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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第三章 標本

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40/106

第040話 同じところ

交配計画に係る対象個体の選定基準(抄)


原本の所在 飼育部門 繁殖係

抄出の日 令和二百十二年十二月二十二日

抄出の求め 当係の内部の用による

抄出しなかった条 無し


一、趣旨


当園の交配計画に用いる対象個体の選定について、基準を定めた。基準は令和百六十八年に置いたものであった。


本基準は当係の内部の用に供するものとした。個体へ示すことはしない。示す旨の定めも置いていなかった。


二、対象の範囲


対象は当年度に十六歳以上三十歳未満の個体とした。年齢は生年により算するものとした。


前項の範囲に入る個体のうち、健康記録に所見のあるものは対象から外すこととした。所見の有無は当部門の記録による。


三、記載の要件


対象とする個体については、番号・母個体・父個体・生年・性の五つの記載を要することとした。


五つのうち一つでも記載を欠く個体は、計画に載せない。


記載を欠く旨を当該の個体へ示す定めは無い。示した記録も残っていなかった。


四、母個体および父個体の記載


母個体および父個体は、個体記録票の第二欄の上に置く。園内で生まれた個体については分娩記録票により書き継ぐ。


いずれかの欄に横線を引いた個体については、当係は辿りを行わない。行う手続きを定めた書面は当係に無い。


横線を後から改める手続きも定めていなかった。改めた例は当園に無い。


当該の個体を計画に載せる旨の議は、令和百七十四年にあった。議の結果は記録に残っていない。


当該の議に出席した者の名簿は、当係に残っていなかった。


五、系統の記載


系統は記録票の第二欄による。母個体の系統を書き継ぐこととした。


系統は本基準の要件に含めない。含めない旨の理由は記していなかった。


六、対象外とした個体の扱い


対象外とした個体については、その旨を当該の個体へ通知しない。通知の様式を設けていない。


対象外であることは、翌年度に判定し直す。判定の記録は当係が保存する。


七、機構への返送


対象外とした個体の数は、当係が月ごとに集計して機構へ返送する。


返送する数は合計のみとした。内訳を返送する旨の定めは置いていない。


八、来館に係る事項


対象および対象外の別を、来館者へ示すことはしない。示す旨の定めが無い。


当該の別に係る来館者からの照会は、本年度に無かった。前年度も無い。


九、他の係との関係


本基準による選定の結果は、当部門の衛生係へ通知することとした。通知は口頭を妨げない。


衛生係から当係へ返す様式は設けていない。返した記録も残っていなかった。


十、備考


本基準は五年ごとに見直すこととした。前回の見直しは令和二百六年である。


見直しにおいて、三の五つの記載を改めた例は無かった。


本基準の写しは当係に一部を残す。写しの配付先は定めていない。


(定める者 飼育部門 繁殖係)


──────────────────


 水曜の朝は湯が早い。月曜は管の中のものが先に出るので、澄むまでに時間がかかる。今朝は栓を捻って四秒で透けた。

 水曜は前の日に流してあるので、栓を捻ってすぐに温かいものが来る。


 私は桶を置いて、手のひらの側で温度を決める。指の付け根が痛くなったら熱い。

 今朝は一度で決まった。そうすると、その後の手が速くなる。


 洗剤を百倍に薄めた。原液は冷えると固くなり、瓶の口に白いものが残る。

 それは湯を当てると溶ける。溶かさないで薄めると、粒が布に付く。


 付いた粒は乾くと見えなくなる。次に濡らすと、また同じところへ出た。

 現れたのは三度とも布の同じ角だった。

 瓶は棚の二段目にある。そこは私の目の高さになる。

 取る時に、瓶の底が棚板を擦る。その音は短い。棚板のその場所だけ、色が他より薄くなっている。


 向かいの流しにH-0031がいた。この人は水曜まで記録整理のはずだった。

 替わった理由は聞いていない。替わる紙が出たのかどうかも知らない。名は棚の札で分かるだけだ。

 手の速さは今日も私より上だ。私の一枚に対して二枚が上がる。


「今日は多い」

「何枚ですか」


「四十六」


 四十六枚。

 いつもは三十八枚から四十二枚の間だ。先週の分が回ってきたからだと聞いた。言ったのは係の人で、理由の紙は無い。


 絞る時は捻らない。畳んでから、上から押す。その時は肩から下ろす。

 肘を曲げると、腕の内側だけが早く疲れた。


 一枚を押すのに、体重を掛ける回数は三回だ。三回で水が落ちきる。四回目を掛けても、量は増えない。

 確かめたのは十月で、それからは三回でやめている。

 押した水は台の縁へ流れて、溝へ入る。溝は洗濯室の外へ抜けている。


 行き先を私は見たことがない。確かめる用が無い。

 H-0031は四回押す。この人は私より速いのに、回数が一つ多い。多いのに早く終わる。

 押す間の手の戻りが短いからだと思う。


「三回で足ります」

「四回でいい」


 この人は理由を言わない。私も聞かない。手は止まらないままでいる。

 黙っていると、この人はもう一枚を上げた。その布から落ちた水が、私の側の台まで飛ぶ。


 十時に乾燥室の戸が開く。

 戸が動くと外の空気が入って、埃の匂いが混ざった。冬の埃の匂いは夏より薄い。

 乾燥室の天井の隅の色は、先月より濃くなっている。

 桶は今朝も三分の一まで溜まっていた。捨てても底の水は残る。その分に定めは無い。


 干す紐は五本ある。私は背が届かないので、二本目から始める。

 今日は四十六枚あるので、二本目だけでは足りない。三本目まで使う。一本に掛かるのは十六枚だ。

 その紐は真ん中のところが少し下がっている。前からそうなっている。

 沈んだ分だけ布の裾が床へ近くなった。近くなっても、着かない。

 布を掛ける間に、裾と床の間を見た。指を二本立てると入る。三本目は無理だった。

 先月は三本まで入った。紐は少しずつ下がっている。


 昼の給餌は四七〇だ。水曜の食堂は中ほどに混む。列の折れる位置が十二時十分に動く。


 私は端の卓へ回った。近づくと、すずが先に座っている。今日は向かいに誰もいない。


「あなた、今日は洗濯ね」

「四十六枚でした」


「多いわね。手はどうなの」


 私は掌を見せた。割れは二本のままで、右の一本が少し長くなっている。

 すずは見て、それから自分の手を出した。この人の手には割れが無い。


 この人の爪は、私のより白い。形が薄いからだと思う。薄い爪は割れると聞いた。

 この人の爪は割れたことがないという。


「爪は割れませんか」

「割れないわ。割れる人は水が多いのよ」


 私の爪は割れていない。傷んでいるのは掌のほうだ。

 私は爪の縁を親指で押した。押すと白くなって、離すと戻る。


「私は水を使わないもの」

「A区画は使いませんか」


「使うわ。でも量が違うのよ」


 すずは汁を三口で飲んだ。この人は数えたように飲む。

 空いた器を、卓の縁から指二本のところへ置いた。


 この人は作業着の内側から紙を出した。

 卓の上へ置く。折り目は一本で、上から三分の一のところにある。


「まだ持ってるんですか」

「持っていていい紙よ。持ってるに決まってるでしょう」


 私はその紙を前にも見ている。十二月の初めだ。

 あの時は折り目のところだけ見た。中は読んでいない。三分の一のところに筋が一本ある。


「読んでいいわ。もう何度も読んだから」


 私は紙を手に取った。紙は薄い。指で挟むと、二枚あるように思えて、離すと一枚だった。

 右上に番号が刷ってある。次の行が件名で、その下に三行ある。終わりの行に番号がもう一度出る。

 三行のうち、一行目が一番長い。三行目が一番短い。

 その下に空きがある。行の三つ分ほどあって、何も刷っていない。


 さらに下に日付がある。次の行が発出で、その下に括弧が来る。中は係の名だ。

 人の名は無い。


 字は印刷で、太さが一定だった。

 紙の下のほうに、括弧に入った小さい字がある。読むと、選定を示すものであって実施を約するものではない、と書いてある。


「この下の字は小さいですね」

「私も六度目で気がついたのよ」


 私は紙を裏返した。

 こちら側は白い。それなのに、斜めから見ると字が浮く。前の紙の筆圧が通ったところだ。


「見えるでしょう」

「番号ですか」


「番号よ。頭の字だけ分かるの」


 私は紙を明るい側へ向けた。向けると跡は消える。角度を戻すと、また出る。

 見えている間は短い。数えると三つぶんくらいで、その間に桁は数えられない。


 頭の字は分かる。すずの番号の頭の字ではない。

 二画目が下へ長く伸びて、途中で左へ折れている。そこから先は短い。


「これは何の紙の跡ですか」

「知らないわ。上に載ってた紙よ」


「その紙は何処ですか」

「そんなことを聞く人はいないの」


 すずはそう言って、実を一つ食べた。

 それから、紙をこちらへ押す。止まった先は私の器の手前だった。


 私は跡をもう一度見た。頭の字の後ろに、四つの数字がある。上の二つは読めない。

 三つ目だけが他より濃い。書いた人が強く押したからだと思う。

 跡は紙の上のほうにある。すずの番号は右上に刷ってあって、跡はそれより左だ。


 左へ寄るのは、上に載っていた紙の欄の位置が違うからだと思う。


 欄の位置が違う紙が、すずの紙の上に載っていた。

 載せた人の手が、その時何処にあったのかを私は考えなかった。


 三つ目の字は、上のところで一度右へ出て、それから内へ入っている。

 その先で一度止まって、下でもう一度外へ出る。


 私はその形を見ていた。そのうちに、手が動いた。

 卓の上に指で同じ形を書く。書くと、指の腹が卓の木に当たって止まる。


 私は自分の番号を、毎日書いている。


 洗濯の帳面に書く。朝と夕方に一度ずつで、一日に二回だ。当番は週に三日で、一年で三百回を超える。


 書き始めたのは十二の年だ。初めの頃は、頭の字が斜めになった。


 紙の罫に合わせて書けと言われて、それからは合わせている。

 言ったのは係の人で、どの係の人かは覚えていない。

 それでも罫に合わせる癖だけが残った。今は罫が無い紙でも真っ直ぐになる。


 書く時、三つ目の数字はいつも同じところで曲がる。

 上で一度外へ出て、内へ入る。そこで止まり、下でもう一度出た。私の手はそこで一度速さが落ちる。


 私は紙の跡と、卓に書いた形を並べた。


 卓の形はすぐ消える。その前に、私は目で二つを重ねた。

 同じところで曲がっている。


 私はそれ以上何もしなかった。

 紙をすずのほうへ戻して、自分の汁を飲む。汁は少し冷めていた。器の外側はもう温くない。


「どうしたの」

「何でもありません」


「顔が動いてないわよ。動かないのは考えてる時よ」


 すずは紙を折って、内側へ戻した。

 この人は紙の角を指で確かめる。四つとも触って、それから入れる。


「三月に一度、心音を聴くって言ったでしょう」

「聞きました」


「あれ、今週の金曜なのよ」


 今週の金曜。私は日を数えた。今日は二十二日の水曜で、金曜なら明後日になる。

 年内に一度あって、その次は三月だ。


「早くないですか」

「早いのよ。でも呼ばれたら行くものなの」


 呼ばれた理由を書いた紙は出ていない。それで、早いかどうかは誰も言わない。

 私は頷いた。それから実を一つ口へ入れる。


 午後は取り込みだ。乾いた分を紐から外して、台へ運ぶ。留め具は籠へ戻す。

 破れを見るのは畳む前と決まっている。折り目に入ると見えない。

 取り込む順は、干した順と逆だ。逆にすると乾きの足りない分が後になる。


 足りない分は台の端に寄せておく。それは明日の朝に見る。今日は四枚あった。


 どれも乾いていないのは襟のところだけだ。そこは布が二重になっている。


 布が重なると乾きが遅い。遅いのは前から知っている。分かっていても、干す時の掛け方は変えない。


 掛け方を書いた紙が一通りしかない。

 紙には襟を上にすると書いてある。上にすると、水が下へ落ちて裾に溜まる。溜まった分は裾が乾かない。


 襟を下にすれば襟が乾く。代わりに裾が濡れたままになる。

 今日も四枚残った。残ったのは襟のほうだ。

 四十六枚を一枚ずつ台へ広げる。広げると台の幅より少し出る。出た分は手前へ落ちる。


 もう一度上げると、そこだけ皺が寄った。


 十九枚目の脇の下に、繕った跡がある。糸の色が違う。


 繕いの分は損耗に入らない。そう紙にある。


 私は繕った糸を指でなぞった。太い。周りの布より厚い。

 それなのに、そこだけ先に薄くなっている。幅は糸の二本ぶんある。


 繕った人は、針目を五つ置いている。五つのうち、真ん中の一つだけ間が広い。

 その一つのところで布が引き攣れている。皺は洗っても伸びない。


 私は同じ場所を二度なぞった。二度目のほうが引っかかる。

 原因は指の側だと思う。爪の際の皮が荒れている。そこが糸に当たる。


 三十一枚目に輪が出ていた。袖口ではなく、裾のほうだ。糸は一本で、長さは爪の幅ほどになる。

 輪は小さい。指の先が入らない。入らないので、私は爪の先で押さえて内側へ入れた。

 押さえた後は、手を離しても出てこない。三十一枚目は今日の分ではなかった。

 今日の分でないものが今日の帳面に付くかどうかを、紙は書いていない。定めが無いので、私は係の人のところへ持っていかなかった。


 持っていかない理由を、私は自分で作った。

 その理由が正しいかどうかを、確かめる紙が無い。


 二十七枚目まで見て、私は一度手を止めた。

 腕の内側が痛くなった。四十六枚は多い。


 私は腕を下ろして、指を開いて閉じた。開いて閉じると、掌の割れのところが引っ張られる。


 引っ張られる感じは、閉じる時のほうが強い。


 私は指を開いたままにして、しばらく置いた。置くと、痛みは引く。


 引いてから閉じると、また引っ張られる。開いて閉じる度に同じことが起きる。

 何度やっても同じなので、私は三度でやめた。

 やめてから、残りの十九枚を見た。十九枚のうち、輪が出ているものは無い。


 係の人が来て、帳面を開いた。

 帳面の上に欄があって、私はそこへ番号を書く。使うのは鉛筆だ。


「本日の分をお願いします」

「はい」


 私は書いた。頭の字を入れて、それから四つの数字を並べる。

 三つ目のところで、手の速さが落ちる。これはいつもと同じだった。


 欄は横に長い。それなのに、書く字は五つしかない。左へ寄せて入れると、右に空きが出る。

 空きの幅は字の八つぶんある。


 この帳面に、名前を書く欄は無い。


 番号の右の空きは、上から下まで同じ幅で続いている。


 書き終わってから、私は自分の字を見た。

 鉛筆の跡は薄い。それで、上から指を当てても、指の腹に何も付かない。


「下に紙を敷きますか」

「敷きませんね。台の上でそのまま書きますので」


「跡は残りますか」

「残ることもあるかと思いますが」


 この人はそこで黙る。それから、帳面を閉じた。


「気になさらなくて大丈夫ですよ」


 私は気にしていない。

 気にしていないのに、閉じた帳面の背を目で追った。その先で、この人は脇に挟んだ。


 夕方の前に、私は掲示板の前を通った。

 通る時に一度だけ顔を上げる。三月の予定の表が、まだ出ている。

 A区画の欄は二つ増えたままだ。足されたのは十二月の初めで、その後は動いていない。

 E区画の欄は増えていない。去年の三月も同じ数だった。今年もこのままだと思う。


 私は数えなかった。


 表の紙は上の二隅だけが留めてある。下は空いていた。

 押さえが無いので、風が通ると下の縁が持ち上がる。持ち上がると、裏の紙が見える。


 裏の紙は十一月の表だ。剥がさないで上から貼ってある。二枚を透かすと、字の位置が少しずれている。

 ずれているのは横に指一本ぶんで、縦は合っていた。


 掲示板の下のほうに、給餌に係る紙が貼ってある。

 紙には区画ごとの給餌口の高さが書いてあった。E区画は床から百十センチで、A区画も百十センチだ。

 C区画だけが八十センチになっている。


 八十センチは低い。そこが子どもの区画だからだと聞いた。話したのは洗濯の係の人ではない。


 私はC区画へ行ったことがない。行く用が無い。

 私の背では、八十センチの口は腰より下になる。


 紙の右の下に、改めた年が入っている。令和百八十九年だ。今年から二十三を引いた数になる。

 二十三年前の紙が、まだ貼ってある。替える日を書いたものは、この掲示板に無い。


 紙の四隅は画鋲で留めてある。四つのうち、左の上だけ穴が二つになっている。


 二つのうち一つは今使っていない。使っていない穴のほうが大きい。


 私は指で大きいほうの穴に触れた。紙は薄くなっていて、触ると縁が少し崩れる。


 崩れた分は下へ落ちた。それを、私は拾わなかった。拾う決まりが無い。

 廊下の突き当たりで、洗濯室の戸が閉まる音がした。この響きは他の戸より低い。

 沈むのは戸が厚いからで、その厚みは湯気を止めるためだと聞いた。止めきれてはいない。

 戸の下の隙間から、湯の匂いが出ている。今日は私が出した匂いだ。

 匂いは廊下の低いところにあって、二歩離れると分からなくなる。


 私は食堂へ早く行った。先に着くと、入ってくる人を全部見られる。

 卓は奥まで並んでいて、途中の柱で切れている。数えられるのは、入口から見える四つだけになる。


 私は端の卓に座って、入口を見ていた。


 入ってくる人を数える。これは今日が初めてではない。前にやったのは九月で、その時は五十七人いた。

 今日は入口から見える四つの卓の分を数えた。六十一人まで来て、そこで止まった。

 止めたのは、途中から同じ人が二度入ったからだ。後のほうは器を替えに来ていた。

 六十一のうち、私と同じくらいの年の人を数える。

 同じくらいというのは、顔と手で決めている。手の甲の皮が薄くなっていない人を数えた。


 二十二人いた。そのうち、名前を知っているのは九人になる。


 残りの十三人は、番号も名前も知らない。同じ食堂に毎日いるのに知らないままでいる。

 九人のうち、この十二月に呼ばれた人を私は知らない。

 呼ばれたかどうかを聞く方法が無い。聞いてよいのかどうかも分からない。


 すずは呼ばれた。

 すずはA区画だ。そこの人がこちらの食堂へ来るのは、割当が重なった日だけになる。すずは月に四度か五度来る。


 私は二十二という数を覚えた。頭に置いて、それから汁を飲んだ。

 二十二が何の数なのかは、私にも言えない。数えただけだ。

 一番奥の卓に、老爺が座っている。この人は必ず一番奥に座る。


 背中がこちらを向いていて、顔は見えない。それでも、汁を飲む時に肩が動くので分かる。

 私は器を持って、奥の卓へ行った。


 行って、斜め向かいに座る。真向かいには着かない。そこへ来る人を、この人は好まないと聞いた。


「数えていました」

「昔は魚を数えたもんだ。次の日には別の魚が来とる」


 この人は二つ言って、それきり言わない。

 言い終わってから、汁の器を両手で持ち直した。その時に、左の親指が縁から外れる。


「魚は何匹いましたか」

「数えた者は覚えとる。覚えとる者の言うことは増えていく」


 増えていく。私は自分の数えた二十二を思った。

 二十二は増えない。今日数えた分だ。明日数えれば、また別の数になる。

 老爺は器を置いた。中は空だ。

 空なのに、この人は縁を指で一度なぞった。それから、手を膝へ下ろす。


 私はそれ以上聞かなかった。黙っていると、この人は目を閉じた。それでも、寝てはいない。


 息の長さが起きている時と同じだった。


 途中の廊下で、窓の枠に霜が付いていた。乗っているのは下の縁だけだ。


 指で触ると溶ける。


 枠の木は霜の乗るところだけ黒くなっている。水を吸ったからだと思う。

 吸ったところは春になっても戻らない。去年の分の黒も、その上に残っている。


 H-0031が入ってきて、向かいに人がいない席に座った。

 この人はいつもそうする。今日もそうだった。


「腕が痛いです」

「四十六なら痛い」


「明日は何枚ですか」

「知らない」


 この人はそれだけ言って、汁を飲んだ。

 飲む速さは私より上だ。それなのに、こぼさない。


 私は器の縁を両手で挟んだ。挟むと、割れのところに縁が当たる。

 触れているうちだけ痛い。手を離すと引いた。引いた後も、そこだけ熱が残る。


 卓の板は木で、目が縦に走っている。目の間に汁の跡が入っていた。


 入った跡は拭いても薄くならない。拭く布のほうが目の中まで届かないからだと思う。


 入ってくる人の足音は、卓に座ると消える。座るまでの間だけ聞こえる。数えると十二歩から十八歩の間だ。

 速い足音は二人いた。どちらも若い。年は足の上げ方で分かる。


 遅い足音は数えなかった。始めると、その間に入口を見落とす。

 九月は二度やり直した。今日は一度で済んだ。


 私は器を空にしてから、食堂の壁の時計を見た。時計は一つしかない。針は三本ある。

 一番細い針が動いているのは、近くで見ないと分からない。

 時計の下に、注意を書いた紙が貼ってある。紙には器を持ち出さないことと書いてある。

 持ち出した例が何件あるかは載っていない。書いてある紙が他にあるのかも知れない。


 卓の向こうで、すずが誰かと話している。今日は昼も夕方もこちらにいる。

 一日に二度来るのは珍しい。そのわけを、私は聞きに行かなかった。


 声は届かない。それで、口の動きだけが見える。すずは笑っていない。


 居室へ戻る途中で、廊下の窓の外が見えた。

 外は暗い。それなのに、渡り廊下の下のところだけ明るい。灯が一つ点いているからだ。


 灯の下に、袋が四つ積んである。明日の分だ。紐の掛け方は前庭で見たものと同じだ。

 掛けた人はもういない。

 居室の灯は落ちる前だ。隣の人はもう毛布の中にいる。


 私は寝台の縁へ腰を下ろして、右の人差し指を見た。爪の際に鉛筆の灰色が入っている。


 入っているのは今日書いた分だ。洗っても一度では落ちない。


 私は指を三度こすった。三度目で薄くなる。


 それでも灰色は残った。溜まるのは爪と指の間になる。そこへは布が届かない。


 部屋の隅に、誰かの器が一つ置いてある。持ち出した器だ。

 持ち出した例が何件あるかを書いた紙は、この部屋にも無い。それで、器はそこに置かれたままになっている。

 私は寝台の板の目へ、爪の先を入れてみた。入る。底に着く。

 板の目は浅い。浅いのは前から知っている。

 寝台の枠には、番号を書いた小さい札が留めてある。札は金属で、字は彫ってある。

 彫った字の底に埃は入っていない。溜まらないのは、彫りが浅いからだと思う。

 私はその札を指でなぞった。引っかからない。資料館の板とは違う。

 あちらは指でなぞると引っかかった。


 札の番号は私の番号ではない。寝台に付いている番号で、三桁だ。頭に字は無い。

 三桁の番号と四桁の番号が、一つの部屋に別々にある。どちらが先に付けられたのかを書いた紙は、ここに無い。


 私は札の角へ指を当てた。先は落としてある。怪我をさせないためだと思う。


 四つの角のうち、右の下だけ落とし方が浅い。そこに指を当てると、他より硬いものが触れた。


 私は指を膝の上へ戻した。


 戻して、指で膝の布に同じ形を書いた。三つ目のところで、速さが落ちる。


 落ちる位置は、書き始めてからずっと変わっていない。

 教わった覚えは無い。気がついた時には書けた。指で書くのは今も卓の上だけになる。


 布は跡を残さない。

 書いても何も出ない。私は同じ形をもう一度書いた。二度目も何も出なかった。


 窓の外は暗い。硝子には何も映らない。


 私は横になって、毛布の端を足の先で探した。端は足の先より向こうで余る。


──────────────────


対象外とした個体に係る集計


返送先   機構 血統会議 事務

返送の期限 令和二百十二年十二月二十八日

対象期間  令和二百十二年十二月分

本紙    一枚のうち一枚目


一、集計の趣旨


当年度の交配計画において対象外とした個体を、当係が集計することとした。


集計は月ごとに行うこととした。集計の結果は当係が保存してきた。


二、対象の範囲に入る個体


当年度に十六歳以上三十歳未満の個体は、当園で百七十四名であった。


うち雌は九十六名である。前年度は九十四名であった。


三、対象外とした個体


九十六名のうち、対象外としたものは六十一名である。


対象とした三十五名については、別に定める手続きによるものであった。


四、対象外とした理由の別


年齢の要件によるものが零名であった。範囲は二の項により算している。


健康記録に所見のあるものが十九名である。前年度は十七名であった。


過去五年に出産の記録があるものが四十一名であった。


五、記載を欠くもの


三の記載の要件を満たさない個体が一名であった。


当該の一名については、母個体および父個体の記載を欠く。いずれの欄にも横線が引いてある。番号・生年・性の三つは記載がある。


当該の個体の系統の欄も空であった。系統は三の要件に含めないため、対象外の理由には計上しない。


当該の個体を計画に載せる手続きは定めていない。定めを求める照会も受けていなかった。


六、前年度との比較


前年度の対象外は五十九名である。本年度は二名の増であった。


増の理由は記載しない。記載する旨の定めが無い。


七、通知


対象外とした個体への通知は行わなかった。通知の様式を設けていないためである。


行わなかった旨を記録する欄も、本様式には無かった。


八、判定の記録


対象外とした六十一名について、判定の記録を当係が保存する。保存の期間は十年とした。


判定を行った者の記載は、本様式に設けていない。設ける旨の議も残っていなかった。


前年度の判定の記録と本年度の記録とを突合する旨の定めは無い。突合を行った例も無かった。


九、機構への返送


本集計のうち機構へ返送するのは、三の項の数のみとした。


四および五の項は返送しない。返送を求められた例は本年度に無い。


十、備考


本集計の写しは当係に一部を残す。残す期間は三年とした。


(作成 飼育部門 繁殖係)


十一、五の項について


当該の個体の生年は令和百九十六年である。本年度に二の項の範囲へ入った。


五の項に該当した個体の数は、本年度が初めてである。一である。

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