第051話 説明会
説明の場の次第および想定の問答
進行の担当 飼育部門 繁殖係
開催の日 令和二百十三年十一月十四日
想定の問答の項数 五項
次第の番号 繁説第二一三―〇九号
一、開催の趣旨
第二種の処置に先立つ説明を行う。開催は本年度の第九回とした。前年度の開催は六回であった。
対象は当部の係員に限る。本次第は十時の回に用いる。
二、場所および時刻
場所は視聴覚室とした。開始は十時とし、終了の目安は十時三十五分と置いた。
座席は前の四列を用いる。後ろの二列は用いない。前年度も同じ扱いとした。
後ろの二列を用いない旨の根拠は、本次第の記載の対象外になる。
三、次第
一 開会 二分
二 音声による説明 八分
三 係員による補足 十分
四 質疑 十分
五 閉会 二分
以上で三十二分と見込んだ。残る三分は入退室に充てる。三の補足は当係の者が行う。
前回の開催の実際は二十八分であった。差は本次第に反映していない。次第の様式は、見込みの分数のみを記す形になる。
四、音声について
音声は当園の展示解説に用いているものを流用することとした。録音は令和百九十三年度であった。
読み上げた者は当時の職員であった。現に在職していない。退職の年は令和二百一年度である。
差し替えの稟議は五年ごとに提出しており、五年ごとに保留となっていた。直近の保留は本年度である。
保留とした理由を記した書面は、いずれの回についても当係に無かった。
五、想定の問答
(一)痛みについて問われた場合。麻酔を用いる旨を述べる。処置の間の意識の有無には触れない。
(二)要する日数について問われた場合。おおむね三日と述べる。三日の算出の根拠には触れない。
(三)対象の選定について問われた場合。選定の経過には触れない。当部の内規による旨のみを述べる。
(四)処置の後の身体について問われた場合。日常の割当に差は生じないと述べる。
(五)想定の外の問いを受けた場合。答えられる範囲で答え、答えられない旨は述べない。
六、配付する物
配付する物は無い。個体に対する回においても同じとする。令和二百十一年度までは要旨の紙を配付していた。
取り止めた年は令和二百十二年度であった。同年度の在庫の紙は当係で処分した。当部の内規は、配付する物を定める欄のみを持つ。
七、個体に対する回
個体に対する回は同日の十四時とする。場所および次第は本次第を用いる。
対象の別に応じて次第を改める旨の定めは、当部に無かった。前年度も無い。
出席する個体は九名である。うち本年度の対象は九名すべてとした。八名はすでに処置を了しており、本日の出席は一名のみが未了となる。
八、記録
質疑の部のみを記録することとした。記録は当係の者が行う。
音声および補足の中身は記録の対象外になる。記録の様式は当部の内規による。様式の直近の改正は令和百八十四年であった。
九、掲示
開催の掲示は当係が作成し、前月の上旬に出した。掲示は職員用と個体用の両方の掲示板へ出す。
掲示の文は両方とも同じものを用いた。刷りは一度で百枚とした。
済んだ回に印を付ける扱いは、当係の慣行によるものであった。印は朱で、掲示の右上に押す。
印を付けるのは、その回に立ち会った者とした。
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扉の取っ手は冷たかった。押しても引いても動かない。
十三時四十分になっている。廊下のこちら側には窓が無く、灯りは天井に三つある。
同じ間隔で並んでいる。下に立つと、影が三つに割れて床へ伸びた。
私は薄いほうの下で待ち、壁に背をつけた。板が背中の温さを取っていく。
背を板から離す。冷たさは十を数えるくらいで抜けた。九月に同じことをした時は、二十まで数えた。
八人が先に来ている。どれも別の区画の作業着を着ている。誰も話さない。
廊下の奥で水の音がしている。
八人のうち半分は、私より年上に見える。あとは同じくらいだ。一人が襟の内側を指で直している。
少ししてから手を下ろした。
下ろした手を、作業着の脇で握って開く。三度そうした。
水の音は一定ではない。三度に一度、少し高くなる。高くなる側は短い。
廊下の端から、H-0009が来る。右手を壁につけて歩く。
手は壁の下の縁を通る。板の継ぎ目のところで一度浮いた。また下りる。
私は数える。三十まで数えたところで、この人が私の前を通った。
奥の突き当たりに、K-0330が籠を一つ提げて立っている。左の袖だけ肘まで捲れている。
H-0009は手前で手を壁から離す。この人は歩く時、右の指の先だけを壁に置いていく。離してから先は歩幅が少し広く、足音が揃わない。
二人はそこで向きを替える。K-0330が籠を持ち替え、外側の手を空けた。
H-0009はその手を取らない。壁へ手を戻す。来た側へ歩き出す。
籠は持ち主が替わらない。足音だけが揃った。
私は数えるのをやめた。やめた数は三十九。
廊下の匂いは乾いている。埃で、水は混ざらない。十一月に入ってからこうなった。
変わり目の日は覚えていない。
匂いは扉の前が一番濃い。廊下の埃は、その手前で止まっている。
坂の側から箒の音が来る。五郎だ。この人は十一月も当番らしい。
箒の先が壁に当たり、少し戻して掃き直す。
「ここで何かあるのかい」
「説明があります」
「そうか。長いのかな。座ってようかな」
「三十分ほどです」
五郎は箒を止める。それから扉の上の札を見上げる。
札には室の名だけが書いてある。番号も、収容の人数も出ていない。
「昔はここ、映写室って言ってたんだよ」
「今は違うんですか」
「今も同じ機械だよ。名前だけ替わった」
「動く絵が映ってたのが、いまは音だけだろう」
「音だけです」
「絵のほうが眠くならなくてよかったよ」
「この椅子、前が凭れると揺れたもんだ」
「今は動きません」
「動かないほうがいい。揺れたら教えてよ」
五郎はそう言って、自分で笑った。肩が二度上下する。私も少し笑った。
「揺れたら、どうするんですか」
「俺が乗って確かめるよ。それでいい」
この人は箒の柄を胸へ立てて、乗る形を作った。膝が少しだけ曲がる。
曲げたところで止まって、そのまま元へ戻した。
待っている八人のうち二人がこちらを見た。私は口を閉じる。頬の上がまだ動いている。
「あんた、木曜は広場の当番だったろ」
「広場です」
「留め具が緩んでる。係の人に言っといてよ」
「はい」
「俺が言うと当番の話になるからね」
五郎は箒を持ち直して、また掃き始める。掃く向きは扉から離れていく。
箒の毛は先が曲がっていて、その側が床の埃をよく拾う。
拾った埃は、掃く先の少し手前で列になる。掃く度に前へ進む。後ろで床の色が変わる。
濃くなった色は乾くと元へ戻った。数えると二十に届かない。十七か十八のあたりだ。
私は列が進むのを見ている。その間に、時刻が十分過ぎた。
十三時五十五分に扉が開く。係員が押した。私の知らない人だ。
中の空気は廊下より温い。天井の管の音は低い。
室の匂いは布に近い。椅子の座面の布で、日に焼けた側の匂いだ。この匂いは、資料館の三つ目の部屋と似ている。
こちらの布が乾いた匂いがする。
管の音は低い。座ってしばらくすると聞こえなくなる。
座席は六列で、一列に六つある。前の四列へ、と係員が手で示した。
六列で六つあり、全部で三十六だ。私は入る時に数えた。示す時、この人は手の甲を上へ向けた。
指の先が伸びている。
座面は布で、背もたれは木だ。そちらには塗りがしてある。肘掛けの先に、木の継ぎ目が一本通っている。
肘を置くと、その線が腕の下に来る。
係員が示したのは前の四列で、後ろの二列には縄も紙も置いていない。私は三列目の端に座る。
背もたれの上の札を見た。
札は小さい金属で、背もたれへ釘二本で留めてある。上の一本が少し出ている。
打ってある数は三十七まで、一度に打ったものだ。私の席は十四だ。
前の列の札を端から見る。七から十二まで、六つ並んでいた。二列目はそこで終わる。
隣は私より年上で、作業着の襟が擦り切れていた。座ってから一度も背を離さない。
その隣は膝の上に両手を伏せて置いている。
爪が短い。
切ったばかりの縁が白い。爪の先に、鑢を掛けた跡は無い。
二列目の端の人は、始まる前に一度後ろを見た。見て、それから前へ直した。
合った時間は短い。前へ直した後の襟は、片側だけ立ったままだ。
誰も上着を脱がない。室は温い。前の人の背中の布が、肩のところで一度浮いて、また落ちた。
私は膝を寄せて座り直す。座面の縁が腿の裏へ当たる。当たる位置は、座り直しても変わらない。
卓の脚の下には、紙が一枚折って噛ませてあった。厚みは半分ほど潰れている。
扉のところで五郎が箒を持ったまま立っている。中は掃かない。廊下までが受け持ちだ。
箒の柄は途中で色が濃くなっている。
握るところだけが濃い。
上と下は木の色のままだ。持ち替えた跡は、そこには付いていない。木の匂いは端にだけ残っている。
この人は首を伸ばして、札を見る。
「十三が無いだろう」
「はい」
「十三は縁起が悪いっていうからね」
五郎はそう言って、廊下へ戻っていく。
縁起。私はその語を頭の中へ置く。
札の縁は少し丸い。四つの角のうち、三つは同じ丸みで、残る一つで爪が止まる。
金属は冷たい。手を離しても、その冷たさは残らない。
後ろの二列には、係員が誰も座らせていない。
それでも灯りは全部点いている。
私は一度振り返る。六列目に人がいた。
香月だった。白衣ではない。上着のほうだ。
この人は膝の上で手を組んでいる。組んだ手の指は動かない。
上着の袖の丈が、白衣の時より短い。手首が二センチほど出ている。その手首に、腕時計の跡は無い。
こちらへは向かない。前を見ている。
私は前へ向き直る。もう一度、後ろを気にした。
気にしても、後ろの列の音は聞こえない。この室は床が厚い。
十四時に始まる。係員が前へ出て、名を言わないで開会と言った。
「これより第二種の処置に係る説明を行います」
この人はそう言う。それから卓の上の機械の釦を押した。釦は二つある。
右を押した。左には触らない。左の釦の周りは、塗りが剥げていない。
機械は古い。表の板の塗りが、釦の周りだけ剥げている。下は別の色だ。
押すと、少し間があってから音が出る。間は三つ数えるほど長い。
声が出る。女の声で、前に一度聞いた声だ。
椅子の座面は前が高い。腰が少しずつ前へ出る。私は足の裏を床へ付け直した。
膝の裏が座面の縁に当たる。
そこが痺れた。足を組み替えると、痺れは膝の裏へ寄って薄くなる。
この声は資料館でも流れている。順路の三つ目の部屋の前を通ると、扉の下から聞こえる。扉の下の隙間は狭い。中の冷えが、声より先に足首へ来る。
言い方も、息を継ぐ場所も前のとおりだ。
今、聞こえている声も、二つ目の文の途中で一度切れた。
継いだ後の一語だけ、少し高く出る。資料館でもこの一語が高かった。
高く出る語は「保全」だ。二度とも、その語のところで息が入る。
機械の側で小さく擦れる音が、その少し前にした。針か何かが触れる音に近い。
声だけが最後まで続いた。その間、係員は卓の横に立っている。
手は後ろで組んでいた。
引き取る人がいない。途中の間が長い。二度あった。
声の後ろに、細い音が薄く乗っていた。機械から出ている。
その音は声が止まっても少しの間だけ残った。消えるまでに息を一つ吐いた。
ヒト。保全。不妊化処置。三つの語がその順で来る。
第二種。私の紙に刷ってある語だ。
管を入れる位置は肘の少し下だと言った。私は自分の腕の同じところを、作業着の上から押さえる。
袖の布の厚みしか分からない。
前の日の夜は二十時から止めると言った。消灯より二時間早い。
要する時間の目安は四十分だと言った。
器具の名が四つ続く。形は一つも浮かばない。最初の一つだけ、音が短くて残った。
覚えたのは四十分と二十時の二つになる。指を二本折り、そのまま膝へ置いた。
声は八分で終わる。最後の一言は園の名で、そこで切れた。
機械が短く鳴って、卓の上の赤い灯が消える。
係員が前へ戻ってくる。折り目が三本ある紙を、胸の内側から出した。
「いまの説明に補足をします」
係員はそう言う。それから、紙を見ながら話した。紙の折り目のところで、字が一度途切れる。
途切れたところで、この人は少し目を寄せた。
また離す。
話す速さは声より遅い。間に紙をめくる音が入る。
補足は器具の太さから始まる。私は膝の上で指を二本立てた。
立てているうちに、どちらがどちらだったかが入れ替わった。
紙の上に表が刷ってある。横に四つ、縦に三つ。字は小さい。
係員の指がその上を左から右へ動き、止まって、また戻る。
私の席からは行の数だけが見える。三つだ。
傷の長さは四センチだと言った。四センチを、私は指で測ってみる。
人差し指の先から、第二の関節の少し手前まで届く。
測った指を膝の上へ戻す。指は同じところで止まった。
前の列の人の襟に、白い粉が付いている。肩には付いていない。座っている間、そこが目に入る。
三日目。
係員は紙から目を上げて、室の後ろを見た。私も振り返りたくなる。
そうしないで、前を見ていた。
補足は十分で終わる。係員が質疑と言う。言う時に、この人は紙を胸のところへ下ろした。
下ろしても、しまわない。
しまわないままで、両手で持っている。
「質問のある方は手を挙げてください」
誰も挙げない。そのままで、時計の針が二つ動いた。
その間に、後ろで扉の音がする。開ける音と、閉める音が続けて鳴った。
私は振り返る。さっき人がいた席は、もう空いていた。
空いた席の札は、ここからでは読めない。
角度が悪い。
座面の布は、人がいた形のまま少し沈んでいる。戻るまでに間があった。
誰かが手を挙げる。前の列の人で、私より年上だ。
「痛みはありますか」
「麻酔を用います。処置の間は眠っています」
係員はそう答える。紙の三行目を見る。
「終わったあと、割当はどうなるんでしょう」
「日常の割当に差は生じません」
私の右の列の人だった。挙げた腕は肘から先だった。肩は動かない。
「傷は残りますよね」
後ろの列に一番近い人が、手を下ろさないまま言った。係員は紙を一度見る。見てから答えた。
「薄くはなります。消えるものではないです」
言い終わると、その人は手を下ろした。袖が椅子の背に触れる。
私の左の人は、質疑の間ずっと膝の布を摘まんでいる。摘まんでは離し、また同じところを摘まむ。
布のそこだけが立って、戻らない。
誰も挙げない時間が来る。係員が室を見渡す。速い。
私は手を挙げる。腕を伸ばすと、袖の縁が肘の内側を二度掠める。
「三日目からですか」
「はい。おおむね三日です」
係員はそう答える。返しは早い。紙を見ないで答えている。
私は次を言う。前の人の答えがまだ終わっていないうちに、口が開いた。
「その三日は、誰が数えた三日ですか」
係員は紙を見る。指を紙の縁へ当てて、項の番号のところで止めた。止めた指はそこから動かない。
この人は紙から目を上げる。それから私を見る。
「三日で治りますよ」
係員はそう言う。声の高さは、さっきの答えから変わらない。
「分かりました」
「ありがとうございます」
私は座る。膝の上で手を組んだ。
言ってから、口の中に唾が残った。飲むと喉が鳴る。
もう一度手を挙げようとした。肘が肘掛けの継ぎ目まで来て、止まった。係員はもう次の紙を見ている。
挙げかけた手を膝へ戻した。袖が継ぎ目を一度またいだ。またぐ時に、布が段のところで止まる。
親指が上に来る。右が上だと、指の付け根が卓の縁に着く。
左を上にすると、付け根が浮いて、袖の端だけが卓に触る。
私は指を一度ほどいて、また組み直す。
閉会は二分で終わる。終わりの言葉は開会と対になっている。
室を出る時、二列目の札をもう一度見た。並びは入る時と変わらない。
廊下は室より冷たい。
九人が同じ扉から出る。私は三列目で、四番目になった。
冷えは頬の上へ先に来る。まだ動いていた分が、そこで止まった。
私の上着は釦の穴が伸びて、合わせても止まらない。手で押さえたまま歩く。前の人の肩に、白い糸が一本載っていた。
掲示板の前を通る。説明の場の紙はまだ出ている。
十時の脇の(済)は、前に見た時より濃くなっていた。上からなぞった跡がある。
十四時の脇には何も書いていない。私は今、その回から出てきた。
紙の上半分と下半分で、同じ字が刷ってある。時刻が違う。
係員が二人、掲示板の前を通り過ぎた。片方が紙を見て、何か言った。言葉は聞き取れない。
もう片方が笑った。
二人は本館へ歩いていった。
私は紙をもう一度見る。上半分の脇に、印が一つ付いている。下半分には無い。
印は鉛筆で、括弧の閉じるほうが少し開いていた。開いたところから線が外へ出ている。
線は短い。長さは字の半分ほどで、先が上を向いていた。
夕方の給餌までに二時間二十分ほどある。私は洗濯室へ寄った。割当は無い。
乾いた布の山の向こうで、K-0330が手を動かしている。廊下で籠を提げていた人だ。
月曜のこの人は畳む役に付くらしい。私を見て、それから手へ戻った。
布は端を揃えて三つに折る。籠へ立てて入れる。
立てて入れると、上から縁が並んで見える。籠の縁までは、まだ二枚ぶん空く。乾いた布からは、石鹸が抜けている。
布そのものの匂いが残る。
残る匂いは薄い。
顔を近づけないと分からないくらいだ。
籠の底の一枚だけ、まだ湿っていた。その一枚は下へ戻す。
K-0330は畳む前に一度布を広げる。それから四隅を寄せた。寄せる時に、布の中の空気が抜ける音がした。
音は短い。
「そっち、端」
「はい」
この人の指は二枚を一度に摘まんで、上の一枚だけを送る。
抜けた空気は顔の高さへ来る。来た分だけ、匂いが立った。
一度きりで、二枚目からは同じようにしても上がってこない。
私は角を揃えるのを手伝う。
大きい一枚のところで、この人は端を持ったまま止まった。布の重みで、持った側の指が白くなる。
持ち替えて、外側の手を空ける。
今度は取った。
畳んだ布の間に、細い糸が一本挟まっていた。挟まったままで棚へ入る。
糸は白で、布と同じ色だ。指で摘まめる長さはある。私は摘ままなかった。
「糸」
「見えました」
この人は指で差さない。顎を一度、そちらへ振る。
二人で持つと、布は一度で伸びた。
伸ばしてから、この人が先に折る。折る位置は、私の手より内へ来る。
私の手に残るのは離すところだけで、二枚目からは目も合わない。
K-0330は次の一枚を取る前に、袖で額を拭いた。跡が湿って光る。
この人が黙っている間、槽の湯が縁のところで小さく回っていた。
回る先はいつも同じ角だ。
「速いね」
声はそれだけだった。私が返す前に、次の一枚が来る。
受け取ると、指の先が一度触れた。触れたほうは何も言わない。
「速くなりますか」
「なるよ」
「いつですか」
「もう速いって」
この人の肩が一度揺れた。手は止まらない。
四枚目からは、離す時期が合ってきた。合うと音がしない。
「もう一枚」
次が来る。私は受ける手だけを出した。
槽の縁の内側に、白いものが帯になって付いている。
水面はさっきの高さのままだ。
布を持ち直した。私は籠を一つ運ぶ。
棚の三段目は胸の高さにある。持ち上げる時に息が止まる。
籠の底が棚板を擦った。擦れる音は短い。二度目は鳴らなかった。
三段目へ入れてから、息を吐いた。肩が下がる。
籠の後ろが指二本ぶん出て、出た分は廊下の側へ向く。
K-0330は下の段へ入れる。この人の籠は音を立てない。膝を折って、板の上を滑らせている。
滑らせた先で、籠の縁が奥の板へ軽く当たった。音は一度きりだ。
私は手を洗った。
十一月の水は指の関節から冷える。
冷えた指は、しばらく曲げにくい。曲げにくいうちは、爪の縁が白く見える。
夕方の給餌は四七〇。皿の縁が四三〇より高いので、匙を立てて掬う。
冷えた指では、立てた匙が三度すべった。
しまってあった皿は樹脂の匂いがする。払っても落ちない。
食堂の卓は端から三つ目に座る。作業着の胸のところで、五月にもらった紙が折り目のぶんだけ厚い。向かいは空いている。
すずの卓は今日も空いていた。午前の組は夕方に来ない。
すずの座る側は、卓の面の艶が引いている。肘を置く位置だ。
拭いても戻らない。八月から同じところが引いている。
私はその側へ回って、指で撫でてみた。ざらつきは無い。
私は器を両手で持って、卓へ置く。置いた音が高い。
空の卓は音を返す。向かいに人がいる日は、この音がしない。
食堂を出る。出たところの廊下は、踏むと少し沈む。板が一枚浮いている。
沈むところで足音が変わった。硬い側から柔らかい側へ移る。移った音は低い。
低い音は後ろまで届かない。
廊下の隅に、外れた画鋲が一つ。針の先が天井を向いている。踏んだ者はまだいない。
頭の塗りは白で、床の色に紛れている。
突き当たりの窓の前で止まった。窓は開かない造りで、硝子の下の隅が曇っている。
曇りの縁は指の腹より広い。下の隅が一番濃い。外は暗い。硝子には廊下の灯りが映っていて、外は映った灯りの向こうにある。
声が言った位置は、肘の少し下だ。作業着の上からでは、その辺りが定まらない。
管が入るのは十一月のうちのどれかの日だ。
私は硝子の曇りへ指を当てた。当てたところだけ透けて、すぐ元へ戻る。日はまだ聞いていない。
聞いても、別に定めると言われた。
桟の上で手を組んだ。
後ろの列の右の端で、あの人は同じ形をして座っていた。質疑の前に出ていった。
出ていく音は小さかった。
閉める側が小さい。
あの人は白衣を着ていなかった。十号室では肘まで捲っていた袖を、今日は下ろしていた。
同じ人が別の恰好で座っている。上着の袖口には釦が二つ付いていた。二つのうち上の一つだけ、糸の色が違う。
付け直した釦は、他より少し前へ出ている。
押すと少し動いた。指を離すと、糸が先に戻る。
私は札の形を思い出す。金属で、小さくて、角のところが丸い。十四の一と四の間に、打った時の刻みが浅く入っていた。
浅い刻みは十二の札にもあった。並べたわけではない。順に見て終わった。
縁起が悪いから。五郎はそう言った。
この人はここに二十一年いる。あの札の縁は丸い。丸みは隣の二枚より深い。
今日の数を口の中で並べる。三日が二度出た。
二度目の三日は、私が言ったほうだ。言った時の口の形まで戻ってくる。
消灯は二十二時だ。十月から三十分繰り下がっている。
枕は昼のうちに干してあって、面がまだ硬い。私はそこへ頭を置いた。
硬いところに耳が当たる。当たると、廊下の音が遠くなる。
遠くなってから、繰り下がったぶんを数え直しに使った。
十四の次は十五で、十二の前は十一だ。
十三のところで口が止まる。
止まった先へは行かない。口を閉じたままもう一度、十二から数えた。
今度は十三で止まらずに、十四まで行った。
隣の寝台で布が鳴る。K-0330が上を向いたところだ。左の袖はまだ肘まで捲れている。
「まだ起きてる」
声は暗いほうから来た。私は返事をしなかった。返事の代わりに、こちらも上を向いた。
二つぶんの息が、同じ間で天井へ上がっていく。
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説明の場の記録(質疑の部)
質疑の件数 四件
記録の方法 当係の者が聴取のうえ筆記
記録の範囲 音声および補足を除く
記録した者 飼育部門 繁殖係
一、開催
令和二百十三年十一月十四日、十四時から開催した。終了は同日十四時三十四分であった。
出席は十名である。進行は当係の者が行った。本様式は出席の総数のみを記す形とし、内訳の欄を設けていない。
二、質疑の第一件
問 痛みの有無について。
答 麻酔を用いる旨および処置の間の意識について述べた。本件は想定の問答(一)に該当した。
問うた個体の番号は本記録に記さない。
三、質疑の第二件
問 処置の後の割当について。
答 日常の割当に差は生じない旨を述べた。本件は想定の問答(四)に該当した。
四、質疑の第三件
問 創部の痕について。
答 薄くなる旨および消えない旨を述べた。本件に該当する想定の問答は無い。
述べた文をそのまま記す扱いであるが、本件については記していない。
五、質疑の第四件
問 要する日数の算出について。
答 当係の者が述べた。想定の問答の五項のいずれにも当たらない。
前段として、三日目から日常の割当に戻る旨を問う質疑があった。当該の質疑も同一の個体による。同一の個体からの二度目の問いを別件として数える扱いは、当部に定めが無かった。本記録では一件として数えた。
六、記録の範囲
音声の内容および補足の内容は記録していない。次第の八による。
質疑の答えのうち、想定の問答に該当するものは項の番号のみを記す。該当しないものは述べた文をそのまま記す。そのまま記す旨の定めは当部の内規による。
定めた年は令和百八十四年である。定めた際の資料は当係に残っていなかった。
七、退出
出席した個体は、閉会の後に順に退出している。退出は後方の扉からとした。
他部門からの出席者は、質疑の前に退出した。退出の時刻は記していない。退出の旨を求める定めも、求めない定めも当部に無かった。
八、そのまま記した文
六により、想定の問答に該当しない答えは、述べた文をそのまま記す。本記録で該当するのは一件である。
第三件も該当するが、記していない。四に記したとおりである。
「三日で治りますよ」




