↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/106

第052話 縫合のみ

処置の記録票の記入要領(抄)


記入する欄 所見

記入し得る語 七語

改正の履歴 制定 令和百六十二年/改正 二回


一、趣旨


処置の記録票の所見の欄について、記入の取り扱いを定めた。抄出は獣医部門が行った。本要領は当部の内規に基づく。基づく旨は制定の際に置いた。


二、記入し得る語


所見の欄へ記入し得る語は次の七語とした。


有

無

要再検

経過観察

当該なし

判定不能

記載なし


七語の外の語は記入し得ない。欄の幅は七語のいずれもが収まる寸法とした。寸法は制定の際に決めたものを本年度まで用いている。


七語を増やす手続を定めた書面は、当部に無かった。減らす手続についても置いていない。


二の二、様式の寸法


本票は縦二百九十七ミリ、横二百十ミリとする。所見の欄は横百八十ミリ、縦十二ミリであった。


罫は〇・三ミリの実線とした。欄の左端から十五ミリのところに、記入の起点を示す点を刷った。


複写は二枚とする。上の一枚を綴り、下の一枚は当日の終業時に裁断する。裁断の記録は別の綴りに置いた。


本年度の様式は令和二百十一年度の改正による。改正は欄の縦を一ミリ広げるものであった。改正の前後で、記入し得る語は同じであった。


三、語の選び方


所見が得られたものは有とした。得られなかった場合は無とする。再度の検査を要する票は要再検とした。


期間を置いてみるものは経過観察とする。


当該の処置に所見の項目が設けられていなければ当該なしと定める。判定に至らなかったものは判定不能とした。


記入そのものを欠いた票は記載なしとする。


七語のいずれにも当たらない状態については、記入する者が最も近い語を選ぶ。選んだ語は当日の終業までに確定する。


四、当該なしと記載なしの別


当該なしと記載なしの別を定義した書面は、当部に無かった。制定の際の資料は保存の年限を超えている。いずれを用いるかは記入した者の判断による。


判断は記入した者が単独で行う。判断の別を後から改める手続も無かった。


本年度に当該なしを用いた票は九票ある。九票のうち八票は第二種の処置によるものであった。


五、七語の外を記入した例


本年度に七語の外を記入した例は二件あった。二件とも当部が訂正した。訂正は当日中に済ませている。


訂正の際、元の記載は消さずに二重線を引く扱いとした。二重線の下の語は読める。訂正した旨は当部の綴りにのみ残す。


二件のうち一件は本年度の第八件目であった。当該の票の所在は本抄の記載の対象外とした。


六、摘出物の取り扱い


処置において摘出した組織は、当部の要領により病理へ送る。票は別葉とした。


要否は所見の欄による。有および要再検を対象とする。ほかは所見の欄をもって足りる扱いとした。


要否の確定は当日の終業までとする。確定の後は票の綴りへ入れる。


七、記入する者


記入は執刀した者が行う。補助は筆を持たない。補助の立ち位置は別の要領による。


執刀した者が書けない場合は、当日の当直が代わる。代筆の旨は欄外へ書く。本年度の代筆は三件であった。


代わった者の名を記す欄は、本票に置いていない。当直の別は当日の勤務の表による。表は月ごとに差し替える。


八、保存


本票は当部の書庫に十年間保存することとした。年限を過ぎた後の扱いは当部の内規による。


本年度に年限を過ぎた票は十一票あった。十一票とも書庫に残っている。廃棄の起案は出していない。


九、抄出


本抄は当部の内規により作成した。配付の先は当部の書庫のみとする。写しは取っていない。綴じは背の側を麻紐で二穴とした。


個体へは示さない。本抄には個体の番号を記した頁が二枚ある。


──────────────────


 十一月二十四日、七時。私は処置室の空調の摘みを回した。

 半分のところで固くなる。そこを越えると、送風の音が床の下から立った。


 壁の温度が空気に追いつくまで、床は冷たい。

 窓の内の曇りは、下から順に薄い。指を当てると、触れた幅だけ外が出る。


 冷たい床の上で立っていると、靴の底の厚みが足の裏へ来る。厚い靴は音がしない。


 白衣の袖を肘まで上げたのは七時十分だった。折り目が前の日の分だけ残っている。

 それから器具の棚の扉を開けた。金属と消毒液の匂いが一緒に出てくる。


 棚の中は使う順に並べてある。私は端から二つ目へ先に手を伸ばして、戻して、端から取り直した。

 要領の表紙には二代前の獣医師の名が刷ってあり、角は丸い。


 鑷子と持針器。剪刀と開創器。名を口の中で唱えながら盆へ移した。

 唱える並びと取る並びは一つだ。黙って移した日は、三つ目で一度手が止まる。

 声に出して確かめた。要領の第二による。


 棚の左の端に、名の付いていない布片が一つ入っている。布片の色は生成りで、端が黄ばんでいた。


 盆は二枚出した。一枚は術野の側、もう一枚は右の卓に置く。


 右の卓には、置き場所が一箇所ある。塗りがそこだけ薄い。置く位置を決めた覚えは無い。


 薬剤の棚の札を、白衣の内側の袋へ入れる。袋の口は縫い直してあって、前より浅い。


 前投薬、導入、維持。三つとも棚の同じ段にある。私は左の端から取って、取ったところは空けたままにした。

 段の札は一般名で、瓶は商品名だ。私は札のほうで取る。


 八時に補助が来た。衛生係の者で、前の年度の途中から替わっていない。


「本日の補助です」

「今日も頭のところを」

 この人はそう言って、麻酔の器械へ行った。管の接続を確かめる。


 手つきは速い。それでも継ぎ目へ指を戻す。戻した時のほうがゆっくりだ。


 その途中で、この人の腹が鳴った。

 手は止まらない。止まらないままで耳のほうが赤くなる。


「朝の分は食べていません」

 私は棚の袋を一つ、台の端へ寄せた。

「手が空いたときに食べます」


 この人は袋へ手を出さない。器械の前に立ったままで、次の管を取る。

 先が二股で、細いほうを台の側へ回す。

 管は一度だけ捩れて戻る。


 この人は覆布の向こうを見ない。頭のところで、器械のほうへ体を向けている。

 目盛りは三つ並んでいて、真ん中だけ数が大きい。


「点検は昨日のうちに済んでいます。用紙は上の段へ移しました。数は今朝の分まで」

「ありがとう。数はもう出さなくていいの」

 この人は札の綴りを卓の端へ置いた。角が縁から少しはみ出している。綴りの表紙は緑で、綴じ目に近い側の緑が薄い。

 私はそれを見てから、盆へ向いた。


 八時二十分に個体が来た。J-0037。呼び方は番号による。


 作業着ではなく、処置用の上着を着ている。上着は前で合わせて、腰のところで留める。結び目は本人が作った。

 結び目の位置は左の腰だった。前の日に教えたのは真ん中だ。


 左の腰で結ぶと、台に上がった時に紐が下へ回る。支障は出ない。当たる位置には図で斜線が引いてある。

 図は票の裏に刷ってあった。

 図の斜線は薄い。刷りが古い。


 結び目は術野に掛からない。私は図の斜線のほうへ鉛筆の先を置いて、次の項へ移した。


 台に上がるまでに、体重を測る。八時二十五分、五二・〇。


 数は補助が読み、私が票へ書き写す。鉛筆の芯を先に紙へ付けてから引く。票は複写になっていて、下に薄い紙が挟んである。

 間違えると、下の紙の裏へ写る。裏の字は読めない。


 今日の鉛筆は削ったばかりの一本だ。削り屑は卓の下の受けに落ちる。細い書き出しは下の紙へ写らない。

 最初の一画は濃く引く。鉛筆の芯を替えた年から、自分でそうしている。


「腕を出してください。いまから管を入れるからね」

「はい」

「右を使うので、反対のほうを持っていて」


 J-0037は左の腕を出していた。私は右を使う。右のほうが管を入れやすい。


 この子は左を引いて、右を出した。袖の内側が肘まで見える。


 肘の少し下に、押した跡が残っていた。丸くて、綿の当てと同じくらいの大きさだ。

 本人が押した。回数は分からない。

 跡の色は薄い赤で、周りより温い。手を当てると指の先に来る。


 私は消毒の綿でその上を拭いた。跡は見えなくなる。皮の下の筋は動かない。

 管はその筋へ入れる。角度は図に出ていた。図の腕は左で、実際は右だ。

 この部門では前からそうしている。


 私は前投薬の量を言う。その後のことを口にしかけた。


 言いかけて、止めた。


 要領の頁を、指で一枚戻した。その先に、当たる項目は無い。


 閉じてから、言いかけた分の間が空いた。そこへ器械の音が入る。この子は音のする位置へ顔を向け、それから正面へ直した。

 二秒ほどあった。私は数えてから、票へ手を戻す。


「聞きたいことがあれば、ここで聞いておいてね」

「痛みはありますか」


「覚めた頃に少し重い感じがするだけになります」

「はい」


 この子はそれ以上聞かなかった。黙っている間に、この子の手が台の縁まで来て、そこで止まった。

 指先が塗りに触れて、それから戻る。私は次の手順へ移った。


 票の次の欄は、覚めた時刻を書く欄だ。


 補助が管を持って寄ってきた。持ち方は図と同じだ。私は右の肘の少し下へ入れた。

 この子は目を閉じた。

 瞼の下に、細い線が一本出ている。線は瞼の縁に沿っている。


 卓の上の板を見る。前の日の二十一時から固形、当日の七時から水。二本とも線が引いてあった。

 補助が量を読み上げる。百四十。私はそれを票へ書き写す。


 閉じ方は前の回と変わらない。去年の七月に、上からこの目を見た。採血の回だった。


 八時四十分、前投薬。八時四十八分、導入。八時五十一分、入眠を確認した。


 入眠の確認は、まぶたの反射と呼吸の間隔で見る。間隔を補助が読み上げた。


 八時五十二分、気道を確保する。管の号数は七・〇だ。入れてから、胸の上がりを両側で見た。

 固定の位置は口の端で、深さの目盛りを補助が読み上げる。読み上げた数は二十一になる。


 覆布を掛けた。その前に、腹を消毒する。


 消毒は中心から外へ回す。綿は三枚使った。回した跡は乾くと消える。


 消毒液の色は薄い茶で、皮膚の上では黄に近く見えた。乾いて色が浅くなるまで待つ。


 覆布は術野の窓だけを開ける。頭のところからは、向こうが見えない。


 窓は縦十五センチ、横十センチある。四隅は鉗子で留め、順は右の上から時計の向きに回す。補助はそこにいる。

 布の色は青で、窓の縁だけ縫い目が濃い。そちらを上にした。

 この配置を書いた者の名が、要領の末尾に一行ある。表紙と同じ名だ。

 私はその名を読んだことがある。書庫で別の綴りを探していた時で、探し物は別のものだった。


 鉗子は四つとも同じ型で、噛みの深さが違う。二つが一段浅い。浅い二つを布の下の側へ回す。

 上の側には深い二つを使う。


 留め終えると、窓の四辺が台形になった。右の上が三ミリほど内へ寄る。寄った側は術野の外だ。

 私は台形の長いほうの辺に手を置いて、そこから器械を並べ直した。


 補助が器械の目盛を読む。数は三つある。私は真ん中だけを聞く。

 残りの二つは、閉創の後で票へ写す。順は上から下だ。


 室の音は器械の音だけになった。呼吸の間隔を、補助が数える。この人の役で、私の役ではない。

 私は術野を見ている。


 九時〇分、開始。


 私は剪刀を取る。その前に、一度卓へ置く。右の、塗りの薄いところへ置く。


 置いて、取り直して、それから使う。置いた音は板へ短く残った。


 皮膚を切る。恥骨の上、二横指。長さ四センチ。


 切る深さは層で数える。皮膚、皮下、筋膜。最後のところで一度手を止める。

 そのまま動かさない。指の下に、硬さだけが伝わる。止めている間、器械の音だけが続く。

 音の間隔は一定だ。


 層には名が付いていた。境のところで、手の下の硬さが変わる。

 開いた縁は室の空気より温い。指に付いた血は、拭くまで温さが残った。


 出血は少ない。

 圧迫で足りる量だ。

 私はガーゼを一枚当てて、上から押さえた。時間は短い。


 止めてから、開創器を掛けた。窓の中が広がる。


 広がった中に、要領の図の並びがある。

 図は白黒で、膜には色が付いている。


 開創器の腕は二本で、間隔は歯車が決めた。歯車の音は掛ける時に鳴って、外す時にも鳴る。止むと、腕は動かない。


 窓の縁のところに、糸くずが一本落ちている。長さは指の節ほどだ。


 鑷子を取る。その前に、一度卓へ置いた。

 音が違う。木でも金属でもない音で、盆の縁が短く受けた。私は指の位置を一つ内へ寄せた。

 名を呼べないままで次を取る。

 鑷子は右手にある。空いた左手を一度開いて、閉じた。


 補助の手が盆の縁のところで止まっている。指の間隔が広い。

「三本まとめて持たない。二本と一本」

 私は覆布の窓から目を離さずに言った。補助は持ち替えた。持ち替えた後の間隔は狭い。

 盆の縁の水気が、指の跡の形で残った。


 病理へ送る容器は、卓の左に一つ出してある。蓋はまだ嵌まったままだ。容器の底の目盛りは、一番下が五ミリリットルだ。


 卓の面は術野より低い。手を下ろすと肘が一度伸びる。

 伸ばした先で、指の腹に卓の冷たさが来た。手袋の厚みを通ってくる。


 器械の音が一定になる。補助が数を三つ読む。私が票へ写すのは真ん中の一つだ。

 読む声の高さは三つとも同じで、間だけが少しずつ違う。三つ目の前が一番短い。


 鑷子を盆へ戻す。置いた先は、取った時と一本ぶん右にずれた。


 九時十一分。


 私は開創器を外した。筋膜を閉じにかかる。

 外した器具の腕は、閉じると二本が並ぶ。閉じた形で盆へ置いた。盆の布に、腕の形の窪みが二つ残る。


 糸は内側に使うほうを取った。体の中で溶ける。太さは三号だ。

 表に使う期限が刷ってある。来年の三月までだ。

 糸を出す時、包みの端を持って引く。包みの内側には薄い油が付いている。指に付くと、しばらく残る。


 持針器で針を挟む。角度は図で示してある。

 挟む位置は針の後ろから三分の一だ。

 握りの内側の刻みが、指の腹に食い込む。

 名は「持針の角」という。その下に前の年度の刷りの跡が薄い。


 紙の針は動かない。

 私の手の針は、層ごとに向きを変える。


 筋膜を閉じ、皮下を閉じ、皮膚を閉じた。皮膚の縫い目は六つになった。


 三層とも同じ糸で閉じている。表の糸も体の中で溶ける。抜く日は要領に無い。


 縫い目の間隔に目盛りは使わない。

 糸を切ってから、五つの間を親指の腹で順に押す。


 親指の腹が、五つ目で乾く。

 教えた者は左利きで、鑷子を持つ手だけ右へ替えていた。私は右のまま覚えた。


 九時二十九分、閉創。


 補助が時刻を読み上げる。声は始めより少し速い。私は数だけを返した。

 板へ書く音が続く。

 もう一度、時刻が来る。私は開始と閉創の二つを票へ書き写す。所要の欄は、鉛筆を入れないまま次へ送る。


「摘出物のほうはどうしましょう」

「送るものは出ていません。所見の欄のとおりです」


 補助はそれ以上聞かなかった。もう次の手順へ移っている。


 この人の板は右の上の角が少し反っている。綴じ具の少し下に、爪で付いたような線が二本ある。


 この人は器械へ戻って、覚醒の準備を始めた。始める時に、管の接続をもう一度確かめる。


 器械の目盛りは緑の帯の中にある。帯の外へ出た時だけ、音が鳴る決まりになっている。

 今日は鳴らなかった。鳴った日は票に書く欄がある。確かめる手つきは、朝と同じ速さだった。


 私は絆創膏を貼った。縫合の上に二枚。枚数は要領で決まっている。


 箱の中の残りは八枚だ。朝は十一枚あった。板の数と合う。

 箱は本年度の交付分で、蓋の裏に日付が刷ってある。

 補充は月に一度で、次は来月の三日だ。


 寸法の欄は別にある。創部の長さと数が並んでいた。列は二つだ。

 下の欄は空いている。前の年の綴りでは、そこに数が入っていた。


 三枚目は指の間に挟まったままだった。私はそれを、臍の右へ貼った。

 貼った先に傷は無い。


 縁は浮かず、今は付いている。剥がれる場所ではある。

 貼った位置は、被覆材の短いほうの辺と同じだけ縫合から横へずれている。


 親指で縁をなぞってから、手を上げた。


 二枚目との間に隙間が残る。


 九時四十分、覚醒。J-0037は目を開けて、天井を見た。


「終わりましたか」

「終わりました。三日目から割当に戻れます」


 この子はそれだけ聞いて、また目を閉じる。呼吸は深くなり、間隔も前より広い。

 票の欄は「覚醒」の一行だ。私はそこへ丸を一つ入れる。


 左の耳の上に、髪の生え際まで届く古い傷がある。

 押すと硬い。色は薄い桃色で、触れた指のほうが先に冷める。


 この子の口の端に、乾いた白いものが付いている。

 私はガーゼの角でそこを拭き、膿盆へ落とす。ガーゼは薬の甘い匂いがして、消毒液より後まで指に残る。


 この子の手が、覆布のあった辺りまで上がりかけた。上がりかけて、途中で止まる。


 腕に管が入っている。管は十時に抜く。


 台から寝台へは補助が移す。


 移す時の掛け声は無い。

 補助は両手を寝台の縁へ掛けて、一度で押した。

 私は台の反対の側で、管の高さだけを見ている。


 この寝台は車の付いた台車で、押すと片方だけ音がした。音は右の後ろの車から出る。

 油を差す当番は当部ではない。差す旨の様式は本年度に一度出した。写しは机の抽斗の二段目にある。


 票の欄は上から順に埋まる。時刻と器具。糸と閉創と所要。

 最後に所見の欄が来る。他の欄より横に長い。


 私は鉛筆を持ったまま七語の並びを上から下まで一度見た。

 二度目は見ない。


 今日は所見の項目そのものが立っていない。鉛筆の先は紙から離したままでいる。


 私は当該なしと書いた。四文字。


 欄の右が三分の二ほど余る。余ったところに、鉛筆の粉が薄く付いていた。払うと落ちる。

 落ちた粉は票の下の卓へ行って、そこで見えなくなった。


 指の腹を白衣の裾で拭った。


 上の欄は器械の数で埋まる。下の欄には鉛筆で語を入れる。


 票を綴りへ入れた。本年度の分で、処置の日だけ書庫から出す。本日の票は末尾へ挟む。

 綴じ直しは年度の終わりに一度とする。

 挟む時に、前の頁が一枚薄いのが手に伝わった。第八件目の頁が抜けている。


 裏へ回した麻の紐は固く締まっている。結び直した跡は無い。


 書庫の鍵は当部と庶務が一本ずつ持っている。当部の一本は私の抽斗の一段目にあって、今朝もそこにあった。


 十時に管を抜く。抜いた跡を綿で押さえて、上から留めた。一枚で足りる。


 私は管を外した側の腕へ布を掛けた。


「戻します」


 補助がそう言って、台車の把手を握る。


「お願いします」


 台車は補助が引き、私は脇を三歩ついていく。

 その先で、この子は廊下へ出た。敷居のところで車が一度浮く。

 廊下の灯りは室より暗い。暗くなったところで、この子の瞼がもう一度動いた。私は数えなかった。


 十時十五分に処置室を出た。廊下には空調を入れていない。

 窓は北を向いていて、この時刻に直の光は入らない。床の継ぎ目のところだけ、向かいの壁の照り返しが薄く乗っている。

 突き当たりに脚立が畳んで立てかけてある。私はその横を通った。


 午後は回診に入る。E区画の二室を回った。


 一室目は術後の観察に入っている。処置の別は当部の扱いではない。

 創部は乾いている。抜糸は八日目になる。


 私は札へ書く数だけを紙の端へ書き、飼育部門へ渡した。

 渡す時、紙の端が指の間で一度折れた。折れた側を上にして重ねる。

 重ねた紙は、下の紙の角と揃わない。揃える者は別にいる。


 票の欄には「無」と書いた。


 二室目に転入した個体がいる。四月に来て、寝台は前の使用者から続いている。室の日は午前のうちに落ちる。


 灯りは一つだけ点けてあった。

 この個体は灯りに触っていない。廊下の札で入る決まりになっている。


 入った時、この個体は寝台の上で膝を抱えていた。抱えたままで顔だけこちらへ向ける。

 札の番号を読み上げる。返事は無い。指が次の行へ下りる。


 私は名を呼ばない。呼ぶ欄はあるが、今日も番号のほうを書く。

 この個体の名は、四月の転入の書面の二行目にある。私はそこを一度読んだ。

 読んだ日は覚えていない。名の字は二つとも画数が多い。


 膝を抱えた手の、右の親指だけが動いている。

 人差し指の付け根を上から下へ撫でる。三度撫でて、一度止まる。止まる長さは撫でる三度ぶんに近い。

 私が票へ書いている間、その周期は変わらなかった。


 短く整えた爪の断面が斜めで、道具は爪切りではない。

 切った場所を書く欄は飼育部門の票にあり、当部の票には無い。


 枕の脇に、匙が一本置いてある。給餌の器のものだ。持ち出しは飼育部門の扱いだ。

 柄の先が寝台の縁から出て、下を向いていた。匙の窪みに、乾いたものが薄く張っている。

 私は柄を枕の側へ二寸ほど押し込んで、縁から出ないようにした。


 この個体の票は薄い。埋まっているのは四行で、四月からの分になる。

 私は五つ目へ、日付と経過観察の四文字を入れた。間は前より狭い。

 下へ行くほど罫が詰まって、最後の二本は指の幅より狭い。


 寝台の脚は四本だ。そのうちの一本に、白い布が巻いてある。


 布は細く裂いてあって、二重に巻いてある。床に近いところだ。


 巻きの端は内へ折り込んである。

 私は指の腹でその端を撫でて、折りの向きを確かめた。


 布の色は白で、脚の塗りは灰色だ。境のところに埃が溜まっている。


 布は作業着の袖の裏を裂いたものだ。


 袋の中で、鋏の先は下を向いている。私は袋の口を、置いた時の折り目へ合わせて閉じた。

 向きを変えると縫い目に当たる。


 寝台が空いたのは二月十一日だ。私はその者の転出の書面に署名している。


 寝台の側の数を票へ写す。個体の番号とは別の系列で、桁が一つ少ない。写す間、鉛筆の先が罫の外へ二度出た。


 移す予定も、処置の予定も出ていない。皮膚の所見が続いていて、欄には経過観察と書く。

 窓の側を向いたままで、こちらを見ない。肩の骨が上着の下で二本出ている。

 私は上着の背の番号を読んで、札と合わせた。


 窓の桟に、蛾が止まっていた。羽は畳んである。私は桟の埃を指の背で一度払って、廊下へ出た。


 回診を終えて机へ戻ると、来週の予定の紙が置いてあった。来年度の第一件目まで刷ってある。

 本年度は本日の一件で終わる。私はそれを裏返して右の端へ寄せた。

 裏は今週の分で、斜めにすると第九件目の行が出る。件番は第二種だけを通しで数える。


 夕方に、説明の場の記録が回ってきた。十一月十四日の分だ。


 私はその場に出ている。後ろの列の右の端に座った。

 椅子の座面は硬かった。前との間は、膝が入るぶんしかない。立つには膝を横へ抜かないと出られない。


 膝の上で手を組んだ。組んだままで、指は動かさない。係員が質疑と言うところで、私は立った。

 立つ時に椅子が一度鳴る。


 そこからは、前の四列の背中が全部見える。

 座り直す者、腕を組む者、動かない者。

 三列目の端の背中が、私より先に一度伸びる。そちらは見ていない。


 扉は引いて閉めた。押して閉めると音が高くなる。


 退出の刻は、私の頭にだけ数で残っている。

 判は朱で、肉へ二度当ててから押す。上の印は一回り大きく、枠の左の線に掛かった。

 朱がそこで滲む。私は下の欄へ押して、次の綴りへ回した。


 窓の外はもう暗い。十一月の日は早い。九月の同じ刻には、表の柵の影がまだ床にあった。

 暗くなってから、室の匂いがはっきりした。消毒液が残る。

 綴りは書庫の棚へ戻した。鍵は一度で回る。廊下の灯りは、出しなに落とす。


 朝に開けた棚の扉には、下りたままの掛け金。私が下ろした。その前に、左の端の布片を見た。

 端は切りっぱなしで、糸が何本か出ている。朝に見た時と向きが同じで、どれも奥のほうを指す。


 白衣を掛ける釘は入口に二本ある。私は右を使う。もう一本には錆が一点浮いていた。そちらを使う者は、今はいない。

 前はいた。

 名は覚えている。行った先の欄は、この綴りに無い。


──────────────────


処置の実施記録(個体票 抄)


票の番号 獣処第二一三―一二二号

記入の担当 獣医部門 獣医師

記入の日 令和二百十三年十一月二十四日


一、対象


対象は一名である。番号はJ-0037とした。処置の別は第二種による。


当日の体重は五二・〇キログラムであった。


測定は補助した者が読み上げ、執刀した者が書き写している。当日の値の右には罫が二本引いてあり、間は空欄のまま綴じた。


二、時刻


前投薬 八時四十分

導入 八時四十八分

入眠の確認 八時五十一分

開始 九時〇分

閉創 九時二十九分

覚醒 九時四十分


所要は二十九分であった。前例八件の平均は三十七分である。


三、麻酔


導入に用いた量は百四十ミリグラム、維持は吸入により濃度は一・五パーセントとした。


気道は入眠の確認の後に確保した。管は七・〇。


覚醒までの間、呼吸の間隔は補助した者が読み上げた。


四、切開および閉創


切開の位置は恥骨上二横指、長さは四センチとした。閉創は三層である。皮膚の縫合は六針であった。


糸の別は当部の要領による。三層とも吸収される糸を用いた。抜糸を要しない。


閉創に要した時間は、開始と閉創の差により算出し得る。差を書き入れる欄の罫は、他の欄より細い。


五、被覆


創部に被覆材を貼付した。本項の欄は横に一行で、枚数と位置は同じ一行へ書く様式である。本票の当該の行は、貼付した旨のみで足りている。


被覆材は当部の在庫によった。在庫の数は補助した者が当日の朝に数え、板に記した。板は当日の終業時に拭う。


貼付は執刀した者が行った。行った旨は本項の一行により記す。


六、摘出物


摘出物の送付は行っていない。送付の要否は所見の欄による。


七、補助


補助した者は一名である。番号および氏名は本票に記さない。補助した者は術野の側に立っていない。


八、綴じ


本票は当日の綴りへ挟んだ。綴りは本年度の分である。


本年度の綴りは、背から見て厚みの途中が一枚ぶん凹んでいる。凹みの位置は第八件目に当たる。


九、術後


覚醒の後、寝台へ移した。移送は補助した者が行った。留置の管は十時に抜いた。


抜去の後の観察は当部の要領による。観察の記録は別の様式に置いた。


日常の割当への復帰は三日目からとした。三日目は要領の別表による。別表は摘出を伴う処置の値で、第二種へ用いる定めは無かった。


十、所見


本欄の記入は執刀した者が行った。記入の際に用いた語は、記入要領の定める七語による。


七語のいずれにも当たらない場合の扱いは、要領の三による。


所見 当該なし

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。