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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

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47/106

第047話 処置室

人工授精の実施に係る手順書


手順の名 人工授精実施手順

所管する係 第七園 飼育部門 衛生係

改正の回数 制定以来 四回


一、適用


本手順は当園における人工授精の実施に適用する。適用の範囲を他へ広げた例は無かった。


制定は令和百七十二年である。直近の改正は令和二百七年であった。


二、実施の場所


実施の場所は衛生係の処置室とした。処置室は本館一階の西の端にある。


室の面積は二十四平方メートルであった。窓は設けていなかった。換気は機械による。


三、実施の日時


実施の日は排卵の予測日により定める。当該の予測は、尿中の代謝物の測定によった。採尿は朝の一回とし、測定は衛生係が行う。


当該の個体が毎朝計測する基礎体温は、予測に用いない。


用いない旨を当該の個体へ示す定めは無かった。示した例も残っていない。


基礎体温の回収は当係が週に一度行う旨を定めた。回収の日を欠いた例は、本年度に二度あった。欠いた週の分は翌週にまとめている。まとめた旨を記す欄は本手順に無い。


計測の方法を当該の個体へ示す書面は、当係に置いていなかった。口頭により伝えている。


四、実施の前


実施の前の十二時間について、給餌の内容を変えることはしなかった。


変える旨の定めを置いていない。量についても同じであり、本手順の制定以来、変えた例は無い。


当該の個体へ実施の内容を説明する定めは無かった。説明を行った記録も残っていない。


五、精液


精液は前日に採取した。採取から注入までの時間は十九時間である。保存の温度は五度とした。


液化の後に測った濃度は一ミリリットルあたり四千二百万、運動率は五十二パーセントであった。当係の定める下限は、それぞれ千五百万と四十パーセントである。


供する個体の番号は本手順に記さない。記す欄を設けていなかった。当該の番号は精液の票にのみ残る。


六、器具


用いる器具は、カテーテル、鑷子、腟鏡、注入器および受け皿の五点とした。


使用の都度、洗浄および滅菌を行う旨を定めていた。当該の記録は当係の日誌による。


カテーテルは一回の使用ごとに交換する。交換した数を日誌には記していない。


七、手順


対象の個体を処置台に載せる。処置台の高さは七十五センチであった。


腟鏡を挿入する。頸管の位置を見る。所要は二分を目安と定めた。


カテーテルを頸管へ通し、注入器により精液を注入する。注入は一回と定めた。


注入の量は〇・五ミリリットルを標準とした。前回の実施も同量であった。増減した例は本年度に無い。


八、実施の後


実施の後、当該の個体を十五分間、処置台の上に留めることとした。


留める理由を本手順は記していない。経過をもって退室とし、その時刻は実施記録による。


九、立会い


立会いは獣医師一名とした。立会いを他へ求めることはしない。


当該の個体からの立会いの申出について、定めは置いていなかった。


十、清拭


実施の後、室の清拭を行う。清拭は個体の就業の割当により行わせることとした。


清拭を行う個体の選定について、本手順に定めは無い。当日の割当表による。割当表を作るのは当係ではない。


十一、備考


本手順の写しは当係に一部を残す。個体へは示さない。


示さない旨を記した項は本手順に無く、本項が唯一の記載になる。


他の園の手順との異同は確かめていない。確かめる旨の定めも置いていなかった。


本手順の見直しは五年を置く。直近は令和二百十二年であった。改正には至っていない。


(所管 飼育部門 衛生係)


──────────────────


 すずは食堂に来ていた。いつもの卓に、いつもの向きで座っている。背は少し丸い。

 器の位置も同じだ。卓の縁から指二本のところに置いてある。縁の欠けは向こうを向く。


 私は向かいに座る。この人は汁を三口で飲んだ。今日も三口になる。

 朝の給餌は四三〇だ。六月の実は柔らかい。柔らかいので、匙の腹で押すと縁から崩れる。

 飲んでから、実を一つ口へ入れる。順も先週から動いていない。


 この人の器の向こうに、細い棒が一本置いてある。白くて、先のところで色が違う。

 朝の卓に置いてあるのを、私は前にも見ている。誰の物かは知らない。訊いたこともなかった。


 すずはそれに触らない。器を動かす時も、棒へは手を出さなかった。

 棒は最初から同じところにある。動いたのは器になる。器の動いた距離は指の三本ぶんだ。


「今日は私が呼ばれてる。あんたじゃない」

「何時からですか」


「十時に処置室。そう書いてあった」


 処置室。私はその名を紙で見たことがある。割当の表に出る。今日の私の欄にも、その字が入っていた。

「私も入ります」

「そう。あんたも入るなら後で会える」


 後。この人はそう言って、器を持ち上げた。上げたままで少し置く。

 それから飲む。今朝は順が一つ増えている。


「朝は同じですか」

「同じだ。減らされたりしない」


 同じだ。私の器は四三〇で、この人の器は四〇〇になる。どちらも先月と同じ数だ。

 掲示の欄は、先週から一字も替わっていない。今日呼ばれている人の欄も、四〇〇のままだ。


 私は二つの縁を見比べた。四三〇の縁は四〇〇より高い。高さの差は一段で、爪の半分ほどだ。


 食堂を出る時に、この人は一度立ち止まった。止まった場所は扉のところで、そこには何も無い。


「あんたは廊下にいなさい。中は駄目」

「はい」


 この人はそれだけ言って、先に出ていった。言われたのは廊下にいることになる。何時までいるかは言われていない。


 出る前に、袋を一度出した。六月の札は冷たくない。温くなるまでに十九を数えた。数えた五月は二十六だ。

 七つ違う。違いは今までで一番大きい。六月は急に温くなった。急なほうが、差は大きく出る。


 数え終えてから、私は袋を枕の下へ戻した。その時に、指の先が札の温さを持っている。


 床が鳴らない。六月は湿って木が膨らみ、板と板の間が詰まる。詰まった分は乾く月に戻る。

 廊下の材の変わるところでも、音の高さが落ちるだけだ。そうなるのは湿った日で、今日がそれにあたる。

 鳴らない日は、誰が通ったかが分かりにくい。私は靴の速さで補う。補えるのは四人までになる。

 五人目からは、どれかに入ってしまう。


 九時に私は本館へ行った。処置室は一階の西の端だ。廊下を二つ曲がる。


 入口で係の人が割当の紙を見る。見る目は番号の欄のところで止まる。名の欄までは下りない。

 紙に刷ってあるのは、番号と時刻と、室の名の三つだ。三つを見てから、この人はこちらの顔を一度見る。名札は見ない。


 この見方をする人を、私はもう一度受けている。受けた時の立ち位置も、今日と同じところだ。


 三つが合っていれば通る。通らないのは合っていない時になる。合わなかった日を、私はまだ知らなかった。食堂で出た話の中にも無い。

 廊下は狭い。片側に扉が四つ並んでいて、反対側は壁になる。壁は下の三十センチほどで、色が濃い。

 掛かっているものは何も無い。掛けた跡も見当たらない。釘の穴が一つだけある。


 処置室の扉は三つ目だ。横に紙が貼ってある。貼ってある高さは目より少し上になる。

 紙には室の名と、番号が刷ってある。どちらも施設のもので、個体のものではない。

 紙の角が一つだけ折れている。折れているのは廊下を向いた側で、そこだけ紙が薄い。

 廊下に椅子が二脚ある。どちらも扉の側を向いていない。座面は壁へ回してある。

 脚の下の床に、動かした跡は付いていない。私は片方へ座った。腰を下ろすと壁を見る形になる。

 壁を見ていると、目の高さのところに小さい穴が二つある。間は指の三本ぶんだ。中心は横に揃う。

 穴の中に埃は入っていない。縁のところで、塗りが指の腹の形に薄い。薄いところは、誰かが何度も触っている。


 穴の縁は丸い。上の穴は下の穴より少し大きかった。

 二つの間に、線を引いた跡は無い。それでも、二つは同じ高さに並んでいる。


 九時四十分に、すずが来た。呼ばれた時刻より二十分早い。歩幅はいつもと変わらない。

 連れてきたのは、入口で紙を見た人だった。前を歩いて、すずが後ろだ。二人の間は三歩ぶんあいた。

 この幅は決まりではないと思う。決まりなら、確かめに振り返る。振り返らなかった。

 今日の幅は三歩だった。前の人の踵は、私の爪先から板二枚ぶん先にある。板の目は縦に走る。


 すずは私の前を通る時に、こちらを見なかった。目を向けないで扉の前で止まる。椅子は二脚とも空いている。この人は座らない。


 止まってから、二度直したのは袖の折り返しだ。折り返しは両方の袖にある。この人はいつも右を直す。

 今日は両方に手をやった。順は右が先だった。


 二十分の間、この人は立ったままでいた。係の人も腰を下ろさない。

 二人の間は三歩のままだった。幅は座らない間も変わらない。


 立っている間に、この人は一度足を組み替えた。左が前に来る。重心もそちらへ移った。

 組み替えた後、袖の折り返しをまた触る。触っただけで、直さなかった。

 そのまま置いたのは今日が初めてになる。


 十時に扉が開く。中から出てきたのは香月獣医師だった。白衣の袖は肘まで上げてある。


 この人には去年の採血の時に会っている。診察の時にも一度会った。数えると二度になる。


 出てくる時の歩幅は、二度とも同じだった。今日も揃う。

 違うのは手に持っている紙の枚数になる。去年は一枚で、今日は二枚ある。


「A-0114さんですね。どうぞ」


 この人はそう言った。声はあまり大きくない。それでも、廊下の端まで届く。他に音は一つも無い。

 扉が開いた分だけ、中の空気が廊下へ出てきた。出た分は廊下より冷たい。その帯は膝の高さで止まる。


 すずは頷いた。首を戻して、中へ入っていく。

 その間、こちらを一度も見なかった。


 扉が閉まる。閉まる音が消えてから、廊下は元の静かさに戻った。扉の音は壁で二度返る。

 私は座ったままでいる。その間、することがない。

 私は廊下の扉の数を数えた。数えると四つある。どれも同じ色をしている。


 扉の幅も揃っていた。それなのに、開く向きが二つと二つで分かれる。

 処置室のは押して開く。三つ目が引いて開く。蝶番の側も逆になる。

 今日は右の扉が開いた。左は閉まったままでいる。取っ手の色だけが揃っている。


 四つのうち、三つ目の取っ手の高さが少し低い。他の三つは目の高さで揃っている。

 前の穴が二つ、少し上に残っている。


 十時二十分に扉が開いた。中から係の人が出てきて、また入る。出る時に、手元の紙へ何か書き足した。その前に、紙の上を一度見る。


 順が同じでも、書いている中身は私には見えない。分かるのは、紙の上を目が動く幅になる。


 出入りの間に、中の音が少し漏れた。金属を金属へ置く音だ。

 置く音は二度した。二度目が短い。


 二度目は卓の面に近いところで鳴った。


 十時三十五分に、香月が出てきた。

 この人は扉を閉めないで、そのまま廊下の壁へ寄った。背をつけて、こちらを見る。


「J-0037さんは清拭の割当ですね」

「はい」


「十五分ほど待ってもらえますでしょうか」


 十五分。私は数えなかった。指を折る代わりに、扉の隙間を見た。

 幅は指の二本ぶんある。中は見えない。分かるのは光の色になる。

 色は中が廊下より白い。そのせいで、隙間のところに線が立つ。

 立った線の幅は変わらない。


 線の中に、時々何かが横切る。通るのは影で、上から下へ動く。

 動く速さは人の歩く速さではない。横切った回数を数えている。

 数える間隔は揃っていない。三つ目と四つ目の間が一番長い。


 香月は壁に寄ったままでいる。手元の紙を見ていた。紙は二枚ある。どちらも同じ大きさで、下に罫が細かく入っている。


「聞いていいですか」

「私に答えられることでしたら、どうぞ」


「何をしますか」


 紙から、この人は目を上げた。そのままで少し置く。

 間の取り方は、答えを探している人のものではなかった。


「決まった手順があります。二十分ほどですね」


「二十分ですか」

「実際はもう少し短いことが多いですね」


 この人は紙を返した。返すと罫のある側が内へ入る。外へ出た面は白くて、何も透けない。


「痛くないですか」

「痛みを訴える方は、あまりいらっしゃいません」

「あまり、ですか」

「ええ。まったくいないとは言えませんので」


 この人の間は一定でない。伸びた間の分、紙を持つ手が下へ落ちる。


「その後は」


 私はそう聞いた。この人は紙を脇へ挟んだ。手を下ろして、廊下の先を見る。そこには何も無い。


「二週間ほどで、確かめる検査があります」

「検査ですか」


「それで分かることと、分からないことがあって」


 そこで、この人は止まった。息を置いて、口を閉じる。

 閉じてから少しして、また開けた。出てきたのは別の言葉だった。


「今のところは、そこまでにしておきます」


 この人は壁から背中を離した。立ち直して、扉へ二歩寄る。紙の端が指から少しずれた。直さないで持ち替えた。

 持ち替えた側の親指が、罫の細かいほうを隠している。見えないのは下の三行ぶんになる。


「十一時半までに終えてください。次が入ります」


 十一時半。私はその数を覚えた。

 そのぶん、扉の隙間の影は数えないでおく。七つで止めた。


 次が入る。次が誰かは、この人は言わなかった。私も聞かなかった。


 扉の脇に板が掛かっている。掛かった板に紙が二枚挟んであった。上の一枚には十時とある。

 下の一枚は角が出ていて、時刻のところは上の紙に隠れている。


 十時五十分に扉が開いた。すずが出てきた。自分で歩いている。


 歩き方は来た時と同じだ。落ちたのは速さになる。速さは一歩あたり指の二本ぶん落ちた。

 積むと、廊下の端まででおよそ一歩の差になった。


 袖の折り返しは右が戻っていた。左はそのままだ。

 入る時は両方とも折ってある。私はそれを扉の手前で見ている。

 戻ったほうの袖口には、折り目の線が二本残っている。上の一本が濃い。


 左の袖が手首のところで一度たわんでいる。手首のたわみの下から手が出ている。

 指は四本が伸びて、親指だけが内へ入る。


 私は立った。こちらは見ない。廊下の先へ歩いていく。

 角で一度、壁へ手を着いた。腰の高さ。右の壁だ。

 着いた跡は残らない。壁は塗ってある。


 塗ってあるのは膝から上だけだ。下は塗っていない。境目のところに細い段が一本ある。

 段の上に埃が乗っている。空いたところが、掌の幅ほどあった。


 この人は右利きではない。跡は段の左の側にある。

 着いた時間は、私が一つ数える手前で終わった。

 手が離れた後の壁に、跡は無い。掌の温さも残らない。


 この人が触ったところを、私も触ってみた。塗りは冷たい。

 冷たいままでいる。十を数えても温くならない。


 香月が処置室から出てきた。扉を閉めてから、私へ紙を一枚渡す。清拭の要領が刷ってある。私はこれを前にも見ている。


「二十分もあれば終わるかと思いますよ」

「はい」


 私は処置室へ入った。中は廊下より白い。壁と天井の両方が白い。床だけが灰色に見える。

 匂いは廊下と違う。次亜塩素酸の匂いが、上着の袖の匂いと混ざらないで層になる。下が袖で、上が室になる。


 次亜塩素酸の下に、もう一つ薄い匂いがある。金属の匂いがした。

 そちらは洗い場から来る。受け皿の側へ寄ると濃くなる。


 室の広さは二十四平方メートルだと聞いたことがある。窓は無い。換気の口が天井の隅に二つある。

 処置台が真ん中に据えてあった。高さは私の腰の少し下になる。

 台の上には布が敷いてある。布は白くて、真ん中のあたりが少し窪んでいた。


 私は窪みの真ん中へ掌を置いた。まだ温い。布の他のところより温かい。

 残っているのは中のあたりになる。縁はもう冷えている。温いところの広さは掌一つぶんだ。


 私が入った時には、窪みはまだ戻りきっていなかった。


 私は布を外した。持ち上げると、窪みは布の側へ付いてくる。台の面には何も残らない。

 畳んで、籠へ入れた。三つに折ると、温かった側が中へ入る。

 籠の布は私の一枚で四枚になった。そのうち一枚だけ、端の縫い目が解けている。


 洗い場の受け皿の上に、器具が四つ並んでいた。長いものが二つ、短いものが二つになる。

 触るなと紙に書いてある。紙が名を挙げているのも四つで、受け皿はその下にある。


 台を留めてある金具は四つだ。四つのうち一つだけ、頭に溝が一本入っている。


 扉が半分開いた。開けたのは私ではない。


 立っていたのは私の知らない人だった。作業着の襟のところが、私のより濃い。他の区画の色になる。

 この人は入ってこない。敷居の手前で止まって、室の中を一度見た。


「そこ、あとどれくらい」

「あと十分ほどです」


 この人は頷かなかった。頷かないで、もう一度中を見る。見ているのは台の側だ。


「あれ、痛いの」


 私は答えられない。私は台の上に乗ったことがない。

 黙っていると、この人は自分で扉を閉めた。閉める時に、指を四本とも縁へ掛けている。


 閉まった後で、廊下の側から音が二度した。二度とも同じ場所から来る。


 台の脚を拭く。桶の水は昼に汲んだ分で、手を入れると指の先から順に冷える。冷えきるまでに十を数えた。


 床を拭く。台の下のあたりで、床が少し温い。

 拭くと、その分も他と同じ温さになる。

 この人がここに何分いたかを、私は聞いていない。

 いた分が床の温さで残っていた。いま拭いたところになる。


 台の下の床に、丸い跡が一つある。直径は掌の半分ほどだ。

 乾いているのに、拭いても薄くならない。それでも二度拭く。三度目はやめておく。


 扉の手前の溝に、水と一緒に細いものが二本寄っていた。


 二本とも髪だ。色は私のより明るい。すずの髪はもっと明るい。長さは片方が指二本ぶんで、もう片方はその倍ある。

 どちらのものかは分からない。私は要領のとおりに拾って捨てた。


 捨てる先は洗い場の下の箱だ。箱の縁に、前の分の埃が薄く輪になって残っている。

 今日二本だったことは、私が覚えている間しか残らない。


 二十分で終わった。出る時に扉の取っ手を握る。外側の取っ手が付け直してあって、握るところの塗りが無い。


 昼の給餌は四三〇だ。食堂に入ると、すずは来ていなかった。来ていない日は、今年に入って二度目だ。一度目は二月だ。

 三つ目の卓に、H-0009とK-0330がいた。列で半歩を分け合う二人だ。器は二つで、余分は無い。

 今日は二つだった。


 この人の卓は空いている。空いているのに、誰も座らない。


 二月は定期の健康診断の日だった。今日は処置室の日になる。二つが同じ種類の日かどうかを、私は決められない。


 洗濯当番のH-0006が向かいへ来た。この人は器を先に置く。


「あの子、今日は来ないわねえ」

「処置室でした」


「夕方までは来ないでしょうね」


 夕方まで。この人は理由を言わない。

 紙の端を親指で一度折り返してから、手を下ろす。


「決まりですか」

「決まりじゃないと思うのよね」


 この人は汁を一口飲んだ。飲んでから、器を両手で持ち直す。六月でも両手だ。冬と同じになる。


「私も昔、あったことがあるのよ」

「長いんですか」


「痛くはないの。長い日なのよね」


 この人は言ってから、器の底を匙で二度こすった。二度目で音が高くなる。

 そうなると、この人は自分で少し笑う。可笑しいのは音のほうで、話のほうではない。


「いい音がしましたね」

「そうでしょう。私は底が上手なのよ」


 長い日。この人はそう言って、器の縁を親指でなぞった。

 なぞる向きは向こうから手前へになる。すずとは逆の向きだ。


 私は居室へ戻った。清拭の日は、ここから消灯まで誰にも会わない。


 寝台の縁に座って、掌を見た。割れは三本のままだ。六月は湿るので、割れの縁が起きない。立たなければ引っかからない。


 今日は一度も引っかからなかった。

 私は指で三本の上をなぞった。根元から先へ動かす。逆へやると縁が起きて、戻るまでに二日かかる。

 それは割当の二回ぶんになる。二度引っかかると、布の糸が二本浮く。

 浮いた糸を、洗濯の当番だった頃は数えていた。今は浮いた分をそのままにしておく。


 夕方も四三〇だ。食堂の入口から見ると、すずが先に座っている。卓も向きも替わっていない。器の位置も指二本のところにある。

 朝の細い棒は、もう卓に無い。置いてあった場所で、木の目が少し明るい。


 替わっていないことを、私は入口のところで数えた。三つとも動いていない。


 数えたのは今日が初めてになる。昨日までは数えなかった。


 私はその向かいへ座った。この人は汁を三口で飲んだ。三口は同じだ。飲む速さも変わらない。

 器の腹に手を当てると、朝の分より温い。夕方の汁は運ぶ道が短い。


「終わりましたか」

「終わった。何ともない。ほんとうだ」


「痛かったですか」

「痛くない。あんたも聞いてた」


 聞いた。私は香月から聞いている。それなのに、この人にもう一度訊いた。


「何をしましたか」


 私はそう聞いた。すずは実を一つ口へ入れる。噛んでから、器の縁を指でなぞった。


「何をしたのかも知らないまま台の上で待っていた」


 言ってから、この人は息を一つ吸った。入る音は出る音より長い。

 朝の食堂では、吸う音は聞こえなかった。


 台の上で待った。私はその台を拭いている。その時、布の真ん中が少し窪んでいた。まだ戻る途中になる。


 この人の袖は、いま両方とも下りている。折り返しの線は左にも二本ある。

 朝は右だけだった。上げたのも下ろしたのも、室の中になる。


 私はそれを言わなかった。見たのは布のことだ。


「十五分待ちますか」

「待つ。決まりだって言われた」


 決まりだ。手順の側にそう書いてある。十五という数の前後に、字は一つも無い。


 すずは卓の下で足を組み替えた。動かす時に、膝が卓の裏へ一度当たる。朝は当たらなかった。


「聞きましたか」

「聞かない。そういうものだからね」


 そういうもの。すずはこの言い方をよく使う。言い終えてから、この人は器を卓へ置いた。

 手は右になる。甲に、丸い跡が二つ並んで残っている。並びの幅は指の一本ぶんある。


 置いた時に、汁が縁の内側で一度揺れた。揺れは三度で止まる。いつもは二度だ。

 置き方の速さが少し違った。私はそれを数に入れた。

 足した分は、卓の下で親指の付け根へ一度当てておく。


 この人は指を組んだ。その時に左の親指が上へ来る。いつもと同じだ。

 違ったところは一つで、残りは全部揃っていた。今日は揺れの数だった。


「明日は当番ですか」

「当番だ。休んだりしない。あんたもだよ」


 休まない。明日の当番の欄にも、この人の番号が入っている。


 立つ時に、この人は卓へ手を着いた。朝はそうしないで立つ。

 着いた掌は、木の目の走る向きと同じ向きに置かれていた。離す時に、そこに跡が残る。

 跡は三つ数える間に消えた。


 居室へ戻る途中で、掲示板の前を通る。今日の清拭が表に出ているかどうかを見たかった。

 出ていた。私の欄に清拭と入っている。字は他の欄より小さい。清拭という字が三つ入って、最後の一字が罫に触れている。


 欄の幅はどの行も同じだ。字が縮む。私の行の上と下は、どちらも二字で埋まっている。縮んだ字の高さは、隣の欄の字の三分の二ほどになる。

 すずの行の今日の欄は空いていた。そこには斜めの線が入る。私はその線を探した。

 無い。


 線の代わりに、罫のところが少し毛羽立っている。爪で二度ほど掻いた形だ。

 書こうとして、やめた人がいることになる。


 同じ列の空きを上から数えた。線のあるものが九つ、無いものが一つだった。無いほうがすずの欄にあたる。

 九つの線は、始まりも終わりも同じところで止まっている。すずの欄の罫に、爪で二度掻いた跡がある。


 居室へ戻っても、昼にもらった清拭の要領の紙を私はまだ持っていた。紙の下の欄は、刷ったまま白い。

 紙の下に、折った跡が一本ある。私が折ったのではない。前に持っていた人の折り方だ。


 折り目の位置は、三つに折る時の位置と少しずれている。ずれた分、角が合わない。

 私はそのまま畳んだ。合わせると、前の折り目が消えてしまう。


 畳んだ紙を、寝台の板と敷布の間へ挟んだ。一晩置くと、寝ている間に平らになる。

 伸びた紙は、次に開いた時に折り目が二本に見える。私の一本と、前の人の一本だ。


 二本の折り目は深さが同じくらいだ。私の一本が、縁のところで少し短い。


 作業着の内側に、先月もらった様式が一枚ある。折り目は三本のままだ。

 今日は一度も触らなかった。先月からこれまでで、触ったのは三日になる。


 消灯の後、廊下を人が一度通った。速さは知らない人の速さだった。

 私の戸の前で止まらない。そのまま四番の廊下へ行く。

 すずの当番は明日になる。当番の朝も、この人は同じ卓に同じ向きで座る。

 器は縁から指二本のところに置く。汁は三口で飲む。


 寝台の板と敷布の間で、紙は今夜も平らになっていく。折り目は二本のままだ。


──────────────────


人工授精 実施記録


実施日 令和二百十三年六月八日

実施の別 当年度 第一回

要した時間 十七分


一、対象


対象は一名であった。番号はA-0114とした。


当該の個体は本年度の交配計画の対象に含まれている。組の番号は第三組であった。


二、実施の時刻


入室は十時、退室は十時五十分であった。


処置に要した時間は十七分であった。手順の目安は二十分である。


三、器具


用いた器具は五点であった。手順書の五に定めるところによる。


カテーテルは一本を用い、実施の後に交換した。


四、注入


注入の量は〇・五ミリリットルであった。注入は一回であった。


供与の個体の番号は本記録に記さない。本記録は受ける側の個体について作成する。供与の側の記録は別に置く。


五、実施の後


実施の後、十五分間を処置台の上で経過させた。経過の間の記録は取っていない。


退室に際して、当該の個体からの申出は無く、申出を求める定めも置いていない。


六、立会い


獣医師一名が立ち会った。立会いの氏名は本記録に記す欄が無い。


七、清拭


実施の後の清拭は、当日の割当により個体一名が行った。所要は二十分であった。清拭の記録の様式は定めていない。


清拭の後の点検は行っていない。行う旨の定めが無い。


清拭を行った個体の番号は本記録に記さない。


八、備考


本記録の写しは当係に一部を残す。当該の個体へは示さない。


示さない旨を当該の個体へ伝える定めも無い。伝えた記録は残っていなかった。


次回の確認は二週間の後とし、確認の別は本記録に記さない。


本室は同日に他の用にも供する。用の別は本記録の範囲に無い。


当年度の実施の予定は八件であった。本件を含めて、了したものは一である。


(記録 飼育部門 衛生係)

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