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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

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第051話 説明会

説明の場の次第および想定の問答


進行の担当 飼育部門 繁殖係

開催の日 令和二百十三年十一月十四日

想定の問答の項数 五項

次第の番号 繁説第二一三―〇九号


一、開催の趣旨


第二種の処置に先立つ説明を行う。開催は本年度の第九回とした。前年度の開催は六回であった。


対象は当部の係員に限る。本次第は十時の回に用いる。


二、場所および時刻


場所は視聴覚室とした。開始は十時とし、終了の目安は十時三十五分と置いた。


座席は前の四列を用いる。後ろの二列は用いない。前年度も同じ扱いとした。


後ろの二列を用いない旨の根拠は、本次第の記載の対象外になる。


三、次第


一 開会 二分

二 音声による説明 八分

三 係員による補足 十分

四 質疑 十分

五 閉会 二分


以上で三十二分と見込んだ。残る三分は入退室に充てる。三の補足は当係の者が行う。


前回の開催の実際は二十八分であった。差は本次第に反映していない。次第の様式は、見込みの分数のみを記す形になる。


四、音声について


音声は当園の展示解説に用いているものを流用することとした。録音は令和百九十三年度であった。


読み上げた者は当時の職員であった。現に在職していない。退職の年は令和二百一年度である。


差し替えの稟議は五年ごとに提出しており、五年ごとに保留となっていた。直近の保留は本年度である。


保留とした理由を記した書面は、いずれの回についても当係に無かった。


五、想定の問答


(一)痛みについて問われた場合。麻酔を用いる旨を述べる。処置の間の意識の有無には触れない。


(二)要する日数について問われた場合。おおむね三日と述べる。三日の算出の根拠には触れない。


(三)対象の選定について問われた場合。選定の経過には触れない。当部の内規による旨のみを述べる。


(四)処置の後の身体について問われた場合。日常の割当に差は生じないと述べる。


(五)想定の外の問いを受けた場合。答えられる範囲で答え、答えられない旨は述べない。


六、配付する物


配付する物は無い。個体に対する回においても同じとする。令和二百十一年度までは要旨の紙を配付していた。


取り止めた年は令和二百十二年度であった。同年度の在庫の紙は当係で処分した。当部の内規は、配付する物を定める欄のみを持つ。


七、個体に対する回


個体に対する回は同日の十四時とする。場所および次第は本次第を用いる。


対象の別に応じて次第を改める旨の定めは、当部に無かった。前年度も無い。


出席する個体は九名である。うち本年度の対象は九名すべてとした。八名はすでに処置を了しており、本日の出席は一名のみが未了となる。


八、記録


質疑の部のみを記録することとした。記録は当係の者が行う。


音声および補足の中身は記録の対象外になる。記録の様式は当部の内規による。様式の直近の改正は令和百八十四年であった。


九、掲示


開催の掲示は当係が作成し、前月の上旬に出した。掲示は職員用と個体用の両方の掲示板へ出す。


掲示の文は両方とも同じものを用いた。刷りは一度で百枚とした。


済んだ回に印を付ける扱いは、当係の慣行によるものであった。印は朱で、掲示の右上に押す。


印を付けるのは、その回に立ち会った者とした。


──────────────────


 扉の取っ手は冷たかった。押しても引いても動かない。

 十三時四十分になっている。廊下のこちら側には窓が無く、灯りは天井に三つある。

 同じ間隔で並んでいる。下に立つと、影が三つに割れて床へ伸びた。

 私は薄いほうの下で待ち、壁に背をつけた。板が背中の温さを取っていく。


 背を板から離す。冷たさは十を数えるくらいで抜けた。九月に同じことをした時は、二十まで数えた。


 八人が先に来ている。どれも別の区画の作業着を着ている。誰も話さない。

 廊下の奥で水の音がしている。


 八人のうち半分は、私より年上に見える。あとは同じくらいだ。一人が襟の内側を指で直している。

 少ししてから手を下ろした。

 下ろした手を、作業着の脇で握って開く。三度そうした。


 水の音は一定ではない。三度に一度、少し高くなる。高くなる側は短い。


 廊下の端から、H-0009が来る。右手を壁につけて歩く。

 手は壁の下の縁を通る。板の継ぎ目のところで一度浮いた。また下りる。


 私は数える。三十まで数えたところで、この人が私の前を通った。


 奥の突き当たりに、K-0330が籠を一つ提げて立っている。左の袖だけ肘まで捲れている。


 H-0009は手前で手を壁から離す。この人は歩く時、右の指の先だけを壁に置いていく。離してから先は歩幅が少し広く、足音が揃わない。

 二人はそこで向きを替える。K-0330が籠を持ち替え、外側の手を空けた。

 H-0009はその手を取らない。壁へ手を戻す。来た側へ歩き出す。

 籠は持ち主が替わらない。足音だけが揃った。


 私は数えるのをやめた。やめた数は三十九。


 廊下の匂いは乾いている。埃で、水は混ざらない。十一月に入ってからこうなった。

 変わり目の日は覚えていない。

 匂いは扉の前が一番濃い。廊下の埃は、その手前で止まっている。


 坂の側から箒の音が来る。五郎だ。この人は十一月も当番らしい。


 箒の先が壁に当たり、少し戻して掃き直す。


「ここで何かあるのかい」

「説明があります」


「そうか。長いのかな。座ってようかな」

「三十分ほどです」


 五郎は箒を止める。それから扉の上の札を見上げる。


 札には室の名だけが書いてある。番号も、収容の人数も出ていない。

「昔はここ、映写室って言ってたんだよ」

「今は違うんですか」


「今も同じ機械だよ。名前だけ替わった」


「動く絵が映ってたのが、いまは音だけだろう」

「音だけです」


「絵のほうが眠くならなくてよかったよ」


「この椅子、前が凭れると揺れたもんだ」

「今は動きません」


「動かないほうがいい。揺れたら教えてよ」


 五郎はそう言って、自分で笑った。肩が二度上下する。私も少し笑った。


「揺れたら、どうするんですか」

「俺が乗って確かめるよ。それでいい」


 この人は箒の柄を胸へ立てて、乗る形を作った。膝が少しだけ曲がる。

 曲げたところで止まって、そのまま元へ戻した。


 待っている八人のうち二人がこちらを見た。私は口を閉じる。頬の上がまだ動いている。


「あんた、木曜は広場の当番だったろ」

「広場です」

「留め具が緩んでる。係の人に言っといてよ」

「はい」


「俺が言うと当番の話になるからね」


 五郎は箒を持ち直して、また掃き始める。掃く向きは扉から離れていく。


 箒の毛は先が曲がっていて、その側が床の埃をよく拾う。


 拾った埃は、掃く先の少し手前で列になる。掃く度に前へ進む。後ろで床の色が変わる。

 濃くなった色は乾くと元へ戻った。数えると二十に届かない。十七か十八のあたりだ。


 私は列が進むのを見ている。その間に、時刻が十分過ぎた。


 十三時五十五分に扉が開く。係員が押した。私の知らない人だ。


 中の空気は廊下より温い。天井の管の音は低い。


 室の匂いは布に近い。椅子の座面の布で、日に焼けた側の匂いだ。この匂いは、資料館の三つ目の部屋と似ている。

 こちらの布が乾いた匂いがする。


 管の音は低い。座ってしばらくすると聞こえなくなる。

 座席は六列で、一列に六つある。前の四列へ、と係員が手で示した。

 六列で六つあり、全部で三十六だ。私は入る時に数えた。示す時、この人は手の甲を上へ向けた。

 指の先が伸びている。

 座面は布で、背もたれは木だ。そちらには塗りがしてある。肘掛けの先に、木の継ぎ目が一本通っている。

 肘を置くと、その線が腕の下に来る。


 係員が示したのは前の四列で、後ろの二列には縄も紙も置いていない。私は三列目の端に座る。

 背もたれの上の札を見た。


 札は小さい金属で、背もたれへ釘二本で留めてある。上の一本が少し出ている。

 打ってある数は三十七まで、一度に打ったものだ。私の席は十四だ。

 前の列の札を端から見る。七から十二まで、六つ並んでいた。二列目はそこで終わる。


 隣は私より年上で、作業着の襟が擦り切れていた。座ってから一度も背を離さない。

 その隣は膝の上に両手を伏せて置いている。

 爪が短い。

 切ったばかりの縁が白い。爪の先に、鑢を掛けた跡は無い。


 二列目の端の人は、始まる前に一度後ろを見た。見て、それから前へ直した。

 合った時間は短い。前へ直した後の襟は、片側だけ立ったままだ。


 誰も上着を脱がない。室は温い。前の人の背中の布が、肩のところで一度浮いて、また落ちた。

 私は膝を寄せて座り直す。座面の縁が腿の裏へ当たる。当たる位置は、座り直しても変わらない。

 卓の脚の下には、紙が一枚折って噛ませてあった。厚みは半分ほど潰れている。


 扉のところで五郎が箒を持ったまま立っている。中は掃かない。廊下までが受け持ちだ。

 箒の柄は途中で色が濃くなっている。

 握るところだけが濃い。

 上と下は木の色のままだ。持ち替えた跡は、そこには付いていない。木の匂いは端にだけ残っている。


 この人は首を伸ばして、札を見る。

「十三が無いだろう」

「はい」


「十三は縁起が悪いっていうからね」


 五郎はそう言って、廊下へ戻っていく。


 縁起。私はその語を頭の中へ置く。


 札の縁は少し丸い。四つの角のうち、三つは同じ丸みで、残る一つで爪が止まる。

 金属は冷たい。手を離しても、その冷たさは残らない。

 後ろの二列には、係員が誰も座らせていない。

 それでも灯りは全部点いている。


 私は一度振り返る。六列目に人がいた。


 香月だった。白衣ではない。上着のほうだ。


 この人は膝の上で手を組んでいる。組んだ手の指は動かない。

 上着の袖の丈が、白衣の時より短い。手首が二センチほど出ている。その手首に、腕時計の跡は無い。

 こちらへは向かない。前を見ている。


 私は前へ向き直る。もう一度、後ろを気にした。


 気にしても、後ろの列の音は聞こえない。この室は床が厚い。


 十四時に始まる。係員が前へ出て、名を言わないで開会と言った。


「これより第二種の処置に係る説明を行います」


 この人はそう言う。それから卓の上の機械の釦を押した。釦は二つある。

 右を押した。左には触らない。左の釦の周りは、塗りが剥げていない。


 機械は古い。表の板の塗りが、釦の周りだけ剥げている。下は別の色だ。

 押すと、少し間があってから音が出る。間は三つ数えるほど長い。


 声が出る。女の声で、前に一度聞いた声だ。

 椅子の座面は前が高い。腰が少しずつ前へ出る。私は足の裏を床へ付け直した。

 膝の裏が座面の縁に当たる。

 そこが痺れた。足を組み替えると、痺れは膝の裏へ寄って薄くなる。


 この声は資料館でも流れている。順路の三つ目の部屋の前を通ると、扉の下から聞こえる。扉の下の隙間は狭い。中の冷えが、声より先に足首へ来る。

 言い方も、息を継ぐ場所も前のとおりだ。


 今、聞こえている声も、二つ目の文の途中で一度切れた。


 継いだ後の一語だけ、少し高く出る。資料館でもこの一語が高かった。


 高く出る語は「保全」だ。二度とも、その語のところで息が入る。

 機械の側で小さく擦れる音が、その少し前にした。針か何かが触れる音に近い。


 声だけが最後まで続いた。その間、係員は卓の横に立っている。

 手は後ろで組んでいた。


 引き取る人がいない。途中の間が長い。二度あった。

 声の後ろに、細い音が薄く乗っていた。機械から出ている。

 その音は声が止まっても少しの間だけ残った。消えるまでに息を一つ吐いた。


 ヒト。保全。不妊化処置。三つの語がその順で来る。


 第二種。私の紙に刷ってある語だ。


 管を入れる位置は肘の少し下だと言った。私は自分の腕の同じところを、作業着の上から押さえる。

 袖の布の厚みしか分からない。


 前の日の夜は二十時から止めると言った。消灯より二時間早い。

 要する時間の目安は四十分だと言った。

 器具の名が四つ続く。形は一つも浮かばない。最初の一つだけ、音が短くて残った。


 覚えたのは四十分と二十時の二つになる。指を二本折り、そのまま膝へ置いた。


 声は八分で終わる。最後の一言は園の名で、そこで切れた。

 機械が短く鳴って、卓の上の赤い灯が消える。


 係員が前へ戻ってくる。折り目が三本ある紙を、胸の内側から出した。


「いまの説明に補足をします」


 係員はそう言う。それから、紙を見ながら話した。紙の折り目のところで、字が一度途切れる。

 途切れたところで、この人は少し目を寄せた。

 また離す。


 話す速さは声より遅い。間に紙をめくる音が入る。


 補足は器具の太さから始まる。私は膝の上で指を二本立てた。

 立てているうちに、どちらがどちらだったかが入れ替わった。


 紙の上に表が刷ってある。横に四つ、縦に三つ。字は小さい。

 係員の指がその上を左から右へ動き、止まって、また戻る。

 私の席からは行の数だけが見える。三つだ。


 傷の長さは四センチだと言った。四センチを、私は指で測ってみる。

 人差し指の先から、第二の関節の少し手前まで届く。

 測った指を膝の上へ戻す。指は同じところで止まった。


 前の列の人の襟に、白い粉が付いている。肩には付いていない。座っている間、そこが目に入る。


 三日目。

 係員は紙から目を上げて、室の後ろを見た。私も振り返りたくなる。

 そうしないで、前を見ていた。


 補足は十分で終わる。係員が質疑と言う。言う時に、この人は紙を胸のところへ下ろした。


 下ろしても、しまわない。

 しまわないままで、両手で持っている。


「質問のある方は手を挙げてください」


 誰も挙げない。そのままで、時計の針が二つ動いた。


 その間に、後ろで扉の音がする。開ける音と、閉める音が続けて鳴った。

 私は振り返る。さっき人がいた席は、もう空いていた。


 空いた席の札は、ここからでは読めない。

 角度が悪い。

 座面の布は、人がいた形のまま少し沈んでいる。戻るまでに間があった。


 誰かが手を挙げる。前の列の人で、私より年上だ。


「痛みはありますか」

「麻酔を用います。処置の間は眠っています」


 係員はそう答える。紙の三行目を見る。

「終わったあと、割当はどうなるんでしょう」

「日常の割当に差は生じません」


 私の右の列の人だった。挙げた腕は肘から先だった。肩は動かない。


「傷は残りますよね」


 後ろの列に一番近い人が、手を下ろさないまま言った。係員は紙を一度見る。見てから答えた。


「薄くはなります。消えるものではないです」


 言い終わると、その人は手を下ろした。袖が椅子の背に触れる。


 私の左の人は、質疑の間ずっと膝の布を摘まんでいる。摘まんでは離し、また同じところを摘まむ。

 布のそこだけが立って、戻らない。


 誰も挙げない時間が来る。係員が室を見渡す。速い。


 私は手を挙げる。腕を伸ばすと、袖の縁が肘の内側を二度掠める。

「三日目からですか」

「はい。おおむね三日です」


 係員はそう答える。返しは早い。紙を見ないで答えている。


 私は次を言う。前の人の答えがまだ終わっていないうちに、口が開いた。


「その三日は、誰が数えた三日ですか」


 係員は紙を見る。指を紙の縁へ当てて、項の番号のところで止めた。止めた指はそこから動かない。

 この人は紙から目を上げる。それから私を見る。


「三日で治りますよ」


 係員はそう言う。声の高さは、さっきの答えから変わらない。


「分かりました」

「ありがとうございます」


 私は座る。膝の上で手を組んだ。

 言ってから、口の中に唾が残った。飲むと喉が鳴る。

 もう一度手を挙げようとした。肘が肘掛けの継ぎ目まで来て、止まった。係員はもう次の紙を見ている。


 挙げかけた手を膝へ戻した。袖が継ぎ目を一度またいだ。またぐ時に、布が段のところで止まる。


 親指が上に来る。右が上だと、指の付け根が卓の縁に着く。

 左を上にすると、付け根が浮いて、袖の端だけが卓に触る。


 私は指を一度ほどいて、また組み直す。


 閉会は二分で終わる。終わりの言葉は開会と対になっている。


 室を出る時、二列目の札をもう一度見た。並びは入る時と変わらない。


 廊下は室より冷たい。

 九人が同じ扉から出る。私は三列目で、四番目になった。

 冷えは頬の上へ先に来る。まだ動いていた分が、そこで止まった。


 私の上着は釦の穴が伸びて、合わせても止まらない。手で押さえたまま歩く。前の人の肩に、白い糸が一本載っていた。


 掲示板の前を通る。説明の場の紙はまだ出ている。


 十時の脇の(済)は、前に見た時より濃くなっていた。上からなぞった跡がある。


 十四時の脇には何も書いていない。私は今、その回から出てきた。


 紙の上半分と下半分で、同じ字が刷ってある。時刻が違う。


 係員が二人、掲示板の前を通り過ぎた。片方が紙を見て、何か言った。言葉は聞き取れない。

 もう片方が笑った。

 二人は本館へ歩いていった。


 私は紙をもう一度見る。上半分の脇に、印が一つ付いている。下半分には無い。


 印は鉛筆で、括弧の閉じるほうが少し開いていた。開いたところから線が外へ出ている。

 線は短い。長さは字の半分ほどで、先が上を向いていた。


 夕方の給餌までに二時間二十分ほどある。私は洗濯室へ寄った。割当は無い。


 乾いた布の山の向こうで、K-0330が手を動かしている。廊下で籠を提げていた人だ。

 月曜のこの人は畳む役に付くらしい。私を見て、それから手へ戻った。


 布は端を揃えて三つに折る。籠へ立てて入れる。

 立てて入れると、上から縁が並んで見える。籠の縁までは、まだ二枚ぶん空く。乾いた布からは、石鹸が抜けている。

 布そのものの匂いが残る。


 残る匂いは薄い。

 顔を近づけないと分からないくらいだ。

 籠の底の一枚だけ、まだ湿っていた。その一枚は下へ戻す。


 K-0330は畳む前に一度布を広げる。それから四隅を寄せた。寄せる時に、布の中の空気が抜ける音がした。

 音は短い。


「そっち、端」

「はい」


 この人の指は二枚を一度に摘まんで、上の一枚だけを送る。

 抜けた空気は顔の高さへ来る。来た分だけ、匂いが立った。

 一度きりで、二枚目からは同じようにしても上がってこない。


 私は角を揃えるのを手伝う。


 大きい一枚のところで、この人は端を持ったまま止まった。布の重みで、持った側の指が白くなる。

 持ち替えて、外側の手を空ける。


 今度は取った。


 畳んだ布の間に、細い糸が一本挟まっていた。挟まったままで棚へ入る。

 糸は白で、布と同じ色だ。指で摘まめる長さはある。私は摘ままなかった。


「糸」

「見えました」


 この人は指で差さない。顎を一度、そちらへ振る。


 二人で持つと、布は一度で伸びた。

 伸ばしてから、この人が先に折る。折る位置は、私の手より内へ来る。

 私の手に残るのは離すところだけで、二枚目からは目も合わない。


 K-0330は次の一枚を取る前に、袖で額を拭いた。跡が湿って光る。

 この人が黙っている間、槽の湯が縁のところで小さく回っていた。

 回る先はいつも同じ角だ。


「速いね」


 声はそれだけだった。私が返す前に、次の一枚が来る。

 受け取ると、指の先が一度触れた。触れたほうは何も言わない。


「速くなりますか」

「なるよ」

「いつですか」

「もう速いって」


 この人の肩が一度揺れた。手は止まらない。


 四枚目からは、離す時期が合ってきた。合うと音がしない。


「もう一枚」


 次が来る。私は受ける手だけを出した。

 槽の縁の内側に、白いものが帯になって付いている。

 水面はさっきの高さのままだ。


 布を持ち直した。私は籠を一つ運ぶ。


 棚の三段目は胸の高さにある。持ち上げる時に息が止まる。

 籠の底が棚板を擦った。擦れる音は短い。二度目は鳴らなかった。

 三段目へ入れてから、息を吐いた。肩が下がる。


 籠の後ろが指二本ぶん出て、出た分は廊下の側へ向く。


 K-0330は下の段へ入れる。この人の籠は音を立てない。膝を折って、板の上を滑らせている。

 滑らせた先で、籠の縁が奥の板へ軽く当たった。音は一度きりだ。


 私は手を洗った。

 十一月の水は指の関節から冷える。


 冷えた指は、しばらく曲げにくい。曲げにくいうちは、爪の縁が白く見える。


 夕方の給餌は四七〇。皿の縁が四三〇より高いので、匙を立てて掬う。

 冷えた指では、立てた匙が三度すべった。


 しまってあった皿は樹脂の匂いがする。払っても落ちない。


 食堂の卓は端から三つ目に座る。作業着の胸のところで、五月にもらった紙が折り目のぶんだけ厚い。向かいは空いている。

 すずの卓は今日も空いていた。午前の組は夕方に来ない。

 すずの座る側は、卓の面の艶が引いている。肘を置く位置だ。

 拭いても戻らない。八月から同じところが引いている。

 私はその側へ回って、指で撫でてみた。ざらつきは無い。


 私は器を両手で持って、卓へ置く。置いた音が高い。

 空の卓は音を返す。向かいに人がいる日は、この音がしない。


 食堂を出る。出たところの廊下は、踏むと少し沈む。板が一枚浮いている。


 沈むところで足音が変わった。硬い側から柔らかい側へ移る。移った音は低い。

 低い音は後ろまで届かない。


 廊下の隅に、外れた画鋲が一つ。針の先が天井を向いている。踏んだ者はまだいない。

 頭の塗りは白で、床の色に紛れている。


 突き当たりの窓の前で止まった。窓は開かない造りで、硝子の下の隅が曇っている。

 曇りの縁は指の腹より広い。下の隅が一番濃い。外は暗い。硝子には廊下の灯りが映っていて、外は映った灯りの向こうにある。


 声が言った位置は、肘の少し下だ。作業着の上からでは、その辺りが定まらない。


 管が入るのは十一月のうちのどれかの日だ。

 私は硝子の曇りへ指を当てた。当てたところだけ透けて、すぐ元へ戻る。日はまだ聞いていない。

 聞いても、別に定めると言われた。


 桟の上で手を組んだ。

 後ろの列の右の端で、あの人は同じ形をして座っていた。質疑の前に出ていった。


 出ていく音は小さかった。

 閉める側が小さい。


 あの人は白衣を着ていなかった。十号室では肘まで捲っていた袖を、今日は下ろしていた。


 同じ人が別の恰好で座っている。上着の袖口には釦が二つ付いていた。二つのうち上の一つだけ、糸の色が違う。

 付け直した釦は、他より少し前へ出ている。

 押すと少し動いた。指を離すと、糸が先に戻る。


 私は札の形を思い出す。金属で、小さくて、角のところが丸い。十四の一と四の間に、打った時の刻みが浅く入っていた。

 浅い刻みは十二の札にもあった。並べたわけではない。順に見て終わった。


 縁起が悪いから。五郎はそう言った。

 この人はここに二十一年いる。あの札の縁は丸い。丸みは隣の二枚より深い。


 今日の数を口の中で並べる。三日が二度出た。

 二度目の三日は、私が言ったほうだ。言った時の口の形まで戻ってくる。


 消灯は二十二時だ。十月から三十分繰り下がっている。

 枕は昼のうちに干してあって、面がまだ硬い。私はそこへ頭を置いた。

 硬いところに耳が当たる。当たると、廊下の音が遠くなる。


 遠くなってから、繰り下がったぶんを数え直しに使った。

 十四の次は十五で、十二の前は十一だ。

 十三のところで口が止まる。


 止まった先へは行かない。口を閉じたままもう一度、十二から数えた。

 今度は十三で止まらずに、十四まで行った。


 隣の寝台で布が鳴る。K-0330が上を向いたところだ。左の袖はまだ肘まで捲れている。


「まだ起きてる」


 声は暗いほうから来た。私は返事をしなかった。返事の代わりに、こちらも上を向いた。

 二つぶんの息が、同じ間で天井へ上がっていく。


──────────────────


説明の場の記録(質疑の部)


質疑の件数 四件

記録の方法 当係の者が聴取のうえ筆記

記録の範囲 音声および補足を除く

記録した者 飼育部門 繁殖係


一、開催


令和二百十三年十一月十四日、十四時から開催した。終了は同日十四時三十四分であった。


出席は十名である。進行は当係の者が行った。本様式は出席の総数のみを記す形とし、内訳の欄を設けていない。


二、質疑の第一件


問 痛みの有無について。


答 麻酔を用いる旨および処置の間の意識について述べた。本件は想定の問答(一)に該当した。


問うた個体の番号は本記録に記さない。


三、質疑の第二件


問 処置の後の割当について。


答 日常の割当に差は生じない旨を述べた。本件は想定の問答(四)に該当した。


四、質疑の第三件


問 創部の痕について。


答 薄くなる旨および消えない旨を述べた。本件に該当する想定の問答は無い。


述べた文をそのまま記す扱いであるが、本件については記していない。


五、質疑の第四件


問 要する日数の算出について。


答 当係の者が述べた。想定の問答の五項のいずれにも当たらない。


前段として、三日目から日常の割当に戻る旨を問う質疑があった。当該の質疑も同一の個体による。同一の個体からの二度目の問いを別件として数える扱いは、当部に定めが無かった。本記録では一件として数えた。


六、記録の範囲


音声の内容および補足の内容は記録していない。次第の八による。


質疑の答えのうち、想定の問答に該当するものは項の番号のみを記す。該当しないものは述べた文をそのまま記す。そのまま記す旨の定めは当部の内規による。


定めた年は令和百八十四年である。定めた際の資料は当係に残っていなかった。


七、退出


出席した個体は、閉会の後に順に退出している。退出は後方の扉からとした。


他部門からの出席者は、質疑の前に退出した。退出の時刻は記していない。退出の旨を求める定めも、求めない定めも当部に無かった。


八、そのまま記した文


六により、想定の問答に該当しない答えは、述べた文をそのまま記す。本記録で該当するのは一件である。


第三件も該当するが、記していない。四に記したとおりである。


「三日で治りますよ」

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