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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

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56/106

第056話 二十三

観覧に係る掲示


掲示の場所 分娩室前 通路

観覧の時間 十時から十五時まで

観覧の順路 東の入口から西へ一方通行


本日の予定


十時 通路の開放を始めます

十二時 係の者が通路の点検に入ります。五分ほど

十五時 通路の開放を終わります


ご案内


分娩室の前の通路を開放中。ガラスの内側の様子をご覧いただけます。四日目の本日で最終となりました。


観覧は一方通行。東の入口からお入りになり、西の出口へお進みください。途中で引き返すことはできません。


通路の幅がせまいため、立ち止まらずにお進みくださいますようお願い申し上げます。お子さまとご一緒の方は、手をつないで。


はじめての方へ


通路の長さは十二メートル。ゆっくりお歩きになって、所要は二分ほど。立ち止まらなければ一分半。


途中に段差が一箇所ございます。東の入口から四メートルの地点、高さは三センチ。足もとにご注意を。


車椅子でお越しの方は、西の入口からお入りいただけます。係の者へお声がけを。


撮影について


撮影はご遠慮を。


配信の映像は当園の頁でご覧いただけます。本日の配信は十五時まで。過去の回の映像も同じ頁に並んでおります。


映像の保存は本年度から三年間。三年を過ぎた分の扱いは、当園の頁に記載がございません。


四日目のご案内


本日の四日目をもって観覧は終わりとなります。


明日からの通路は通常の順路に戻ります。開放の予定は当園の頁でお知らせ。


前回の開放は昨年の八月。本年度はこれで四回目。回数の上限は設けておりません。


ガラスについて


ガラスは特殊なものを使っております。内側からは通路が見えにくい造りです。


音は通りません。お声はガラスの向こうには届きませんので、ご了承を。内側の音もこちらへは参りません。


ガラスの厚みは二センチ。手前に細い線が二本入っておりますが、傷ではございません。製造の際に入ったものです。


お願い


通路の内側の設備には手を触れないでください。


床の線から内側へはお入りにならないでください。線は白。幅は五センチ。


係の者が通る際は道をお空けください。


飲食は通路の外でお願いいたします。東の出口の先に休憩の場所を設けております。椅子は八つ。


その他


お手洗いは通路の東と西に。


ご不明の点は係の者へお尋ねください。係の者は青の名札を付けております。


本日の当園の入園者数は、閉園の後に頁へ掲載。前回の開放の日の数も同じ頁に残してございます。


本日のご来園、ありがとうございます。


掲示 広報係

掲示の期間 本日のみ


──────────────────


 三月十五日。木曜は柵が十時に開く。開くまでの間、通路には誰も入らない。


 五時半に起きた。起こしたのは音になる。

 D区画の側で戸が二度鳴った。二度とも同じ間隔で、二度目のほうが短い。


 鳴った後は静かになる。静かになってから、私は目を開けた。

 鳴った戸が何処の戸かは、音の高さでは分からない。


 窓の内側は曇っていない。外はもう薄い。

 三月の朝は日ごとに明るくなる。十日で三十分ほど早い。先月は逆に遅かった。


 寝台の縁へ座って、足の裏を床へ置いた。冷たさは先週より浅い。

 継ぎ目の縁は、まだ足の裏へ立ってくる。三月に入って、当たり方が鈍くなった。二月の縁はもっと尖っていた。

 当たる線が太いという意味だ。冬は細い線で当たる。線の太さを測った者はいない。


 水を一口飲んだ。喉を通ると、腹の上の内側が冷える。二口目は飲まなかった。

 止まる高さは臍のところで、先週と変わらない。

 器は寝台の脇の台に置いてある。台の面は木で、縁のところだけ色が濃い。木の目は縦に走っている。

 その部分は手が触れる位置に重なっている。


 髪を後ろで束ねる。紐の端は二度ほつれたままだ。切って落とすと短くなる。

 ほつれた端を内へ入れると、外からは見えなくなる。

 束ね方は去年から変えていない。二度巻いて、最後に片方を通す。解く時は逆の順になる。


 通す時、指の腹で紐の幅を確かめる。幅は三ミリほどだ。

 これより細い紐は使わない。細いと、首の後ろに線が残る。残った線は昼まで消えない。


 点呼は五時二十分に始まる。番号を読まれたら手を挙げる。声は出さない。

 今朝は一人が遅れた。その分を書く欄は、係の人の紙に無い。そういう語も無い。


 遅れた者の番号は読み上げられる。二度目に呼ばれると、たいてい手が挙がる。三度目まで行った朝を私は知らない。

 今朝も二度目で上がった。それまでの間、誰も動かない。


 点呼の紙は一枚で、区画の順に並べてある。下の隅だけが丸い。上の隅は角のままだ。

 係の人は紙を左手で持って、右手の指で送る。速さは番号の桁で変わらない。送り終えると紙を裏返す。


 廊下は先週より温い。素足の区間は二十歩ある。歩幅は変えない。

 床の色が違う四角い箇所を、今朝も同じ足で踏んだ。

 四角の中は周りより半分ほど冷たく、理由を言う者はいない。


 二十歩のうち、七歩目と十四歩目に継ぎ目が来る。数えたのは去年の冬だ。以来、数え直していない。

 今朝も同じところで来た。継ぎ目は動かない。


 掲示板の前に人が二人いた。木曜の朝はふつう四人ほどいる。今朝は二人で終わった。

 二人とも左の欄を見ている。右の欄へ目をやる者はいない。私も朝は左から見る。


 当番の表を見た。左の欄に私の番号がある。洗濯の第二週だ。

 右の欄は先週で終わっている。日付の欄には三月十一日と入ったままだ。消した跡は無い。


 右の欄の罫は、左の欄と同じ太さのままになっている。

 欄の名の字は今も手で書いてある。左の欄の名は刷りだ。


 右の欄は消してなくて、次の紙が来るまで残るのだと思う。


 紙の下の縁は、掲示板の板から指の一本ぶん浮いている。押さえると板に付く。

 離すと、また同じ幅まで戻った。戻る速さは朝のほうが遅い。


 掲示板の右の端に、見たことのない紙が一枚あった。

 紙の地は白くて、字は大きい。当番の表の字よりずっと大きい。行の間も広く空いている。

 角は四つとも押さえてある。留め具は新しい。


 紙の下の端に、折った跡が一本ある。折って運んで、ここで開いたのだと思う。跡の向きは横だ。

 折り目は真ん中ではない。下から三分の一のところにある。三分の一は目分量だ。


 観覧に係る掲示の写だと分かった。書いてある字が敬体になっている。


 うちの区画の掲示板に、敬体の紙が貼られるのは珍しい。

 写の配布先の欄に、E区画の当番の詰所と書いてある。詰所は掲示板の隣だ。隣といっても戸が一つ挟まる。

 配布の先が詰所なら、貼るのは詰所の当番になる。誰が貼ったかは書いていない。訊く先も書いていない。


 順路の欄には、東の入口から西へ一方通行とある。

 通路の長さは、十二メートルとも書いてあった。歩いて二分ほどらしい。一分で歩く者もいるはずだ。


 段差の場所も書いてある。東の入口から四メートル、高さは三センチ。足もとに注意を、とも添えてある。

 私が見たことのない通路で、D区画へ寄ったところにある。


 観覧の時間の欄には、十時から十五時までと入っている。

 通路の幅がせまいので立ち止まらないよう願う、という一行もあった。

 ガラスは内側から通路が見えにくい造りだ、とも書いてある。


 音は通らないとも書いてあった。声はガラスの向こうへは届かない。厚みは二センチとある。

 内側の音もこちらへは来ない、という一行が続く。両方向で通らない。

 私はその一行の上を指で追った。指を離しても、字の並びは頭に残る。

 残ったところで、掲示板を離れた。


 朝の器は六時二十分。量は四三〇で、先週と変わらない。湯気の立ち方は低い。

 卓は三つ目に座った。H-0009とK-0330は、今日も向かいに来る。

 揃うのは今週で四度目だ。二月までは別々に来ていた。変えた紙は貼られていない。


 K-0330が先に座る。H-0009は匙を二本まとめて取ってから、座った。取る手はいつも同じだ。

 順は先週と同じになる。順が入れ替わった日は、まだ見ていない。


 二人とも何も訊かない。私も何も言わなかった。器の湯気が三つぶん立っている。


 匙の音は二つで、今朝は揃っていない。片方が速い。揃う朝は少ない。

 急ぐほうがK-0330だ。器の中の減り方でも分かる。


 卓の面には、前の者が置いた輪が三つ残っている。大きさは同じだ。

 三つのうち一つだけ、縁が二重になっている。置き直した跡になる。二重の幅は爪の先ほどだ。


 食べ終わって、器を返した。口の縁に、汁の跡が一筋付いている。拭く布は台に無い。

 跡の位置は右だ。指で拭うと、指へ移るだけになる。


 移った跡は爪の際で止まる。際から先へは行かない。

 作業着で拭くと、布の織り目のところだけ薄く残った。

 塗りの薄いところへ、みんなが器を寄せる。そう決めた紙は無いのだと思う。寄せる位置は日によって指二本ぶん動く。


 七時から洗濯室の当番に入った。木曜の布は九十枚ある。月曜は百二十枚だ。

 三つの槽で分ける。私は第二槽に付いた。


 布は台車で運ばれてくる。台車は二段で、上の段に六十枚、下の段に三十枚を載せる。合わせて九十枚だ。

 積み方を決めた紙は見たことがない。当番が代々そうしている。


 九十は三つで割り切れる。第二槽は三十枚だ。割り切れない日は端の槽が受ける。


 H-0006が今日は第一槽にいる。二月から同じ場所に戻っている。

 K-0330は干し場へ回った。H-0009は昼から入る。割りを決めた表は戸の内だ。

 三人が同じ室に揃うのは、昼の一時間になる。


 H-0006は袖を肘まで上げる。片側ずつだ。上げた跡は肘の下に残る。

 右を上げ、次に左を上げる。逆にした日は見ていない。

 第二槽の湯は第一槽より二度ほどぬるい。指の先から沈めて、手首まで入れる。慣れるまでに十を数えた。

 その間、湯の縁が指の付け根に線を作る。線は水面の高さと合う。引き上げると消える。


 布は入れる前に一度広げる。畳んだままだと空気が残って、面が浮いた。

 沈むのが遅いのは、厚い布だ。厚さの差は指の腹で分かる。目では追えない。


 九十枚のうち、厚いのは十四枚だった。数えたのは去年の十一月だ。十一月は布が増える月になる。

 その後、枚数は動いていない。厚い布は同じ十四枚のまま回っている。


 絞る時は腕を槽の内へ入れて捻る。外へ向けると袖まで湯が入り込む。濡らした者は昼まで冷える。

 同じ形で結べるまでに三か月かかった。教えたのはH-0006だ。教える時、この人は口で言わない。


 洗濯室の匂いは湯と布のものだ。三月の湯気は低い。匂いも低いところにある。立つと匂いは薄くなる。

 しゃがむと濃い。

 干し場から風が来る。西の風で、戸を開けている間だけ通った。


 乾いた風だ。湯気のあるところとの境が、戸のところで立つ。位置は毎日ずれる。

 境の位置は戸の開き方で動く。半分だけ開けた日は、境も途中で止まる。

 境の線は目には見えない。腕を通すと、肘のあたりで変わる。肘から先が先に冷える。


 十時になった。柵が開く音は、洗濯室までは届かない。時刻は壁の時計で見る。

 入る日もある。風が東から来ると、金具の音が入る。今日は西の風だ。


 届くのは湯の音と、干し場の布の音だ。布は風が当たると鳴る。

 音は乾き具合で変わる。乾いた布が高い。鳴り始めるのは掛けて一刻ほど後だ。


 十一時に一度休みが入る。壁ぎわの腰掛けに三人で座った。休みは日に二度ある。

 腰掛けの長さは大人が四人ぶんある。三人で座ると端が空く。

 空いた端は、いつも入口から遠い側になる。

 そちらへ座る者はいない。決めた紙は無い。訊いた者もいない。


 腰掛けの脚の一本は、床との間に紙が挟んである。無いと鳴る。挟んだ紙は四つに折ってある。

 紙は何度も折り直されて、角が丸い。


 H-0006が水を汲んで戻ってきた。器は三つで、二つを両手に持っている。

 もう一つは腕と体の間に挟んでいた。落とさない持ち方だ。三つ目を落とした者はまだ見ていない。

 挟む位置は肘の内側になる。歩く時、その腕だけ振らない。


 三人とも何も話さない。休みは十分で終わった。

 合図は無い。誰かが立つと、二人も立つ。


 今日は私が最後に立った。腰掛けの紙の音が、そこで一度鳴る。音の後、誰も振り向かない。

 鳴ったのは私のところの脚だ。


 昼の器は十二時十分に来た。量は四三〇だ。

 午後は干し場へ回る。布を裏返す当番だ。

 裏返すのは一日に二度で、二度目は十五時だ。


 干し場の窓からは、D区画へ通じる廊下が見える。

 窓は高いところにある。踏み台に乗らないと、下の半分は見えない。


 踏み台は干し場の隅に置いてある。使うのは布を高い段へ掛ける時だ。今日は掛けていない。

 私は乗らない。台に上がらなくても、廊下の上半分は見える。


 見えるのは廊下の一部で、幅は窓の枠の三本ぶんほどだ。

 枠の外は壁で、壁の色はこちらより白い。

 その壁には留め具の穴が無い。掲示を貼らない廊下になる。


 硝子は二重だ。二枚の間に細かい網が入っている。

 網の目は指の先より小さい。数えたことはない。数えても、書く紙が要らない。

 午後の間に、その廊下を人が四度通った。どれも歩いていた。

 一度目は十二時四十分、二度目は十三時十分。三度目は十三時五十分だった。

 四度目の時刻は書き留めていない。布を裏返していた。手を止めれば書けた。


 十四時七分に、人が三人通った。


 三人とも走っていた。


 音は窓を通ると低くなる。それでも速さは分かる。

 先頭は白い上着だった。二人目も同じで、三人目は違う色をしている。

 三人目は何かを、胸のところで持っていた。形は分からない。大きさは腕の間に収まる。


 私は布を持ったまま窓を見た。


 三人は西へ行って、枠の外へ消えた。枠の外へ出るまでの時間は、二秒あるかどうかだ。


 時刻を覚えているのは、干し場の柱に時計があるからだ。

 柱の時計は洗濯室のより二分早い。合わせる者はいない。


 布は両手で持っていた。布を持ったままで、腕の高さは変わらない。

 布の重さは、湿っている時のほうが乾いた時の二倍ほどある。


 園で人が走るのを見たのは、これが初めてだ。

 係の人はいつも同じ速さで歩く。速さが変わるのを見たことがない。


 布を裏返す手は動いたままだ。止めろとは言われていない。言われたら止める。

 よいとも聞いていない。裏返す順は端からと決まっている。


 端から数えて七枚目まで裏返したところで、窓を見た。

 それから八枚目を続けた。順は飛ばしていない。飛ばした日は数が合わなくなる。


 十四時二十分に、また人が通った。今度は二人で、歩いていた。

 足の運びは午前と同じだ。速さも変わらない。

 二人のうち一人は青の名札を付けている。もう一人は白い上着だ。

 青の名札は掲示に書いてあった。係の者は青の名札を付けている、とあった。


 名札の字までは見えない。分かるのは色だけになる。

 白い上着の人は、手に何も持っていなかった。


 十五時に干し場の戸を閉めた。風が切れて、布の音が止まる。

 二度目の裏返しはその前に済ませてある。九十枚を全部返した。返し忘れは無い。


 返し終わった布は、端から乾いていく。西の端が一番早い。

 乾き方の差は、触ると分かる。目では同じに見える。


 止まった後の干し場に残るのは湯の音だ。

 それは洗濯室から来る。戸を閉めても、床を伝って届く。


 十六時に洗濯室を出た。手の皺は縦に走り、押すと消えて、また浮いた。

 三月の皺は一月より浅い。早く消える。消えるまでに二十を数えた。

 引くまでの間、指の腹の感じが少し鈍くなる。


 廊下を戻る途中で、D区画へ通じる扉を見た。二つ目の扉は閉まっている。

 日曜に通った時は開いていた。木曜は閉まっているのがふつうになる。


 閉まっている時は取っ手のところが光る。開いている日は暗い。


 夕方の器は十六時四十分に来る。今日の私は運ばない。当番は別の者だ。

 運ばない日は月に四度ある。表の左の欄で確かめてある。四度は木曜に当たらない。


 食堂へ入ると、卓の上に器が並べてあった。

 置き方は五つずつだ。端の列だけ数が合わない日がある。


 今日は端の列が三つだった。五つの列が四つあって、そこに三つが足される。

 私はそこで一度、目を戻した。


 私は数えた。二十三ある。

 もう一度、端の列から数え直した。二十三で合う。三度目は数えなかった。


 先週まで二十四あった。九月から先週までの数はそのままだ。

 あの月に数えた時も二十四あった。あの日、七番が二十四の器を同じ速さで量った。


 卓の端に七番が立っている。作業着は九月と同じ型だ。

 手に紙を一枚持っていて、紙の上に数が刷ってある。

 縦の並びになっていた。横の欄がいくつあるかは、こちらからは見えない。


「器は二十三になります」


「二十三ですか」


「本日から一つ外します」


 私は自分の器を取った。それから、卓の三つ目へ座る。


「どうして外すんですか」


「規定です」


 七番はそれ以上を言わなかった。紙を折って、作業着の内へ入れる。折る音は聞こえない。

 しまった先は左の内側だ。九月に鉛筆を出したのもそこになる。

 折り目は二度付けてある。二度目の折り目のほうが浅い。

 そちらは開けばすぐ平らに戻る。深いほうは残る。


 私は器を持ち上げた。底を横から見る。

 上からだと影になって読めない。九月に覚えた見方になる。


 刻印は二つだ。元の四桁の上に、四桁がもう一組、浅く打ってある。

 二組は少しずれている。ずれの幅は字の太さの半分ほどだ。打ち直した年は刻んでいない。


 浅いほうの角は、まだ立っている。


 元の角は丸い。指の腹で撫でると、その差だけが残った。

 撫でる向きを変えても、差は同じだけ残る。向きでは変わらない。


 下の二桁は三と八だ。九月に指の腹で覚えた数と合う。間に点は打っていない。

 三の丸みと、八の重なりの位置まで同じになる。


 九月のあの日、私はこの二桁を先週の位置と重ねてみた。

 その記憶が、字の形より先に戻ってくる。


 九月のあの器は、七番が最初に読み上げたものになる。あの時この人が読んだのは上の数だ。

 現在の番号です、と言って、それ以上を言わなかった。


 私は器を卓へ置いた。音はいつもより高い。置き方は変えていない。

 卓の面に何も敷いていないからだと思う。


 汁は四三〇だ。量は変わっていない。器の底の数だけが変わっている。

 量を書く紙は当係にある。底の数を書く紙のことは知らない。訊いたことも無い。


 食べる間、誰も器の底を見なかった。目は中のほうへ行く。

 底を見るのは、返す時に一度だけだ。返す時も、たいていは見ない。

 H-0009とK-0330は今日は来ない。二人の卓は空いていた。

 夕方に来ない日は前にもある。理由を訊いたことはない。訊く相手は決まっていない。


 空いた卓の面には、前の者が置いた輪が二つ残っている。輪の大きさは同じだ。

 二つの間は指の四本ぶん空いている。朝に見た三つとは並びが違う。


 返す時、私は底をもう一度見た。刻印は二つのままだ。

 二度見ても、浅いほうの角は立っている。


 十七時二十分に食堂を出た。廊下は夕方のほうが朝より温い。

 その分、足の裏に立ってくる線が鈍くなる。


 E区画の廊下の突き当たりに、人が三人立っていた。

 どれも動いていない。昼にD区画へ走った三人とは、上着の色が違う。

 一人は台車を押している。台車は二段で、上の段に何も載っていない。押す速さは歩きと変わらない。

 下の段には布が一枚敷いてある。敷いてあるだけで、何も載せていない。


 突き当たりの、一つ手前の戸が開いている。中の灯りは点いていた。

 戸の外の紙は外してある。留めてあった位置に、四角い跡が残っていた。四隅に穴が四つ空いている。


 私は廊下の途中で足を止めた。そこに立てとは言われていない。

 進めとも聞いていない。私は壁へ寄って立った。


 最初に出てきたのは布だ。畳んで台車の上の段へ置く。枚数は数えなかった。

 畳み方は洗濯室のものと同じになる。三つ折りにして、端を内へ入れる。


 次に出てきたのは器だった。数は一つで、伏せずに置いてある。中は空だ。

 載せた先は布の上だ。底は見えない向きになっている。


 最後に出てきたのは小さな箱だ。蓋は閉まっている。

 大きさは掌を二つ並べたくらいになる。持った人は片手で持っていた。もう片方は台車の柄に掛かっている。


 布、器、箱の順だった。変える者はいない。

 三つを載せ終わるまでに、四分ほどかかった。


 台車が動いた。車輪の音は右の一つだけが高い。

 その音は廊下の突き当たりで一度返る。それから小さくなった。二度は返らない。


 三人は西へ行く。私の横を通る時、誰も私を見なかった。

 通り過ぎる速さは、いつもの歩き方と同じになる。


 戸は開いたままになっている。中の灯りも点いたままだ。

 私はそのまま歩いて、中を見なかった。


 私は自分の居室へ戻った。

 戸を引くと、中の空気は廊下より少し冷たい。三月はもう、そこが逆になる。

 寝台へ座って、作業着の袖の折り返しを直す。右は二度、左は一度だ。教わった時から数は動いていない。

 直す前に、袖の内側を一度だけ見る。糊の匂いはもう残っていない。


 直し方は変えない。教わった形のままにしてある。型は紙に起こしていない。

 教わったのは去年の秋だ。洗い場の湯が三十八度だった頃になる。


 教えた人は、右を二度折る理由を言わなかった。

 私も訊かなかった。答えたのかどうかは分からない。

 手のひらを見た。洗濯の湯で赤くなった跡が、まだ薄く残っている。押すと白く抜ける。

 赤いのは指の付け根までだ。手首まで行くと色が変わらない。


 押しても何も出ない。跡は明日には消えるはずだ。

 三月の跡は、二月のものより早く引く。


 膝の上で指を組んだ。組んでから、片方ずつ解いていく。解くのに音は要らない。

 上へ来るのはいつも右の親指だ。逆にすると落ち着かない。


 落ち着かないというのは、指の付け根の角度が合わないという意味だ。

 合わせようとすると、手首のほうが先に動く。


 廊下を係の人が通った。靴の音は右のほうが強い。

 右が強いのは先週と変わらない。同じ人が回っているのだと思う。


 戸の前で一度小さくなって、それから元へ戻る。

 戸の厚みのぶんだけ、音が届かない。

 通り過ぎてから、戻ってこなかった。木曜の見回りは二度あるはずだ。一度で終わった木曜を私は知らない。


 二度目は二十一時に来る。それまでの間、廊下の音は無い。

 その長さを測る道具は、私の側に無い。


 寝台の脚には、前の個体が巻いた白い布が残っている。端のところで二度重なっている。

 巻いた人を私は知らない。前の個体だと聞いている。

 巻きの下に、木の色が細く見える。幅は指の半分ほどだ。木は塗ってない。


 布の内側は、まだ柔らかい。指を入れると二本ぶん入った。

 外側は硬い。触ると、木に近い。


 三本目で止まる。締まりは去年から変わっていない。

 私は両膝を抱え込んだ。額を乗せると、その下で骨が硬い。腕を回すと届く。

 硬さは冬と変わらない。薄くなったのは作業着の布だ。


 数えた分がまだ頭に残っている。器は二十三だった。

 五つの列が四つと、端の三つで二十三になる。


 先週まで二十四で、九月からずっと動いていない。

 九月のそれは、七番が同じ速さで量った数になる。


 差は一つになる。その差を書く紙は、私の側に無い。


 底の刻印は二つあった。浅いほうの角は立っていた。

 そのうち丸くなるのだと思う。


──────────────────


死亡の記録(抄)


事由の欄 空

死亡の確認 令和二百十四年三月十五日 十四時七分

確認した係 獣医室


一、対象


対象 A-0114


分娩 令和二百十四年三月十一日。産子 A-0208。


個体記録票の閉鎖は別に行い、閉鎖の日を記す欄は本記録に置かなかった。


二、確認


死亡の確認は十四時七分とした。確認は獣医室の担当二名による。二名の番号は記していない。


確認の時、居室に居た者の数を記す欄は本記録に置いていない。


確認の前の経過について、本記録は時刻のみを記す。


三、事由


事由の欄は空である。事由を記す欄は本記録に在る。記入を要する旨の定めは本年度に無い。


前年度に同様の記録は二件あり、二件とも事由の欄に記載がある。


本記録の事由の欄について、当係から照会は出さなかった。照会の様式は当係に在る。用いた例は本年度に無い。


四、留置


留置は分娩の翌日から数え、四日目が三月十五日に当たる。


四日目の欄は空である。三日目までの欄には、体温の記載が五回、給餌の記載が七回あった。四日目の欄を空のまま送る扱いは、本年度に例が無い。


記載の間隔を定めた紙は当係に無かった。


五、居室から出した物


居室から出した物の順は、布、器、私物とした。順は本年度の内規による。内規の写の添付は要しない扱いとした。


私物の定義を記した紙は当係に無い。本日の私物は一件とした。内訳の欄は空である。重さの記載も空とした。


出した物を受け取った先は当係とし、受け取った旨を記す欄は本記録に置かなかった。


順を変えた例の有無は、本記録の対象外とした。


六、配信


配信の記録は広報係が持ち、本記録には写を付さない扱いとした。


配信は十五時に終了した。終了までの間の記載は、本記録の対象外とする。


七、器


器は当係で保管する。底の刻印について、記載の要否を照会した。照会の先は飼育部門である。


本日から用いる器の数は二十三とした。前日までは二十四であり、九月から動いていない。数を改めた日は本日とした。


数を改めた旨を個体へ示す扱いは置かなかった。

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