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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

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第048話 成立

妊娠の確認に係る検査の依頼書


依頼の別 人工授精の後の確認

依頼の日 令和二百十三年六月二十三日

依頼先 機構 検査部門 第三検査室


一、依頼の趣旨


人工授精を実施した個体について、妊娠の成否の確認を依頼した。


確認は実施から二週間の経過をもって行うこととしている。


二、対象


対象は一名とし、番号をA-0114とした。


実施の日は令和二百十三年六月八日で、実施の別は当年度 第一回であった。


三、検体


検体は血液とした。採取の量は五ミリリットルである。分注は行っていない。


採取は当園の衛生係が行い、その日は本依頼書の日と同じであった。


採取の際の所要は四分であった。所要を記す欄は本依頼書に無い。本項は当園の内規による。


当該の個体からの申出は受けていない。求める定めも置いていなかった。


四、送付


検体は所定の容器により送付した。送付は当日の便による。


容器は機構の様式によるものを用いた。当園の在庫は本件の後で二個となった。補充の求めは本年度に一度行っていた。


便の到着の記録は当園に届かない。届く旨の定めが無かった。


五、検査の項目


項目は一つとした。項目の名は本依頼書に記さない。依頼書の様式は項目の数のみを求める。


項目の名を当該の個体へ示す定めも無い。示した記録は残っていない。


六、回答の期限


回答の期限は送付から十四日とした。期限を過ぎた例は本年度に無い。本年度の依頼は本件を含めて一件である。


前年度に一件、十五日を要した例があった。理由の記載は無かった。


当該の一件について、当園から照会には及んでいない。照会を行う旨の定めは置いていない。


照会を行わなかった旨を記す欄も、本依頼書には設けていなかった。


七、回答の様式


回答は機構の様式による。当園から様式を指定することはしない。


指定を求めることが出来る旨の定めも、当園には置いていなかった。


八、費用


費用は機構の負担とした。当園が負担した例は無い。前年度の三件も同じであった。


負担の別を記す欄は本依頼書に無かった。本項は当園の内規により記している。


九、備考


本依頼書の写しは当係が保管する。個体へは示さない。


示さないことを定めた項を、本依頼書の様式は持たない。本項は当園の内規による。


本年度の同種の依頼は本件を含めて一件である。前年度は三件であった。


(依頼 飼育部門 衛生係)


──────────────────


 目が開いた時には、もう戸の下に線が出ていた。七月は明るくなるのが早い。

 線の幅は指の一本ぶんだ。端は戸の枠で切れている。冬はこの時刻に何も出ない。


 早く開くのは夜が短いからではない。今朝は敷布が背中に張り付いていた。


 起きてしまった分は余る。余った分を座って過ごした。廊下の音が三度変わり、三度目で人が通る。


 二人ぶんのうち、片方の足が少し後ろへ落ちる。落ちる側は朝も左だった。

 夜と朝で揃うなら、それは同じ二人になる。揃っているかどうかは確かめられない。


 四三〇。朝の量は七月も動かない。実は柔らかい。柔らかいのは四月からずっと続いている。

 ここまで来ると、噛むところが無くなる。


 すずは食堂に来ていた。卓も向きも同じだ。器の位置も指二本のところにある。器の隣に、もう一つ小さいものが置いてあった。

 小さいものは紙の袋だ。袋の中に何か入っている。膨らみは掌の半分ほどだ。

 向かいの椅子へ座った。この人は袋を手前へ寄せる。


「今日は笹の日だ。あんたは知らない」

「笹の日ですか」


「そう。昔からそう言うことになってる」


 笹。私はその字を紙で見たことがなかった。


「笹は何処ですか」

「笹は無い。名前だけが残った」


「何をしますか」

「何もしない。ただ言うだけだ」


 言うだけだ。すずは袋を開けて、中から実を三つ出した。三つは夕方の分だと思う。取っておいたことになる。


 器は持ち出せないと紙にある。匙も同じ行に並ぶ。名が挙がっているのは器と匙の二つになる。


 書いていない一枚を、この人は袋へ入れた。


「昨日の分ですか」

「昨日の分だ。今日のと混ぜて食べる」


 混ぜる。それでも量は変わらない。昨日の分を今日へ動かす人を、私は他に知らない。

 この人の器の中で、実が三つ寄っている。


 すずは実を一つ私の皿へ移した。向きはこの人から私へになる。

 移してから、袋を畳んで作業着の内側へ入れた。


「いいんですか」

「今日は笹の日だ。だからいい」


 笹の日だからいい。すずは器の縁を親指で二度押した。


 私は実を一つ食べた。皮が奥歯で二度鳴る。昨日の実は今日のより硬い。

 硬い分、噛む回数は十一だった。二つ多い。皮のところだけ、歯が二度目で入る。


 乾く速さは置いた場所で変わると思う。皮の縁が指に少し引っかかる。

 この人は作業着の内側へ入れて持ち歩いた。袋の口は指で押さえてある。体の側は温かい。

 袋は紙で、湿りを持つ。


 九時に割当へ入る。入るのは七月なら水曜と木曜と土曜の三日だ。四月に木曜が入って、そのまま四か月目になる。


 変わる時は、前の月の終わりの掲示で分かる。出るのは前の日で、それより早くは貼らない。貼った紙の四隅の画鋲は今日も二つだ。

 どちらも上の側で、下の二隅は前へ反っている。反りは先月より深い。


 十時にふれあいが始まる。七月の光は高いところから来る。

 柵の影は短い。短いので手前で切れて、マットまで届かない。私は一番端に座る。そこは光の入る側だが、七月は端まで届かない。

 庇が前へ出ている。出ている先の影は、端の一枚を横に切る。切った線は毎年、七月の初めに端へ動く。


 庇は去年の五月に付いた。その前の写真を、私は見たことがない。前がどうだったかは知らない。


 来館者は六月より多い。多い分、柵の外の列が二つに割れている。夏は団体の便が増える。増えた日は柵の前が二列になる。

 後ろの人は肩越しに覗いた。

 二列の日は、後ろの列の靴の先が柵の下から見える。

 今日は誰も押さない。前の列は二時間で九回入れ替わる。五月は十四回だ。


 前の列の一番端に、私と同じくらいの背の子がいる。柵に触らないで、手を後ろで組んでいる。

 その手は動かない。指は組んでいない。二時間のうちに、左右が一度入れ替わる。


 私はその子を見ないでおく。目を合わせると、向こうも寄る。

 こちらへ向いている間は、膝の手を動かさないでおく。


 十一時が水の時間だ。紙のコップは縦に二度折って捨てる。箱の中に、横に一度折ったものが一つあった。すずのだ。


 十二時に終わる。係の人がマットを数えた。数えると今日も六枚だ。


 端の一枚の下から、紙が指の一本ぶん出ていた。誰も持ち上げていない。七月は下が乾く。

 出ているのは折り目の側だ。長さは指の二本ぶんある。折り目のところだけ色が濃い。


 係の人はそれを見て、指の腹で内側へ押し込んだ。手を戻してから、指を作業着で拭いた。


 拭いたのは埃だ。マットの下は掃かない。下の埃が出るのは、端の一枚を上げた時だけになる。


 私は坂の下まで歩く。上がる用は持っていない。

 用の無い時間は、月ごとに増えたり減ったりする。六月は二日で、七月はもう四日ある。七月はまだ伸びる。

 七月の午後、坂の上の芝を刈る音は聞こえない。午前のうちに終わっている。


 寄せた分の紙は出ている。掲示に一枚、小さいものが貼ってあった。縦が掌の半分で、四隅のうち二つだけに画鋲がある。


 坂の下から、資料館の屋根の端が見える。七月は木が茂って、端の八分の一ほどしか出ない。

 出ていたのは三月で、四分の一あった。三月の何日だったかは覚えていない。出ていた幅は覚えている。


 今日は坂の下の同じ場所で、腕を伸ばして指で測った。測ると指が一本しか入らない。

 三月は二本入る。指の幅は変えていない。それが一本になっている。


 私は坂を上がった。用が無くてそうするのは、今年で二度目になる。


 一度目は二月だった。清拭で上がる日は数に入れない。用のある日は数え方が違う。


 坂の継ぎ目のあたりで、横から風が入る。向きは冬から変わらない。七月の風は温い。それでも、汗のあるところだけ冷える。

 冷えるのは首の後ろだ。髪で隠れているところが特にそうなる。掌を当てると、髪の内側は汗で湿っていた。指を離すと、そこにも風が入る。

 入る風には草の匂いが乗っている。刈った後の匂いだ。五月より濃い。


 坂の下に、切った草の山が三つ並んでいる。一番手前のものだけ、内側が黒い。


 濃い匂いは坂の半ばまで来る。半ばから上は、樹脂と埃の匂いに替わった。境は毎回だいたい同じだ。継ぎ目より少し上になる。


 資料館の前庭に人が立っていた。入口の手前で、敷石の上に足がある。三人いる。

 どの顔も建物のほうを向いている。入口へは寄らない。私はその数を数えた。


 立っている場所は、入口から数えて四つ目の列だ。

 そこは幅が広い。敷石は入口へ向かって狭くなるので、まだ余裕がある。


 三人の服は揃っていない。二人が上着を着ていて、残る一人は肩に掛けている。

 三人は話をしていない。誰も口を開けていない。

 覚えているのは数と、向きだけだ。背の高さも残らなかった。顔は覚えていない。


 入口へは行かない。入るための券を、私は持っていなかった。

 二百枚で一枚だ。袋の中の札は昨夜も数えてある。数えた残高は二十七のままだ。


 扉のところに資料館の担当が立っている。第三室の清拭の時に扉を開ける人になる。こちらを見て、一度頷いた。首を戻して、また扉の内側へ入る。

 話しかけては来ない。割当の無い日に、この人が用を持ったことは一度もない。


 私は敷石を見た。四つ目の列の石は、他より目が粗い。石の種類が違う。雨の後は乾くのも遅い。指を当てると、粒の一つ一つが数えられる。

 粗いところに、白く擦れた場所が四つある。四つとも同じ大きさになる。

 三人が立っているのは、そのうちの三つだ。右の端の一つだけが空いている。


 擦れは一度立っただけでは出ない。何度も同じ石に立つと出る。

 出た四つは大きさが揃う。揃う間隔は敷石の一枚ぶんだ。深さも変わらない。


 空いている石の上に、草の切れ端が一つ落ちていた。誰も踏んでいない。


 私はその石の側へ回った。そこからも、四つ目の列より前へは出ない。


 私は前庭を出て、坂を下りる。帰りの歩数は千五百二十になる。今日は数えなかった。

 数えないでも、継ぎ目で上りと同じ三度の場所を踏んだ。その時に、膝の抜け方まで揃った。


 数えている日は、誰かとすれ違うところで足が止まる。今日は三人とすれ違って、一度も止まらなかった。


 坂の下の三分の一は、舗装の色が新しい。継ぎ目の砂利が、まだ角のまま残っている。


 すれ違うと、その分の歩数が抜ける。抜けた分を足すか、初めから数え直すかを、そこで決める。迷う間は足が止まった。止まった分を合計しただけ、着くのが遅い。


 坂の下で五郎に会った。この人は箒を提げている。今日は当番らしい。


「上がりましたか」

「上がったよ。ちょっと用があってね」


 この人は用があると言う。私は無いと答えた。

 箒の先は片側だけ短い。提げている手の下で擦れている。


「何の用ですか」

「落ち葉だよ。七月は落ちるんだ」


 七月に落ちる葉がある。私はその木を知らない。この人が集めた分の量を聞いた。


「どれくらいですか」

「四月の三倍で袋に半分ってところだね」


 四月の三倍。四月は袋に六分の一ということになる。それが三倍で半分になる。数は合う。


「数えてますか」

「量は数えないねえ。目盛りを見るだけだよ」


 袋に目盛りがある。私はそれを見たことがない。私の知らないものを、この人は毎日見ている。


「見られますか」

「いいよ。当番の日に来てくれるかい」


 私は頷いた。その時、箒の柄が土から抜けた。抜けた穴は、すぐに縁から崩れる。


「行きます」

「じゃあ袋を一つ空けて待っておくよ」


 この人は箒を提げ直して、坂のほうへ歩き出した。二歩めで、一度こちらを見る。

 目を戻して、また前を向いた。箒の先が一度地面を擦る。何も足さない。


 私にも数えるものがある。次の清拭は七月の第二日曜で、今日から三日ある。

 六月の清拭は行った。五月も出ている。四月は年度の初めで、割当が動いて飛んだ。

 布は毎回五枚と決まっている。飛んだ月の次は、その五枚を絞り直す回数が増える。


 五月は九回絞った。数は指で覚えている。六月は六回だ。

 絞った布は、絞る度に手より冷たくなる。九回目の温度を、私は五月から覚えている。

 七月の数は、拭いてみないと分からない。


 三日は短い。指の三本で足りる。数え直さなくても覚えていられる。


 夕方の分も四三〇だ。食堂の入口から見ると、すずの席が空いている。卓の上に器も無い。


 三つ目の卓に、H-0009が一人で座っていた。器は一つで、余分は無い。

 K-0330は列の三番目にいる。今日は遅れていない。私の数は六十九のままになる。

 三月の九日で四十一だった。今日の欄は六十九になっている。四か月に足りない間に二十八増えている。


 木曜は前から短い日だ。そこに半歩が出ないことは、数え始めた時から知っている。

 それなのに、今日は数えようとして立ち止まった。足を止めてから、やめた。

 空いている日は、今年に入って三度目だ。二月と、六月と、今日になる。


 三度とも理由は違う。二月は雨で、六月は割当だった。私は数だけを増やした。


 この人の椅子は今日も引いたままになっている。動かしたのは朝の本人になる。角度は朝と同じところにある。


 六月の時も引いたままだった。脚の跡が床の同じ二点に残っている。二月の時は、誰かが戻していた。


 戻した人が誰かを、私は知らない。それでも、二月は元へ来ている。三月から後は、どの月も引いたままだった。


 私は器を手に持って、卓の木の目を見る。

 汁の跡の位置は先月と変わらない。縁がまた少し広がっていた。


 広がる速さは月に一度測れる。測るのは私だけだと思う。


 跡の縁は指の腹で追える。なぞると、片側だけがざらつく。


 ざらつくのは片側だけだ。反対の側は、指の腹が滑って止まらない。


 H-0006が向かいの椅子を引いた。洗濯室で一番年上になる。この人は先に器を置く。


「あの子、今日も呼ばれてるのよ」

「知ってましたか」


「廊下ですれ違ったのよね」


 廊下ですれ違った。それだけで、この人は分かる。歩く向きが食堂ではなかった。


「何時からですか」

「四時だって言ってたわね」


 四時。私は壁の時計を見た。今は五時を少し過ぎている。

 それなのに、まだ来ていない。食堂の時計と、居室の前の時計は二分ずれている。どちらで数えるかで、答えが変わる。

 私は両方で数えておいた。二つの針は、今年に入ってから一度も揃っていない。


 六月の時は、五十分で出てきた。今日は一時間を過ぎている。


 すずが入ってきた。この人は列に並ばないで、まっすぐ卓へ来る。

 器を持っていない。列へも寄らない。手ぶらで座った。


 座る時に、卓へ手を着かなかった。いつもは右手を先に着く。

 支えが無いと、腰が最後まで止まらない。膝が卓の脚に当たって、そこで止まる。


 この人の袖は、両方とも折り返してある。朝は右だけだった。

 左を折ったのは今日になる。折り幅は右より一つぶん広い。何時かは分からない。


「食べないんですか」

「後で食べる。今は喉が渇いてる」


 喉が渇いている。この人は水を先に取りに行った。立って、戻ってきて、また座る。腰を下ろす音は、いつもより短い。


 水の器は縁が薄い。そこが口に当たると鳴る。この人の飲み方では鳴らなかった。

 器の腹は冷たい。指の触れたところで、水の粒が消えている。


 腰を下ろす速さは速い。それでも、動きは静かだ。

 椅子の背に、この人の手が掛かっていた。指は四本を回して、親指は外に出ている。


「何かありましたか」

「紙が来た。検査の結果だと書いてある」


 紙が来た。この人の手は膝の上にある。指は組んでいない。並べて置いてあるだけだ。


「見ましたか」

「見せてもらった。すぐ返した」


 この人は紙を持っていない。返す時に受領書が出たかどうかを、私は聞かなかった。


「何て書いてますか」

「一行だけだ。あとは全部、欄の名前」


 一行。私はその紙の形を思った。欄がたくさんあって、一つだけ埋まっている紙になる。


「何とですか」


 私はそう聞いた。すずは答えなかった。黙って、水を飲んだ。それから、器を卓へ置く。

 飲む間、この人の左手は膝の上にあった。袖の折り返しが膝の布に当たっている。


 置いた位置は、いつもの指二本のところではなかった。

 縁から指の四本ぶんのところにある。二本ぶん奥だ。私は自分の器を見た。私のは縁から指の三本ぶんになる。

 三本は前からで、この人の二本より一本多い。その一本が、卓の縁から一番遠くなる。


 そのまま三年変えていない。今日初めて、二本と三本の差を数えた。


 奥へ置くと、腕を伸ばす分が増える。増えるのに、この人は奥へ置いた。

 置き直さない。


 係の人が食堂へ入ってきた。この人は衛生の係だ。扉の開け方が処置室の前の人と同じになる。

 入ってきて、すずの卓へ来た。来てから、手元の紙を見る。


「確認だけさせてくださいね」

「A-0114です。合っています」


「結果はもう伺っていますね」

「聞きました。昨日の夕方に」


 この人は紙をめくった。めくった先を見て、それから顔を上げる。


「成立です」


 すずは頷いた。首の動きは一度きりだ。頷いただけで、何も言わない。


 頷いた時に、髪が肩の前へ落ちた。落ちた分を、この人は戻さない。

 朝からここまで、髪をそのままにしていたことは無い。


 膝の上の手は、指を組んでいなかった。組むのがいつもの形だ。

 今日は片方の手が、器の縁のあたりに置いてある。触ってはいない。指の先が縁より外へ出ている。


 成立。私の記録票の欄には無い字だ。私の欄は未判定で、去年からそのままになる。


 私は壁の時計を見た。四時から、一時間と十四分が過ぎている。

 係の人はそれを見て、紙を閉じた。閉じてから、二歩下がる。


「次の措置は通知でお知らせします」

「分かりました。通知を待ちます」


 係の人は食堂を出ていった。出る手前で一度止まって、振り返らないで行く。


 すずは水の器を両手で持った。両手で持つのは、この人は珍しい。器は片手で持てる大きさだ。

 H-0006なら、六月も両手だった。冬と同じ持ち方になる。すずにそういう決まりは無い。無いのに今日は両手だった。


 両手で持つのは今日が初めてになる。指は八本とも器に付いていた。

 置いた後の卓に、器の輪が残る。輪は右の側が切れている。輪の内側で、木が冷たい。


「重くないですか」

「重くない。私が持ちたいだけだ」


 持ちたいだけ。この人はそう言った。

 言ってから、少し笑った。この人は遅く始める。いつもと同じ間だった。


 同じであることを、私は数えた。今日で三つ目になる。数え終えた後で、器の位置を見た。


 三つ同じで一つ違う。

 卓の木目が、私の器の下で二本に割れている。その溝に汁が一滴入って、動かない。

 H-0006も続いた。この人は先に始めて、先にやめる。


 やめてから、こちらを見た。それから、すずへ目を移す。速さは速い。途中で一度止まった。


 止まったのは、すずの器のあたりだと思う。器は指四本ぶん奥にある。この人もそれを見た。何も言わなかった。


「今日は笹の日なのよねえ」

「そうだ。笹は一本も出てこない」

「無くても名前は残るのよねえ」


「来年は誰かが持ってくればいい」

「何処から持ってくるのよ」

「五郎が知ってる。あの人は何でも」


 すずが笑って、H-0006が遅れて笑った。今日は順が元へ戻っている。

 私は笑わなかった。二人の声が重なったのを、そのまま聞いていた。


 三つ続けて声が並んだ。終わってから、誰も次を始めなかった。


 終わった後の卓で、すずが実を一つ袋から出した。朝に三つ取ったうちの残りになる。

 出した実を、すずは掌に載せたままH-0006へ差し出した。腕は伸ばしきらない。

 実は掌の窪みで一度転がって、そこで止まる。窪みの位置は、私の手より少し内側にある。


 H-0006はそれを見て、しばらく取らなかった。手が出たのは、私が二十を数えた後になる。

 その間、すずは腕を下ろさない。肘の裏が卓の縁に当たっている。


 取る時に、この人は実を見ないで、すずの手を見る。目を戻してから口へ入れる。噛む音はしなかった。

 実は二十を数える間そこにあった。掌に当たっていた側で、色が濃くなっている。


 すずは空いた掌を作業着で拭かなかった。膝の上へ置いて、そのままにする。


 居室へ帰る道で、掲示板の前を通る。今日は立ち止まらなかった。

 足を止めないと、表の字は横へ流れる。動いた字の中で、行の位置だけが目に残った。


 すずの行は上から六番目にある。今日の欄は白い。


 枕の下から袋を出した。七月の札は、握る前から温い。

 そのぶん、上がりきるまでが短い。十一で終わった。


 六月は十九だった。五月は十七で、四月は十六だ。差は八になる。


 袋の内側は布で、縫い代が片側だけ外へ出ている。そちらを上にして枕の下へ入れる。向きは去年から変えていない。


 私は八を、何処かへ書いておこうとした。袋の紙は二枚とも折ってある。

 開くと、山のところが白くなる。その筋は元へ戻らない。私は袋を閉じた。


 作業着の内側にも一枚ある。五月にもらった様式で、折り目は三本のままだ。

 こちらは開けば書ける。欄も刷ってある。名は請求の理由だ。

 私は指で折り目をなぞって、そのままにした。


 去年の夏は二十一だった。五月に、今年も二十一なら坂は同じ形になると思った。

 十一は二十一の半分を、わずかに超えている。数え方は去年と同じにしてある。

 揃えたうえで、半分のあたりまで落ちた。その理由を、私は持っていない。


 袋の中では、札の上に紙が二枚重なっている。枚数は動いていない。上の一枚の折り目で、山の側が黒くなっている。

 二枚のままでいる期間が、今年で一番長くなった。

 袋は枕の下にある。枕の右の端だけ、綿が薄い。


 今朝は首が痛くなかった。起きた時、右の耳のところに袋の角の跡が付いていた。


 消灯の前に、また二人ぶんの足音が来た。片方の遅れ方は朝と変わらない。

 遅れているのは今夜も右の側だ。右であることを、今日は数えないでおく。


 足音の片方が、私の戸の前で止まった。

 戸は開かない。閉じたままで、外から二度叩く音がした。二度目が弱い。


「灯り、消えてない」


 私は戸を開けた。立っていたのはK-0212だった。私より二つ年上で、髪はいまも長い。

 片方の袖だけ濡れている。そちらの手に、畳んだ布を持っていた。


「日曜の清拭、あんたよね」

「私になります」


「絞る回数、教えて」


 私は五月と六月の数を言った。すると、この人は口の中で二度繰り返した。

 二度目のほうが速い。


「そっちは何回ですか」

「数えたことない」


 この人はそう言って、髪を片側へ寄せた。そちらの肩が下がる。

 それから行った。廊下の角のところで足音が変わる。布は持ったままだ。


 朝にも同じ二人が通った。両方で通る日は、月に幾日かある。その数を、私は数えていない。


 数えていないものが、今年で三つになった。足音と、笑い方の遅さと、器の位置だ。

 三つのどれも握って数える形をしていない。


 横になると、天井の六枚目が目に入る。七月の継ぎ目は広い。六月より開いている。

 天井まで手が届かないので、広さは目でしか測れない。その見当は、日によって違う。


 夜の継ぎ目は、六枚目で一度太くなる。


 枕の下の袋は、そのままにした。今夜は形を確かめない。


 目を閉じると、昼の音が順に戻ってくる。柵の前の声、扉の返り、坂の風。

 戻る順は昼と同じではない。今夜は坂の風が先に来る。毎晩違う順で来る。


 今夜の一番あとに来たのは、器が卓に触れる音だった。

 いつもの縁から指二本ではなく、四本ぶん奥で鳴る。


──────────────────


妊娠成立通知


通知の番号 飼育衛生第二百八号

通知の日 令和二百十三年七月七日

宛先 飼育部門 繁殖係


一、通知の趣旨


人工授精を実施した個体について、妊娠の成立を通知する。


二、対象


対象は一名である。番号はA-0114とした。


実施の日は令和二百十三年六月八日、実施の別は当年度 第一回であった。


当該の個体の年齢は十八である。生年からの年数による。


三、確認


検査の回答は本日到達した。回答の日は令和二百十三年七月五日であった。


到達までに二日を要している。


要した二日を記す欄は本通知に無い。内訳を当係は把握していない。把握を求める定めも置いていなかった。


四、結果


結果は成立である。


結果の欄に記すことが出来る語は二つとした。成立および不成立である。


二つのほかの語を記した例は、当係の記録に無かった。


五、当該の個体への通知


当該の個体へは口頭により伝えた。時刻は十七時十四分である。


場所は第二食堂であった。


場所を定めた書面は当係に無い。口頭による旨を記す欄も本通知に無い。本項は当係の内規により記した。


内容は結果の語のみとした。


六、記録の保存


本通知の写しは当係に一部を残す。保存の期間は五年とした。


当該の個体へ写しを交付する定めは無い。交付を求められた例も無かった。求めることが出来る旨を個体へ示す定めも無かった。


本通知は繁殖係へ回付し、その記録は当係の日誌による。


回付を受けた旨の返しは求めていない。求めた例も残っていなかった。


七、備考


本年度の成立は本件を含めて一件である。前年度の成立は二件であった。


本年度の実施の予定は八件で、成立の予定の件数は定めていない。


予定の八件のうち、本日までに実施を了したものは一であった。残る七件の実施の日は、本通知の作成の時点で定まっていなかった。


前年度の二件について、その後の記録は本通知の範囲に無い。


八、次の措置


次の措置は栄養の管理とする。開始は令和二百十三年九月一日とした。


開始の日は本通知の作成の時点ですでに定まっている。個体への通知は別に行う。


(通知 飼育部門 衛生係)

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