れない。どちらの熱かは触っていると分からなくなる。分からないままでいる時間が、いま流れている。


 解くと、あの子の背中が元の角度へ戻る。戻るまでに一つ数えるくらいかかった。


 角度は抱く前と後で揃って見える。私が押した分は残らない。

 布の沈みも元へ返った。返るのに、こちらは三つ数えるほどかかる。

 石は膝の上のままだ。位置も向きも動いていない。


 私は自分の手のひらを見た。押していた指の付け根が、少し赤い。赤みは四本ぶん並んでいて、親指のところには出ていない。

 力を入れたつもりは無かった。入っていたのだと思う。


 あの子の肩のところには何も残っていない。着ているものが厚い。生成りの布は目が詰まっていて、押した跡が付きにくい。


「もう寝ましょうね。明日はお天気ですって。あなたもお休みなさい」


 私は立ち上がって、台所の明かりを消しに行った。立ち上がる時に、長い椅子が一度きしんだ。あの子は動かない。


 居間の時計は八時四十分を指している。この家では早いほうだ。

 園では消灯が九時だったと聞いた。翔太の消灯は九時半で、こちらのほうが遅い。聞いたのは引き渡しの日で、書いたものは貰っていない。

 消す前に、抽斗のところで一度手を止める。


 帳面の角は、抽斗の中で少し上を向いている。閉め方が浅かったらしい。

 開けて、置き直して、また閉めた。今度は最後まで入る。


 二階へ上がる時、五段目で音が鳴った。私が踏むと必ず鳴った。


 あの子の部屋の扉は閉まっていた。下の隙間から明かりは出ていない。隙間の高さは指の一本ぶんで、廊下の灯りが中へ入る形になる。


 私は扉の前で二つ数えて、それから自分の部屋へ入った。入る前に、廊下の灯りを消した。消すと、隙間の線も消える。


──────────────────


飼養の状況の報告(写)


報告の対象月 令和二百十四年四月

報告した者 相手方

余白の記載 次の五に記す


一、本報告について


本報告は月ごとに出させるものであった。用紙は当部門から郵便で送り、記入の後に居住区分の窓口へ返させている。


用紙は一枚で、両の面のうち表だけを用いた。


欄は体重、給餌、投薬、屋外へ出した回数の四つである。欄を足してよいか否かの記載は用紙に無い。


二、記入された数


体重は五十三・二キログラムであった。当該の値は月末の一日の値になる。月の途中の値は、相手方の側で持つものとした。


給餌は四百三十グラムと記入されていた。平均か否かを書かせる欄は無い。一度の量か一日の量かを分ける記載も、本様式に置いていなかった。当部門は記入のとおりに受理している。


投薬の欄には斜めの線が引いてあった。当部門は線を零として受理している。読み方を定めた記載は用紙に無かった。


三、屋外へ出した回数


記入された回数は九である。前の月の値は、当部門の綴りの側で並べられる。当該の月の日数は三十日で、引き渡しの日からの日数は四十一日になる。


本報告の対象は四月の一月であり、引き渡しの日からの通算ではない。通算と一月とを書き分けさせる記載は、用紙に置いていなかった。


九という数が通算か一月かは、本報告からは決まらない。


四、記録簿


相手方が記録簿を備えている旨は、本報告の欄に現れていない。備えているか否かを書かせる欄が用紙に無いためになる。


本報告の数を記録簿から写したか、記憶で書いたかも、本報告からは決まらない。当部門は記入された数をそのまま受理した。


当部門は本年度に記録簿を一冊も見ていない。本年度に示された例は四件あり、四件とも返している。


五、余白


本報告の下の余白に、相手方の書き添えが一行あった。当該の行は、本様式のいずれの欄にも当たらなかった。


書き添えの文言は控に写していない。


当該の行を控に写した例は、前年度に一件であった。

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