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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第三章 標本

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41/106

第041話 返す様式

復命書


宛先 飼育部門 繁殖係

発出 飼育部門 衛生係

番号 飼育衛生第九十四号


一、経過


令和二百十二年十二月十二日、当係は定期健康確認を実施した。対象は九名であった。


実施の当日、心音に所見を認めた個体が一名あった。当該の旨は当日中に上長へ口頭により報告した。


報告の様式は定めが無い。報告した旨を記す欄も、実施記録の様式に設けていなかった。


二、上長の判断


上長は、当該の個体について再度の聴診を行うこととした。


判断の期限は定めが無い。判断の日を記す欄も、本様式に設けていなかった。


三、再度の聴診


再度の聴診を行った。所要は一名につき四分である。行った日を記す欄は本様式に無い。


一度目の所要は二分であった。所要の長短について、本様式は理由を求めていない。


聴診の場所は衛生係の第二室とした。室の指定に係る定めは無い。従前の例による。


二度目の聴診においても所見を認めた。所見の内容は本書に記さない。記す欄が本様式に無い。


四、所見の程度


程度を段階により示す様式は、当部門に無い。設ける旨の議は令和百九十七年にあった。


当該の議の結果は記録に残っていない。以後、同種の議は行われていなかった。


五、繁殖に係る事項


当該の個体は本年度の交配候補として選定されている。選定は当部門の繁殖係が行った。


当係は選定に関与していない。関与を求める定めも無かった。


六、本書の趣旨


当係は、当該の個体について三の事実を繁殖係へ復命する。復命の様式は本書による。


本書は判断を求めるものではない。求める旨の定めが無いためである。


七、個体への通知


当該の個体には、再度の聴診を行う旨を通知した。行った理由は通知していない。


二度目の所見についても、当該の個体へは通知していない。通知の様式を設けていなかった。


八、他の部門との関係


本書の内容を当部門の他の係へ回付する旨の定めは無い。回付した記録も残っていなかった。


来館に係る部門へ示すこともしない。示す旨の定めが無い。


九、備考


本書の写しは当係に一部を残す。残す期間は三年とした。写しを他へ交付した例は無かった。


本書の発出は同月二十七日である。一の項の実施の日からの日数を記す欄は、本様式に無い。


(発出 飼育部門 衛生係)


──────────────────


 月曜の朝は湯が濁る。管の中に溜まったものが、週の初めだけ先に出てくる。澄むのに十秒だ。

 栓を左へ回して、十秒ほど流す。この間は数える。勘定しないと早く止めた。

 十二月の湯は、四十度まで上がるのが遅い。上がってからは下がるのも遅い。夏と逆だ。

 暑い時期は上がるのが早くて、桶の中で早く冷める。


 洗剤は百倍に薄める。薄める前のものは、瓶の口を開けた時に匂いが立つ。

 冬の匂いは低いところにある。夏は湯気に乗って上がってくるのに、今は流しの縁のあたりで止まっている。

 低いところの匂いは、しゃがむと濃い。


 私は薄める時だけしゃがむ。しゃがんだ姿勢から立つと、匂いは一度切れる。切れてから、また薄いところへ戻った。

 流しの縁に、洗剤の乾いた跡が三つ並んでいる。丸くて、真ん中が白い。

 拭いても輪の縁が残る。残った輪の上に、次の日また新しい輪が乗る。


 手の甲の割れは三本になった。二本だったのは先週までだ。増えた一本は右の親指の付け根にある。

 ここは布を押さえるところで、一日に何百回も曲がる。


 朝の給餌は四七〇だ。月曜の食堂は空いている。

 洗濯の当番が先に出るからで、私も先に出た。汁を飲むと腹の上が温まる。

 その熱は歩いている間に背中の側へ回った。

 湯に触るのはその後だ。月曜の朝は、体の中に温かいところが二つある。

 私の前の流しにはH-0031が立っている。今日は三十九枚だと聞いた。一人あたり二十枚に足りない。

 先週の四十六枚より少ない。それで、腕の内側の痛みは午後まで来ないと思う。

 四枚目を絞っている時に、袖口が引っかかった。

 台の縁に金具がある。留め具が一つ、頭を少し出している。出ているのは前からだ。

 私は布を引いた。それから、袖口を見た。

 糸が一本浮いている。輪にはなっていない。浮いただけだ。


 私は糸を指で押さえて、内へ入れる。手を離すと戻ってきた。

 三度やって三度とも変わらない。四度目はやらない。糸の長さは爪の幅ほどだ。


「出てる」

「見えますか」


「見える」


 H-0031はそれだけ言うと、自分の流しへ向き直った。

 言うだけで、代わりに直したりはしない。そういう決まりが無いからだと思う。


 私は係の人のところへ持っていく。その前に、一度だけ手を止めた。

 止めていたのは短い。


 持っていかないでおくことも出来る。輪ではないので、点検では見落とされるかも知れない。

 見落とされたら、この一枚は今日の帳面に載らない。載らなければ、二件で止まる。

 私は持っていった。そうする理由を、私は自分で言えない。分からないのに、足が先に動く。


 台から係の人のところまでは七歩ある。


「損耗ですか」

「これです」


 係の人は袖口を明るい側へ向けた。それから、指で糸を一度伸ばす。

 一度伸ばして、また戻す。戻した時に、糸は同じ形へ帰った。


「これは今日ですね」

「金具に引っかかりました」


「金具の分も、損耗に数えます」


 数える。私は台の縁の金具を見た。頭は今日も出ている。

 これを直す紙が無いのだと思う。無い紙のことを、私は聞かなかった。

 係の人は帳面を開いた。出てきた頁の上に私の番号がある。

 右の欄に、短い線の印が二つ入っていた。今日で三つ目だ。


「三件目になります」

「三件ですか」


「三件で、翌月の当番から外れますね」


 外れる。私はその言葉を紙で読んだことがある。十一月十日の掲示だ。

 十一月の損耗記録に書いてあった。三件に達した個体は翌月の洗濯当番から外す、と書いてあった。


 外れた先の割当を、あの紙は書いていない。

 そこを、私はそのままにしておいた。聞く用が無かったからだ。今日は用が出来た。


 用は今日になって出来た。持ってみると、聞き方が分からない。


 それで、私は一番短い形で聞いた。


「どこへ行きますか」

「割当は明日出ますので」


 この人は帳面へ印を入れた。その時に、印を持つ手が一度止まる。

 その後で押した。落ちた位置は、前の二つより少し右へ寄っている。


「本人の説明はいりますか」

「お願いできますか」


 私は欄を見た。横に長い。長いのに、書けることは短い。

 私は書いた。


 きんぐにひっかかりました。


 十二の字を、欄の左の端から書いた。終わると、右に空きが出る。

 幅は字の十ぶんほどある。


 係の人は写した。その時、この人は自分の字で書く。

 似せる定めは無いと、前に聞いた。似せないので、写しは私の書いたものと形が違う。字の数だけが揃う。


 それから、この人は私の書いた欄を消した。消しゴムは短い。動かす向きは斜めだ。


 右の上から左の下へ動く。数は四回だった。

 消した後の欄は白くならない。

 灰色が残る。残った灰色の上へ、この人は写しを書かない。写しは別の欄にある。


「消すんですか」

「様式が一つですので」


「消した分は残りますか」

「残らないことになっていますね」


 残らないことになっている。私は自分の書いた十二の字を思った。頭の三字だけが出てくる。

 思い出しても、もう欄には無い。そこにあるのは、この人の字の一行だ。


 消した跡の灰色に、私は指を当てた。紙は帳面の中で温くなっていた。

 この人が脇に挟んで運ぶからだと思う。脇の下は体の中でも温かい側になる。前に触れた時もこうだった。


 昼の給餌は四七〇だ。私は窓の側の卓へ行く。すずが先に座っていた。

 今日は昼からこちらにいる。


 この人は汁の器に手を掛けていない。器は湯気を出している。


 細くなるまで、この人は手を出さない。今日は細くなっても出さなかった。指は膝の上で組んだままだ。


 器の縁に、汁の粉が薄く付いている。乾いて白い。


 いつもなら、この人は指の腹でそれを取る。それから飲む。今日は残ったままだ。

 髪の分け目が、いつもより右に寄っている。この人は月ごとに少しずつ動かす。幅は指一本に足りない。

 替えるのは月の初めだと聞いた。今日は月の終わりで、それなのに位置が変わっていた。


 寄った側の髪が、耳の上のところで一度浮いている。

 それを、この人は直さない。放っておくのは珍しい。


 卓に置いた手は、指を組んでいない。開いたままで、掌が下を向いている。

 掌の下の木に、汁の跡が入っていた。それは目の中まで届いていて、拭いても薄くならない。


「呼ばれましたか」

「呼ばれたわよ。聴かれただけ」


「何分でしたか」

「四分よ。金曜は空いていたわ」


 四分。前の時は二分だと聞いた。二分の二倍だ。

 倍になった理由を、この人は言わなかった。


「長くないですか」

「長さは聴くほうが決めることよ」


 すずは器を持った。それから、一度置いた。

 それから、また持つ。二度掛けるのは、この人には珍しい。


「今朝ね、来たのよ」

「誰がですか」


「名前で呼ぶほうのA区画の係の人よ」


 すずは作業着の内側へ手を入れた。何も出さないで、そのまま戻す。

 紙は入っていない。無いのに、この人は手を差し入れた。


「取り消しになったの」

「何がですか」


「選ばれたやつよ。あれは無しになったの」


 無しになる。私はその言い方を聞いたことがない。

 紙に書いてあるのは、決まるか、決まらないかのどちらかだった。一度定まったものが消える欄を、私は見たことがない。


「理由は書いてありましたか」

「そんなことを書く欄は無いんですって」


「聞きましたか」

「聞かないわよ。聞く相手がいないもの」


 すずは汁を飲んだ。いつもは三口だ。今日は四口だった。

 最後の一口の後で、この人は器の縁を指でなぞった。


「紙を出してくださいって言われたの」

「あの紙ですか」


「そう。持っていていい紙って言われたやつ」


 持っていていい紙。私はその言葉も覚えている。

 十二月の初めに、この人が言った。持っていていい紙よ、持ってるに決まってるでしょう、と言った。

 あの時、この人は紙の角を四つとも指で確かめてから内側へ入れた。

 今日は受領書の角を確かめていない。折って、そのまま入れた。


 紙の大きさが違えば、扱いも違うのかも知れない。


 違うかどうかを決めているのが誰なのかは、聞かなかった。


「返しましたか」

「返したわ。受け取りをもらったのよ」


 この人は今度は本当に手を入れて、小さい紙を出した。

 出た紙は前のものより薄い。寸法は半分で、上に「受領書」とある。


 その下に日付と番号がある。数は二つ並んでいて、片方はすずのものだ。

 もう片方は書類の番号だと思う。頭に「飼」の字が付いている。数は四桁だ。


 下に、受け取った旨の一行がある。


 その下に係の名があって、さらに下に判が押してあった。判の色は赤い。

 返す様式がある。


 私は紙を裏返した。裏は白い。斜めから見ても、何も浮かない。

 何も載っていなかったからだと思う。


「持っていいんですか」

「これはいいんですって。返したことの紙だから」


 返したことの紙は持っていていい。


「六度読みましたよね」

「返す前にもう一度読んで七度になったの」


 七度。私は指で数えた。折るのは親指から始める。七つ折ると、指が二本余った。


 数えても、私が読んだのは一度きりだ。

 覚えているのは、括弧の中の小さい字だけだ。


「何が書いてありましたか」

「もう言わないわ。返したもの」


 すずは受領書を折って、内側へ戻した。

 折り目は一本で、上から三分の一を折ってある。前の紙と揃う。


「あの子たちはね、卒業って言うのよ」

「卒業ですか」


「選ばれることを若い子がそう呼ぶのよ」


 卒業。私はその言葉を園の紙で見たことがない。

 紙に無い言葉が、口では通る。それなのに、誰が言い始めたかは分からない。

 あだ名もそうだ。誰が言い始めたのかを聞くと、私が来た時にはもう言っていた、という答えが返る。


 答える人は毎回違う。返る言葉は変わらない。四人とも二字だった。

 その答えが何人から返ってきたかを、私は数えたことがある。四人まで来て、そこでやめた。


「すずさんも言いますか」

「言わないわ。私は言わない」


「どうしてですか」

「言わない理由は言わないの」


 この人はそう言って、実を一つ口へ入れた。

 それから、皿の縁を指で押した。器は少し動いて、元へ戻らなかった。


「あなたはまだ紙をもらっていないでしょう」

「もらっていません」


「そう」


 そう、とだけ言って、この人はそれ以上言わなかった。

 黙っている間に、湯気は消えている。


 私は自分の汁を飲む。その間に、紙のことを考えた。

 私が欲しいのは紙だ。持っていていいものが欲しい。返すものではない。


 欲しいと言ったことは一度もない。言う欄が無いのと、言う相手がいないのは別のことだ。どちらも今は無い。


 袖の内側に手を当ててみる。当てると、割当の紙の角が肘に触る。

 当たるところは、さっきの位置のままだ。歩いていない間は動かない。肘から指二本ぶん上になる。


 午後は畳みと点検だ。三十九枚を台へ広げる。その時、私は袖口を見る癖がついた。

 四枚目のことがあったからだと思う。

 輪は出ていない。三十九枚とも無い。それなのに、私は二度ずつ見る。

 二度目が遅くなる。


 二度見ると、一枚にかかる時間が倍になる。倍になっても、終わる時刻は同じだ。


 動かなかったのは、途中から一度に戻したからだ。切り替えたのは二十二枚目のところで、そこから先は一度しか見ていない。


 二十二枚目より前と後で、見た回数が違う。その差は帳面に書かない。書く欄が無い。

 どちらの見方で見たかは残らない。


 台の上に、乾ききらない分を四枚寄せた。どれも襟が湿っている。

 そこを指で押すと、指の腹が冷たくなる。水が残っているからで、押した跡は形が残らない。


 係の人が来て、明日の割当の紙を置いた。

 紙は一枚で、私の番号が上にある。

 紙には翌月の洗濯当番から外れる旨が書いてあった。

 その下に、移る先の割当が入っている。移る先はふれあいの当番だ。


 ふれあいは午前に二時間ある。A区画とE区画の合同で、週に二度ある。出るのは十二人だ。

 私は前にも行った。去年の一度きりで、その時は誰かの代わりだった。


「これは今日からですか」

「一月からになりますね」


「今日で終わりですか」

「今月いっぱいはお願いします」


 今月いっぱい。あと四日ある。四日のうち二日が洗濯だ。

 四日のうち、洗濯の日は二日だ。その間にもう一件出れば、四件目になる。


 私は紙を二度読んだ。二度目に、下の一行に気がついた。字の高さは他の半分だ。

 一行は「当該の個体の希望は聴取していない」と書いてある。聴取する旨の定めが無いとも書いてある。

 希望という語を、私は紙で見たことがない。

 その語は行の下から三つ目にあって、前後の字と揃う大きさで刷ってある。


 私は紙を指で押さえた。その下にその二字が入る。

 指を離すと、また出る。二度やって、二度とも一つの場所に現れた。


 紙は薄い。押さえた側の裏に、指の油の跡が残った。丸い形で、幅は爪ほどある。

 跡は光の向きを変えると見える。真上からでは出てこない。


 紙を袖の内側へ入れた。入れると、角が肘の内側に当たる。


 当たる位置は歩くと動く。それでも、外へは出ない。


 四件目の欄があるかどうかを、私は知らない。


 残りの二日は、一枚ずつ見ることになる。


 夕方の前に、私は居室へ戻った。

 寝台の枕の下に、袋がある。中に紙が二枚入っている。

 一枚は照会回答書だ。十一月二十九日に交付されたものだ。

 もう一枚は、今日もらった割当の紙だ。

 私は二枚を出して、寝台の上に並べた。


 回答書が大きい。割当の紙は半分ほどしかない。重ねると縁が二本出る。


 袋の中は外より少し温かい。枕の下にあったからだ。

 紙を出すと、その温かさは指の下で三つ数える間に消えた。その後は部屋の冷たさへ戻る。


 袋の中には、他に木の札が一枚ある。番号の彫ってある札だ。

 札の彫りは深い。指でなぞると、字の底で一度引っかかる。止まる位置はいつも同じだ。


 私は札を出さない。用が無い。


 用が無いのに、袋の外から一度だけ押した。押すと、布の下で角の形が分かる。


 袋は口を紐で締める形だ。紐は二本あって、両方を引くと締まる。端は切りっぱなしだ。

 片方だけ引くと、口が斜めになる。斜めになった口からは、中身が見える。

 私は両方を引いた。それから、結ばないで枕の下へ入れた。

 結ぶ人は結ぶ。私はやらない。締めると、開ける時に音が出る。


 回答書の下の余白に、消した跡が残っている。

 消しゴムの走った向きは斜めで、その下に数字の形が三つ、薄く浮いていた。


 一つ目は今日も読めない。二つ目は今日も八に見える。三つ目は今日も分からない。

 私は跡を指でこすらなかった。前にこすった時、跡が濃くなった。


 紙の縁は少し柔らかくなっている。袋の中で何度も出し入れしたからだ。数えたのは十九度までだ。


 柔らかいのは四つの角と、右の縁の真ん中あたりになる。そこは指で持つところだ。


 持つところが決まっているのは、私が決めたからではない。


 初めに持った位置を、次も持つ。繰り返すと、そこだけ先に柔らかくなった。


 濃くなったところは、今も他より濃い。こすった幅は指一本ぶんある。

 その幅の中だけ、紙の目が潰れていた。潰れた目には鉛筆の粉が入る。入った粉は落ちない。

 私は一枚の紙を三度出している。出す度に、余白のところを先に見る。位置は下の縁から指一本ぶん上だ。

 そちらを先に見るのは決めたからではない。目が早くそこへ行く。

 割当の紙にも、下の余白に消した跡がある。

 跡は一つで、数字ではない。字の形をしている。何かは分からない。


 私は二枚を並べて、消しゴムの動いた向きを見た。

 どちらも斜めだ。傾きは揃っていて、右の上から左の下へ向かっている。角度は三十度ほどになる。


 一つの向きに動く手は一人の手だと思う。

 十一月の紙と十二月の紙を、同じ人が書いた。そのうえで、両方とも一度消している。


 私はそれ以上分からない。

 分からないので、二枚を袋へ戻した。その時、割当の紙を上にした。


 廊下の突き当たりの掲示板に、一月の割当の表が出ていた。

 表は縦に番号、横に曜日が並んでいる。私の行を探すと、上から十四番目にあった。

 十四番目の行の、月曜から水曜までの欄が空いている。そこに斜めの線が引いてある。

 線は一本で、右上から左下へ向かっていた。書いた人の手の向きは、紙の跡と揃う。

 木曜の欄には記録整理と入っている。金曜と土曜の欄には、ふれあいと入っていた。

 ふれあいの欄だけ、字が他より少し大きい。書く場所が広いからだと思う。


 私の下の行は、去年から洗濯にいる人の行だ。この人の欄は先月のままだ。番号はH-0044になる。

 一枚の表の中で、動いた行と動かない行がある。動いた理由を書く欄は、この表に無い。


 夕方の給餌は四七〇だ。食堂に入ると、H-0031が先に座っていた。器はもう半分になっている。


 私は向かいに座った。この人は向かいに座られるのを嫌がらない。座る人が少ないだけだ。


「三件目でした」

「外れる」


「一月からです」

「ふれあいか」


「どうして分かりますか」

「外れた人はそこへ行く」


 この人は前にも見ているのだと思う。

 見ているのに、その先のことは言わない。口にしないのは、聞かれていないからだ。


「ふれあいは、どうですか」

「知らない」


 この人は汁を飲む。速いのに、器を傾ける角度が浅い。二十度ほどで止まる。

 浅い角度で速く飲む人を、私は他に知らない。


 三人が出ていった後の卓に、器が一つ残っていた。誰の器かは分からない。

 分からないので、私は動かさなかった。手を出すと、次に来た人が自分の器と間違える。


 そういう例を、私は二度見ている。どちらも、取った側が謝った。

 器に番号は入っていない。底の釉が一つずつ違うだけだ。私のものは縁に細い縦の筋が二本ある。


 私は器を持って、H-0031の器の位置を見た。この人は器を卓の縁から指一本のところへ置く。

 私は指三本のところへ置く。すずは指二本だった。三人とも違う。


 違うのに、誰も直さない。改める紙が無い。


 卓の向こうで、若い個体が三人で話していた。声は届く。

 届いた中に、卒業という言葉が二度入っていた。

 二度とも、笑いのすぐ後だ。笑ってから言って、また笑う。

 笑い方は短い。それなのに、三人とも一つの長さで切れる。


 私はその言葉を口の中で言ってみる。声には出さない。舌が二度当たる。


 出さないので、誰も聞かない。

 今日の三件目が紙になるのは明日で、卓の向こうの言葉は今日のうちに三度出ている。


 私は自分が数えられている紙を三つ知っている。

 洗濯の帳面と、給餌の表と、割当の表だ。三つとも、私の番号は上から十四番目にあった。

 十四番目は動かない。人が減っても、番号の順で並べるので場所が残る。


 それなのに、去年は十六番目だった。二人が抜けている。二人の行は次の表から消えていた。


 三人のうち一人は、私より二つ下だ。この人は去年まで別の区画にいた。

 移ってきた理由を、私は知らない。それなのに、来た日は覚えている。給餌の列が一人ぶん長くなった日だ。

 三人は皿を持って立った。その時に、一人が卓を一度叩く。

 叩くのは五郎の癖だ。この人は五郎と並んで座ることが多い。癖はそこから来たのだと思う。


 三人が出ていった後で、卓の上に器が一つ残っていた。

 誰の器かは分からない。分からないので、私は動かさなかった。


 居室へ戻ると、隣の人がもう毛布の中にいる。

 私は寝台の縁へ腰を下ろして、袋の口を一度開けた。開けて、閉じた。木の札が一度鳴る。


 中の紙は動いていない。動くはずがない。


 動かないのを確かめる回数だけが、月ごとに増えている。


 私は袋の中の紙を、もう一度出した。出したのは受領書のことを思ったからだ。あれは半分だ。

 すずの受領書には判が押してあった。赤い判で、字は読めなかった。

 私の持っている二枚には、判が無い。回答書には印刷の判の形があるだけで、朱肉は使っていない。

 割当の紙には何も無い。そういうものは、返す時にも受領書が出ないのだと思う。


 返す時のことを考えたのは、今日が初めてだった。

 考え方はもう決まっている。すずは受領書を袖の内側へ入れて、上から一度押さえた。

 消灯の前に、廊下で足音がした。二人ぶんだ。

 足音は私の扉の前を通って、向こうの端で止まった。その先には何も無い。


 何も無いところで止まる人がいる。


 私は扉のところまで行かなかった。確かめる用が無い。


 横になると、窓の桟の影が壁の決まった高さに来る。


 冬はここで、夏はもっと下になる。移る速さは日ごとには分からない。差は板の三枚ぶんある。


 私は明日から数えるものが一つ減る。洗濯の枚数を数えなくなる。

 代わりに、ふれあいで何を数えるのかは知らない。数えるものが有るのかどうかも分からない。

 無ければ、私は自分で決めることになる。その分は紙に載らない。


 私は掌を胸のところへ置いた。置くと、自分の音が手に来る。

 来るのは腕を通してで、耳ではない。速くも遅くもない。

 掌の下は温かい。作業着の布を一枚挟んでいるのに、体温が先に来る。音は少し遅れて届いた。

 手の甲の側は冷たい。一つの手で、表と裏の温度が違う。


 数えると、十を数える間に八つ入る。前に数えた時も八つだった。


 それは八月になる。四か月の間、この数のままでいる。

 この数であることを書いた紙は無い。勘定を残したものも無い。

 八月に数えた時は、指を三本立てて胸へ当てていた。今日は掌ごと当てている。


 すずの音を聴いた人は、四分かけた。私の音を聴いた人はいない。一分以上という決まりは掲示にある。

 掌の下で、音は一つの速さで続いている。


──────────────────


選定の取消しに係る記録


番号  飼育繁第百三号

受理  令和二百十二年十二月二十七日 十時二十分

取消  同日 十四時

起案者 記載を要しない


一、受理


同日、当係は衛生係から復命書を受理した。番号は飼育衛生第九十四号である。


復命書に記載のある事実は、十二月十二日および同月二十四日の聴診の結果であった。


二、取消し


前項の受理をもって、当係は本年度の交配候補としての選定を取り消した。


取消しは当係の判断による。判断に要した時間は本日のうちである。


三、根拠


選定基準の二の項による。健康記録に所見のある個体は対象から外すものとした。


所見の内容は当係の知るところではない。知る必要も定められていない。


四、個体への通知


当該の個体へは、選定を取り消した旨を本日通知した。通知は口頭による。


取消しの理由は通知していない。理由を示す旨の定めが無かった。


五、交付済の通知書


先に交付した選定結果通知は、本日回収した。回収は当係の職員一名が行った。


回収に当たっては受領書を交付した。受領書の様式は令和百五十二年に定めた。


当該の様式は、交付の様式より先に定められていた。前後の理由は記録に残っていない。


六、本年度の選定


本年度、当園が選定した組は三組であった。本件により二組となる。


欠けた一組を補う手続きは定めていない。補った例も無かった。


二組のうち一組は、保全管理体 第一号が示した順位による。残る一組は当園が追加したものであった。


本件により取り消した組は、当園が追加した二組のうちの一方であった。


七、機構への返送


取消しの件数は、月ごとの集計に含めない。含める旨の定めが無い。


したがって機構へ返送する数は、本件により動かない。


八、翌年度以降の扱い


当該の個体の翌年度の判定は、翌年度に行う。本年度の判定を参照する旨の定めは無い。


参照しない旨を記した書面も当係に残っていなかった。


九、備考


本記録の保存年限は三年とした。


本記録の写しは、当該の個体へ交付しない。交付する旨の定めが無い。


本様式には、取消しの理由を記す欄を設けていない。


(作成 飼育部門 繁殖係)

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