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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第三章 標本

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37/106

第037話 三度目

伺い


件名 本年度の交配候補の選定について

起案 飼育部門 繁殖係

決裁 部門長


一、趣旨


保全管理体 第一号から、本年度の交配候補の順位が送付された。


送付は令和二百十二年十二月一日である。順位は二十組を示すものであった。


当該の順位により、当園の候補を選定したい。


二、選定の考え方


順位は平均血縁の値の低い順によっていた。値の算出は第一号が行っている。


当園はこの順位を尊重する。尊重する旨は令和百六十九年の申し合わせで定めた。


ただし順位に示された組のうち、当園の内部で完結するものは三組であった。残る十七組は他園に係る組である。


三、順位に示された組の内訳


順位の二十組のうち、当園の個体を含む組は五組であった。


五組のうち、当園の内部で完結するものは三組である。残る二組は雌雄のいずれかが他園の個体になる。


当園の個体を含まない組は十五組であった。当該の十五組について、当園は判断を要しない。


四、他園との組について


他園との組は輸送を伴う。輸送は当園の予算に計上していなかった。


本年度、当園から他園へ送出した個体は無かった。前年度も無かった。


輸送に係る協議は行っていない。行う旨の定めも置いていなかった。


五、内部で完結する三組


三組のうち一組は、雌の側が前年度の健康診断において所見を認めた個体である。当該の個体は候補から外した。


別の一組は雄の側に本年度中の転出の予定があった。当該の組も候補から外した。


残る一組を候補とした。


六、追加の選定


一組では本年度の計画に足りない。足りない旨は繁殖係の見込みによった。


見込みの根拠を記した書面は作成しなかった。作成を要する旨の定めが無い。


したがって、順位に示されていない組から二組を追加して選定したい。


七、追加の基準


追加は、展示適性等級および健康記録により選定する。


等級は甲を優先する。優先する旨は令和百八十二年の内規で定めた。


健康記録は直近三年に所見の無いものを可とした。


八、来館者に係る事項


当園の月間の順位表において上位にある個体は、来館者からの照会が多い。


照会の多い個体について、繁殖に係る事項を来館者へ示すことはしない。示す旨の定めが無い。


ただし当該の個体を候補から外す旨の定めも無い。


九、前年度までの状況


前年度、当園が選定した組は一組であった。当該の組は第一号の順位によるものではない。


前々年度は二組である。うち一組が順位によっていた。


順位によらなかった組について、機構から照会を受けたことはない。


十、備考


本件の選定は当園の判断による。第一号への通知は行わない。行う旨の定めが無い。


選定の理由を記す欄は、機構への返送の様式に設けられていない。


(起案 飼育部門 繁殖係)


──────────────────


 土曜の午前は面会がある。そう言っても、来る人がいるわけではない。A区画の広場を開けて、私たちがそこにいて、外の人が柵の向こうから見る。それだけのことを面会と呼んでいる。


 私は左から二番目の椅子に座る。三年前からずっとこの椅子で、他の椅子に座ったことは二度しかない。二度とも係の人に言われて動いた。場所が変わると、こちらを見る人の顔の向きが揃わなくなる。


 そうなると、みんな困った顔をした。だから私は左から二番目に座る。座って、少し首を傾ける。角度は自分で決めた。

 決めたのは十四の年だ。鏡を見て、右へ傾けると左より通りがいいと知った。それからは、ずっと右にしている。


 九時半に柵の外の人が増える。時刻はいつも同じで、団体の便が着くからだ。

 便が入ると、まず子どもが走ってくる。柵に手を掛けて、それから後ろを振り返って親を呼ぶ。


 親は少し遅れてくる。子どもは私を指す。

 それから、名前を言う。名前は外の紙に刷ってある。

 外の人の匂いは、こちらと違う。石鹸が強くて、その下に外の空気がある。それは冬になると乾いた匂いだった。乾いたものは柵の隙間から入って、広場の真ん中まで来ない。


 真ん中まで来るのは消毒液の匂いだけだ。椅子は朝に私たちが拭く。その後の手は昼まで匂う。子どもが手を伸ばしてくる時、私の手はその匂いをしている。


 匂いのことを言う子はいない。柵から椅子まで、大人の足で四歩ある。


 紙には順位が出ている。月ごとに数えて、上から並べたものだ。何を数えているのかは書いていない。それでも、みんな分かっている。


 私はその紙を見たことがある。去年、係の人が持って歩いていて、風で落ちた。それを拾って渡した時に、上を読んだ。

 一番上に私の番号があった。下に別の番号が並んでいて、先へ行くほど字が小さくなる。行の幅は等しくて、桁だけが増えている。


 拾って渡すと、係の人は「ありがとう」と言った。それから、紙を裏返して持ち直した。もう見た後だった。

 十時に一度、水を飲む時間が入る。これは決まりで、私が頼んだわけではない。

 頼んで入った決まりを、私は一つも知らない。

 水は紙の器で出る。器は一度きりで、飲んだら箱へ入れる。

 箱は椅子の後ろにあって、外から見えない位置に置いてある。誰かがそこを選んだのだと思う。中の器は八つで、朝に数えてある。


 水を飲むと、胸の奥で一度だけ音が変わる。前からのことで、いつからかは覚えていない。速くなる長さは数えて六つだ。

 音は自分にしか分からない。前に一度だけ聞かれて、答えたことがある。その先から何も戻ってこない。

 それきり言っていない。口に出すと、その日から扱いが変わる。そうなった人を、私は二人見ている。


 一人は去年、A区画から出た。もう一人は今もいるが、面会の広場には来ない。来なくなった人の椅子は、翌月には無くなっている。


 だから私は水を飲む時に器を下ろさない。

 十一時に子どもが一人、柵の隙間から手を入れた。その手は届かない。

 届かないのに、私は少し前へ出る。そうすると、その子は笑う。


 前へ出る距離は決めてある。半歩になる。

 半歩より出ると届いてしまう。触れると係の人が来る。その子は手を引っ込めて、親のところへ戻る。


 戻った子は、もう来ない。そういうのを見たことが三度ある。どれも、その日の午後は柵の前が空いていた。


 だから半歩にする。それは届かない距離で、届きそうに見える距離だった。

 この距離を私は自分で測った。十五の年になる。靴の先から柵まで、踵を付けて四十二センチだ。


 子どもが笑うと、後ろの親が写真を撮る。それが何処へ行くのかは知らない。分からなくても、撮られる時の顔は決まっている。

 この顔は十七の年ぶん拵えてきた。今はもう、作らなくても出る。


 昼の前に、係の人が広場の端で私を呼んだ。その時に番号を言わない。

 この人は名前で呼ぶ。そうする係の人は二人しかいなくて、どちらも十年より長くここにいる。


 番号で呼ぶ人が多い。多いのが決まりで、少ないのは決まりではない。

 決まりでないものを、私はよく覚えている。


「すずさん、あとで事務室のほうへ」

「はい」


「急ぎではないんですけど」


 急ぎではないと言う時は、たいてい紙が出る。急ぎのものは、その場で言われて終わる。

 昼の給餌は四四〇だ。土曜は汁が少し濃い。器の底に沈むものが一つ増える。前の日の残りを足すのだと聞いた。誰の口からかは忘れた。


 私は食堂の窓の側に座る。向かいにH-0006が来た。

 この人は洗濯当番の三人のうち一番年上で、私が来る前からここにいる。何年いるかは自分でも言わない。


「今日は多かったわね。土曜だから」

「団体の便が二つ着いたのよ」


「あなた、疲れた顔してるかしらね」

「してないわ。見てたなら分かるでしょう」


 H-0006は笑った。声が短くて、部屋の中でよく通る。この人の笑い方は昔からこうだ。


「呼ばれたでしょう。さっき」

「見てたのね。あなたは何でも見ているわ」


「見えたのよ。名前で呼ぶ人だもの」


 この人は何でも見ている。それなのに、見たことを人に言わない。

 黙っているから、みんなこの人の前で気を抜く。緩んだところも、この人は見ている。


「今月も一番だったんでしょうね」

「見たのね。あれは貼り出さないはずよ」


「あなた、外の人の並び方が違うもの」


 並び方は変わる。上の人の前だけ二列になる。

 二列になると、後ろの人は前の人の肩越しに見ることになる。そういう人は、写真を撮らない。撮っても写らないからだ。


 私は汁を飲んだ。そうすると、胸の音が一度速くなって、それから戻る。落ち着くまでの間、私は器を持ったままでいる。


 そうしていると、誰も気づかない。置くと、その手が震えることがある。出るのは十回に一回くらいで、いつ来るかは分からない。

 H-0006が別の話を始めた。この人は間が空くと必ず何か言う。

 言うことに中身が無い時もある。


「明日は日曜ね。図書室が開くわね」

「行かないわ。日曜はすることがあるのよ」


「あなたは本を読まない人だもの」


 読まないのではない。その時間に別のことをしている。

 別のことというのは、鏡の前に立つことだ。髪を分ける位置は月ごとに少しずつ動かしている。


「食べたら行ってらっしゃいな」

「そのつもりよ。あなたも行くんでしょう」


 午後一時に事務室へ行った。事務室は棟の一階の東側で、扉が二つある。私は右の扉から入る。左は職員が使う。


 係の人は机の前に立って待っていた。座っていない。

 座っていないのは、話が短いからだ。長い時は椅子が出る。座らせる時は、もっと長い。


「こちら、通知になります」


 差し出された紙は一枚だった。折っていない。この形で来るものは、後で何かが起きる。

 事務室は廊下より暖かい。机の下に暖房の口があって、そこから足の側に風が来る。

 私は受け取って、その場で読んだ。右上に私の番号が刷ってある。

 その下の行が件名で、「本年度の交配候補の選定について」と読めた。


 その下に、選定されたことが書いてある。文は三行で、終わりの行に私の番号がもう一度出る。


 紙に名前が出るのは、これで三度目になる。

 一度目は九つの年だ。縫いぐるみを作るという紙で、そこに私の番号があった。紙は係の人が持っていて、私は横から見た。


 二度目は去年の、風で落ちた紙になる。あれは名前ではなく番号だったが、私は同じものだと思っている。そう考えているだけで、確かめてはいない。


 三度目が今日になる。今日のものは三度目にして初めて私の手の中にある。持っていていい紙だ。


 持っていていい紙を、私は今まで一枚も持っていなかった。

 割当の紙は捨てる決まりになっている。掲示は貼ってあるもので、剥がすと叱られる。手紙は箱に入れたら戻らない。


「そちら、お読みになれますか」

「読めるわ。字はどちらかといえば大きいほう」


「分からないところは伺いますので」


 分からないところは無い。書いてあるのは、選ばれたことと、次の手続きが年明けになることと、それまでに健康の確認をすることの三つになる。


 私は紙を胸の高さで持った。そのままもう一度上から読む。終わって、また上から読む。四度読んだ。

 四度読んでも、字は増えない。それなのに、四度目が長くかかった。


 私は紙を膝の上へ置いて、掌で押した。そうすると、折り目のない紙が少し反る。上がるのは右で、机に近い縁が浮く。

 その下に、机の木の目が見える。目は縦に走っていて、紙の字の向きと直角だ。

 押しているのを係の人が見ていた。それでも、何も言わない。


「この順番はどうやって決まるものなの」

「機構のほうから、組の順が来ます」


「その順の中に私は入っている。そうでしょう」

「私の側では分かりません」


 この人は分からないと言う時に目を逸らさない。

 逸らさない人の分からないは、たいてい本当だ。


 私は机の上を見た。綴りが三つ積んであって、上の一つだけ紐の色が新しい。角も潰れていない。


「等級で決まるのよ。そう聞いているわ」

「そういう見方もあるかと思います」


 この人はそれ以上言わなかった。黙って、机の上の綴りを揃える。それから、私を見た。


「三月に一度、心音を聴きます」

「心音なら毎年やっているじゃないの」


「本件では、回数が増えます」


 増える。この語は私にとって新しい。

 年に一度だったものが三月に一度になる。四倍だ。そうする理由を、この人は言わない。


 私は紙をもう一度見た。健康の確認、と書いてある。それだけで、回数は書いていない。


「この紙には回数が書いてないわね」

「様式に回数を書く欄が無いんです」


 欄が無い。私はその言い方を前にも聞いたことがある。

 去年の一年で、係の人がその言い方を私に言った回数は十九だった。次に多いのは、定めが無いだった。


 十九のうち、後で定めが出来たものは無い。数えたのは去年の分だけで、今年はまだ数えていない。


「聴くのは誰なの。決まっているんでしょう」

「香月先生になるかと思います」


「香月先生なら知ってるわ。長いもの」

「そうでしたね。長いですものね」


 この人はそう言って、私の紙の端を見た。目だけで、手は出さない。触れないのが決まりなのだと思う。


 事務室を出て、廊下を歩いた。その間、紙を見ないようにした。

 目を落とすと、また四度読むことになる。それで済むかどうかも分からない。


 廊下には人がいなかった。土曜の午後は当番が少ない。

 それなのに、突き当たりの扉の向こうで水の音がしていた。誰かがいるということになる。


 私は音のするほうへは行かない。行く用が無い。突き当たりまでは二十六歩ある。そういう場所へ入ると、後で聞かれる。その時に答えることがない。


 廊下の窓は西を向いている。午後の光が床の途中まで来ていて、そこで止まっている。光の切れるところに、自分の影が薄く出た。

 影の首が右へ傾いている。そうしているつもりは無い。それなのに曲がっている。

 私は首を戻した。そうすると、影の形が変わる。真っ直ぐなほうが、私には慣れない。

 区画へ戻る途中で、紙の裏が目に入った。裏は白い。それなのに、斜めの光の下では字が浮いて見える。

 浮いているのは、前に上へ載っていた紙の跡になる。

 書く時に押した力が、下の紙まで通ったのだと思う。押した人は気づいていない。


 跡は番号の形をしている。

 私の番号ではない。頭の字が違う。


 私はその紙を明るいほうへ向けた。

 向けると、跡は消える。角度を戻すと、また現れる。出たり消えたりするので、桁は数えられない。


 数えられないものを、私は覚えておくことにした。

 頭の字だけは分かる。読めるのは一つで、それ以上は追えない。私の頭にある字と同じ形だ。

 区画へ戻ると、広場はもう閉まっていた。椅子は片づけられている。

 左から二番目の椅子だけ、脚の跡が濃く残っていた。他の椅子の跡は薄い。

 三年ぶんの跡だ。濃いのは私がそこに座っているからだ。

 座らなくなれば、跡は消える。何年かかるかは知らない。


 私は跡の上に立ってみた。

 立つと、椅子の脚の四つの跡が、自分の靴の外側に来る。その真ん中に立てる。そこにいても、外からは誰も見ていない。


 三年の間、この跡の位置は同じところにある。

 動かさないのは私で、動かすなと言われたことは一度もない。誰にも言われていないのに、私は同じ場所へ椅子を戻し続けている。


 広場の柵の向こうは、もう暗い。

 暗くなると、柵の縦の棒だけが見える。間は昼と等しい。寸法は動かないのに、暗いと狭く見える。


 夕方の給餌は四四〇だ。

 私は少し早く行った。先に着くと、卓が選べる。


 私は端の卓に座った。それから、あの子を待った。卓の縁に爪の跡が三つ並んでいる。

 あの子は毎日ほとんど同じ時刻に来る。刻限を決めているわけではないと思う。そうしていたら、もっとずれない。


 来たのが分かるのは、足の音でではない。

 扉のところで一度止まるからだ。止まって、中を見て、それから入る。誰かを探しているのだと思う。


 あの子は私を見つけて、こちらへ来た。

 来て、向かいに座る。それから、皿の位置を直す。この子は座る度にそうする。


 直す幅は指一本ぶんもない。直した後の位置は、いつも卓の縁から同じところにある。

 揃えているのを、この子は言わない。黙っているので、気づいているのは私だけだと思う。


「外にいましたか」

「いたわよ。土曜は必ず出るものなの」


「多かったですか」

「便が二つよ。子どもは十人より多かったわ」


 この子は数を聞く。いつも数だ。

 多いか少ないかではなく、いくつだったかを聞いてくる。


 私は答えられる時は答える。

 答えられない時は、だいたいで言う。そうしても、この子は不満そうにしない。


 私は紙のことを言わなかった。

 黙ったのは、口に出すと説明が要るからだ。それを始めると、この子は最後まで聞く。私は言わなくていいことまで言う。

 言わなくていいことは、胸の音だ。


 この子は前に、私の背中に耳を当てたことがある。

 九月の終わりの土曜で、ふれあいの控室だった。椅子が六脚あって、南の窓から光が入る。私が背を向けたら、この子が当てた。


 当てたまましばらく止まっている。この子が動かないので、私も動かない。

 私は数を聞いた。三十まで行ったかと聞いた。この子は途中で分からなくなったと答えた。


 その後で、一度だけ「はい」と言った。

 何に対しての「はい」かを聞かずにおいた。


 あれから、この子は一度もそのことを口に出していない。

 こちらも言わずにいる。二人でそう決めているのだと、私は思っている。考えているだけで、確かめてはいない。


「すずさん」

「なあに。まだ食べているところよ」


「何かありますか」


 私は匙を止めた。

 それから、この子の顔を見る。向こうはこちらを見ていない。皿を見ている。


「どうしてそんなことを思ったの」

「掲示に出ています」


 掲示に出るものがある。

 私は掲示を見ない。そう決めている。目をやると、自分の番号を探すからだ。


「なんて出ていたの。読んだんでしょう」

「三月の予定の表に、A区画の欄が二つ増えていました」


 この子は掲示の欄の数を数える。

 数えて、増えたところを覚えている。それなのに、何が増えたかは分からないままでいる。


「二つ増えたのね。よく数えているわ」

「はい」


 私は汁を飲んだ。

 最後まで飲んで、器を戻す。その手は震えなかった。

 出る日と出ない日の違いを、私はまだ見つけていない。


「私は選ばれたのよ。今日、紙が出たの」


 言ってしまってから、私は自分の口を見た。

 見えるわけがない。それでも見ようとした。


 この子は皿から目を上げた。

 上げて、少しの間、何も言わない。


「何にですか」

「来年の、子どもを作るほうによ」


 この子は瞬きを二度した。

 二度目が長い。その瞬きの後で、この子は聞いた。


「おめでとうですか」

「そう聞くものじゃないでしょう」


 私は笑った。

 笑うと、胸の音が一度変わる。そのことを、この子は知らない。


「どう決まりますか」

「甲だからよ。あと、丈夫だからね」


 私は丈夫だ。

 紙にそう書いてある。直近三年、所見が無いと書いてある。所見が無いのは、聴いた人がいなかったからではない。聴いて、無いと書かれたからになる。


 この子は何か言おうとして、やめた。

 それから、実を一つ食べる。飲み込んで、また聞いた。


「嬉しいですか」


 私は答えなかった。黙って、この子の皿を見た。

 実が二つあって、片方が沈んでいる。下にあるものは、いつも同じ側だ。


 この子は聞いてはいけないことを口にする。

 言ってから、聞いてはいけなかったと分かる。その顔を、外から見て取ることは出来ない。


「そういうことは聞かないものなのよ」

「はい」


「聞いていいことと、悪いことがあるのよ」

「はい」


 この子は「はい」と言った。

 それから、下にある実を掬った。手を止めずに私の皿へ移す。


 移されたのは初めてだ。

 この子は移さない。そういう子だと、私は思っていた。


「いいのよ、そんなことしなくても」

「食べてください」


 私は食べた。

 食べると、思ったより固かった。下にあったからだと思う。


 食堂を出る時、この子が後ろから来た。

 来て、私の横に並ぶ。それきり、何も言わない。


 私も言わない。

 廊下の途中で、この子が先に曲がる。角で一度だけこちらを見て、それから行った。


 区画へ戻って、私は寝台に座った。

 それから、紙を出す。広げて、また上から読む。五度目になる。

 隣の寝台の人は、もう横になっていた。

 この人は私より二つ下で、去年の順位表では六番目にいた。今月は九番目になっている。


 順位が下がった月の翌週は、この人は口をきかない。

 きかない理由を言わないので、私も聞かない。


 私は紙の音を立てないように広げた。

 立てても向こうは何も言わない。それでも、寝返りの回数が増える。


 五度読んでも、字は増えない。

 変わらないのに、私は六度目を読んだ。その時に、初めて下の小さい字に気づいた。


 小さい字は括弧の中にある。

 括弧の中は「本通知は選定を示すものであり、実施を約するものではない」と読めた。


 約する、という言葉を私は知らない。

 知らないが、意味は取れる。同じ形で終わる紙を、私は前にも読んでいる。


 私は紙を畳んだ。それから、枕の下へ入れる。

 枕の下には縫いぐるみが入っている。紙はその下へ置いた。上にすると、寝ている間に折れる。


 縫いぐるみは布の匂いがする。

 古い布の匂いで、洗っても取れない。水を通したのは二度で、どちらも係の人がやった。私はやらせてもらえない。

 やらせてもらえない理由は聞いていない。

 聞かなくても分かる。私が触ると、傷むと思われている。


 縫いぐるみは私の形をしている。

 背中に縫い目があって、そこだけ糸の色が違う。一度ほどいて縫い直したからだと聞いた。


 誰が縫い直したかは聞いていない。

 聞いていないので、私は知らない。そのままにしてある。


 消灯の前に、私は仰向けになった。そうすると、胸の音が枕まで来る。

 伝わるのは寝台の板が硬いからだと思う。板は全部の寝台で同じだ。

 この音を、私は十七年ぶん聞いている。

 初めて気づいた年は覚えていない。気づく前から鳴っていたはずで、鳴っていた分は数に入らない。


 三月に一度、誰かがこれを聴く。

 聴いて、紙に書く。その紙は私の手元に来ない。それについて、私は何も言えない。


 横を向いた。

 音は遠くなる。それでも、消えはしない。数えると、十のうち一つが速い。


 消えないものを、私は十七年ぶん聞いている。


 枕の下で、紙は縫いぐるみの下にある。

 上から一度だけ押した。その手の下で、硬いところが四つあった。

 消灯まで、まだ少しある。

 私は起きて、洗面所へ行った。日曜の前の晩は人がいない。


 鏡は上の隅が曇っている。これは拭いても取れない。硝子の裏の側だと聞いた。広さは手のひらの半分ほどになる。

 そこを避けて立つと、顔は左へ寄る。私はいつもそうしている。


 私は首を右へ傾けた。角度は十四の年に決めた。

 決めてからずっと変えていない。そのつもりで、鏡の中の角度は昼に見たものより浅い。


 そこから戻す。動かすと、首の後ろが引っ張られる。右の付け根から肩へ抜ける筋を通ってから止まる。

 その先で十を数えた。終わっても、鏡の中は動かない。


 水を出して、手を洗った。水は冷たい。

 拭く布は掛かっていない。私は指を振って落とした。水は三滴だ。飛んだ分は床の同じところへ散る。その跡は朝には乾いている。


 鏡から離れる時、私はもう一度だけ首を傾けた。

 傾けた顔が、鏡の中では明るい。曇りの外に出るからだ。


──────────────────


選定結果通知


宛先 A-0114

発出 飼育部門 繁殖係

番号 飼育繁殖第八十七号


一、選定


本年度の交配候補として、標記の個体を選定した。


選定は当園の判断による。


二、根拠


展示適性等級が甲であることによる。あわせて直近三年の健康記録に所見が無かったことによる。


等級は本年度の審査により定めた。健康記録は当園の定期健康診断の記録による。


いずれの根拠についても、個体へその旨を示す定めは無い。本通知では示した。


三、手続き


次の手続きは令和二百十三年の一月以降とした。日は追って示す。


それまでの間、健康の確認を行う。確認の方法は当係が定めた。


方法を個体へ示す定めは無い。示さなかった場合の手続きも定めていない。


四、健康の確認


確認は三月に一度とする。回数を通知の様式に記す欄は無いため、本項に記した。


前年度までの確認は年に一度であった。増える旨を個体へ示す定めは無い。


五、本年度の選定の内訳


本年度、当園が選定した組は三組である。


うち一組は、保全管理体 第一号が示した順位によるものであった。


残る二組は、当園が追加して選定した。追加の根拠は本通知 二による。


六、機構への通知


選定の結果は所定の様式により機構へ返送する。返送は月末とした。


返送の様式に、選定の理由を記す欄は無い。


理由を記した書面を別に添える例は、当園では過去に無かった。


七、備考


本通知は選定を示すものであり、実施を約するものではない。


実施しなかった場合の通知について、定めは置いていなかった。


本通知の写しは当係に一部を残す。残す期間は五年とした。


(発出 飼育部門 繁殖係)


八、来館に係る事項


本件について、来館者へ示すことはしない。示す旨の定めが無い。


当該の個体に係る来館者からの照会は、本年度に二百件を超えた。照会の内容は本通知の範囲に無い。

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