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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

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第054話 安静

安静に係る指示(写)


指示の相手 A-0114

指示の別 居室内での安静

指示の期間 令和二百十四年一月八日から分娩の日まで


一 当該の個体は、居室の外へ出ない。


二 給餌は居室へ運ぶ。運ぶ者は当日の当番とする。器は下げる時にまとめる。


三 洗い場の使用は、週に二回とする。付き添いは一名。付き添う者は当日の当番とする。


四 見回りは一日に六回とする。時刻は別に定める。回数を減らす扱いは置かない。


五 面会は行わない。用のある者は当日の当番を通す。


六 当該の個体からの申出は、当日の当番が受ける。受けた旨を記す様式は置かない。


七 本指示は令和二百十四年一月八日から効力を持つ。


別記一 安静の理由


十二月二十六日の計測で、腹囲の増加が前月比で定めの幅を超えた。

測った者は衛生係とする。増加の幅を記す欄は本指示に付さない。

同日、血圧を測った。上は百四十二、下は九十二であった。

十一日を置いて測り直している。上は百四十六、下は九十四であった。

本指示は二度目の値によった。値を記す欄は本指示に付さない。控えは衛生係に置いた。

前月の計測は十一月二十八日に行った。行った者も衛生係であった。前後の差は当係で控える。

二回の計測の間は二十八日を置いた。


別記二 当番の表との関係


一 当番は各区画の廊下の掲示板に掲げる表による。

二 表は洗濯の当番と同じ紙を用い、欄を分けて掲げる。

三 分娩の立会いに一名を割り当てる。割当の元は同じ表とした。理由を記した書面は付さない。

四 立会いの割当に、本人の申出を要しない。要する旨を記した書面は当係に無い。

五 本年度の表は四月に作成した。以後は毎週の分を同じ紙へ書き足した。差し替えは行っていない。

六 立会いの欄は今週に加えた。加えた者を記す欄は本指示に置かない。


別記三 運ぶ器について


一 器は一日に三度運ぶ。時刻は通常の給餌と同じとする。器の別は改めない。

二 器の配合は変えない。量のみ四三〇から四六〇へ改める。

三 改めた日は十二月二十六日とする。

四 量を改めた旨は当日の器の記録へ記した。記した者は当日の当番であった。


別記四 見回りの時刻について


一 見回りは六時三十分、九時、十二時、十五時、十八時、二十一時とする。

二 前項の時刻には前後三十分の幅を認める。幅を用いた旨を記す欄は置かない。

三 夜間の二回は懐中灯を用いる。懐中灯は当番の詰所に置く。持ち出した者は控えない。

四 懐中灯の番号は当係で控えた。控えた番号を本指示に付さない。


附記


一 本指示の写は当該の個体の居室の内側へ掲げない。廊下の側へ掲げる。

二 掲げる高さは床から百二十センチとする。

三 前項の高さは、本年度の掲示に関する内規による。内規の写は本指示に付さない。

四 掲示の紙は一週ごとに取り替える。取り替えた紙は当係で保管する。

五 保管の期間は一年とした。一年を過ぎた紙の扱いは別に定めた。

六 本指示の写は三部を作成した。掲示・詰所・当係へ一部ずつ配る。

七 作成の日は令和二百十四年一月七日であった。


参考


一 前年度に同様の指示を出した例は三件であった。

二 三件のうち二件は、期間の途中で解除した。

三 解除の理由を記す欄は、いずれの指示にも置かない。

四 残る一件は期間の満了により終わった。終わった日を記す欄は置いた。日付のみを記した。

五 三件はいずれも同じ様式による。

六 様式を改めた旨の記録は残っていない。

七 本指示も同じ様式によった。


問合せ 飼育部門 衛生係

写の配布先 E区画 当番の詰所

掲示の場所 E区画の廊下 当該の居室の戸の外

掲示の期間 指示の期間と同じ


──────────────────


 一月十四日。土曜は柵が九時に開く。

 六時に起きた。

 窓の内側は白く曇っていて、指を当てるとそこだけ丸く抜ける。丸の中に、外の柵の横木が一本だけ見えた。

 息が白い。吐くと口の前で一度広がって、それから上へ消える。


 寝台の縁へ座って、作業着の裾を上げる。被覆材はもう貼っていない。

 布の当たっていた四角が、皮の上に薄く残っている。角は丸い。

 指を横に寝かせると、四角の幅は二本ぶんある。

 四角の中だけ、皮の色が周りと違う。押しても何も起きない。


 指を離すと、皮の色は数える間に戻る。速さは日で変わらない。

 寝台の布は下の縁が湿っている。一月の湿りは十二月より重い。畳んで枕へ寄せた。


 三つ折りの二つ目に、いつも同じ皺が付く。


 履物の左の甲に、糸のほつれが一本ある。先月からある。引くと伸びるので、指の先で押し込むだけにした。

 外からは見えなくなる。


 爪は左の親指が伸びている。切るのは十日に一度で、次は明後日になる。

 薄く伸びた分は、押し当てても指の腹に線を残さない。


 髪は肩へ届く。乾ききらない日は、襟の内側が朝まで湿っている。昨日は洗っていない。

 今朝の襟は乾いていた。


 六週が過ぎた。日を数えたのではなく、被覆材を外した日から数えている。

 水を一口飲む。冷えるのは喉を通った後で、腹の上の内側になる。臍の高さで止まる。

 窓の外はまだ暗い。

 硝子の丸い抜けは、息を止めている間に縁から狭くなる。塞がる前にもう一度当てると、二度目の丸は一度目より小さい。


 六時二十分に区画の点呼がある。番号を呼ばれて、聞こえたら手を挙げる。声は出さない。

 決まりも無い。


 今朝は二人が遅れた。遅れた分は表に書かれない。

 点呼の紙は係員が持って回る。紙は一枚で、区画の順に並べてある。


 廊下は一月が十二月より冷たい。継ぎ目の縁が足の裏へ立ってくる。

 立ってくる縁は、右の足が先に拾う。

 途中に床の色が変わる箇所が一つある。四角くて、辺は三十センチほどだ。前に何かを外した跡だ。

 物の名は誰も言わない。


 外の道から音が入る。土曜の朝は、柵の外で先に人が動く。箒の音と、金具を掛ける音が二種類する。

 金具が高い。


 掲示板の前に人が六人いた。土曜は多い。


 紙は先週と同じ場所にある。当番の表で、洗濯の欄が左に、右にもう一つ欄がある。

 右の欄は先週まで空だった。


 欄の名は立会いと書いてある。下に日付の欄があって、そこは空のままだ。


 名前の欄には番号が一つ入っている。


 私の番号が、洗濯の表と同じ場所にある。


 左の欄と右の欄は同じ紙で、同じ罫で引いてある。罫の太さも同じだ。紙の縦の折り目は真ん中にある。

 折り目の左が洗濯になる。


 私は指で右の欄の縁をなぞった。紙は掲示板の板より少し冷たい。


 六人のうち四人は左の欄を見ている。残る二人が右の欄を見ていた。

 二人とも私の番号のところで目を止め、それから離れた。


 紙の左の上の隅に、留め具の穴が四つ空いている。使っているのは三つだけだ。

 残る一つは、先週の紙の位置に合っていた。

 罫は横に十二本ある。上の一本だけが太い。その下が名前の欄になる。

 欄の高さは指の一本ぶんもない。字は小さく入れてある。


 右の欄の下に、注意が一行刷ってある。字の大きさは名前の欄より小さい。

 立会いに本人の申出を要しないと書いてある。求める旨の書面は無い、ともある。私はその一行を二度読んだ。


 読み終えた指が、注意の行の下の余白で止まった。


 欄の名の字は刷りではない。手で書いてある。線の入りが太くて、抜きが細い。

 洗濯の欄の名は刷りだ。二つの欄で、字の出所が違う。


 後ろの人が私の肩の横から覗き、それから左の欄へ目を戻した。

 その人の番号は洗濯の第三週にある。

 掲示板の右の端に、先月の紙がまだ留めてある。角は四つとも留まっていた。

 先月の紙には右の欄が無い。左の欄だけで、罫の数も九本しかない。


 紙が一枚増えると、罫が三本増える。その三本は、この一週で引かれた。


 朝の器は七時二十分。量は四三〇で、先週と変わらない。

 汁の匂いは昨日と同じだ。今朝は湯気の立ち方が低い。室が冷えている。

 窓の内側は白く曇ったままだ。


 卓は三つ目に座る。H-0009とK-0330が今日は二人で来た。二人は同じ側から入って、同じ卓の端に座る。


 K-0330が先に座った。

 匙の音は二つで、揃わない。片方が速い。


 卓の面に、前の者が置いた器の輪が二つ残っている。輪の大きさは同じだ。拭く布は入口の脇に掛かっている。

 使う者と使わない者がいる。


 私は指で輪の縁をなぞった。乾いていて、指には何も付かない。


 食べ終わって、器を返す。口の縁に、朝の汁の跡が二筋付いていた。

 幅は左右で違う。左の一筋が太く、そちらが先に乾く。

 H-0009が返しに立つ時、K-0330が卓の上の匙を自分の側へ寄せた。二本の匙は柄の向きが同じだ。

 直したのはK-0330だ。

 二人は同じ戸から出た。片方が半歩だけ先に立つ。今日もK-0330が前を行く。


 九時から洗い場の当番へ回る。今日は付き添いだ。

 指示の三に書いてある。週に二回で、当日の当番が付く。今日の当番は私だ。


 九時の廊下に人は少ない。土曜は柵の側へ回る当番が多い。こちら側はいつもの半分しかいない。


 突き当たりまでの間に、戸が七つある。

 七つのうち二つは開いていた。内側は暗い。灯りを点けるのは十二時からだ。


 すず の居室は廊下の突き当たりの一つ手前にある。戸の外に紙が掲げてあった。

 紙の高さは私の胸の少し上だ。指示の写で、条が七つ並んでいる。五つ目に面会は行わないとある。

 私は戸を二度叩いた。中から返事がある。


「開いてる」


 戸を引くと、中の空気は廊下より温い。


 すず は寝台の上に座っていた。背に布を丸めて当ててある。腹は前に出ている。

 作業着の裾は下ろしたままだ。膝の上に器が置いてある。


「洗い場はまだ早いよ。器が残ってる」


 すず はそう言った。器の中はまだ半分ある。


「待ちます」


 私は戸の内側に立つ。そのままでいると、すず が寝台の端を掌で二度叩いた。


「座りなさい。立ってると寒いでしょう」


 私は端へ座った。寝台の板は硬い。布の下が温い。

 居室の窓は南を向いている。E区画で南を向く居室は三つしかない。

 この時刻の窓は白い。外の光が曇りの中で散って、形にならないまま入ってくる。

 寝台の脇の台に、器のほかに紙が一枚置いてある。折り目が四つ付いていた。四つとも同じ向きで、端が少し反っている。


 すず は器を膝の上で少し傾けて、底に残った分を寄せた。それから匙を入れた。角度は浅い。


「四六〇になったの。三十増えた」


「増えましたか」


「増えた。でも器は同じ大きさよ」


 すず が器を私へ傾けて見せた。縁の下に、汁の線が一本ある。前は縁から指一本ぶん下だった。

 今日は半分ほどしかない。


「線が上がってる」


「そうよ。同じ器で三十増やすとこうなる」


 匙を置いて、器を寝台の脇の台へ移す。移す時に少し傾いて、汁が縁を這い上がる。途中で止まる。

 こぼれない。


「上手ですね」


「毎日やってるからね。三度ずつ」


 指が器の縁をなぞる。人差し指の腹が、途中で一度止まる。そこに小さな欠けがある。

 爪の先ほどだ。


「ここ、前からあるのよ。ずっと前から」


「知りませんでした」


「気づかないよ。持つとこじゃないもの」


 私は自分の指で同じところを触った。欠けの縁は丸い。角が立っていない。

 長く使った物は、欠けたところから丸くなる。

 私は器の縁を見た。汁の跡が縁の内側に細く残っている。


 台の下に、空の器がもう一つ伏せてある。昨日の分だ。

 伏せた器の縁と台の間に、指が一本入るだけの隙間がある。

 窓の外から声がした。柵の向こうの道で、来館者の側の人が何か言っている。硝子を通ると、中では音の高さだけが残る。

 すず が窓を見て、それから私へ顔を戻した。


「土曜は多いのよ。声だけ入ってくる」


「入ってきますね」


「昔はね、土曜のほうが静かだったの」


「静かでしたか」


「静か。人は多いのに、声は入らなかった」


 窓の桟を、すず が指した。指の先は硝子ではなく、桟の下にある。


「あそこ、前は詰め物が入ってたのよ」


 私は桟の下を見た。溝が一本走っていて、中は空だ。指を入れると、第二関節まで入る。


「入りますね」


「入るでしょ。前は入らなかったの」


 膝の布を、すず が少し引き上げた。それから掌を腹へ当てる。当てた位置は臍の少し上だ。

 掌は動かさない。


「いま、動いたよ」


「動きましたか」


「動いた。ちょうどここ」


 すず は掌の下を指で示し、その指をそのまま置いた。私は自分の膝の上で手を組む。

 少しの間、二人とも黙った。

 窓の外の声も切れた。


「もう一回来ると思うよ」


 すず はそう言って、待った。私も待つ。

 何も来ない。


 すず が笑った。声は短くて、低い。


「来ないね」


「来ませんね」


「呼ぶと来ないの。この子は前からそう」


「前からですか」


「前から。呼ぶと止まって、放っておくと動く」


 すず の掌がもう一度腹へ乗った。今度は臍の左のほうだ。


「こっちは滅多に動かないの。年中静か」


「片側だけですか」


「片側だけ。理由は誰も言わないよ」


 私も笑った。口を開くと、腹の跡のところが少し引きつる。それはすぐ戻る。

 すず は掌を腹から離して、膝へ置いた。

 膝の上に置いた掌は、指の間が少し開いている。


「あんた、笑い方が変わったよ」


「変わりましたか」


「変わった。前は口を閉じてた」


 私は口へ手をやった。閉じているかどうかは、自分では分からない。


「分かりません」


「分かんないでしょ。人のは分かるの」


 すず は寝台の上で少し体を回して、窓へ背を向けた。丸めた布が肩の下へずれる。

 ずれた分を手で戻した。


「掛けます」


 私は布の端を持って、すず の背の後ろへ入れ直した。入れると、すず が肩を一度上げて下ろす。


「上手」


「毎日やってません」


 すず がまた笑った。今度は少し長い。

 掛けた布の膝のところが二度動いて、それから止まる。


「変な言い方するね、あんたは前から」


「変ですか」


「変よ。でも合ってる」


 すず は台の上の紙を手に取った。折り目に沿って一度開いて、また閉じる。


「これね、去年の献立表なのよ」


「去年のですか」


「去年の分。十二月の。誰かが置いていったの」


 私は紙を見た。開いた面に、日付と品の名が並んでいる。

 品の名は三つずつで、どの日も同じ三つだ。

 紙の下の端に、配った月と枚数を書く欄がある。枚数の欄は空だ。


「同じですね」


「同じ。でも紙は毎月新しく配るのよ」


 すず が紙をまた台へ置いた。折り目の端が浮いて、元へ戻らない。


「毎月ですか」


「毎月ね。中身が同じでも配るの」


 すず が笑い、それから掌を腹の上へ戻した。


「あ、いま来たよ。ここのところ」


「来ましたか」


「来た。呼んでないからね。それだけ」


 膝の上で指を組んで、それをまた解く。指は片方ずつ動く。


「あんた、名前で呼ばれたことある?」


「あります」


「誰に」


「あなたに」


 少しの間、返事が無い。それから口の端だけが動いた。


「そう、そうだったね」


 私は膝の上の手を見た。手の甲に、洗い場の湯で赤くなった跡がまだ残っている。

 赤いのは指の付け根までだ。手首の側は色が変わらない。

 跡は昨日より薄い。


「番号のほうが多いです」


「多い。でも数のほうは関係ないのよ」


 寝台の脇の台から器を取って、また膝へ置く。それから匙で底を一度撫でた。音は低い。


「立会いはあんたね。表に出てたよ」


 私は顔を上げた。すず は器を見ている。


「表を見たんですか」


「見てない。運ぶ人が言ってた」


 匙が止まって、それからまた動いた。


「あの表、洗濯と同じ紙なのよ」


「同じ紙です」


「同じ紙よ。おかしいでしょう」


 私は答えなかった。返す形が思い付かない。


 すず も続けなかった。器の底をもう一度撫でて、匙を縁へ掛けた。柄は外を向いている。

 向きを直さない。

 すず は笑わなかった。私も笑わなかった。


 窓の外で、また声がした。今度は子どもの声で、高い。二人ともそちらを見た。

 硝子は曇っていて、形は見えない。


「子どもの声はよく通るのよ、昔から」


「通りますね」


「通る。硝子はぜんぜん関係ないの」


 すず は器を空にして、台へ戻した。


「そろそろ行こうか」


 九時四十分に居室を出た。廊下は居室より三度ぶんほど冷たい。

 すず は歩くのが遅い。腰を先に出して、それから足が来る。私は半歩後ろについた。

 半歩は指示に書いていない。私が決めた。

 突き当たりで一度止まり、それからまた歩いた。


「癖ですか」


「癖じゃないよ。これは息のほう」


 洗い場は先週と同じ場所にある。入口の戸を開けると、湯気が先に出た。匂いは湯そのものだ。鉄に近い。

 すず は腰掛けに座り、袖の折り返しを右だけ直した。

 腰掛けの脚の一本は、床との間に紙が挟んである。挟まないと鳴る。紙は何度も折り直されて、角が丸い。

 私は桶を二つ取った。棚の一段目から、上から二つ目と三つ目を取る。二つとも縁の内側が荒い。

 荒さの向きは違う。


「二つ取りました」


「一つでいいのに、二つも要らない」


「二ついります」


 すず が笑った。三度目になる。


 湯は四十二度だ。札の裏に印字してある。私は札を裏返して確かめた。

 もとの向きへ返す時、紐が一度捩れて元に戻らない。

 すず は湯へ手首まで入れた。腹は縁の外に置いてある。


「熱いのが分かるうちはいいの」


「分かりますか」


「分かる。指の付け根で止まる」


 私は自分の手も入れた。付け根で止まる。すず の言うとおりだ。

 槽の右の隅へ手を移すと、そこが先に温い。前に すず が教えた場所だ。


「覚えてます」


「覚えたの。じゃあ入りなさい」


 私は入らない。付き添いは腕までにする。


 髪を洗う間、すず は目を閉じていた。閉じたまま何も言わない。湯の音だけが槽の中で低く鳴る。

 髪は二度洗う。一度目で泥が落ちて、二度目で湯が澄む。


 濁りは桶の底で見る。木目が見えれば足りている。二度目の桶では、木目が三本まで数えられた。

 先週は二本だった。


 私は桶で湯を掛ける。高さは肩の少し上にする。高くすると跳ねる。

 低くすると届かない。


「そこ、もう少しだけ右のほう」


 私は右へ寄せた。その先で、すず が首を少し傾ける。


「そう。そこ」


 湯が首筋を通って、背中の真ん中で二つに割れる。左が速い。

 二度目は右が速かった。速さは掛ける位置で変わる。

 すず の背中に、肩甲骨の下から腰へ向かう線が一本ある。線は影で、骨ではない。掌を当てると消える。

 離すとまた出た。


 三十分で出た。四十分のうち十分残っている。


「早いですね」


「長く入ると立てなくなるのよ」


 廊下へ出ると、髪の先から水が落ちた。跡は歩くだけ後ろへ並ぶ。すず の跡が大きい。

 歩幅が短い。跡の間隔が詰まる。

 途中の窓の下に、外の道が見える。柵の外を人が三人歩いていた。三人とも同じ方向へ行く。

 歩く速さは真ん中の一人だけ遅い。

 すず は窓を見なかった。私は一度見た。


 居室まで戻って、戸の前で止まった。紙の下の角が少し浮いている。

 私はそこを押さえた。押さえると平らになる。離すとまた浮いた。


「それ、毎日誰かが押してるよ」


「毎日ですか」


「毎日ね。誰も直さないけどね」


 すず は戸を引いて中へ入り、戸を半分だけ閉める。


「昼、また来るの?」


「当番です」


「当番か」


 すず は寝台の縁へ腰を下ろして、私を見た。


「当番でいいよ。来るならそれで」


 戸が閉まった。音は開いた時より小さい。

 私は廊下を戻った。掲示板の前をもう一度通る。

 立会いの欄の日付は、まだ空のままだった。


 昼の器を運んだ。器は三つある。二つは廊下の途中の別の居室で、三つ目が すず の分だ。

 運ぶ順は番号の順による。すず が最後になる。


 一つ目の居室は戸を叩いても返事がない。中の者は昼の作業へ出ている。器は戸の外の台へ置く扱いだ。

 台の高さは私の膝の上にある。

 二つ目は戸が開いていた。中の者は寝台に座って、こちらを見ない。器を置くと、その音で一度顔が動く。


 戸を叩くと、中から返事があった。前より短い。


 器を置いて、空の器を受け取る。すず の手は器の縁ではなく底を持っていた。底を持つと、指が湯気の外へ出る。


「熱くないですか」


「縁のほうが熱いのよ。底は平気」


 私は自分の持ち方を見た。私は縁を持っている。


「持ち替えます」


「もう遅いよ、それ」


 すず が笑った。私も笑った。四度目になる。

 器を受け取ってから、すず が掌を腹へ当てた。当てた位置は朝より下だ。


「三回目になるね、今日はよく動く」


「数えてるんですか」


「数えてない。今日はたまたま三回」


 空の器の底に、汁が輪になって残っている。輪は完全に閉じていない。切れた側が手前を向いていた。

 持ち上げても、輪は動かない。


 器を三つ重ねて廊下へ出る。重ねると中で一度鳴った。音の間隔は私の歩幅と合わない。

 合わせようとすると歩きにくい。


 午後は洗濯室の当番へ回った。土曜は布が多い。

 布は百四十枚ある。三つの槽で分ける。私は第二槽についた。


 H-0009は今日は第一槽にいる。K-0330は干し場へ回った。

 二人が別の場所にいるのは久しぶりだ。


 百四十枚は三つに割ると割り切れない。第二槽が一枚多く受け持つ。多い一枚は毎回第二槽になる。

 書いた紙は無い。


 洗濯室の匂いは湯と布だ。洗い場のとは違う。こちらが薄い。薄くても長く残る。

 作業着の袖は夕方まで匂った。


 第二槽の湯は第一槽より低い。手を入れると、指の先から順に慣れる。

 布は入れる前に一度広げる。空気が抜けて、面が水へ落ちた。厚い布ほど沈むのが遅い。


 絞る時は腕を槽の内側へ傾ける。そうしないと袖が濡れる。この形になるまで三か月かかった。

 教えたのはH-0006だ。

 H-0006は今日いない。別の区画の当番へ回っている。


 干し場から風が入る。西から来る風で、戸を開けている間だけ通る。


 乾いた風だ。湯気のある側との境が、戸のところで立つ。境の位置は戸の開き方で動く。

 半分開けると、境も半分だけ内へ入った。


 布は西の端が先に乾く。今日は風が強いので、差が出る。端の一枚と真ん中の一枚では、触った時の重さが違った。

 絞った布は籠へ入れる。籠は四つで、三つ目の底の板が反っている。

 反った籠に入れた布は、下の一枚が先に乾く。

 籠の縁に番号の札が結んである。第二槽の籠は二番だ。

 札の紐は麻で、端がほつれている。結び目は片側だけ固い。誰かが結び直した形だ。


 干し終えた枚数を声に出して数える者がいる。今日は誰も数えていない。私は指で数えた。

 指では三十までしか数えない。三十で一度戻す。


 戻した回数は四回だった。四回と、残りが二十枚になる。


 十六時に終わった。手の皺は縦に出て、押すと消えて、また出る。

 夕方の器は十六時四十分に来る。運ぶのは別の当番だ。今日の私は運ばない。


 廊下の窓を見た。外はもう暗い。硝子に廊下の灯りが映る。

 灯りは縦に三つ並んでいる。真ん中の灯りは今日も両側より暗かった。


 三つの間隔は等しくない。一つ目と二つ目の間に柱が一本入っている。柱の位置は動かない。

 硝子に映る私の形は、灯りの下で濃い。間へ入ると薄くなる。

 窓の下の桟に、埃が線になって溜まっている。太さは端が細い。

 拭く当番は月に一度で、次は来週になる。


 十六時四十分に、器を載せた台車が廊下の端から来た。押しているのは今日の当番の二人だ。

 車輪は板の継ぎ目で二度鳴る。鳴る間隔は台車の幅で決まる。


 台車は すず の戸の前で止まった。止まってから、扉を叩く音が二度した。

 叩く強さは二度とも同じだ。返事を待つ間があって、その間は誰も喋らない。


 私は掌を開いた。指の付け根に皺が縦に三本出ている。真ん中が一番深い。

 押すと消えて、離すとまた出た。

 すず の掌には、同じところに二本しか無かった。今日、器を渡す時に見た。

 二本と三本。数えたのは私になる。


 戸が開く音がした。開いた幅は、私の側からは見えない。

 台車の車輪が、また板を鳴らし始める。


──────────────────


居室の見回り簿(抄)


巡回の回数 六

巡回の時刻 六時三十分/九時/十二時/十五時/十八時/二十一時

異状の有無 無


一 巡回の対象


対象はE区画の居室のうち、安静の指示を受けている一室とする。

本日の対象は一室であった。他の居室は通常の巡回によった。数は前日と同じである。


二 各回の記載


六時三十分 異状なし。起床を確認した。

九時    異状なし。居室内。

十二時   異状なし。給餌の器を確認した。

十五時   異状なし。居室内。

十八時   異状なし。給餌の器を確認した。

二十一時  異状なし。消灯を確認した。


三 居た者の数について


本簿は異状の有無を記す様式とする。数を記す欄は置かない。前年度の様式にも無い。


四 九時の回について


当該の回は洗い場の使用と重なった。その間は居室が空になる。空である旨を記す欄は本簿に無い。

当該の回は居室内と記載した。


五 付き添いについて


指示の三により、付き添いを一名付けた。番号を記す欄は本簿に無い。

欄を置くべき旨の起案は、本年度に出ていない。


六 申出について


本日、当該の個体からの申出は受けていない。

申出があった場合の様式は、本簿にも指示にも置いていない。


七 器について


器は一日に三度運んだ。三度とも下げる時にまとめた。その数は記さない。

数を記す様式は当係に無い。


八 夜間の巡回について


十八時と二十一時の回は懐中灯を用いた。指示の別記四による。

懐中灯の番号を記す欄は本簿に無く、本日は控えなかった。


九 本簿の写について


本簿の写は当係に一部を残した。残す期間は一年とする。一年を過ぎた分の扱いは別に定めた。


十 本日の天候について


本日は晴であった。窓の開閉は行わなかった。気温を記す欄は本簿に無い。

本日の気温は詰所の帳面へ控えた。


十一 備考


本簿は当番が交替する際に引き継ぐ。その旨を記す欄は末尾に置く。

本日の欄は空である。交替が本日中に行われなかったためとする。


巡回の係 E区画 当日の当番

簿の期間 一月八日から


一月八日から本日までの巡回は四十二回である。交替の欄は、その間ずっと空のままとした。

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