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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

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第055話 分娩

配信に係る運用の通知(写)


配信の回次 本年度 第四回

配信の担当 広報係

配信の予定 三月十一日 午前八時から


一 配信は分娩の開始から産子の計量までとする。


二 カメラは二台とする。一台は据置、一台は手持ちとし、手持ちの一台は担当が持つ。


三 画角に入る者は、あらかじめ担当が定める。定めた者の一覧は当日の詰所に置く。


四 個体の顔は映してよい。番号は映さない。番号の札は事前に外す。


五 音声は入れる。話し声は入れない扱いとし、その旨を担当へ伝える。


六 配信の間、書き込みは表示しない。表示は配信の後に行う。時間は一時間とする。


七 本通知は令和二百十四年三月四日から効力を持つ。


別記一 本年度の回次


一 本年度の配信は本回で四回目とする。

二 第一回は令和二百十三年五月、第二回は同年八月、第三回は同年十一月であった。

三 三回の同時接続は、二万八千、四万一千、六万九千であった。集計は広報係によった。数え方は本通知に付さない。

四 集計の方法を記した書面は当係に無い。

五 三回とも配信の後に書き込みを表示し、時間は各回とも一時間とした。

六 表示した書き込みの数は、それぞれ千二百、二千四百、四千九百であった。


別記二 立会いについて


一 立会いは一名とする。割当は当番の表によった。

二 立会う者は分娩室の南に立つ。位置は床に印を貼って示す。印は一つとする。

三 立会う者の番号は、本通知にも配信にも出さない。

四 立会いに要する時間を記す欄は、当番の表に置かない。

五 立会いの当日に、当番を替える扱いは本年度に例が無かった。

六 立会いの割当は、洗濯の当番と同じ表による。表は各区画の廊下の掲示板に掲げた。

七 同じ表を用いる理由を記した書面は、当係にも飼育部門にも無い。


別記三 器具について


一 分娩台は一台とする。高さは七十センチとした。

二 器具は前日に数え、数えた者は当日の当番とした。

三 布は十二枚を用意する。用いなかった分は数に含めない。

四 器具の一覧は獣医室が持ち、写を本通知に付さない。

五 前回までの三回で、器具の数は八つであった。数を改めた例は無い。


別記四 画角について


一 画角に入るのは、母体と獣医室の担当二名とする。

二 立会う者は画角に入れない扱いとし、床の印はその位置に貼っている。

三 前項の扱いを定めた日は令和二百十三年八月であった。定めた理由は記していない。

四 画角の外に居る者の数を記す欄は、本通知に置かない。


附記


一 本通知の写は分娩室の入口の内側へ掲げる。

二 掲げる高さは床から百五十センチとする。

三 配信の終了の後、写は当係が回収した。回収の記録は残さない。

四 本年度の写は四部を作成し、三部は既に回収している。

五 回収した写の保管の期間は一年とした。

六 前年度に回収した写は、期間の満了により処分した。処分の日は記録している。


参考


一 前年度の配信は三回であった。

二 三回のうち一回は、開始の後に中止した。中止の理由を記す欄は当係の様式に無い。

三 中止した回の同時接続は、中止の時点で八千であった。

四 本年度は中止の例が無い。

五 前項の「例が無い」は本回の開始の前までを指す。

六 前々年度の配信は二回で、二回とも中止の例は無かった。

七 配信を始めた年度は令和二百八年である。始めた経緯を記した書面は当係に無い。


問合せ 広報係

写の配布先 飼育部門 獣医室 E区画 当番の詰所

掲示の場所 分娩室の入口の内側

掲示の期間 配信の当日のみ


──────────────────


 三月十一日。日曜は柵が八時に開く。

 五時に起きた。起きてすぐ、私は時刻の差を数えた。

 紙に出ていたのは八時四十分だ。三時間四十分ある。数えたのは一度きりだ。


 数えたのは寝床の中でで、指は動かさなかった。

 動かさないと、途中で一度、何処まで数えたか分からなくなる。今朝は二度そうなった。


 窓の内側は曇っていない。三月に入って四日目から、朝の硝子は曇らなくなった。

 外はまだ暗い。明るくなるのは六時を過ぎてからで、今朝もそのとおりだった。

 触れると指の先が冷える。第二関節から先は変わらない。


 作業着の裾を上げる。跡は三つある。二つは線で、残りは点だ。

 押しても何も起きない。皮の色は周りへ戻った。三つ目だけ、まだ少し薄い。


 寝台の縁へ座って、足の裏を床へ置く。冷たさは一月より浅い。足を離すのが遅くなる。

 継ぎ目の縁は、まだ足の裏へ立ってくる。感じ方が冬と同じだ。


 四か月が過ぎた。起点は被覆材を外した日だ。数えているのは私だけになる。

 勘定し直すと、九十日を二度と、あと三十日になる。


 水を一口飲む。喉を通る。腹の上の内側が冷える。

 止まる高さは臍のところで、一月と変わらない。

 髪を後ろで束ねる。紐は洗濯室の余りで、端が二度ほつれている。長さは指の三本ぶんある。

 ほつれた側は内へ入れた。外から見えなくなる。


 束ねた分の重さが、首の後ろへ移る。移った分がある。その分、襟が浮く。

 襟の内側は、朝のうち冷たい。


 爪は右の中指が伸びている。切るのは十日に一度で、次は明日だ。

 伸びた分の縁は薄い。押し当てても指の腹に線を残さない。線が付くのは切った直後だけだ。


 点呼は五時二十分だ。番号が読まれたら手を挙げる。声は出さない決まりになる。

 今朝は誰も遅れなかった。欠けた者がいない。点呼は二分で終わる。

 二分は短い。早く終わった日は、廊下へ出るのも早くなる。今朝は五時二十二分に出た。

 係の人が持って回る紙は一枚で、区画の順に並べてある。


 紙の下の隅が丸くなっていた。何度も指で送ったのだと思う。


 廊下は三月が一月より温い。裸足で踏む板の冷たさは、朝のうちに残る。

 床の色が変わる四角い箇所を、今朝も右の足で踏んだ。


 四角の中で、床が半分ほど冷たい。理由は誰も言わない。


 掲示板の前は空いている。日曜の朝は、当番の表を見る者が少ない。見る者は昼に集まる。

 それでも紙は同じ場所に留めてある。


 当番の表の右の欄に、私の番号が入っている。左の欄には別の番号が入っていた。

 日付の欄には三月十一日と書いてあった。一月まで、この欄は空だった。


 欄の下の注意の一行は、一月と同じ字で刷ってある。

 紙は替わったのに、注意の位置だけが前のままだ。刷りの版が替わっていないのだと思う。


 紙の上の縁は、留めたところで少し波を打っている。押さえると平らになる。

 波の山は三つある。山と山の間隔は指の二本ぶんだ。


 先月の紙は右の端に留めたままになっている。角は四つとも押さえてある。

 先月の紙の右の欄には、日付の欄が空のまま入っている。


 朝の器は六時二十分。量は四三〇で、先週と変わらない。器の底の番号も先週のものだ。

 汁の匂いは薄い。三月は湯気が低い。

 卓は三つ目に座る。H-0009とK-0330が向かいに来た。二人で来るのは今週で三度目だ。

 K-0330が先に座って、H-0009が匙を二本まとめて取る。


 二人は何も訊かない。私も何も言わない。

 匙の音は二つで、今日は揃っている。二つが重なる日は珍しい。


 揃った音は、一つに聞こえる時と二つに聞こえる時がある。今朝は一つに聞こえた。

 食べ終わって、器を返す。口の縁に、朝の汁の跡が一筋付いていた。跡は右の側に寄っている。

 幅は二筋の時より太い。乾くのに時間がかかる。


 返す口の台は右の端で塗りが薄い。器を置く位置がそこに寄る。寄せない者もいる。

 毎日そこで、塗りは端から中へ向かって薄くなっていた。


 H-0009が先に立った。K-0330は匙を二本とも自分の側へ寄せる。

 二本の柄は右を向いている。揃えたのはK-0330だ。


 七時に居室へ戻る。作業着を替えた。新しい一枚は当番の詰所から出ている。

 布は洗ったばかりで、糊の匂いがまだ残っている。


 匂いは襟のところが一番強い。袖の側は弱い。背の側からは何もしない。

 袖の折り返しは、右を二度折る。左は一度でいい。

 この折り方を教えたのは すず で、教わったのは去年の秋だ。


 教わった日の湯は三十八度だった。いまは四十二度に戻っている。

 七時四十分に廊下へ出る。分娩室はD区画の端にある。行くのは今日が初めてだ。

 E区画から行くと、扉を二つ通る。二つ目の扉は日曜だけ開いている。


 扉の向こうの廊下は、床の材が違う。靴の音が高くなる。継ぎ目の幅も広い。

 私は素足なので、音は変わらない。私の側が同じままだ。


 途中の窓は西を向いている。この時刻の西の窓は暗い。明るくなるのは午後だ。

 硝子には廊下の灯りが三つ映る。数は一月から三つのままだ。

 真ん中の一つは、三月も両側より暗い。


 D区画の廊下には掲示が無い。壁は白くて、留め具の穴も空いていなかった。掲示の無い廊下があると知らなかった。

 穴が無い壁を見るのは久しぶりだ。E区画の壁には必ず穴がある。

 分娩室の入口の内側に、紙が一枚掲げてある。

 高さは私の目の少し上だ。配信に係る運用の通知の写で、条が七つ並んでいる。別記は四つある。


 三つ目には、画角に入る者を担当が定めると書いてあった。

 一覧は当日の詰所に置くとも書いてある。私はその一覧を見ていない。


 四つ目には、番号の札は事前に外すとある。誰がやるかとまでは書いていない。

 外した札の行き先を書いた条は、七つの中に無い。


 部屋は思っていたより明るい。灯りは天井に六つある。六つの径は等しい。

 四つが点いていて、二つは消えている。


 消えている二つは、南の側の上にあった。球が切れているのか、点けていないのかは分からない。


 壁は白い。床はそれより少し灰色に寄っている。継ぎ目は一本も無かった。

 そういう床を歩くのは初めてだ。足の裏に立ってくるものが何も無い。


 床に印が貼ってある。四角い印で、辺は三十センチほどだ。印は一つしか無い。

 色は白で、縁が少し浮いている。踏むと下で紙が鳴った。

 鳴る音は掲示板の紙を押さえた時に近い。押さえる相手が床である点が違う。


 カメラは二台ある。一台は天井の隅に固定されていて、動かない。固定の側は南を向いている。

 もう一台は人が持っている。その人は白い上着ではない。


 持っている人の靴は底が厚い。歩いても音がしない。白い上着の人のとは形が違う。

 白い上着の人の靴は、踵のところで一度鳴る。二人とも同じ音だ。


 台が一つ。高さは私の腰より少し下にある。脚は四本だ。

 台の脇に金属の卓が寄せてあって、器具が並べてある。


 器具は数えた。八つある。並び方は左から大きい順だ。

 決まりがあるのかは分からない。

 八つとも金属で、卓の布の上に置いてある。布は白くて、皺が一本も無い。


 布の下に紙が敷いてあった。紙の縁が布の外へ出ている。縁の色は布より少し黄色い。

 幅は指の半分ほどで、何が刷ってあるかは見えない。


 布は畳んで積んである。高さは指の四本ぶんで、十二枚だった。

 枚数は数えた。書く紙は私の側に無い。数えたのは私だけだと思う。


 すず は台の上にいる。薄い布が作業着の側へ掛けてある。

 顔はこちらを向いていた。番号の札は襟から外してある。跡は襟の内側に残る。

 外した札の行き先は分からない。襟には糸の跡だけが残っている。


「まだよ。始まってもいないから」


 すず がそう言った。声はいつもより低い。字は落ちていない。


「立ちます」


 私は印の上に立つ。踵の後ろが印の縁から出た。印は私の足より小さい。

 その分を前へ寄せると、今度は爪先が出る。


 どちらかが出る。両方が入る位置は無い。


 七番が入ってきた。作業着は九月と同じ型だ。袖の丈も九月のままに見える。

 盆を持っている。盆の上に量りが一つと、白い封筒が一つある。


 封筒は伏せてあった。厚みは紙一枚ぶんしかない。表の側は下を向いている。


「本日の立会いは一名です」


「立っています」


「立つ位置は別記二によります」


 私はもう立っている。七番はそれを見てから、もう一度繰り返した。

 言い直さない人だと思っていた。今日は言い直した。


 言い直した後の間は、いつもより短い。その後で、この人は盆を持ち替えた。


 八時になる。天井の隅のカメラの下で、小さな灯が点いた。点いた時の音は無い。

 色は緑で、それから一度も消えない。

 緑の色は洗い場の札の裏の字と同じだ。


 持ち手のあるカメラが台の脇へ動いた。動く時、床の印を跨いだ。

 その人は私を見ない。台の向こうへ回って止まった。


「八時四十分に開始とします」


 七番はそう言って、盆を金属の卓の端へ置く。

 そこで封筒が少しずれた。この人はそれを指で戻す。

 戻す時、封筒の縁が卓に当たって短い音がした。


 九月に一度、同じ音を聞いている。場所は栄養管理の机の上だった。


 八時四十分に開始になった。決めたのは獣医室の側だ。七番は時刻を繰り返しただけだ。

 白い上着の人が二人いて、二人とも数と時刻しか言わない。


 最初に出たのは四十二という数だった。何の四十二かは分からない。

 次に八時四十一分と言う。それは時刻になる。

 時刻は分かる。数は置いておく。置いた数は三つになった。

 そうすると、後から並べ直せない。紙が私の側に無い。


 私は時計を見た。壁の時計で、秒針が無い。文字盤の数は十二までだ。

 分の針が動く時、盤の中で小さく音が鳴る。


 音は一分に一度で、鳴らない分は無い。

 私は分の針の音と、すず の息の両方を同じ耳で聞いている。


 八時五十二分に、白い上着の人が卓の器具を一つずらした。左から二つ目だ。

 ずらしただけで、取りはしない。布の皺がそこで一本増える。


「あんたは時計を見てればいいの」


 すず が言った。私はうなずく。


「何分ですか」


「訊いてない。時計を見てなさい」


 すず は台の上で膝を立てた。そこで薄い布がずれた。ずれた幅は掌の半分ほどだ。

 白い上着の人がそれを直す。手つきは洗い場のとは違う。


 端を引かずに、真ん中を押さえて広げていた。

 洗い場では端から引く。そうすると角が合う。真ん中からだと角は合わない。


 九時ちょうどに、天井の隅のカメラが少し向きを変えた。

 向いた先は台の側で、私の印は画角の端に来る。入っているかどうかは分からない。

 九時七分に、すず が息を吐いた。長く吐く。

 長い息の後で、短い息が四回入る。四回目が一番短い。


 白い上着の人が数を言った。四十四だった。言ったのは頭の側の人だ。

 前の数より二つ大きい。何の数かは、まだ分からない。

 二つずつ増えるなら、次は四十六になる。私は次を待つことにした。


 九時二十分。すず の掌が台の縁を掴んだ。縁の塗りはそこが剥げている。

 右の手で、左は腹の上に置いたままだ。


「いま何分だったか、言ってごらん」


「九時二十分です」


「そう。じゃあ次は三十分だからね」


 すず が目を閉じた。しばらくして、また開ける。

 それから天井を見た。点いていない二つを見ている。


 九時三十分は来た。すず の口は開かない。

 黙ったままで、掌の位置を台の縁の内へ寄せた。


 九時三十八分に、白い上着の人が二人で位置を替える。

 その後、頭の側にいた人が足の側へ動く。通ったのは印の外だ。


 白い上着の人が台の高さを変える。手で回す取っ手が下にある。回すのは足の側の人だ。

 回すと台がゆっくり上がる。止まる時の音は無い。


 台が上がると、床の印と台の縁の距離が変わった。

 私は動かない。よいとは言われていなかった。ただ、印の縁は動かない。


 変わった分は、指を二本ぶん広げたくらいだ。


 九時四十四分に、扉が一度開いた。誰も入ってこない。開いた幅は指の三本ぶんだ。

 開いた分の廊下の音が入って、閉まると切れる。

 入ってきた音の中に、外の柵の側の音が混じっていた。

 八時に開いた柵の側の音だ。日曜の音は平日より高いところで鳴る。


 十時になる。灯は緑のままだ。明るくも暗くもならない。


 十時六分に、七番が布を一枚取った。取ったのは上から二枚目だ。

 一枚目は取らない。理由は言わない。


「用意した布は十二枚です」


「持ちますか」


「布は一枚持ってください」


 私は布を受け取る。両手で受けた。片手でも持てる重さだ。

 布は乾いていて、洗濯室のよりも厚い。持つと手のひらが先に温くなる。

 温さは掌の真ん中から出る。指の側は遅れて温くなった。

 布の目は細かい。洗濯室のものは、目を数えられるくらい粗い。粗い布が早く乾く。


 十時十一分に、白い上着の人が私へ手を出した。

 私は布を渡した。その時、指が触れる。相手の指は冷たい。


 布は台の向こうへ行って、それきり戻らない。返す決まりも聞いていなかった。


 手のひらに残ったのは温さだけで、重さは残らない。

 私は両手を膝の横へ下ろした。その位置も、印の中に入っている。


 十時十四分。すず が息を吐いた。今度は短い。

 息の続く間、腹の形が二度変わる。


「二回目のほうが長いね、今日は」


 すず の声は、まだ低い。そのままで、字は落ちない。


「痛いですか」


「あんたは黙って数えてればいいの」


 私は数えた。息の回数になる。

 十時十四分から十時二十分までで、四十七回あった。


 四十七を書く紙は無い。私は覚えておくことにした。覚えるのは数だけだ。

 覚えておく分は、いつも指の側で数え直す。指では三十までしか数えない。

 三十で一度戻して、あと十七だ。戻したのは一度である。


 十時二十二分に、七番が卓の紙を一枚めくった。めくった音は短い。紙の数は分からない。

 めくった先を私は見ていない。七番の手が目に入る。


 十時二十六分に、白い上着の人が器具を一つ取った。

 左から三つ目のものだ。取った後、卓の上には七つ残った。


 器具の名は分からない。長さは私の手のひらより少し長い。太さは指の二本ぶんだ。

 金属の側に細い筋が二本あって、筋の間が光らない。

 筋は端まで届いていない。途中で切れて、そこから先は平らだ。


 十時三十分。持ち手のあるカメラが台の脇から離れた。

 動いた先は南の側で、私の立っている印へ寄る。

 寄ってから止まった。その位置は、印の縁の外にある。


 私は自分の足を見た。爪先は印の中に入っている。踵は外へ出たままだ。

 入っている分は指の一本ぶんもない。爪先を見ていると、それが分からなくなる。

 印の白は朝に見た時より灰色に寄って見える。灯りの数が変わっていないのに変わった。


 十時三十六分に、扉の外で人が二人通った。話し声は入らない。通った向きは西だ。

 通る音は床の材の違いで高く聞こえる。


 十時四十一分に、七番が量りを卓の中央へ移した。

 そこで盆の端が上がって、封筒がまた少しずれた。


 この人はまた指で戻した。音は九月と同じ短さだ。


 九月の机は木で、今日の卓は金属だ。音は同じ短さでも高さが違った。


 十一時になる。すず の息は長いのと短いのが交互に来る。

 交互の間隔は、さっきより詰まっている。その分を測る道具は私の側に無い。


 白い上着の人が四十六と言った。それから、四十七と言い直す。言い直しは今日で二度目だ。

 後の数は私が数えた息の数と同じだった。


 十一時四分に、すず が台の縁から手を離した。離した掌は上を向いている。

 すぐに戻る。その時、指の関節が一度鳴った。


 十一時九分。すず が私を見た。


「水。一口でいいから」


 私は動かない。いいとは言われていない。


 七番が水を持ってきた。紙のコップで、量は指一本ぶんだ。縁が少し波打っている。

 すず は一口飲んで、残りを返した。先は七番の手だ。


「見なくていいよ、そっちのほうは」


 すず がそう言った。私は台の向こうを見ていない。

 目は壁の時計にある。盤に細かい傷が斜めに一本入っている。


 十一時十七分に、白い上着の人が時刻を言った。

 その後で、もう一度その時刻を繰り返す。


 部屋の音が変わった。湯を止めた後の洗い場に近い。

 止めた後の洗い場では、槽の中で水が二度ほど揺れて止まる。

 声がした。低くて短い。二度続く。二度目が長い。


 すず は何も言わなかった。息は続いている。間隔は一定に戻っていた。

 長さは十一時より前と変わっていない。

 私は数えるのをやめた。やめた時刻を書く欄も、この部屋には無い。

 数えた分は四十七で止まっている。そこで打ち切ったのは私だ。


 十一時十八分に、七番が量りの皿を拭いた。

 布の端を使って、それから皿を平らに直す。


 皿は平らになった。直す前は右へ傾いていたのだと思う。


 十一時二十分。灯が緑から消えた。


 消えた後、天井の隅のカメラは動かない。

 持ち手のあるカメラは、持っている人ごと部屋を出た。


 出る時、その人は床の印を跨がなかった。回っていく。


 十一時二十二分に、量りの目盛りを読む声がした。

 二千三百八十グラムと言う。それから、当日に量ったと言った。


 当日という語は、二度言われた。数は一度だった。

 二度言うのは、書き取る側がいるからだと思う。書き取る音は聞こえない。

 七番が卓の端の盆を引き寄せた。封筒を取って、指で表へ返す。


 返した紙の面が、灯の下で一度こちらを向いた。

 面は白い。刷ってある字は小さくて、行の数は三つほどしか無かった。行の間は広く空いている。


 紙の隅に、九月一日と刷ってある。ほかの字は小さすぎて読めない。

 七番は中の一枚を出して、二度読んだ。二度目が速い。

 読んでから、綴りへ入れる。綴りは盆の下にあった。下は影で色が見えない。

 入れた先は前から三枚目で、綴りの背はそこが厚くなる。


 封筒は空になった。その封筒は、盆の端へ伏せて戻される。

 私は封筒を見ていた。厚みは紙一枚ぶん薄くなっている。

 伏せた向きは、九月と同じだ。

 封は切ってあった。縁は毛羽立たずに、まっすぐ通っている。


「終わりですか」


「本票の作成は当日です」


「私はどうしますか」


「立会いは終わりです」


 七番は綴りを閉じた。その時、指を舐めない。

 閉じた綴りの背は、片側が厚い。その側が前へ来る。

 盆は九月と同じ盆だ。縁の塗りが、右の端で薄くなっている。

 その側にいつも封筒が載る。位置は今日も右の端だ。


 私は印から足を外した。そこで床の紙が一度鳴る。

 立っていた間、印は動かなかった。鳴った音は、朝に踏んだ時と同じだ。


 印の縁の浮きは、朝より少し大きくなっている。

 十一時三十分に部屋を出た。廊下は来た時より明るい。灯りの数は変わっていない。

 二つ目の扉は開いたままになっている。朝に通った時の幅で開いていた。


 扉の枠の下に、白い糸くずが一本落ちていた。

 布の端から出たものだと思う。拾わなかった。

 決まりはどちらの側も聞いたことがない。

 糸くずは白くて、床の白より少し黄色い。


 E区画へ戻る途中で、外の音が入ってきた。

 日曜の音で、子どもの声が多い。声は硝子を通ると高さだけが残る。


 高さだけが残ると、何を言っているかは分からなくなる。

 そが声は長く続いて聞こえる。


 昼の器は十二時十分に来た。今日の私は運ばない。運ばない日は月に四度ある。

 当番は別の者になっている。表の左の欄で確かめた。


 左の欄と右の欄は同じ紙で、罫も一本ずつだ。太さは目で拾えない。

 右の欄の日付は、今日の日付のまま入っている。

 消す決まりがあるのかは書いていない。次の紙は来週になる。

 その紙に右の欄が在るのかどうかは書いていない。


 居室へ戻って、寝台へ座る。作業着の袖の折り返しを直した。座ってから直すと決めている。

 右は二度、左は一度。折り方は変えない。


 袖の糊の匂いは、朝より薄くなっている。分娩室の匂いは袖に残らなかった。

 襟のところに、まだ残っていた。強さは朝の半分もない。


 手のひらを見た。布を持っていたところに、跡は無い。爪の側にも何も付いていない。

 押しても何も出ない。厚い布は跡を残さなかった。


 膝の上で指を組んで、また解いた。指は片方ずつ動く。

 組んだ時の形は、いつも右の親指が上へ来る。逆にすると落ち着かない。


 窓の桟に、外の灯りが一本だけ細く入っている。幅は指の半分ほどだ。

 入る位置は夜ごとに動く。今夜は寝台の頭の側まで来ていた。


 線の上を指で横切ると、指の背が明るくなる。退けると元へ戻った。

 明るさの強さは、灯りまでの距離では変わらない。窓の曇りで変わる。


 私は膝を抱えた。額を膝へ乗せると、額の下で膝の骨が硬い。

 冬と変わらない。作業着の布の厚みが、少し薄くなっている。


 数えた分を思い出す。息は四十七回だった。白い上着の人が言った数と同じだ。

 器具は八つで、取ったのが一つ、残りが七つだ。

 並びは左から大きい順のままだ。一つ抜けた間が空いている。


 布は十二枚あって、渡したのは一枚だ。


 残る十一枚は、まだ畳まれたまま卓の上にある。

 積んだ高さは、朝と指の半分ぶんしか変わらない。


──────────────────


分娩記録票(抄)


分娩の経過 別紙による

産子の体重 二千三百八十グラム

留置の日数 四


様式第九号


一、対象


分娩 令和二百十四年三月十一日


母体 A-0114


産子 一


二、経過


分娩の開始は八時四十分とした。産子の娩出は十一時十七分であった。所要は二時間三十七分である。


立会いは一名であった。番号の記載は無い。担当の欄には部門の名のみが入っている。


分娩の間の記録は別紙による。別紙は獣医室が保管する。本票に写を付さない。


三、胎盤


胎盤の娩出は十一時二十四分であった。産子の娩出からの所要は七分である。


重量は五百四十グラムであった。欠損は認めない。検めた者は立会いの一名である。


胎盤の処分の別を記す欄は本票に無かった。


四、産子


産子番号 A-0208


性別 雌


身長 四十七センチメートル


産子の体重は二千三百八十グラムであった。分娩の当日に量っている。量りは当日に検めた。


臍帯に絡まりは無かった。切断は十一時十九分である。


以後の記録は個体記録票へ移す。移す日は別に定める。移した旨を本票へ記す欄は無い。


五、留置


分娩の後、母体は同室に留め置く。留置の日数は四日とする。


留置の日数を定めた書面は本票に付さない。定めの日は令和二百十三年九月一日である。


留置の間の記録は、体温の欄と給餌の欄による。本票は分娩の当日に作成した。以後の欄は空である。


六、母体


母体の体温は分娩の後に二度測った。数値は別紙による。


出血の量を記す欄は本票に無い。


七、器具


布は十二枚を用意した。用いたのは六枚である。用いなかった六枚は数に含めない。


器具は八つを並べた。用いたのは四つである。用いた四つは当日中に洗浄へ回した。


前回までの三回も、並べた器具の数は同じであった。改めた記録は残っていない。


七、配信


配信は八時から十一時二十分まで行った。中止の例は無い。時刻は広報係が控えた。


配信の記録は広報係が持つ。本票に写を付さない。


八、掲示


広報係の通知の写は、分娩室の入口へ掲げてあった。終了の後に広報係が回収した。


回収した旨を本票へ記す様式は置いていない。本項は当係の内規による。


九、本票


本票の写は一部を作成した。写の配布先は獣医室とした。


本票の原本は飼育部門が保管する。保管の期間は当該の個体の在籍の間とした。


同時接続 最多 十四万二千六百

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