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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第四章 繁殖

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第044話 推奨しない

交配計画 対象個体一覧(抄)


一覧の名 令和二百十三年度 交配計画 対象個体一覧

作成 第七園 飼育部門 繁殖係

欄の数 九


一、本一覧の趣旨


本年度の交配計画に用いる対象個体を、組ごとに一覧とした。


一覧は年度に先立ち、前年度の三月に作成する。作成した後は年度の途中で改めない。改めた例は当園に無かった。


一覧に載せる個体には、年度の初めに当園へ在籍しない者を含む。転入の予定が前年度のうちに定まっていた場合をいう。本年度は一名であった。


当該の一名へ予定を示す扱いは、本一覧の所管の外にあった。


二、欄


欄は九つとした。組の番号、雌の番号、雄の番号、雌の等級、雄の等級、実施の別、実施の予定月、判定、備考である。


判定の欄には「推奨」または「推奨しない」のいずれかを記す。


根拠となる数は本一覧に記さない。記す欄を設けていなかった。


三、判定


機構から返送された数による。数は組ごとに一つであった。


数のほかに、返送の紙は区分の記号を一つ持っていた。記号は英字と数字の組で、本一覧の備考へ書き写した。


記号の意味を記した表は当係に届かなかった。届く旨の定めも無い。照会した例は本年度に無かった。


数の名は本一覧に記さない。当係が数の名を用いた文書は本年度に無かった。


四、対象の組


本年度の対象は十一組である。前年度は九組であった。


うち「推奨」は八組、「推奨しない」は三組であった。


十一組のうち、前年度の一覧にも載っていた組は二組である。二組のうち一組については、前年度において実施を取り消していた。


取り消しの理由は本一覧に記さない。記す欄を設けていなかった。前年度の取消と本年度の判定との関係についても、記す欄は無い。


五、推奨しない組の扱い


「推奨しない」と判定した組についても、本一覧から除かない。


除かない理由の記載は無い。除く旨の定めは、制定の際に見送っている。


実施の別は「実施しない」とする。実施しない旨を当該の個体へ示す定めは無い。


六、個体への周知


本一覧は個体へ示さない。示す旨の定めは欠いている。


判定の別を口頭で伝えた例は、当係の記録の上では零である。


七、他の係との関係


本一覧の写しは衛生係へ回付した。回付の記録は当係の日誌による。


ふれあい部門へは回付しない。回付を求められた例は本年度に無かった。


八、就業との関係


対象個体の就業の割当は、本一覧により変更しない。


変更を求める場合は別に伺いを立てる。本年度に伺いを立てた例は一件であった。


当該の一件は「推奨」の組に係るものであった。「推奨しない」の組に係る伺いは無い。


伺いを要しない場合の取扱は定めていなかった。


九、備考


本一覧の作成に要した日数は四日であった。前年度は三日である。


本一覧の保存の期間は五年とした。五年を過ぎたものの扱いは定めていなかった。廃棄した記録も見当たらない。


前年度までの一覧は当係の書庫に置いてある。置いた場所を記した書面は無かった。


本一覧に個体の名は記さない。名の欄を設けていなかった。


(作成 飼育部門 繁殖係)


──────────────────


 三月の朝は、湯が早く上がる。二月より二十ほど早い。二十というのは、栓を捻ってから数える数だ。


 顔を洗う水は、まだ冷たい。管は北の壁を通っていると聞いた。北の壁は日が当たらない。栓の根元に白い粉が輪になって付いている。


 私はもう洗濯の当番ではない。外れると、朝の湯を先に使う理由が無い。私は後から使う。そが湯は熱い。


 熱いのに、私は早く出る。手が先に栓を閉める。


 廊下で洗濯の当番とすれ違った。近づくと洗剤が匂う。薄める前のものだ。この匂いは布ではなく人の袖から来る。


 自分の袖を鼻の高さまで持ち上げた。届くのは布の匂いになる。それには名が無い。他と比べる言い方も持っていない。

 匂いが抜けたのは一月の初めになる。抜けた日を私は数えていない。

 袖の内側は、縫い目のところで生地が厚くなる。そこへ鼻を当てても、匂いは変わらない。


 朝の給餌は四三〇だ。二月十五日から元の量に戻っている。水曜の食堂は人が少ない。

 洗濯の当番が先に出ると、その後がしばらく空く。間へ私が入る。


 卓の木の目を見た。汁の跡は先月と同じところにある。形も変わらず、縁のところが違う。跡の縁が少し広がった。縁の外側に、細い筋が三本出ている。


 H-0009が入ってきた。この人はいつも一番後ろに並ぶ。


 前の人の背中の高さを見て、少し下がる。


 列の後ろは、まだ扉の内側まで届いていない。K-0330はいつも遅い。それでも、必ず来る。そこでH-0009が半歩ずれる。

 ずれた分へ、K-0330が入った。二人は並んで受け取ることになる。

 列の順は変わらない。動くのはその中の二人の場所になる。


 K-0330の割当が長い日は週に二日だ。長い日に、この人は遅れてくる。

 私はそれを九月から数えている。九月十日から今日までに、長い日は五十二あった。うち九日は、私が食堂へ行っていない。残る四十三で、二回は間に別の人が入った。

 今日で四十一回目になる。数え始めた日は九月の第二週の金曜だ。その日に初めて半歩を見た。


 半歩の前は、二人は別々の場所で受け取っていた。別々でも同じ卓には座る。卓の順が先に決まって、列の順が後から動いた。


 どちらが先に動いたのかを、私は考えたことがある。

 答えは出ない。卓の木の目を追っているうちに、列が動いた。木の目は縁のところで一度折れる。


 入った人は何も言わなかった。H-0009も何も言わない。


 言わないで、そのまま受け取って、別の卓へ行った。


 その日の二人は同じ卓に座らない。理由を聞いたことはない。卓は三つ離れる。

 今日は入らなかった。二人は並んで受け取って、同じ卓へ行く。その時に、K-0330が先に歩く。H-0009は器を両手で持って、少し後ろを歩いた。


 二人の卓は入口から三つ目だ。その卓は脚が短い。床の側が沈んでいるのだと思う。

 だから楔が二枚入っている。他の卓は一枚か、入っていない。


 すずが向かいに座った。この人は器を置いてから、私の視線の先を見る。目はすぐ私へ戻る。目の動きが速い。


「あなた、さっきから見てるでしょう」

「数えてます」


「何を数えてるのよ、あなたは」


「並んだ回数です」

「あなた、そういうことばっかりね」


 すずは笑った。息を入れ直して、汁を三口で飲む。前からそうで、口の大きさは変えていない。


「あの二人はね、去年からずっとよ」

「知ってましたか」

「知ってるわ。みんな知ってるのよ」


 みんな知っている。私は自分の指を卓の下で四本折った。


 数えられるのは、列の中の半歩と、笑いの二度目の長さだけだ。

 半歩は歩幅の半分で、私の歩幅なら三十センチと少しだ。

 私は卓の下で掌を広げた。指の先から手首までを二つ並べると、半歩より少し長い。

 差は指の一本ぶんほどになる。


「係の人もですか」

「知ってても書けないでしょうね」


 すずは実を一つ食べた。今日の実は柔らかい。皮のところで歯が止まらない。汁が指の付け根まで来て、この人はそこを袖で受けた。

 袖の内側は、しばらく冷たいままでいる。この人は直さない。


「書けないんですか」

「欄が無いのよ。あなたも知ってるわ」


 私は頷いた。首を戻す途中で、二人をもう一度見た。K-0330が何か言って、H-0009が笑っている。声は出ていない。


 短いのに、二度出る。一度目で切って、少し置いて、二度目が来る。後が小さい。弱いほうが長く続く。


 H-0009は器の縁を指でなぞる。なぞりながら聞いている。相手が喋る間、この人は器を持ち上げない。

 K-0330は話しながら実を食べる。そうすると、遠くからでも分かる。


 二人は同じ速さで食べ終えた。先に匙を置くのはH-0009のほうだ。

 入れ替わった日は、私が数えた四十三の中に一日も無い。


 待っている間、この人は器の縁を親指で押さえている。位置は毎回同じで、縁の右の下のあたりになる。

 そこで器の白い釉が薄く、下の土の色が透ける。縁が指の腹に少し引っかかった。他の器にも薄いところはある。


 同じ器が毎回この人に来るのかどうかを、私は確かめていない。洗い場で器を追う日は、私の当番と重ならない。

 二人が立って、器を下げ口へ運んだ。先はK-0330で、H-0009が後になる。歩く順とは逆だ。

 戻る順を揃えているのだと思う。


 九時にふれあいの当番へ入る。水曜と土曜の二日だ。二月の途中で金土から水土へ移った。

 替えた時に紙を貼り直してある。前の紙の角が、新しい紙の下から二分ほど出ている。


 移った時に、隣に座る人も替わった。前は知らない人が二人いた。今はすずが隣になる。替えたのが誰かを、私は聞かなかった。


 聞けば替え直されるかも知れない。表の私の行だけ、鉛筆の跡が一度消してある。消した下の字は読めない。


 ふれあい広場は横が十二メートルで、縦は九メートルになる。マットは六枚だ。

 一枚は去年の夏に増えた分で、繊維の色が他より濃い。私はまた一番端になった。


 三月の光は二月より高いところから来る。高いと、床に届く前に柵で切れる。

 落ちない分が柵の影だ。マットの上で横縞に落ちる。

 縞の幅は指の四本ぶんある。二月は五本だった。


 すずは端から二つ目に座る。落ち着いてから、首を右へ傾ける。角度は変わらない。私はこの角度を三年見ている。


 係の人が紙を読み上げた。触ってよい範囲と、立ってよい時刻が書いてある。

 読む速さは毎回同じだ。途中で聞かなくなる。紙の端は読む人の親指のところで柔らかくなっている。

 聞かなくなるところは決まっている。三つ目の項の途中からだ。

 三つ目の項は、係の者の指示に従うことという内容だ。


 四つ目からまた聞く。四つ目は時刻の話で、時刻には数が入る。

 そこで耳が戻る。私だけではないと思う。周りの人の首の向きが同じ所で揃う。


「本日は十時から十二時までです」

「はい」


 十時に来館者が入る。三月の来館者は二月より多い。

 柵の向こうから来る匂いは、こちらのものと違う。日の当たる側から先に届く。石鹸が最初になる。

 その下に外の空気がある。三月のそれは二月より重い。


 二月は柵のところで止まっていた。今日は柵の内側まで来る。止まる位置は月ごとに動く。


 子どもが四人来た。どの手も柵に掛かる。

 触れたところの塗りは薄い。帯の高さは床から六十センチになる。


 私の手はその帯より上にある。柵に触ることはない。そのままでいると、掌の温度が指の先から下がる。


 十時四十分に、柵の外の人が写真を撮った。発光装置は使っていない。焚くと係の人が来る。注意のためで、撮った人は謝る。


 今日の人は謝った。

 それから、もう一度撮った。二度目は装置を使わない。


 十一時に水を飲む時間が入る。決まりで、私が頼んだわけではない。

 水は紙のコップに入っている。コップは一度使うと畳んで捨てる。


 水は冷たい。飲むと、喉の途中で一度止まる感じがある。止まる位置は鎖骨の少し上だ。

 二杯目は出ない。二杯目を頼んだ人がいたと聞いたことがある。

 その時どうなったかは、聞いた人も知らなかった。


 畳む向きは決まっていない。私は縦に二度折る。すずは横に一度折る。

 畳み方が違っても、捨てる場所は同じになる。


「あなた、あの二人のこと聞いた」


 すずが小さい声で言った。柵の外の人には届かない。口は私へ向いている。


「何をですか」

「紙に載ったのよ。載って、外れたの」


 載って、外れた。すずは実の皮を匙の先で二つに割った。断面は片方が水を持っている。


「外れたんですか」

「実施しないって書いてあるらしいわ」


 すずは前を向いたまま話す。喋っている間も、首の角度は変わらない。


「誰からですか」

「聞いたのよ。誰からかは言わないわ」


 この人は出所を言わない。前からそうだ。実の皮を、匙の先で二つに割った。


 話さなくなった人を、私は二人知っている。どちらも、去年までは話していた。

 二人とも、いまは食堂の同じ側に座る。私の卓からは背中しか見えない。


 十二時に終わりの合図が出る。来館者が動き出して、柵の前が空いた。

 人が退くと、マットの縞が動く。光が上がった分、縞が細くなる。


 係の人がマットを数える。今日も六枚だった。

 数え終えると、端の一枚の位置を直す。動かしたのは私が座っていたほうになる。


 直すと、マットの角が一度持ち上がる。下に紙が一枚あった。四つ折りで、折り目のところが白い。

 係の人は角を落とした。すると、紙はまた隠れる。


 数えたのはマットの枚数で、六枚だった。


 私は立って、係の人のところへ行った。聞くことは決めていない。口が先に動いて、動いた後で、私は自分の言った形を数える。


「何組載りますか」


 係の人は少し待った。答えの手前で一度息を吸う。


「こちらでは分かりませんね」


「何処ですか」

「繁殖の係のほうになります」


 係の人は紙を折って、脇に挟んだ。挟んだままこちらを見る。

 一度目を伏せて、もう一言だけ足した。


「聞かないほうがいいでしょうね」

「聞きました」


 私はそう返した。言ってから、自分の番ではなかったことに気づく。

 この人は困った顔をしない。紙の端を持ち直す手が止まる。


「そうですか。もう聞かれたんですね」


 この人は先に歩き出して、一度振り返る。その時、手の紙が少し開いた。


 開いた側に罫が見える。罫の間は狭い。数を書く紙の罫になる。

 欄の名は反対の側にあって、そこは見えなかった。


 見えないほうを覚えておくことは出来ない。頭に入ったのは罫の狭さになる。指の腹に入るくらいの幅になる。


 私は坂の下まで行った。上がる用は無い。

 三月の坂は、日の当たる側で土が乾いて温い。影の側は靴の裏に冷たさが上がってくる。


 坂の下から見ると、資料館の屋根の端が出ている。見えるのは、屋根の全体の四分の一ほどだ。

 残りは木で隠れる。冬の間は遮る分が少なかった。

 三月に入って葉が出始めた。出始めると、隠れる分が毎日少しずつ増える。量は目では分からない。


 分かるのは屋根の端の形のほうだ。今日の端は、二つの木の間で三角に切れている。


 私は先月の形を覚えていない。変わったことは分かる。先月は木の間が広かった。


 覚えているのは掌の割れの数と同じ形だ。増えたか減ったかだけが残る。


 坂の下の右側に、細い道が一本あった。舗装は坂と同じで、幅は坂の三分の一ほどになる。

 片側に手すりがあって、握るところの塗りが剥げている。反対側には無く、入口のところは草が伸びていた。丈は膝より下だ。


 手すりの塗りは坂の柵と同じ色だが、剥がれ方が違う。こちらは上の面から剥げている。柵は横の面から剥げる。


 道の先は木で切れていて、その向こうは見えなかった。来館者はこの道を通らない。通る人を、私は一度も見ていない。

 道の入口に、切った草が寄せてある。寄せた山は膝の高さほどだ。

 近づくと、切った草の匂いがする。切ってから何日か経った匂いになる。この匂いは坂の上まで届かない。


 届く前に風が横から来る。向きは決まっていて、坂の途中の継ぎ目のところで変わる。

 山の下は色が変わっている。上はまだ緑だ。境は横に一本の線になっていて、線の高さは掌の幅ほどだ。


 私はその手前で止まった。止まる決まりは無い。止まっても誰も来ない。

 止まってから、道の先をしばらく見た。見ても何も出てこない。出てこない先を見ている時間を、私はまだ数えたことがない。


 戻る途中で五郎に会った。この人は箒を持っていた。


 持っているのに掃いていない。柄の先が土へ二センチほど入っている。


「今日は当番ですか」

「当番だよ。だけどね、風が強いんだ」


 風が強い日は掃いても戻る。五郎は同じところを二度掃いた。紙には一度と書く。


「書きますか」

「書かないねえ。書く欄が無いんだよ」


 この人は笑っている。顔は動かないで、息が短く二度出る。


「まだ出しませんか」

「来月だねえ。四月にならないと出せないんだ」


 四月。今日から三週ほどある。三週というのは、私が数えた分だ。この人は数えていないと思う。


「二十一年目ですね」

「そう言ってくれると助かるねえ」


 私の足は動いていない。動かないでいる間、踵が土の柔らかいところへ沈む。沈んだ分、爪先が上を向く。

 沈んだところの土は、上の土より冷たい。冷たさは踵の一点へ来て、そこから足首まで上がる。


「数えておきます」

「そう言われるとね、今年も出す気になるよ」


 五郎は箒を持ち直した。持ち直してから、掃き始める。向きは風と同じだ。沿わせると、戻りが少ない。


 夕方の給餌も四三〇になる。食堂へ入ると、H-0009とK-0330がもういた。

 二人の卓は入口から三つ目で、朝と同じだ。二人の間に器が一つ余分に置いてある。

 誰も座っていない席の前に、汁だけが入った器がある。


 私はそれを見た。見てから、二人を見た。どちらもその器に触らないで話している。


 係の人が通りかかって、卓の上を見た。

 見て、数を数えた。数えてから、何も言わないで行く。


 私は自分の卓へ行って、座った。座ってから、もう一度二人の側を見る。


 余分な器は、まだそこにある。中身は減っていない。


 卓の端に紙が一枚置いてあった。係の人が置いていったものだ。置いたのは器の数を数えていた人で、数え終わってから紙を見ていた。


 紙はこちらを向いていない。上下が逆になっている。

 逆でも、字の形は読めた。私は罫に合わせて字を書く癖がある。逆の字も追える。


 右の端に縦の罫が入っていて、その中に五つの字がある。


 五つのうち、前の二つが黒い。後ろの三つは細くて、字と字の間が空いている。黒いのが二つ続いて、その後ろに細いのが三つ並ぶ形は多くない。


 私はその五つを頭の中で起こした。起こすと、読める形だ。推奨しない、と書いてあった。


 五字の左には数の列があって、その列とこの五字の間が、指の三本ぶん空いている。

 組の番号は左の端にあって、罫を七本跨いだ向こうにある。

 番号は二桁だ。二桁のうち、前の桁がこちらから見えた。後ろの桁は指で隠れている。

 後ろの桁は係の人の指で隠れている。指は紙の上に置いたままだった。


 係の人が紙を取った。二つに折る。真ん中ではなかった。上から三分の一のあたりで折り返している。

 三分の一で折ると、五つの字は内側へ入る。

 そちらの面は、外から見えない。伏せたほうを持って、この人は行った。


 H-0006が向かいに来た。この人は座る前に、器を卓の縁へ一度当てる。


「あれは何ですか」

「多く出た分なんでしょうね」


「返さないんですか」

「返す様式が無いんですものね」


 十二月に聞いたのは、あるほうだった。言ったのは同じ人で、場所も同じになる。

 聞いた場所は違う。言った人も別になる。同じ言葉が、向きだけ逆で来る。


「置くんですか」

「誰かが飲むまではそのままね」


 誰かが飲むまで。私はその器を見た。

 汁は冷めている。置いておくと、表に薄い膜が張る。動かすと割れる。割れ目は縁へ伸びた。


 二人は器に触らない。そのまま二人とも食べ終えた。それから、K-0330が立って、余分な器を持って行った。


 持って行った先は下げ口になる。台の上には器を伏せておく。


 伏せた器の底には、白い輪が残っている。輪の内側で、木の色が濃い。


 戻ってきたK-0330が、卓の上へ何かを置いた。小さくて、白い。

 H-0009がそれを見て、指で押さえた。押さえた指ごと手前へ引く。


 実だ。夕方の分から一つ取っておいたものになる。自分の器から出したものは、自分の器へ戻すのが決まりだと聞いたことがある。


 決まりだと聞いた覚えがある。聞いたのは二度で、二度とも同じ人だった。


 係の人が通りかかった。この人は卓の上を見て、実へ目を止める。

 目を戻して、何も言わないで行った。その時に、手元の紙を持ち直していた。


 持ち直した紙には何も書かれなかった。持ち直しただけで、この人は行く。


 H-0009はそれを口へ入れた。噛んでから、笑った。

 この人の笑い方はやはり二度になる。一度目で切って、少し置いて、二度目が来る。二度目が小さくて、長く続く。

 その間、この人は誰のほうも見ていない。


 私は数えた。今日で四十一回目だった。


 居室へ戻る途中で、廊下の掲示板の前を通った。

 三月の割当の表が出ている。私の行は上から十四番目だ。


 水曜と土曜の欄に、ふれあいと入っている。


 他の欄は空いていた。斜めの線が一本ずつ入っている。線の傾きは全部同じだ。


 向きは前と同じで、右上から左下へ流れている。引いた人の手の向きは変わっていない。


 H-0009の行を探した。上から九番目にある。私の行より五つ上だ。

 この人の欄は月から金まで埋まっている。土日が空いている。

 K-0330の行は、私の行から数えて六つ下にあった。頭の字が後ろの分、下になる。

 こちらの欄も月から金まで埋まっている。土日が空いている。


 二人の空いている日は同じだ。土日の欄は二行とも白い。他の行の空きと変わらない。


 揃えたのなら、揃えた人がいる。掲示板の下の縁に、画鋲の穴が二列あった。上の列が穴が大きい。今の紙はどちらの列も使っていない。


 私は指で二つの行をなぞった。なぞると、紙が少し波打つ。下にもう一枚重ねてある。

 下の紙は二月の分で、その上に三月の分を貼ってある。剥がさないで重ねた。月が進むほど紙が厚い。


 厚くなった端のところが、掌で押すと少し沈む。深さは指の腹の半分ほどになる。去年の同じころは、もっと浅かった。

 年度が替わる時に、まとめて剥がすのだと聞いた。剥がした分をどうするかは、聞いた人も知らない。


 端の一箇所に、画鋲の穴が四つ縦に並んでいる。上の二つは紙が通っていない。

 下の二つには紙がある。穴の間は爪の幅ほどだ。


 居室へ戻って、寝台の縁に座った。掌を見る。割れは三本のままだ。

 増えていない。洗濯を離れてから一本も増えなかった。皮膚の色は戻っていない。


 私は袋から木の札を取り出した。指の腹に当たる面が冷たい。握っていると、掌の側から温くなる。そこまでに三十ほど数えた。


 今日は二十八で温くなった。二つ早い。木の目は札の裏が荒く、爪を立てると引っかかる。そちらを掌に当てて握る。

 三月に入って、夜の廊下の冷えが弱くなった。すると、札の温まる速さが変わる。


 速さが変わっても、数える方法は変えない。札は今夜も同じ面を掌へ当てる。


 数えている間に、朝の列のことを思った。H-0009が半歩ずれる。ずれた分にK-0330が入る。四十三回のうち四十一回。

 どの回も、二人の間の幅は変わらない。

 私は札を袋へ戻して、紙を上にした。紙は二枚ある。


 消灯の前に廊下で足音が立った。二人ぶんになる。片方が少し遅れる。後になるのは今日も K-0330 の側だった。

 遅れる幅は一定ではない。今夜は前より広かった。

 持っている音は聞こえなかった。空いた片手の振れる音もしない。二人が並ぶと、足音は三つに聞こえる。


 持っている物の音がしない持ち方がある。胸のところで抱えると鳴らない。私も札を運ぶ時はそうする。教わったことはない。


 足音は私の扉の前を通って、向こうの角で止まった。そこで、しばらく何も聞こえない。それから、また歩き出した。

 二度目の足音は一人ぶんになる。片方の分は、途中から柵の音に紛れた。


 私は寝台に横になった。天井の板の六枚目の継ぎ目は、もう濃くない。

 三月に入って戻り始めた。戻る途中の色は、冬とも夏とも違う。


 違うのは短い間だけだ。この色に名は無い。私は月のほうで呼んでいる。三月の色、と言っても誰にも通じない。


 今日の数を並べた。四十一回。二回の失敗。実が一つ。三つとも、私の頭の中にしか無い。


 私は掌をもう一度見た。割れは三本で、右の一本が少し長い。違いは爪の幅の半分ほどだ。

 長いほうの割れは、今日は開いていなかった。閉じていた時間の長さは測っていない。


 明日は木曜だ。その日はK-0330の割当が短い。だから、この人は遅れない。

 そうなると、H-0009は半歩をずらさないで受け取る。


 私はその日を数に入れていない。


──────────────────


来館者からの申出 受付票


受付の番号 広第二百十一号

受付の日 令和二百十三年三月九日

受け付けた者 広報課


一、申出の別


申出の別は「その他」とした。区分の一覧に該当する項目が無かった。


二、申出の方法


来館者が退園口の用紙に記入したものであった。用紙は一枚である。


記入の欄は三つある。日、区分、内容の三つとした。氏名の欄は設けていなかった。


三、内容


内容の欄に次の記載があった。原文のまま写す。


「ふれあいの広場で、二人がずっと笑っていました」


四、当該の場所


ふれあい広場は本日、十時から十六時まで開場した。当番の個体は十時から十二時までが五名、十二時からが四名であった。


九名のうち、当該の記載に該当する者を特定していない。特定する定めが無い。


五、回付


本申出は当課で保管する。他の部門への回付は行わなかった。


回付の要否は、受け付けた者の判断による。判断の基準を当課は持ち合わせていない。基準を定める議は、当課の綴りに残っていなかった。


ふれあい部門から本件に係る照会があれば、当課は写しを示す扱いとしてきた。本年度に照会は届いていない。


六、返答


用紙に氏名の欄が無いため、返答は行わない。


返答を求める旨の記載も、当該の用紙には無かった。


七、備考


本年度、当該の別による申出は本件を含めて七件であった。前年度は四件で、うち二件は同じ日に受け付けている。


七件のいずれについても、内容の欄の記載を写して保管したのみである。


写しの用紙は当課の様式による。原本は退園口の箱にまとめ、月ごとに廃棄した。


廃棄の記録は残していない。残す旨の定めが当課に無かった。


(受け付けた者 広報課)

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