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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第三章 標本

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38/106

第038話 底

定期健康確認 実施要領


適用 E区画およびA区画

定める者 飼育部門 衛生係

最終改正 令和二百五年


一、趣旨


本要領は、定期健康診断とは別に行う確認について定めたものであった。定期健康診断の実施は別に定めがある。


確認は当部門の獣医師が行うこととした。診断と確認を同じ者が行う旨の定めは置いていない。


二、対象


交配の候補として選定した個体は、三月に一度の確認の対象とした。


前項に該当しない個体についても、当係が必要と認めた場合は確認の対象とする。認める基準は定めていなかった。


前項の間隔を個体へ示す定めは無い。示した場合の記録の欄も設けていない。


前年度に該当した個体は二名であった。前々年度は四名であった。


該当しなくなった個体の間隔を戻す手続きは、定めていなかった。


三、確認の項目


体重と身長、体温と脈拍、心音と呼吸音、皮膚と歯列の八項目とした。


項目を増減する場合は当係の判断による。判断の記録は残さない。


八項目のうち、器具を用いるものは四つである。残る四つは目視および触診による。


器具の点検の周期は別に定めた。本要領には記さない。


四、心音について


心音は聴診により確認する。聴診の時間は一分以上とした。


所見を認めた場合は、その旨を記録の欄に記すこととした。欄は「有」または「無」の二つとした。


所見の内容を記す欄は、本要領の定める様式に設けていない。設ける旨の議は令和百九十七年にあった。


当該の議の結果は記録に残っていない。


五、所見を認めた場合の手続き


所見を認めた個体については、当日中に上長へ報告することとした。


報告の様式は定めていない。口頭による報告を妨げない。


上長が事後の措置の要否を判断する。判断の期限は定めていない。


六、個体への通知


確認の結果のうち、次回の確認の日は個体へ通知する。


所見の有無は通知しない。通知しない旨の理由を、本要領には記さなかった。


七、記録の保存


実施の記録は当係が保存する。保存の期間は三年とした。


三年を過ぎた記録の扱いは定めていない。廃棄した記録も残っていなかった。


過去の記録との突合を行う旨の定めも置いていない。前年度に突合を行った記録は無かった。


八、他の部門との関係


本要領による確認の結果は、当部門の他の係へ回付しない。回付する旨の定めが無い。


他の係から結果の提供を求められた例は、令和二百五年以降に無い。


九、備考


本要領は令和百八十四年に定めた。改正は二度である。


いずれの改正も項目の追加によるものであった。削除した項目は無い。


(定める者 飼育部門 衛生係)


──────────────────


 日曜の朝は換気の音が低い。いつもは天井の裏で一定に鳴っている。日曜は運転を落とすので、音が下がって、下がった分だけ他の音が上へ出る。


 他の音というのは、隣の人の寝返りと、廊下の端の水の音だ。

 どちらも平日は聞こえない。無いのではなく、換気の音の下に入っている。

 私は六時に目を開ける。それから、しばらく天井を見た。板は横に六枚並んでいて、端の一枚だけ継ぎ目が広い。前から知っている。


 朝の給餌は四七〇だ。日曜の食堂は人が遅れてくる。私は早く出て、汁を先に飲んだ。そうすると、腹の上が温まる。

 今日は清拭の割当がある。紙は昨日の夕方に出た。そこには資料館第三室と書いてあって、時刻は八時から九時まで、布は乾いたものを用いること、と続いていた。

 今日の紙には板とだけ書いてある。一か月前の紙には硝子も入っていた。減った理由は書いていない。

 あの紙を、私は一か月前にも見ている。あの時は初めてで、坂を上がる前に一度足を止めた。今日は止まらない。

 坂の途中で、白い線の内側を歩いた。線は雨で色が薄くなっている。それでも踏まないでおく。踏むと滑る日がある。


 坂は途中で一度だけ傾きが変わる。そこに継ぎ目があって、その先は少し楽になる。

 軽くなるのは足だけだ。息はそのままだ。それが変わるのは、坂の終わりで一度きりだ。


 上りきると、資料館の屋根の縁が先に見える。屋根は建物の色より濃い。

 色が出るのは濡れているからで、今日は濡れていないのに濃かった。乾いてからも戻るのに日数がかかるらしい。


 資料館の入口の扉は八時に開けてもらう。開館は九時だ。開ける係の人は決まっていて、この人は鍵を三本目から使う。三本目が当たりで、他の二本は開かない。


「今日もお願いしますね」

「はい」


「乾いた布でお願いします」


 籠の中の布は五枚だった。一か月前も五枚である。畳んだ大きさは掌より少し大きい。用いた布は館で処分すると紙に書いてある。

 五枚のうち二枚は端が擦れている。処分するのなら、擦れた布は二度目のものになる。合わない理由は書いていない。


 私は一番上から取る。擦れている側を内へ折って持つと、糸が落ちない。


 第一室は暗い。開館は九時なので、灯はまだ入っていない。

 外の光だけで壁を見ると、白いはずのところが灰色になる。拭いた後の布の色になる。


 室の匂いは一か月前のままだ。乾いた紙の匂いと、その下に薬品の匂いがある。薬品のほうは低いところにあって、しゃがむと濃くなる。


 しゃがむ用は無い。それで、私は一度だけ膝を曲げて、すぐ立った。上がると、匂いは元の濃さに戻る。


 第三室は順路の三つ目だ。入ると、正面の壁にケースが並んでいて、その外側の壁に板が掛かっている。板は二十枚ぶんの場所があって、掛かっているのは十九枚だ。

 空きは右から四つ目にある。そこだけ、壁の色が周りより濃い。四角の外側で、色は少しずつ薄くなっていく。


 濃いところは板と等しい四角をしている。上の縁だけ少し内へ入っている。

 欠けているのは、掛けてあった板の上の縁が丸かったからだ。そういう板は、今掛かっている十九枚に無い。


 私は左の端から始める。一枚目の板に布を当てる。そこから、上から下へ動かす。乾いた布を用いることは紙に書いてある。押すように拭くのは、一か月前に係の人がそう言ったからだ。


 押すように拭くというのは、滑らせないということになる。流すと底へ届かない。

 押すと届く。届いた分だけ、布が底の埃を持ち上げる。その埃は布の目に入って、そこから出てこない。

 一か月前は硝子を先に拭いた。板に掛かったのは八時半からで、九時の十分前に終わった。板だけで二十分だ。

 今日は板だけなので、八時から掛かれる。手は左の端から動いた。


 一枚目は名が二文字だ。この長さの板は十一枚あって、三文字は八枚ある。

 拭くと、指の跡が消える。前に誰かが触った跡が、布の後では出てこない。それを見てから、次のところへ移る。


 跡は板の下のほうに多い。上のほうには無い。触る人の手の高さが決まっているからだと思う。

 私の手の高さは、板の真ん中あたりにある。私の跡だけは残らない。私が拭くからだ。


 六枚目の板は、左から数えて六番目だ。名は三文字だ。そのうち、真ん中の字が一番彫りが深い。画数は三つで一番少ない。


 私は布を持ち直す。それから、一か月前の順で拭いた。上の段が名で、下の二段が番号だ。


 名の一文字目の、横の一画がある。一か月前、私はそこへ布を押し当てた。そうして、糸を一本残した。


 糸は白かった。彫りの底も白いので、離れると見えない。私は爪を立てて取ろうとした。指の先は底へ届かなかった。


 私は今日も爪を立てる。

 爪の先が底に着いた。


 着いたところに糸は無い。指を離して、板から一歩下がった。下がってから、もう一度近づいた。

 近づいて、その一画へ爪を入れる。入る。底に当たる。当たった感じは硬い。入っているところの上で、指の腹はまだ板に触れていない。

 私は隣の字の一画へも爪を入れる。こちらは届かない。爪の先が途中で止まる。止まった時、指の腹はもう板に触れている。


 深い一画と浅い一画が、同じ名の中にある。彫った人は同じで、彫った日も同じはずだ。

 同じ日に同じ人が彫って、深さが違う。


 私は他の板でも試した。二枚目と三枚目の横の線へ爪を入れる。

 どちらも届かない。二枚とも、止まる時に指の腹が板に触れる。


 二つを続けてやった。届くほうと、届かないほうがある。二つは同じ板の同じ名の中にある。


 私は布をもう一度当てる。当てて、上から下へ動かす。動かした後で、また爪を入れた。今度も着く。


 着くのは三度目だ。三度とも一つのところになる。爪の入る深さは指の先の半分だ。そこの底は、他より少し明るい。


 明るいところの幅は、爪の先ほどしかない。外へ出ると他の色に戻る。

 境目のところがぼやけている。指でなぞると、境目のところで一度だけ引っかかった。


 私は爪を入れたままで指を横へ滑らせた。滑る幅は一画の長さぶんある。滑らせる間、爪の先は底に触れたままだ。

 端まで行くと、そこで一度だけ上がった。上がってから、また下がる。下がった先は、さっきの深さに戻った。


 私は板の位置を変えられない。それで、顔のほうを動かした。左へ寄ってみる。明るい。右へ寄る。明るい。しゃがんで下から見ると、幅は細くなった。それでも、消えはしない。

 私は次の板へ移る。それきり、六枚目を振り返らなかった。そうする決まりは無い。決まりの無いことを、私はやらない日がある。


 十枚目まで拭いた。そこで、手が一度襟の後ろへ行った。それから、戻した。札は襟の内に縫ってある。表からは字が分からない。

 札は布で、縫い付けてあるだけだ。取ろうと思えば取れる。そうした人がいるかどうかは知らない。

 知らないので、私は取らない。理由はそれだけになる。


 八時二十分に係の人が入ってくる。黙って、私の後ろに立った。それだけで、何も言わない。


「進んでますか」

「十二枚です」


「じゃあ九時までには終わりますね」


 この人は日誌を持っている。日誌には一行を書く決まりで、書く欄は「作業」だ。何を拭いたかは書かない。


「日誌には何を書くんですか」

「本日の分を一行だけ、ですね」


「一行ですか」

「様式が一行なんです」


 この人は日誌を閉じないで、床を見た。目の先は部屋の隅で、そこだけ板が新しい。他の三つは古いままになっている。


「そこ、去年替えたんですよ」

「どうしてですか」


「私の前の担当の話でして」


 新しい板は色が薄い。それなのに、目地のところだけ他より濃い。詰めたものが違うからだと思う。


 新しいのは一枚ではない。四枚が四角に並んでいる。四枚の外側で古い板と接するところに、段が出来ていた。

 段は爪の厚みくらいだ。歩くと、そこで靴の底が一度当たる。当たる音は他のところより高い。

 私は残りの板を拭く。十九枚を終えたのは八時四十分だった。一か月前は二十分で済んでいる。


 布は五枚とも湿っていない。乾いたもので拭くので、水は使わない。それなのに、拭き終わると色が変わる。変わったところは灰色になる。


 その灰色は埃だ。五枚に均等には付かない。三枚目が一番濃い。それは真ん中の板を拭いた布になる。


 係の人が来て、布を数える。五枚あることを確かめて、籠へ入れる。それから、日誌に一行書いた。


 書く時、この人は日誌を胸の高さで持たない。机の上へ置いて、上から書く。

 書き終えると、頁の端を指で押さえて閉じた。そこに、次の日にも跡が残るのだと思う。

 書いている間、私は板のほうを見ていた。十九枚の板は、一つの高さで並んでいる。それなのに、右へ行くほど字が細く見える。


 細く見えるのは光のせいかも知れない。窓は左にある。そちらから入ると、彫りの右側に影が出る。影があると、字は太く見える。


 太くなるのは左だ。私は右へ寄って、前と等しい角度で見直した。そうすると、細いのが左になった。


 どちらでもない。光の側が太く見えるだけだ。それが分かってから、私は板を見るのをやめた。


 資料館を出たのは九時前だ。下りは千五百二十歩ある。数えたのは九月で、今日は数えなかった。


 園に戻ると九時半だ。日曜はこの後の割当が無い。

 割当が無い時間の過ごし方を書いた紙が、居室の壁に貼ってある。去年のもので、四つの角とも巻いている。


 私は居室へ戻らないで、洗い場の前の廊下に座った。日曜の午前はここに人が来ない。

 床は冷たい。座っている側の腿だけが、しばらくしてから冷たくなる。反対の側は温かいままだ。

 昼の給餌は四七〇だ。日曜の昼は食堂が混む。私は端の卓に座って、汁を先に飲んだ。

 混むのは午前の割当が無い人が多いからだ。その人たちは決まった時刻に来る。

 いつもの時刻に来ると、列の長さが日によって変わる。今日は入口の手前で二度折れていた。


 飲んでいると、すずが入ってきた。入口で一度止まって、中を見て、それから入る。この人はいつもそうする。


 すずは私を見つけたが、こちらへは来なかった。別の卓に座って、そこからこちらを一度見て、それから自分の器へ目を落とす。


 私は待つ。それでも来ない。私は自分の皿を先に食べ終えた。

 それから、すずの卓へ行った。近づくと、この人は匙を置いた。それから、私を見上げる。


「今日は座らないの」

「座っていいですか」


「いいわよ」


 私は向かいに座る。腰を下ろしてから器の位置を整えて、それからこの人の顔を見た。


 この人の顔は、いつものままだ。それなのに、卓に置いた手の位置が違う。いつもは縁に置く。今日は膝の上にある。


「午後に何かありますか」

「あるわ。呼ばれてるの」


「どこにですか」

「診察室よ。心音を聴くんですって」


 この人はそう言って、汁を口へ運んだ。飲み終えて器を戻す。その音がいつもより大きい。


「年に一度じゃないんですか」

「私は三月に一度になったの」


 私は聞き返さなかった。そうすると、この人は説明を始める。一度始まると、途中で止まらない。


 すずは自分から続けた。


「先に言っておくとね」

「はい」


「聴かれたって、何も出ないわよ」


 この人は笑った。そうすると、口の端が右へ上がる。動く側はいつも右になる。


「出ないんですか」

「毎年出てないでしょう。紙にそう書いてあるもの」


 紙に書いてある。私はそれを見たことがない。すずも見ていないはずだ。


「見たんですか」

「見なくても、出てたら呼ばれるでしょう」


 その通りだと思った。それから、私は一つ思い出した。洗濯の損耗のことになる。


 あれは呼ばれなかった。二件目で初めて呼ばれて、一件目は知らないままだった。その一件は、今も帳面の上にある。


 私は言わなかった。口に出すと、この人の顔が変わる。その顔を、私は見たくない。


「終わったら来ますか」

「来ないわよ。夕方まで戻らないもの」


「じゃあ夕方に」

「夕方ね」


 すずは立ち上がった。その時に、卓の縁へ一度手を掛けた。それから、少し止まった。


 その間は短い。それでも、私は見た。目に入れて何も言わなかった。


 午後、私は居室にいた。日曜の午後は割当が無い。空いた時間に何をするかは、自分で決めることになる。

 決めることが多い日は、かえって長く感じる。決まっている日のほうが早く終わる。

 早く終わるのがいいのかどうかを、私は決めていない。放っておいても日は終わる。


 私は袋を出さなかった。出す用が無い。そういう日に手を掛けると、数える。始めると、その日は数のことしか考えない。


 枕の下は少し盛り上がっている。真上から見れば分かる。

 気づくのは私だけで、他の人は自分の枕しか見ない。


 代わりに壁を見た。壁の下のほうに、寝台の脚の当たる跡がある。四つあって、濃さが揃っていない。


 一番濃いのは私が座る側の脚だ。三年ぶんの跡になる。


 私は跡に指を当てる。押しても、へこんではいない。色が変わっているだけだ。それは落ちない。


 跡の高さは、床から掌二つぶんのところにある。他の寝台でも掌二つだ。

 同じなのに、濃さは寝台ごとに違う。跡の濃いものと、薄いものがある。色の薄いのは座らない人の寝台になる。


 拭いたことがある。去年の秋に、布で二度こすった。

 二度こすっても色は動かなかった。それきり拭いていない。やらない理由が一つ増えた。

 換気の音が一度止まった。止まると、部屋の中が急に広くなった気がする。広くなったのは音のほうで、部屋は動いていない。

 隣の人が起き上がった。天井を見て、それからまた横になった。


 止まっていたのは十数える間だ。その先で、また鳴り始めた。音が戻ると、隣の人はもう起きなかった。


 二時を過ぎた頃、私は寝台の上で膝を抱えた。そうすると、胸のところに自分の腕が当たる。

 当たっているところで、自分の心臓の音が分かる。伝わるのは腕を通してで、耳ではない。


 私の音は速くも遅くもない。速い日はあるが、走った後だけだ。

 走らないで速くなることは、私には無い。それが普通なのかどうかは、比べたことがないので分からない。


 比べたことは一度だけある。夏の終わりに、この人の背中へ耳を当てた。

 当てて、しばらく動かなかった。途中から数えている。三十一まで来て、そこでやめた。

 三十一から先は同じだった。

 私はその数を誰にも言っていない。伝える相手もいない。


 三時ごろ、廊下で足音がした。速い運びで、二人ぶんある。日曜の午後には珍しい。


 私は扉のところまで行った。そこから、隙間を覗いた。目に入ったのは白い上着の裾だけで、顔は分からない。

 足音は診察室へ向かった。それきり、戻ってこない。来ないので、私は寝台へ戻った。

 戻ってから、扉のほうをもう一度見た。隙間から入る光の幅は、朝のままだ。

 同じなのに、朝より明るく見えた。部屋のほうが暗くなっているからだ。


 四時前に、廊下をもう一度誰かが通った。今度は一人ぶんで、遅い足音だ。

 遅い足音は止まらないで、そのまま向こうへ抜けた。行き先は食堂になる。


 夕方の給餌は四七〇だ。今日は早めに食堂へ入って、端の卓を取った。


 端の卓は脚が一本だけ短い。体重を掛ける側で傾く。それを知っているので、私は中央へ寄って座る。

 中央に座ると、向かいの人との距離が縮む。それに気づく人と、気づかない人がいる。


 すずが来た。向かいに腰を下ろして、そのまま食べ始める。今日は器を動かさなかった。


「終わりました」

「終わったわ」


「どうでしたか」

「何も言われてないわよ」


 この人は汁を一口だけ飲んで、器を戻した。その音は昼より小さい。


「次はいつですか」

「三月って言われたわ。紙をもらったの」


 すずは作業着の内側から紙を出した。それを、卓の上へ置く。紙は折ってある。筋は一本だ。


 折り目は真ん中ではない。上から三分の一のところにある。

 三分の一で折ると、文字の並びが真ん中で切れない。この人はいつもそこを使う。


 私の折り方は真ん中だ。そこで折ると、上と下が等しくなる。

 揃っていると、袋の下へ入れる時に納まりがいい。納まりで折る人と、読みやすさで折る人がいる。


 私は読んだ。書いてあるのは三行で、一行目に次回の日、二行目に場所、三行目に「所定の時刻に来ること」とあった。


 それだけだ。他には何も書いていない。


 紙の下は空いている。そこに罫は引いていない。

 線が無いので、何を書く場所なのかも分からない。書く場所ではないのだと思う。


「これだけですか」

「これだけよ」


「聴いたことは書いてないんですね」

「書く欄が無いんでしょう」


 この人はそう言って、紙を畳んだ。それから、また作業着の内側へ入れる。その時に、胸のところで一度手が止まった。


 止まったのは短い。昼と等しい。

 昼に止まったのは卓の縁のところで、今は胸のところだ。場所は違う。

 長さは同じだ。その間で止まるものが、一日に二度あった。


「先生は何か言いましたか」

「一分より長かったわ」


 私は聞き返した。


「一分ですか」

「聴診はね、一分以上って決まってるの。今日は二分あった」


 この人は正確だ。時々ひどく細かくなる。それなのに、そこから先を言わない。

 黙った先に何があるのかを、私は聞かない。尋ねると、この人は笑って別のことを言う。


 一分以上という決まりを、この人は知っていた。私のほうは知らない。

 分かる人と分からない人がいて、その差が何処から来るのかは見えない。すずは掲示を見ない人だ。


 見ないのに知っている。その経路を、この人は言わない。


「長いと、何かあるんですか」

「さあ。長い日と短い日があるだけよ」


 私は頷いた。それから、実を一つ食べた。昼より柔らかい。

 二度で噛み切れる。その間に、言うことを考える時間が残る。


 私は器の縁を指でなぞった。それから、考えた。考えて、口に出さなかった。

 黙ったのは、聞いていいことと悪いことがあると、この人が前に言ったからだ。

 どちらがどちらかは教わっていない。習わないでいるうちに、私は分けている。

 分け方は間違っているかも知れない。それでも、指摘する人が一人もいなかった。


 この人は今日も自分の器から何も移さない。私のほうからも渡さない。

 やり取りをしないのが、この人との食べ方だ。

 食べ終わって、二人で立った。席を離れる。この人が先に歩いた。


 先に歩く時、この人の歩幅はいつも通りだ。それなのに、扉のところで一度止まった。それから、こちらを振り返らないで出ていった。


 この人が先に出るのは、今日が初めてだ。いつもは私が先に立つ。

 立つ順を決めた覚えは無い。それでも、順はある。

 私は少し遅れて出た。廊下は日曜の夜の音がする。換気は落ちたままで、水の音が長く続いた。


 水の音は洗い場からだ。日曜の夜は当番が二人で、平日より一人少ない。

 少ないと終わるのが遅くなる。それでも、終わりの時刻を書く紙は無い。


 廊下の途中に掲示板がある。私は前を通る時に、いつも一度だけ目を上げる。

 今日は三月の予定の表が出ていた。A区画の欄は二つ増えたままになっている。足されたのは先週で、今週は動いていない。


 私は欄の数を数えなかった。増えた分の位置は、上から三つ目と五つ目だ。

 表は画鋲で四隅を留めてある。右の下の一本だけ紙から半分外れていて、その角が反っていた。その裏に、前の表の紙が一枚残っている。


 居室へ戻ると、隣の人がもう横になっていた。私は寝台の縁に座った。それから、右の人差し指の爪を見る。形は左と違う。右が縦に長い。使う側だからだと思う。


 爪の先に、薄い灰色が入っていた。埃だ。洗ったのに残っている。溜まるのは爪と指の間で、そこは布が届かない。

 私は爪の先を、寝台の板の目へ入れてみた。入る。爪の先が底に着く。

 届くまでに沈むのは、爪の先の半分ほどだ。板の目を端から端まで指でなぞる。引っかかるところは無い。


 寝台の板は五枚並んでいる。目はどれも縦に走っていて、幅は指一本の中に三本か四本入る。

 私は三枚目の目に爪を入れたままにした。そのまま十を数えて、抜いた。爪の先に、木の粉は付かなかった。


 手を膝の上で組む。そうすると、右の爪の際の灰色が左の掌に当たる。触れても付かない。濡れていないと移らなかった。


 窓の外は暗い。日曜は廊下の灯も落とすので、部屋の側が明るくならない。

 明るくならないと、硝子は外を見せる。向こうは暗いので、何も見えない。

 隣の人の息が、数える間に四つ入った。私は数えるのをやめて、横になった。


──────────────────


定期健康確認 実施記録


第七園 飼育部門 衛生係

実施日 令和二百十二年十二月十二日(日)

実施者 当部門の獣医師一名

対象 本日の確認の対象とした個体 九名


一、実施の状況


九名について、要領の定める八項目を確認した。


未実施の項目は無かった。


二、所要


一名あたりの所要は、最も短いもので六分、最も長いもので十四分であった。


所要の差の理由は記載しない。記載する旨の定めが無い。


九名の合計は八十一分である。前回の同じ人数の実施は七十四分であった。


差の七分について、当係は要因を検討していない。検討を求める定めも無かった。


三、心音


聴診の時間は、九名のいずれについても一分以上であった。


最も長いものは二分である。最も短いものは一分であった。


所見を認めた個体は一名であった。


四、所見の欄


所見の欄は「有」または「無」の二つによった。当該の一名については「有」とした。


所見の内容を記す欄は、本記録の様式に無い。したがって記載しない。


五、上長への報告


要領 五により、当日中に上長へ報告することとした。


報告は口頭により行った。報告した旨を記す欄は、本記録の様式に無い。


六、事後の措置


事後の措置の要否は上長が判断する。判断の期限は定めていなかった。


本記録の作成の時点において、判断は示されていない。


七、他の八名について


八名については、いずれの項目にも所見を認めなかった。


八名のうち六名は、前年度も所見が無かった。残る二名は本年度が初回である。


初回の確認となる個体について、過去の記録との比較は行っていない。比較する記録が無いためである。


八、当該の個体について


当該の一名は、本年度の交配候補として選定された個体である。


選定は当部門の繁殖係が行った。衛生係は当該の選定に関与していない。


選定の可否について、本記録は何も示さない。示す旨の定めが無い。


九、備考


本記録は当係が保存する。保存の期間は三年とした。


九名のうち、次回の確認が三月後となる個体は一名である。残る八名は一年後である。


当該の一名には、次回の確認の日を通知した。所見については通知していない。

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