第066話 わたしの帳面
相手方の側の記録簿に係る勧奨(抄)
勧める先 個体を迎えた相手方
備付の始期 引き渡しの日
記載する事項 次条に掲げるもの
一、勧奨の性質
本勧奨は、相手方が自ら記録簿を備えることを勧めるものとした。備えなかった場合の扱いは定めていない。
記録簿は当部門から交付しないものとした。交付した例は本年度に無かった。求められた例は三件ある。
記入の要否を定めた書面は当部門に無い。
二、掲げる事項
体重、給餌の量、投薬の有無、屋外へ出した回数の四つを掲げた。
四つを掲げた根拠は本勧奨に記していない。五つ目を掲げるよう求められた例は前年度に一件あった。当該の求めに対する回答の写は残っていない。
四つの順は本勧奨に定めていない。書き加えた例は前年度に六件あった。
掲げた四つを全部書かせる定めは無い。一つだけを書いた例が前年度に十七件あった。
三、様式
様式は市販のものによるものとした。当部門が指定した例は無かった。示された品の名を控える欄は、受付の簿に設けてある。
表紙の色、綴じの向き、頁の大きさについての定めは置いていない。大きさは半紙の四つ折りに近いものが多い。
罫を自ら引き足した例は本年度に二件ある。引き足した部分の扱いは、本勧奨に定めていない。二件とも縦の線であったと聞いている。
頁の数は相手方が選ぶものとした。一年で一冊とする例が多いと聞いている。
四、点検
当部門は記録簿を点検しないこととした。点検を要する旨の記載も本勧奨に無い。点検した例も本年度に無い。点検する旨の起案は前年度に一件あり、決裁を経ずに綴りへ戻されていた。
相手方から示された例は前年度に四件あった。四件とも受け取らずに返している。返す際の文言は口頭による。
五、保存
保存の期間は定めていない。相手方が処分した場合の届出も求めていなかった。
個体を返還した場合に記録簿をどう扱うかは、本勧奨に記していない。返還の例は本年度に二件あった。二件とも記録簿の所在を確かめていなかった。
処分した例の数は当部門で数えていない。
六、由来
本勧奨は令和二百八年の会議で決めたものであった。議事の写は当部門に残っていない。
会議の名は「飼養に係る打合せ」と伝えられている。開いた回数は控に無く、出席した者は三名と伝えられている。
決めた時の理由を記した書面も残っていなかった。当時の担当は既に他の部門へ移っている。
本勧奨を相手方へ示す時期は定めておらず、示さなかった例の数も当部門では数えていない。
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帳面は台所の窓の下の抽斗に入れてある。表紙は薄い緑で、角が二つ折れている。買った時から折れていた。
中の罫は横に十六本ある。私はそこへ縦の線を四本足した。
定規を当てて引いた。それでも四本とも太さが揃わない。二本目が太くて、四本目が細い。二本目が一番太くて、四本目が細い。
綴じは糸ではなくて、金具が二つで留めてある。上の金具は少し緩い。
頁をめくると、上のほうだけが先に動く。下は遅れて付いてくる。
紙は薄い。裏から見ると、前の日の字が透ける。数の形は透けても読めるが、字は読めない。
翔太の学校の帳面は、これより厚い紙だ。指で弾くと音が違う。
窓の側へ持っていくと、二枚先まで見えた。
四月三十日の頁を開く。今日で四十一頁目になる。
一頁が一日だ。三月二十一日から欠かさずに来ている。
最初の三日ぶんは、鉛筆ではなくて黒のもので書いた。途中で鉛筆に替えた。
替えた理由は、書き直せる側を選んだことになる。実際に書き直したことは一度も無い。
黒で書いた三頁は、いまも他の頁より濃く見える。指で触ると、字のところが少し盛り上がっている。
左の端に日付を入れる。そこから右へ体重と食べた量、薬と外へ出た回数が並ぶ。その四つの右に、私が足した欄が三つある。
足したのは四日目の朝だった。四つでは足りない。その朝のうちに定規を出した。
線を引く前に、鉛筆の先で薄く当たりを付けている。当たりの線は消しゴムで消した。消した跡は三頁目の右の端に残っていて、いまも指でなぞると分かる。
起きた時刻。笑ったか。匂いの三つになる。
匂いの欄には「石鹸」と書く日が多い。昨日は「なし」だった。
三月の終わりの頃は「園」と書いた日が四日ある。あの匂いは、いまはもうしない。
何の匂いだったかを、いま思い出そうとすると出てこない。消毒のものと、板と、それから固い石鹸が混ざったようなものだった。
鉛筆は抽斗の決まったところに寝かせてある。芯は昨日削った。
削りかすは新聞紙の上へ落として、まとめて捨てる。形は翔太の鉛筆削りのものと違う。あちらは巻いていて、こちらは薄い破片になる。
削るのは小刀で、これは私の父のものだった。柄は木で、握るところが黒くなっている。刃の根元に細かい錆が出た。
錆は落とせば落ちるが、落とすと刃も薄くなると言われた。それで置いてある。
台所の窓は東を向いていて、七時を過ぎると流しの縁まで日が来る。今朝は縁の手前で止まっている。雲が出ているのだと思う。
湯を沸かす。薬缶の底が鳴りはじめるまでに、いつも百四十を数えるくらいかかる。その間に洗濯機を回した。
洗剤は蓋の内側の線まで入れる。線は二本あって、上のほうを使う。
下の線で足りた例は、うちでは一度も無い。四人ぶんの洗い物には足りないのだと思う。
四人ぶん、と数えるようになったのは四月に入ってからだ。三月のうちは、指が三本のところで一度止まっていた。
洗い物は昨日より少ない。あの子の作業着は、もう出さなくなった。
家のものを着せている。上は生成りで、下は紺。
紺のほうは膝の裏が薄くなってきた。買い足そうと思っている。
翔太のものは膝の前から薄くなる。同じ場所が減るわけではない。
寸法は上が九号、下は丈を五センチ詰めた。詰めた分は内側へ折り込んで縫ってある。
折り込みを解けば伸びる。伸ばす日が来るかどうかは、まだ分からない。
園の人は大きくなるとは言わなかった。小さくもならないとも言わなかった。
二階で足音がした。二度。翔太が起きる時は、いつも二度で階段の上まで来る。
翔太の部屋の扉は、開ける時にいつも一度引っかかる。今朝もその音がした。
あの子の部屋のほうからは音がしない。あの子は先に起きていて、布団を畳んで、部屋の隅に座っている。
私が階段を上がる音を聞いてから、扉のところへ来る。
その順は来た日から動いていない。
最初の朝だけ、私が扉を開けた。中でこの子が立っていて、こちらを見た。立っていた場所は、いま座っている隅と同じところになる。
薬缶が鳴った。火を止めて、急須へ湯を入れる。
葉は昨日の残りを足した。二人ぶんには少し薄い。
あの子には湯を薄めて出す。翔太のものと濃さが違う。園では白湯だったと聞いた。はじめは白湯にしている。
四月に入ってから、少しずつ葉を入れている。残す日は無い。
「おはよう。今日はね、月末の紙を書くのよ。あなたも座っていてね」
私は階段の下から言う。返事は上から来た。
「はい。座ります」
声が細い。この家に来てからずっとこの高さで、大きくならない。喉を痛めているのかと思って、一度お医者様の話をしたことがある。
夫は園の記録に喉の項は無いと言った。それで済ませてある。
あの子が下りてくる。階段の音は五段目で消える。五段目の右の端を踏むと鳴らないのを、この子は覚えたらしい。翔太は同じ端でも鳴らす。
翔太が同じ場所を踏むと鳴る。体の重さが違うのだと思う。
三人で朝を食べる。夫は七時四十分に出る。今日は月曜で、鞄が重い。
あの子の器は右の端にある。並べる位置を替えたことはない。翔太の器は左で、こちらは日によって少し動く。
最初の日に、たまたまそこへ置いた。次の日も同じところへ置いたら、この子が先にその前へ立った。
それから四十日、位置は動いていない。
夫が新聞を畳んで、卓の端へ寄せた。汁の椀を持ち上げて、二口飲む。飲む間、目は椀の縁より下にある。
「月末の紙は今日中だ。窓口は四時までになる」
夫が言った。私は頷いて、帳面の背を指で押さえる。
「返す時に控を貰っておけ。番号は控の右上にある」
夫はそれだけ言って、椀を置いた。
紙のことは、この人が先に覚えた。私は帳面を先に覚えている。
卓の上へ体重計を出した。台所の隅に置いてある。白くて、上に硝子が張ってある。
目盛りは百グラム単位まで出る。硝子の下に電池が二つ入っていて、去年替えた。
替えた日は帳面より前だ。何処にも書いていない。
「乗ってちょうだいね。裸足のままでいいのよ、あなたはそのままで」
あの子が靴下を脱ぐ。脱いだ靴下は畳んで、椅子の上に置いた。畳み方は端を内へ入れる形になる。洗濯物を返す時の私の畳み方と同じだ。
乗る。硝子の面に足の裏が付くと、縁のところが少し曇った。
数が出るまでに四つ数えるくらいかかる。最初に出る数は高く、それから下がって止まる。翔太が乗る時も、下がり方は同じ形になる。
五十三・二。
三日前は五十二・八だった。四百グラム増えている。翔太は同じ三日で百グラム動く。
私は帳面へ書き入れる。字は小さくなりすぎないように、罫の高さいっぱいに書く。
来た日の数は四十九・六だった。頁の一番上に書いてある。その下に四十日ぶんが並んでいて、いま指で追うと、下がった日が九つある。
九つのうち三つは続いていた。四月の七日から九日にかけてになる。あの三日は、私が風邪をひいていて、汁を薄くしていた。
書いている間、あの子は台の上に立ったままでいる。降りていいと言うまで降りない。
「もういいわ。ありがとうね。あなた、ちゃんと増えていますのよ」
あの子が台から下りる。下りる時に、右の足から先に着けた。
次の欄は食べた量になる。今朝は白い粒が一杯と、汁と、卵。
卵は半分残した。残した分は書かない。全部食べた日と、残した日を分けて書く決まりにしてある。
私が決めた決まりで、園から言われたものではない。
薬の欄は空になる。この家へ来てから薬は一度も使っていない。
空の欄が四十一並ぶと、頁の真ん中に白い帯が出来る。私は横棒を一本ずつ入れている。
横棒の長さは欄の幅の半分にしてある。端まで引くと、罫に紛れた。
外へ出た回数は、今日はまだ零だ。夕方までに一度は連れて出る。
私が足した三つの欄へ移る。起きた時刻は六時十分。これは音で分かる。
あの子は起きても部屋を出ない。床の板が一度だけ鳴るのを聞く。
鳴るのは布団を畳む時だと思う。畳んで、隅へ運んで、そこで音が止まる。
六時十分より前に鳴った日は、四十一日のうち二日ある。どちらも雨の日だった。
笑ったかの欄は、昨日まで八日ぶん続けて「なし」だった。その前は川へ行った日で、あの日だけ「あり」と入れてある。
匂いの欄に何を書くか、いつも少し迷う。石鹸の日と、外の日と、なしの日がある。今日はまだ決められない。
卓を拭いてから、私は座り直した。あの子は私の右の椅子にいる。背筋が真っ直ぐで、手は膝の上で重なっていた。
この座り方は、来た日からずっとこのままになる。
私が触ると、この子は一度だけ息を止めて、それから戻る。
手の下で、肩の骨が動く。骨の出ているところが、着ているものの上からでも指に当たる。
「痩せているのは、はじめのうちだけですって。だんだん丸くなるそうよ」
私はそう言った。誰から聞いたのかを、いま思い出せずにいる。引き渡しの日に係の人が言ったのかも知れない。
あの子は返事をしない。目はこちらへ来て、それから卓の上へ落ちた。
翔太が二階から下りてくる。八時になっている。今日は学校が休みだ。
「あんた、俺の部屋来いよ」
翔太が言う。あの子は私を見た。私が頷くと、立ち上がって、椅子を元の位置へ戻してから出ていく。
椅子を戻すのも、誰も教えていない。
翔太は九つで、去年から背が四センチ伸びた。柱の傷で分かる。傷は台所の柱に付けてあって、下から数えて六本目が今年になる。
六本の間隔は同じではない。去年と今年の間が一番広い。
あの子の背も測ろうと思って、一度だけ柱の前に立たせた。傷は付けなかった。
翔太の傷と並べると、どちらが上か下かが柱に残る。
その時は付けずに済ませた。
二人が上がってしまうと、台所は静かになった。私は洗濯物を干しに出る。
物干しは南の庭で、竿が二本ある。
風は弱い。シャツを掛けると、裾がほとんど動かなかった。
紺の下ばきを掛ける時に、膝の裏の薄いところを日に透かしてみた。糸が二本ぶん減っている。
竿は二本とも金属で、右のほうが少し撓む。重いものは左へ掛けることにしてある。
洗濯挟みは籠に入れてあって、色は三種類ある。数えたことはない。
庭の隅の土に、小さい足跡が並んでいた。翔太のものではない。もっと小さい。
鳥かも知れない。数えると七つある。
塀の外を班の人が通っていく。挨拶をして、天気の話を二言する。
先週の回覧のことは、どちらからも出なかった。
あの人の家にも一人いる。去年の秋から一緒にいる。うちより半年早い。
庭の物干しは、あちらのほうが一本多い。
竿の高さも少し低くしてある。
訊けばいろいろと教えてくれるのだと思う。
訊いたことは一度も無い。
戻って、卓の上の紙を出した。
月末に出す報告になる。
園から郵便で来て、記入して、返す。
返す先は居住区分の窓口だ。
用紙は一枚で、欄は四つ。体重と給餌、投薬と屋外になる。
紙は帳面のものより厚くて、罫の色が薄い青になる。帳面の罫は灰に近い。
右の上に番号が刷ってあって、その下に受付の印を押す四角がある。
四角の中は空のままだ。
窓口で押すのだと思う。
前の月に返ってきた控には印が付いていた。
卓の上を一度拭いてから、用紙を広げた。
皺にならないように、角を四つとも押さえる。押さえたところに指の跡が付いた。
息を掛けると消える。
消えたあとに、紙の表がわずかに波を打つ。
乾くと元へ戻った。
私は帳面を開いて、四十一頁ぶんを右から左へ見ていく。
体重の欄は、四十一の数のうち二十六が増えて、九が減って、六が同じだった。
報告の欄には、月末の一つだけを書けばよいことになっている。
五十三・二と書き入れた。
給餌の欄は、一日の平均を書く。帳面に付けているのは一度ぶんだ。
朝と昼と夕で、どれも四百三十グラムになる。四十一足して割っても同じだ。
どちらで書くのかを示す一行が、用紙にも手引にも無い。
計算は紙の端でやって、後から消した。
消しゴムを掛けた場所が、光の向きによっては白く見える。
割り切れずに、小数の二桁目を切った。
切り上げるか切り下げるかの指示は用紙に無い。
前の月は切り上げたはずだが、控を見返していない。
投薬の欄には斜めの線を引く。零の書き方は用紙の何処にも書いていない。私は線にした。
屋外の欄は九になる。
四十一日で九回だ。
四つが埋まった。帳面のほうは七つの欄が埋まっている。三つが行き先を持たない。
行き先の無い三つを、私はもう一度読んだ。
読んでも、用紙のどの欄にも入らなかった。
入れる場所を作れば入る。
作ってよいとは書いていない。
起きた時刻と、笑ったかと、匂い。
用紙をひっくり返してみたが、裏は白いままだった。
罫も刷っていない。白い面を灯りへ向けると、表の罫が透けて見える。
位置は裏から見ると左右が入れ替わる。
欄を足していいとは、何処にも書いていない。
足してはいけないとも書いていない。
私は表へ戻して、下の余白へ一行だけ書き添えた。
書くところを決めるのに少し迷って、四角の印の下から始める。
一行は罫の無いところを真っ直ぐに引く形になる。途中で右へ下がった。下がったのは終わりの三字ぶんで、直そうとして、そのままにした。
書いた後で、鉛筆の先を見た。芯が少し丸くなっている。
削り直すほどではない。抽斗へ戻す時に、先を奥へ向けて置いた。
昼は三人で食べた。夫は出ている。器は三つになる。
あの子の器は右の端で、朝と位置が動かない。
昼のあとに、私は台所の抽斗をもう一度開けた。帳面の四十一頁目は開いたままにしてある。風で頁が返らないように、上に小刀を寝かせておいた。
小刀の刃は閉じてある。閉じてあっても、紙の上に置くと重みで少し沈む。
昼を過ぎて、二階から音が二度した。一度目は硬い音で、二度目は柔らかい。
私は下から声を掛けた。返ってきたのは翔太の声だけになる。
「なんでもない。落ちただけ」
私は階段を三段上がって、そこで止まった。上には行かない。
二人でいる時に入ると、翔太が黙る。黙る時間は、入った長さより長くなる。
下りて、洗い物の続きをした。皿は六枚で、いつもより一枚多い。
多い一枚は昼に使った小皿だ。あの子が卵の殻を載せていた。翔太は殻を器の縁へ置く。
殻は捨ててあった。誰が捨てたのかは分からない。
夕方、あの子を連れて外へ出た。紐は玄関の鉤から取る。右の鉤に掛かっていて、輪のほうが下を向いている。
鉤は二つで、左には夫の上着が掛かる日と、掛からない日がある。今日は掛かっていない。
紐は届いた日から一度も洗っていない。編んだところに土の色が入ったままになる。
箱の底の紙には、長さと材質だけが刷ってある。洗い方は口で聞いた。
外は昼より涼しい。あの子の手首へ輪を通すと、いつもより一つぶん余った。痩せているのは腕から先に出るのだと思う。
通す時に、指がこの子の手首の内側に触れる。脈のところより少し上になる。
触れた場所は、いつも同じところになった。私の手の癖なのだと思う。
道の畑では黒い筋が十一本になっていた。緑の丈は爪の四本ぶんある。
道の途中で、あの子が一度だけ足を止めた。畑の向こうを見ている。何かいるのかと思って私も見たが、土と、遠くの屋根しか見えない。
私が紐を軽く引くと、この子はすぐに歩き出した。引いた力は、ほとんど掛けていない。
二十分ほどで戻った。屋外の欄は十になる。帳面の側も十だ。
報告の側は九のままにしてある。書き入れた後に増えた。直していない。
直す欄が用紙に無い。
夕食のあと、翔太が二階へ上がって、夫は新聞を広げた。
私は帳面を出して、今日の三つの欄を埋める。
起きた時刻は六時十分。笑ったかの欄はなし。匂いは石鹸にした。
鉛筆を置いて、頁を閉じる前に、四十一の頁を親指で送ってみた。紙の音が四十一回する。学校の帳面を送る時より高い。途中で二度、指が滑って二枚まとめて送る。
送る速さを変えると、音の高さが変わる。速いと乾いた音になって、遅いと擦れる音になった。遅いほうで、もう一度端から送り直す。
実際に鳴った音は三十九回になる。
帳面を抽斗へ戻す。鉛筆はその上へ寝かせる。抽斗は途中で一度引っかかる。
押し込むと最後まで入った。
「今日はね、四百グラム増えたのよ。あなたが測ってくれたおかげね」
私は居間へ入って、あの子へそう言った。あの子は長い椅子の右の端に座っている。窓に近いほうだ。
この場所も、決めたのは私ではない。三日目の夜にそこへ座って、それきり動いていない。
椅子の布は、右の端だけ沈みが深くなってきた。手で押すと、左より一つぶん深い。
左は翔太が座る。この子は座るというより落ちる。沈みは近い深さになると思っていた。
ならないのは、座っている時間が違うためになる。
膝の上に石が一つ載っている。川で拾ったものらしい。薄くて、上の面が滑らかだ。
私は一度だけ手に取ったことがある。掌に載せると、思ったより冷たかった。
冷たいのは石そのもので、置いてある場所ではない。部屋は暖かい。
私はその横へ座った。座ると、あの子の体が半分ぶんこちらへ寄る。寄ったのではなくて、布が沈んだのだと思う。
この子の髪は来た日から二度切った。翔太は同じ間に三度切っている。切ったのは私で、鋏は裁縫箱のものを使う。
一度目は肩の下まであった。いまは肩の骨に届かない。
切った髪は新聞紙にまとめて捨てた。捨てる前に、少しだけ手に取って見ている。
太さは翔太のものより細い。色は光に当てると少し赤く見えた。翔太の髪はどの向きから見ても黒いままだ。
腕を回して、肩を抱いた。
息が止まる。数えると二つぶん止まって、それから戻った。
腕は下りたままで、上がってこない。膝の上の石も動かない。
あの子の髪から石鹸の匂いがする。今朝の欄に書いたものと重なる。
うちの石鹸は白い。箱に薄荷の絵が刷ってあって、園のものとは形が違うはずだ。使い始めて三つ目になる。
一つが四十日ほど保つ。三つ目に移った日は、四月十二日の頁の罫の外へ小さく入れてある。
罫の外へ書くのは、その一箇所しかない。三つ目に移った日を、私は帳面の端へ小さく入れておいた。
匂いは髪の根元のところが一番強い。頬を近づけると、その下に別のものが少しある。
湯上がりの肌の匂いだと思う。翔太にも同じものがある。
私は少し力を入れた。肩の骨が手のひらの下で動いて、それから止まる。
背中は硬い。撫でると、背骨の一つ一つが数えられた。
夫が新聞をめくる音がした。こちらは見ていない。この人はうちへ来ることを決めた時から、こういう場面に入ってこない。
決めたのは私だ。書類を出したのも、面会に行ったのも私になる。この人は判を押しただけで、押す時にも何も言わなかった。
嫌がってはいない。二人ぶんの手続きを、一人でやったというだけになる。
「よかったわねえ。うちの子になって、大きくなって。あなた、幸せね」
私はそう言った。言ってから、自分の声が少し湿っているのに気づく。
あの子は動かない。目は窓のほうを向いている。外は暗くなっていて、硝子にこちらが映っていた。
映りは奥のほうが濃い。手前の灯りが強いためになる。
映っているのは二人ぶんだ。私の腕があの子の肩から胸のほうへ回っている。
しばらくそのままでいた。時計の秒針の音が、居間の壁から来る。六十を三つ数えたところで、私は腕を解いた。
数えている間、あの子の頭は動かなかった。首の後ろの毛が私の腕に触れている。触れているところだけが、少しずつ温かくなった。
温かくなるのは私の腕のほうかも知れない。どちらの熱かは触っていると分からなくなる。分からないままでいる時間が、いま流れている。
解くと、あの子の背中が元の角度へ戻る。戻るまでに一つ数えるくらいかかった。
角度は抱く前と後で揃って見える。私が押した分は残らない。
布の沈みも元へ返った。返るのに、こちらは三つ数えるほどかかる。
石は膝の上のままだ。位置も向きも動いていない。
私は自分の手のひらを見た。押していた指の付け根が、少し赤い。赤みは四本ぶん並んでいて、親指のところには出ていない。
力を入れたつもりは無かった。入っていたのだと思う。
あの子の肩のところには何も残っていない。着ているものが厚い。生成りの布は目が詰まっていて、押した跡が付きにくい。
「もう寝ましょうね。明日はお天気ですって。あなたもお休みなさい」
私は立ち上がって、台所の明かりを消しに行った。立ち上がる時に、長い椅子が一度きしんだ。あの子は動かない。
居間の時計は八時四十分を指している。この家では早いほうだ。
園では消灯が九時だったと聞いた。翔太の消灯は九時半で、こちらのほうが遅い。聞いたのは引き渡しの日で、書いたものは貰っていない。
消す前に、抽斗のところで一度手を止める。
帳面の角は、抽斗の中で少し上を向いている。閉め方が浅かったらしい。
開けて、置き直して、また閉めた。今度は最後まで入る。
二階へ上がる時、五段目で音が鳴った。私が踏むと必ず鳴った。
あの子の部屋の扉は閉まっていた。下の隙間から明かりは出ていない。隙間の高さは指の一本ぶんで、廊下の灯りが中へ入る形になる。
私は扉の前で二つ数えて、それから自分の部屋へ入った。入る前に、廊下の灯りを消した。消すと、隙間の線も消える。
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飼養の状況の報告(写)
報告の対象月 令和二百十四年四月
報告した者 相手方
余白の記載 次の五に記す
一、本報告について
本報告は月ごとに出させるものであった。用紙は当部門から郵便で送り、記入の後に居住区分の窓口へ返させている。
用紙は一枚で、両の面のうち表だけを用いた。
欄は体重、給餌、投薬、屋外へ出した回数の四つである。欄を足してよいか否かの記載は用紙に無い。
二、記入された数
体重は五十三・二キログラムであった。当該の値は月末の一日の値になる。月の途中の値は、相手方の側で持つものとした。
給餌は四百三十グラムと記入されていた。平均か否かを書かせる欄は無い。一度の量か一日の量かを分ける記載も、本様式に置いていなかった。当部門は記入のとおりに受理している。
投薬の欄には斜めの線が引いてあった。当部門は線を零として受理している。読み方を定めた記載は用紙に無かった。
三、屋外へ出した回数
記入された回数は九である。前の月の値は、当部門の綴りの側で並べられる。当該の月の日数は三十日で、引き渡しの日からの日数は四十一日になる。
本報告の対象は四月の一月であり、引き渡しの日からの通算ではない。通算と一月とを書き分けさせる記載は、用紙に置いていなかった。
九という数が通算か一月かは、本報告からは決まらない。
四、記録簿
相手方が記録簿を備えている旨は、本報告の欄に現れていない。備えているか否かを書かせる欄が用紙に無いためになる。
本報告の数を記録簿から写したか、記憶で書いたかも、本報告からは決まらない。当部門は記入された数をそのまま受理した。
当部門は本年度に記録簿を一冊も見ていない。本年度に示された例は四件あり、四件とも返している。
五、余白
本報告の下の余白に、相手方の書き添えが一行あった。当該の行は、本様式のいずれの欄にも当たらなかった。
書き添えの文言は控に写していない。
当該の行を控に写した例は、前年度に一件であった。




