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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

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第050話 不妊化決定

個体の処置に係る決裁(起案)


起案の日 令和二百十三年十月三日

起案した係 飼育部門 繁殖係

起案の番号 繁第二一三―一一四号


一、起案の趣旨


標記について、下記のとおり処置を行いたい。決裁を仰ぐ。


処置の別は第二種とした。第二種の定義は当部の内規による。内規の直近の改正は令和二百九年度であった。


二、根拠


譲渡等に係る事務の取り扱いは、個体の譲渡および貸出しに先立ち、当該の個体の処置を了することを求めている。


求める旨は令和百二十九年度に定めた。定めた際の資料は保存の年限を超えている。処置を了しないまま譲渡等を行った例の有無は、当係で確かめていない。


三、対象


対象は一名である。番号はJ-0037とした。


系統は無登録である。展示適性等級は乙とした。判定は前回の審査による。


年齢は十七である。生年により算した。居室はE区画とした。区画の別は本起案の判断に用いていない。


四、選定の経過


対象の選定は当係が行った。選定の基準を記した書面は当係に無かった。選定は当年度の第三回の会議による。


会議の記録は当係の綴りに置いた。


当年度に本件と同じ処置の候補とした個体は十一名ある。うち本起案の対象としたのは一名である。残る十名のうち八名は本年度中に別の起案により了しており、二名は候補のままである。


残る十名についての記載は、当年度の第三回の会議の記録によった。


五、実施の予定


実施は令和二百十三年十一月中とする。日は執刀の側と調整のうえ別に定める。所要は前例により四十分程度と見込んだ。


前例八件の平均は三十七分であった。最も長い例は五十二分、最も短い例は二十九分である。


執刀は獣医部門が行う。補助の別は当日に定める。


実施の前に説明の場を設けることとした。場の日と時刻は掲示による。掲示の作成は当係が行った。掲示に用いる様式は前年度のものを流用した。


六、決裁の経過


本起案は繁殖係が起案し、飼育部門長が決裁した。決裁の日は令和二百十三年十月六日である。


合議した係は用度係および栄養係である。獣医部門への合議は行っていない。


七、前例


本年度の第二種の処置は本件を含めて九件である。うち八件はすでに了している。九件のいずれについても、対象とした理由を個体へ示した記録は当係に残っていなかった。


九件のうち二件は、当該の個体から実施の後に申出があった。申出は口頭による。受けた者の名は当係の綴りに残した。


八、通告


決裁の後、当該の個体へ書面により通告する。通告の日は十月十一日とした。通告に用いる文は当部の様式による。


様式は処置の別と実施の時期の二欄で成っていた。


九、添付


添付は個体記録票の写し一枚である。系統の欄は写しの上でも空欄であった。


写しは本年五月の更新の後に作成したものを用いた。写しの右下に作成の日を鉛筆で記した。添付の綴りは当係の書庫に置く。


十、保存


本起案および関係の書面は、当係の書庫に十年間保存することとした。年限は当部の内規による。


本年度に年限を過ぎた綴りは四綴りある。四綴りとも書庫に残っていた。


(起案 飼育部門 繁殖係)


──────────────────


 舌の裏に湿りが残る。歯の裏側は乾いていて、舌が当たると引っかかった。ほかは水気が抜けていて、噛むと頬の内側が張り付く。


 六時の点灯で目が覚める。火曜は起き上がるまでが早い。

 起きて、寝台の布を伸ばす。水は飲まない。測る前の二時間は口へ入れない決まりだ。

 歩くと、舌の裏の湿りも少しずつ引く。


 来る時は下からだ。臍の下が一度締まって、それから広がる。


 廊下へ出ると、もう十人ほどが立っている。番号順に並ぶのは扉が開く三十分前からだ。私は壁へ寄って、作業着の裾を折り直した。


 十月の廊下は冷たい。素足の裏が、床の材の継ぎ目のところで一度止まる。継ぎ目は横に走っていて、幅は爪の半分ほどある。

 踏むと縁が当たる。十月に入って十日、当たる回数が増えた。

 今年は十月から来ている。七時の鐘が鳴ると、列が締まる。二百四十一名は、E区画の廊下では収まらない。

 私は四十番目なので、屋内で止まる。列の後ろは渡り廊下へ出た。


 今朝は雨で、外に出た人の肩が濡れて戻ってくる。濡れた肩は台の上で拭かない。


 私の後ろはS-0071で、その次がM-0144だ。番号は小さいほうから上がってくる。前に立っている人は、今日も肩の高さが揃わない。

 右の肩が少し落ちる。落ちた側の襟だけが首から離れている。


 八時。扉が開く。


 列は一人ずつ進む。前の人が台の上で一度屈む。読む人は目盛りへ回り込んだ。

 この番は長い。後ろの列が二歩ぶん詰まる。


 今日も係員は二人だ。読む側は台の横に立ち、書く側は机から動かない。


 鉛筆の先を一度舐めてから書きはじめる。濡れた芯のほうが線は濃く出る。


 紙は二枚重ねだ。下の一枚は係員が抜いて、机の脇の函へ落とした。底で紙が一度撥ねる。

 私に見えるのは上のほうだけになる。


 私の番が来た。台の面は素足に冷たい。踵から先に冷えて、指の腹はまだそうでもない。


「五二と、二」


 読む人がそう読んだ。私はその数を、指を一本ずつ折って覚える。


 先週は五二・四だった。腹からか腕からかは、台の上では分からない。

 百グラムより細かい差は、この台には出ない。目盛りはそこで終わる。下の桁は空欄のままだ。


 降りる時に、踵が縁に当たる。縁の塗りはそこで薄く擦れる。

 擦れた幅は踵の幅より広い。差は指の一本ぶんある。私より足の大きい者が同じところへ降りている。

「J-0037、このあと十号室」


 係の人がそう言った。

 十号室は獣医部門にある。


「今日ですか」

「今日だよ。朝のうちにね」


 この人はそう言って、次の番号を読み上げた。声は下がらずに続く。


 列を離れて廊下を戻る。途中も、後ろの足音は途切れない。


 残った音は乱れる。歩幅が揃わない。遠くなって、途中で消えた。


 途中の角で、A区画の列とすれ違った。A区画の測定は私たちより後に回る。列の中に、すずはいない。前から三人目のところで一つ空いている。


 すれ違う時、誰かの作業着から石鹸の匂いがした。E区画のものとは違う匂いだ。

 十号室の扉は開いていた。

 入ると、足の裏に敷居の段が当たる。


 乾いた空気は鼻の奥を薄く刺す。消毒に使う薬の匂いがする。朝の分は濃い。

 私がここへ来る割当は、朝に付く。扉の内側が一番強い。奥は湯気のほうが前へ出る。

 床の色の変わる線が一本ある。線は扉と平行ではない。


 香月がいた。この人は白衣の袖を肘まで上げている。


「座って。今日は測るだけじゃないのよ」


 私は椅子に座った。椅子の座面は冷たくない。誰かが先に座っていた。


 卓の上に器具が三つ並んでいる。銀の管と、輪と、細い匙のようなものだ。三つとも同じ布の上に置いてある。

 布は白くて、真ん中だけ地が透ける。


 香月は管を右手で取った。それから私の腕へ当てる。


 当てる前に、この人は管を一度卓へ置いた。位置は卓の右の端になる。布の透けているのが、ちょうどそこになる。

 置いた時に、卓の板が短く鳴った。

 木の音になる。


 置いてから取り直して、それから当てた。取り直す間は一つ数えるほどだ。


 管は冷たい。当たると、腕の内側の血の通っているところが一度強く動く。


 香月は管の先を耳へ入れて、しばらく動かなかった。動かない間に、この人の睫毛が二度落ちる。


 私の座ったところからは、白衣の襟の内側が見える。襟の裏は表より白い。襟の折り返しの幅は指の二本ぶんだ。


 襟の縫い目は二本で、内側の一本だけ糸の色が違う。繕った跡だ。


「息を止めないで、普通に吸って吐いていいよ」

「はい」


 香月は輪を取った。この時も、一度卓へ置いた。卓の右の端になる。


 輪は腕に巻く。この人が横のゴム球を握った。

 腕が締まる。六度で止まった。あとはゆっくり戻っていく。

 香月は目盛りへ顔を寄せる。

 二つの数を口に出した。数は聞こえた。覚えなかった。

 頭へ入れるのは自分の体重の数にしている。


 輪を外す時、腕の内側に輪の縁の跡が残っていた。赤くはない。

 押すと消える。指を離すと、また同じところに出た。


 二つの数のうち、先に言った数が大きい。


 三つ目の匙のようなものを取る時も、この人は一度卓へ置いた。位置は動かない。

 三度目の音だけが少し高い。あとの二つは短く鳴って終わる。


 三つ目は口の中を見るためのものだった。舌を押されると、喉の奥が一度動く。動いた時に、朝から何も飲んでいないのを思い出した。


 この人は数えていない。口も指も止まったままだった。器具が動いた。


 私はその位置を見た。塗りが薄いのは、そこだけだ。


「どこか痛いところがあったら言ってね」

「ありません」


「食べる量は、先週と比べて変わってないかな」

「先週から同じです」

 香月は紙へ書いた。速さは七番より遅い。途中で一度止まる。


 位置は毎回同じところではない。今日は三行目の途中だった。前に来た時は、書き終わった後に止まっている。

 その間、鉛筆の先は紙から離れない。

 離さないまま少し傾く。


 この人は紙から目を上げないでいた。そのまま指で頁の端を折る。


 折った端は三角だ。頂点は私のほうを向く。


「先週は五二・四だったね。今日は五二・二」

「洗濯に入りました」


 私は二つの数を頭の中で引く。答えは口に出さない。


 この人は少し笑った。目の下に線が三本出る。一番外は目尻で切れる。

 笑うのをやめても、右の側が少し残った。


「戻る範囲だよ。次の測定でもう一度見る」


 香月は次の紙を出した。私の番号が刷ってある。


 刷ってある番号の下に、空いた欄が二つ並んでいる。二つとも今日は埋めない。

 欄の左の端に、乙の字が一つ刷ってある。番号より薄い。私は指の背で、その形を卓の下へ二度なぞった。

 読みは知らない。


 埋めない紙を、この人は卓の左へ置いた。器具を置く側ではない。


「聞きたいことがあったら、いま聞いていいよ」


 香月はそう言った。少し置いて、顔を上げる。


 唇を一度合わせて、そのままでいた。香月はこちらを見ている。


 待つ時間が少しあった。この人は指で卓の縁を一度だけ叩く。音は短い。

 それから紙を伏せた。

 裏には何も刷っていない。白いところが上を向いた。


 香月は器具を布の上へ戻した。順は取った時と逆だ。


 逆に戻すと、布の上の並びが左右入れ替わった。そのままで端を畳む。畳み目は二つ付く。


 畳んだ布は卓の隅へ寄せた。先に、さっきの透けたところが来る。


「十時に第一集会室へ行って。七番が待ってる」


 この人はそう言った。理由は言わない。


「何をしますか」

「行けば分かるよ。私の口からは言わないの」

 私は椅子から立って、腰のあった辺りへ手を置いた。

 掌が布の毛を押す。指の間に温さが残った。


 十時までは五十分ほどある。廊下の窓から外を見た。壁の時計は九時を少し過ぎている。


 十月の空は高い。雲は夏より遠いところにある。動いているのが見えにくい。

 雲の色は端が濃い。

 その側が坂の下の方角だ。


 窓の桟の埃は、風の来るところで途切れている。指で押すと二層に割れる。


 第一集会室は本館の一階にある。扉の前の掲示板に、新しい紙が一枚出ていた。


 紙の題は「説明の場について」だ。字は刷ってある。

 日は十一月十四日で、時刻が二つ並んでいる。十時と、十四時だ。


 十時のほうの脇に、鉛筆で(済)と書いてある。書いた字は薄い。


 私はその紙を二度読んだ。日は十一月十四日のままだった。


 扉を押した。中は椅子が六列並んでいる。座面の布は前から二列ぶん寝ていて、三列目から毛が立つ。


 二人が座っている。どちらも別の区画の作業着を着ている。一人がこちらを見た。

 すぐに前を向く。


 室の窓は高いところに一つある。光は入るが、外は見えない。入った光は前の列の床までしか届かない。

 後ろの二列は暗い。

 暗いところの椅子は座面の色が濃く見える。近づくと、色は前の列と揃う。


 七番が前に立っている。この人は盆を持っていない。今日は紙が一枚。


 紙は折っていない。

 端を両手で持って、胸のあたりで水平にする。


「J-0037、前へ」


 私は前へ出る。足元に、線は引いていない。


「本日、書面を交付します」


 七番はそう言った。それから、紙を私へ向けないまま読み上げた。


「J-0037について、処置を行うこととした。実施の日は別に定める」


 処置。声のほうの口が、その二字で一度閉じた。


 二字の形は、紙の上でも耳の中でも変わらない。


「何の処置ですか」

「第二種になります」


「第一種は」

「第一種は他の個体のものです」


 七番の口はそこで閉じる。鉛筆の先が紙の上で一度止まった。


 第二種。第一種。数が二つ立っている。

 私は指を二本立てて、その二本を卓の下で入れ替えた。順を変えても、どちらが自分かは変わらない。


「日にちは」

「十一月中です。日は別に定めます」


「どこでですか」

「処置室です」


 七番は壁の摘みを右へ二つ動かした。塗りに指の跡が残る。


 それから紙を私へ渡した。紙の下の角が先に私の指へ当たった。


 私は両手で受ける。片手でよかったと、受けてから思う。


 この紙にも私の番号が載っている。


 紙は薄い。片面にだけ字がある。指で挟むと、字の側が少し波を打つ。


 持つと軽い。それでも、持ち替える時に指が滑らない。表の面がざらつく。

「書面は読めますか」

「読めます」


「本件はこれで了とします」


 この人はそう言って、自分の紙に何かを書いた。

 書いた字は私のところからは見えない。


 書き終えると、七番は次の番号を呼んだ。呼ばれたのは私の番号ではない。頭字の一字が違う。


 呼ばれた人が前へ出た。私の知らない顔で、年は私より上に見える。

 前へ出る時、椅子の背へ一度手を掛けて、離した。七番は同じ文を読み上げた。

 文の長さも、息を継ぐ位置も動かない。替わったのは番号の四桁だけだった。


 読み上げの間、私は自分の紙の角を折らないように持ち直した。


 三人目の時、私は後ろの扉の近くまで下がっていた。下がっても、文は前と揃って聞こえる。


 四人目は呼ばれなかった。今日は三人で終わりらしい。


 三人が終わると、七番は綴りを閉じた。指を舐めないで端を揃える。

 それから脇の下へ挟んだ。位置は毎回そこだ。


 綴りの厚みは指の一本ぶんある。七番が抜いたのは四枚で、読み上げたのは三枚だった。


 七番は誰にも挨拶をしないで出ていった。出る前に、椅子の列を一度だけ見る。

 二人目に呼ばれた番号は、すずのものではない。

 近い数字だが、下の二桁が二つ大きい。


 すずの席は三列目の右から二つ目だ。呼ばれる日は、いつもそこから立った。

 立つ時に、座面が一度鳴る。鳴る椅子はその一つだけだ。


 今日はその椅子に誰も座っていない。座面の布は、他の椅子より少し高い。


 私は椅子の列の横を通って、後ろの扉から出る。二列目に座っている人の膝が当たった。

 その人は何も言わない。私も言わなかった。廊下へ出て、膝を一度さすった。


 さすっても、痛みは無い。膝の皿の下に、当たった感じだけが少し残っている。

 扉を閉めると、後ろの音が半分になる。取っ手を握っていた手だけが、室の温さを持って出た。


 廊下の突き当たりの窓から、坂の下が見える。


 坂は下で二つに分かれる。右の細い道は、幅が坂の三分の一ほどしかない。


 三月に、私は坂の下まで下りている。入口の草の手前で止まって、入らなかった。


 今日は入った。


 道の入口に、切った草が膝の高さまで寄せてある。乾いていて、踏むと音がする。

 音は乾いた紙に近い。青い匂いは、もう無い。代わりに土が匂う。

 草の下は湿る。踏むと、乾いた上の層だけが先に鳴った。下は音を出さない。


 道は片側にだけ手すりがあって、木のところで曲がっている。曲がった先は見えない。

 手すりは曲がるところで一度切れて、また始まる。切れ目の手前だけ、握った跡が黒い。


 草の間に、手袋が片方落ちている。指は上を向く。


 私は曲がるところまで歩く。歩く間、通告の紙は右手に持ったままだ。


 持っている手が先に汗ばむ。反対の手は乾いている。


 曲がり角の向こうから、足音が二人ぶん上がってきた。


 係員が二人だ。作業着ではない。上着を着ていて、片方は鞄を提げている。


「あれ、こっち来ちゃ駄目だよ」

「すみません」


「駄目っていうか、ここ職員の道だからさ」


 もう一人が、立ち止まらないままそう言った。


「順路の図に載ってないでしょ」

「載っていません」


「そういうこと。戻ってね」


 二人は坂へ上がっていった。上がる足音は、下りる時より重い。


 私は道の途中で向きを変える。曲がり角の向こうは、そのままにして戻った。

 入口の草を跨ぐ時、乾いた音がもう一度した。行きに聞いた音が返ってくる。

 坂を上がる途中で、前庭の側が見えた。

 敷石が四つ、木の間から出て、また木の下へ入る。人は立っていない。

 膝の裏の筋が、登りの間だけ一歩ごとに引かれる。

 平らになったところで一度止まって、それから下を振り返る。


 分かれ道の右は、上からだと草の寄せてあるところしか見えない。道そのものは、木の下へ入って消えている。


 十二時に食堂へ入る。私は四七〇の皿を両手で持ち上げた。縁が高い。親指の腹が外へ出る。

 匙は先月と同じものだ。柄の途中が細くなっている。


 向かいに番号だけ知っている人が座った。E区画で、列は私とは別になる。

 この人は皿を置いたまま食べる。顔のほうを下げていった。


「干し場、東の端が早いですよ」


 西から乾くと聞いている。


 この人はそれだけ言って、また下げた。どちらが正しいかは言わない。


 私は皿を傾けた。底の粒が縁のところへ集まって、そこで止まる。


 昼を過ぎてから、洗濯室へ行った。今日は当番ではない。


 H-0006はもう来ていた。洗濯当番の人で、今日も第二槽の側に立っている。

 半分しか無い右の親指の爪が、湯の中で先に白くなる。

 この人は私の顔を見て、それから手を止めた。

「紙、もらったんですって」

「はい」


「見せなくていいのよ。人のは見ないの」


 H-0006は絞った布を籠へ入れた。両手を前掛けで拭く。


「私も昔もらったわ。同じ形の紙だったと思う」

「同じですか」


「畳んで枕の下へ入れて、それきり」


 この人はそう言って、次の布を取った。取る手は止まらない。


 第二槽の湯は白く濁る。朝は透いていた。今のほうが、汚れは早く落ちる。

 湯は温い。手を入れると、朝より温さが長く残る。H-0006は濁った湯の中を手探りで探して、一度で布を掴む。

 私は二度掴み損ねた。二度目に掴んだのは、自分の袖のほうだった。


「それ、袖よ」

「すみません」


「いいのよ。袖のほうが早く掴めるもの」


 この人の口の右の端が上がった。上がり方は九月と同じだ。上がった頬に、湯気の粒。


「この布ね、裏でみんな名前を付けてるのよ」

「名前ですか」


「厚いのが親方。薄いのが弟子。いま持ってるのが親方ね」


 私は手の中の布を見た。たしかに重い。水を吸うと、もっと重くなる。


「弟子はどれですか」

「そっちの端。乾くのも早いのよ」


 私は笑った。口が開くと湯気が入る。入ると喉の奥が温くなる。


「親方はどうですか」

「乾かないの。最後まで槽にいるの」


 H-0006の息が長く出た。途中で布が一枚滑る。

 二人でそれを見る。落ちた先は水の中で、拾うと親方のほうだった。

 それからもう一度、同じ息が出た。


「ほら、そこ。手が空いてる」


 この人は自分の籠を顎で指す。先に手を入れる。


 中は覚えていない。籠の取っ手の巻きの形だけ覚えている。


 私は第三槽の前に立った。湯に手を入れると、指の腹に温さが薄く来る。


 去年の三月、この人が教えた。


 午後の布は百二十枚ある。三つの槽で四十枚ずつだ。四十枚を数える時、私は十枚ずつ四つに分ける。

 H-0006は分けない。


 この人は数えないで、籠が重くなった感じで手を止める。止めたところで数えると、たいてい四十だ。二枚多い日もある。

 多い日も、この人は数え直さない。

 布を絞ると、湯が指の間から出る。袖へは流れない。腕を槽の内側へ傾けてある。

 湯の匂いは石鹸ではなく、鉄に近い。第三槽だけがそうなる。上がってくる湯気は、顔の高さで一度切れる。


 深く倒しすぎると、今度は槽の縁で手首が当たる。その位置に赤い線が残った。


 この形になるまでの三か月、私は毎日袖を濡らして戻った。


 夕方まで洗って、干し場へ運んだ。籠は二つある。重いのを私が持つ。


「そっち重いでしょ」

「持てます」


 H-0006はそう言って、軽いほうを持った。先に歩き出す。


 この人は途中で二度休んだ。私は四度だ。置き直す度に籠の底が腿へ当たる。着いたのは同じ時刻だ。


 干し場の風は西から来る。布は西の端が先に乾く。

 今日は風が弱く、触っても乾きの差が出ない。布の端が振れずに、まっすぐ下を向いている。

 H-0006は向こうの端から始める。私は近い側で、四十のうち二つの順が入れ替わる。


 この人の左の袖は、肘のところだけ色が薄い。

 同じところを槽の縁へ当てて洗うのだと言っていた。


 私は自分の袖を見る。両方とも新しいままで、縁の縫い目が硬い。指を入れると、まだ折り目が立っている。


「あなたの側の竿だけ低いのよ」

「届きます」

 H-0006は竿の下へ入る位置が私より近い。手を伸ばすと、袖が肘まで落ちた。

 私は一歩手前で掛けている。掛け終えると、脹脛のところが張る。


 十六時四十分に干し終えた。籠を戻して、洗濯室の戸を閉めた。


 内側の取っ手が指に冷たい。朝の管と同じところに来る。


 管のほうは、離しても手に残っていた。金属の冷たさは、握り直すまで消えない。


 廊下の窓は西を向いている。この時刻の床には、窓の枠の影が長い。影の中を歩くと、素足の裏の温さが一段落ちる。

 間の明るいところでは、板の目が細かく見える。


 床の影は五本あった。最後の一本を跨ぐと、E区画の入口になる。


 戸を閉めてから、寝台の下の籠を引き出した。

 中の物は朝のままだ。上に置いた布の折り目も、朝に付けた三本のところで止まっている。

 動かした者はいない。


 私は寝台の上で膝を立てて、通告の紙をそこへ置いた。


 五二・二。二百減。第二種。

 十一月中。

 十一月十四日。十時と十四時。


 あの時、香月は少し待つ。卓の縁を一度叩くだけの間だ。

 紙の角が膝の布へ少し食い込んで、そこだけ立っている。


 すずがこの廊下へ入るのは、割当の揃った日だけだ。月に二度か三度あった。

 その日は私の戸を靴の先で蹴っていく。二つ蹴って、返事をした時にはもう階段の側にいる。


 紙を裏返す。裏は白い。何も刷っていない。


 白い面を膝の上で平らにする。表の字の影が薄く透けた。左右が反対だ。


 窓の外は暗い。

 灯りは廊下の側にだけ残っていて、戸の下から細い線になって入る。線の幅は指の半分ほどだ。夜の間、この幅は変わらない。

 線の上を、誰かの影が一度切った。


 指でなぞると、紙の目が縦に走っている。私は紙を四つに折った。

 折り目は指で二度押した。三本ある。


 三本の折り目は、胸のところの紙と数が揃っている。


 寝台の下へ手を入れる。袋の口の紐に指が当たった。縛ったままになっている。

 折った紙は、寝台の板と敷布の間へ入れた。入れると、板に角が当たる。

 角の当たるところで、敷布が細く盛り上がる。手では平らにならない。


 線は明日の朝には消えている。今までも消えていた。


 消灯の合図が鳴った。天井の灯りが一段落ちる。


 窓の外の高いところに、詰所の灯りが点いている。坂の下の細い道の方角だ。道は見えない。

 木に隠れている。


 灯りは窓の桟で分かれて届く。

 分かれたぶんが敷布の盛り上がりに掛かった。

 掛かった線は、目を閉じても瞼の裏に残る。


──────────────────


書面の交付の記録


交付の場 第一集会室

交付の別 個体あて 通告書

交付を受けた者 J-0037

交付の日 令和二百十三年十月十一日


一、交付の場


本件は第一集会室で行った。開始は十時である。同室の椅子は六列で、本日用いたのは前の二列とした。


同室では本日、他に二名へ書面を交付した。三名の番号は本記録に記さない。記さない扱いは当部の内規による。


二、交付の方法


書面は当係の者が読み上げ、そののち手渡した。回数は一回。順は前後しない定めとした。本様式は二つの欄に丸を付ける形であった。


当係の者は立ったままであった。その間、書面は受ける者の側へ向けていない。


二回目の読み上げは行っていない。


三、確認


受けた者が書面を読めることを確かめた。確かめた方法は口頭による。読めない場合の扱いは当部の内規に置いてある。本件では用いていない。


四、質問


この場で、受けた者から質問が四件あった。四件はいずれも読み上げの後、手渡しの前に出た。途中に出たものは無い。


処置の別、第一種との別、実施の時期、実施の場所である。四件とも当係の者が答えている。


答えに要した時間の欄は本様式に一つある。本件では空欄のまま綴じた。


五、了


その後、当係の者が了とした。了としない場合の扱いは当部の内規の第八によった。


了とした旨は本記録にのみ残す。


六、写し


書面の写しは作成していない。原本は当該の者が保持する。当係に残るのは本記録のみである。


本記録に書面の全文は転記しない。


七、退室


同人は後方の扉から退室した。退室の時刻は記していない。


八、読み上げた文


読み上げた文は次のとおりである。


「J-0037について、処置を行うこととした。実施の日は別に定める。当該の個体の同意を要する処置ではない」

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