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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第三章 標本

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35/106

第035話 回答

宛先 J-0037


照会回答書


件名 標本に係る記録の閲覧について

発出 飼育部門 記録係

番号 飼育記録第二一一号


一、経過


本件の照会は令和二百十二年十一月十四日に受け付けた。受け付けた場所は資料館の窓口であった。


同日、資料館は当該の照会が自館の所管に属さないと判断した。判断の根拠は照会の対象に死亡の事由に係る記録が含まれていたことであった。


判断を行った者の記載は無い。記載を要する旨の定めも置いていない。


同月十六日に資料館から当部門へ回付があった。回付の様式は所定のものによった。


同月十八日に当部門は回付を受理した。受理から確認までに要した日数は七日である。


所定の期間は十四日となる。したがって期間の内側で処理している。


二、照会の内容


照会の内容は標本に係る記録のうち名の記載のある部分の閲覧であった。


対象の個体は照会者の申し出により特定した。特定の方法は照会者が窓口で口頭により述べたものであった。


述べた内容は記録していない。記録する旨の定めが無かった。


照会の様式には理由の欄がある。当該の欄は空であった。空のまま受け付けてよい旨は様式の裏面に記してある。


三、回答


当部門は、照会に係る記録を確認した。確認は令和二百十二年十一月二十五日に行った。


対象の記録は、標本化の申出に添えた書面に含まれる。当該の書面は、標本化の完了をもって資料館へ回付済みである。


回付の日は令和百九十六年である。日以下の記載は無い。


したがって当部門は、当該の書面を現に保有していない。


四、閲覧について


当部門が保有しない書面について、当部門は閲覧に応じられない。


資料館が保有する書面の閲覧は、資料館の定めるところによる。当部門はこれに関与しない。


五、再度の照会について


同一の内容による再度の照会は、様式の上で妨げていない。


ただし回答の内容は本書と同一になる。同一になる旨をあらかじめ示す定めは無かったため、ここに記す。


六、同種の照会について


本年度、当部門が受理した個体からの照会は本件を含めて三件であった。前年度は一件である。


三件のいずれについても、回答の内容は本書と同じ形になった。同じ形になる理由は書面に残していない。


七、備考


本件に係る回付および回答はいずれも所定の期間の内側で行った。遅延は無かった。


処理の経過に誤りは認められなかった。誤りを認めた場合の手続は別に定めがある。本件では用いていない。


本書は個体へ交付する。交付の日は令和二百十二年十一月二十九日とした。


交付の記録は当番の日誌による。日誌の保存年限は五年である。


本書の写しは当部門に一部を残す。残す期間の定めは無かった。


(発出 飼育部門 記録係)


──────────────────


 月曜の朝は湯が濁っている。週の初めは、管の中に溜まったものが先に出る。

 私は栓を左へ回して、十秒ほど流してから桶を置く。冷たいものが先に来る。それから少しずつ温かくなる。四十度くらいになったところで栓を戻す。計る器具は無いので、手のひらの側で決める。


 手の甲では分からない。

 甲は湯に慣れるのが早い。慣れると、熱いのか温いのかが分からなくなる。私は手のひらを使う。手のひらは指の付け根のところが一番先に痛くなって、痛くなったら熱い。


 洗剤は百倍に薄める。原液は指に付くとぬめる。

 ぬめりは水では落ちない。湯を当てると流れる。取れた後も匂いは残る。それは高いところにあって、湯気に乗って上がるからだと言われている。話したのは去年の当番の人で、その人はもういない。

 作業着は袖から浸ける。袖は汚れが濃い。

 先に湯へ入れるのは袖で、そうすると後の水が汚れにくい。順は決まっていて、紙にも出ている。そのとおりにやると、終わる時刻がだいたい同じになる。


 今日は始めが遅かった。原因は湯を流す時間のぶんだ。

 遅れた分は、途中で戻らない。取り返すには一枚あたりの手を早くするしかなくて、そうすると押しが浅くなる。浅いと乾きが遅い。乾かないと紐が足りなくなる。


 朝の給餌は四七〇で、月曜は食堂が空いている。

 空いているのは洗濯の当番が先に出るからだ。私も同じだ。早く着くと、汁の温度がまだ高い。熱いうちに飲むと、腹の上が先に温まる。


 その熱は洗濯室に着くまでに背中の側へ回った。

 熱が引く前に湯を触ることになるので、月曜の朝は体の中に二つ温かいところがある。


 私の前の流しにH-0031がいる。

 この人は先週から洗濯へ戻っている。手の速さは私より上で、私が一枚を上げる間に二枚を上げていた。速いのに、水の音は私のほうが大きい。


 絞る時は布を捻らない。畳んでから、上から押す。

 捻ると糸の目が寄って、乾いた後に戻らない。押すやり方は時間がかかる。押す時は肩から下ろすようにする。肘は伸ばしておく。曲げると、腕の内側だけが早く疲れる。


「捻らない」

「はい」


 H-0031はそれだけ言って、自分の分へ戻った。この人の言うことは短い。それでも、覚えていられる。


 押して絞ると、水は台の縁のほうへ流れる。

 行った先に溝があって、そこから洗濯室の外へ抜けている。行き先は見たことがない。溝の縁は白くなっていて、擦っても戻らないと聞いた。


 白いのは石のほうが溶けたからだと言う人がいる。

 洗剤の残りだと見る人もいる。どちらの人も、そう言ってから溝を見ない。私は一度だけ指で触った。ざらつく。粉は指の腹に残らない。

 十時に一度、外の空気が入る。乾燥室の戸を開ける時刻が決まっていた。

 開けると、埃の匂いが混ざる。埃の匂いは低いところにある。洗剤とは上下が逆だ。

 乾燥室の天井の隅が、先週から色が濃い。

 雨が続いたからだと言われている。E区画の屋根はこの棟だけ古くて、その側の継ぎ目から水が入る。中へ来た水は梁を伝い、隅で落ちた。


 落ちる下に桶が置いてある。桶は当番が朝に空ける。

 今朝は私の番だった。三分の一まで溜まっていて、持ち上げると片側が重い。傾けて捨てると、最後の少しが底に残る。それは拭かない。拭く決まりが無い。


 溜まった水は濁っていない。それなのに、飲んではいけないと紙に書いてある。

 そのわけは載っていない。無いものを私は聞かない。

 干す紐は五本ある。高いほうから使う。高いほうが早く乾く。

 私は背が届かないので、二本目から始めた。一本目に届く人は三人いて、三人とも私より背が高い。届かない者が一本目を使うと、留め具が落ちて拾いに行くことになる。落ちた留め具は誰かが踏む。


 十一時に係員が入ってくる。紙を胸の高さで持っている。

 雨は上がっているのに、この人は今日も高いところで持っている。決まりがあるのかは知らない。


「J-0037」

「はい」


 私は手を止めて、台の縁で拭いてから前へ出る。濡れた手で紙を受け取ってはいけない。これも紙に書いてある。


「交付になります」

「はい」


 係員は紙を胸の高さから下ろして、両手で持ち替えた。その時に、紙の下の縁がこちらを向く。


「読めますか」

「はい」


「読めなければ、係の者が読み上げることになります」


 私は自分で読む。字は印刷で、上の隅に私の番号がある。

 その下に件名がある。「標本に係る記録の閲覧について」と読めた。


 書いてあることは順に並んでいる。

 十一月十四日に受け付けた。十六日に回した。十八日に受け取っている。二十五日に確かめた。日にちの間は何処も空いていない。


 私が窓口で紙を書いたのは十一月十四日だ。

 あの日は日曜で、罫線が青くて、理由の欄は空でよかった。折って箱へ入れた。中で山が一つ増えた。あの一枚は、そのまま動いていたことになる。動いて、回って、確かめられた。誰かが目を通した日が書いてある。


 三の項に、対象の記録が何処にあるかが書いてある。

 標本化の申出に添えた書面に含まれる。それは標本化の完了をもって資料館へ回した。移した日は令和百九十六年になっている。日以下の記載は無い。


 資料館は飼育部門へ行けと言った。飼育部門は資料館にあると言っている。


 私はもう一度上から読んだ。どの行にも誤りは無い。

 六の項にそう書いてある。処理の経過に誤りは認められなかった、と印刷されている。遅延も無いと添えてあった。


 一の項に、受理から確認までが七日と書いてある。

 所定の期間は十四日で、その半分だ。七日で終わっている。誰も遅れていない。

 私は自分の指で行を追った。そうすると、指の跡が紙に付く。

 跡はしばらく置くと消える。消えるまでの間だけ、私が読んだところが分かる。


「分かりましたか」

「はい」


「同じ内容で、もう一度出すこともできます」


 私は五の項を見た。二行ある。一行目は短くて、二行目は行の端まで届いている。

 二行目は「ここに記す」で終わっている。何を記したのかは、その手前に書いてある。私は手前まで目を戻した。


「もう一度出したら、同じですか」

「そうなりますね」


 係員はそれだけ言って、扉へ体を向けた。それから、思い出したように振り返る。


「交付は日誌に書きますので」


 私は紙を持って、乾いているほうの手で角をつまんだ。

 角のところに小さな折れがある。運ぶ間に一度何処かへ当たったらしい。山の側で、谷にはなっていない。


 紙の下の余白に、鉛筆の跡がある。消してある。

 消しゴムの動いた向きが斜めに残っていて、その下に数字の形が三つ、薄く出ている。一つ目は読めない。二つ目は八に見える。三つ目は分からない。


 指でこすると、跡のほうが少し濃くなった。

 濃くなるので、私はこするのをやめた。手を止めて、紙を二つに折る。それから、作業着の内側へ入れた。


 昼の給餌は四七〇だ。汁の実は二つで、片方が沈んでいた。

 沈んだものを先に食べると、後が軽くなる。それでも、器の重さは動かない。


 午後は畳みと点検だ。乾いた分を取り込んで、畳んで、破れが無いかを見る。

 見るのは畳む前だ。その後では折り目に隠れる。


 台の上に広げて、袖から見ていく。順は袖口から肩へ、それから脇の下と裾へ移る。

 この順で見るのも紙に書いてある。そのとおりにやると、同じところを二度見ないで済む。二度見ると、後の目が甘くなる。


 四枚目の袖口が、糸で出来た輪になっている。

 輪は小さい。指の先が入るくらいで、縫い目から糸が一本浮いている。引けば長くなる。私は引かなかった。


 浮いた糸の根元は、まだ布に付いている。

 付いているところを押さえて、輪だけを内側へ入れた。それでも、手を離すと出てくる。三度やって、三度とも出てきた。


 私は係員のところへ持っていく。

 係員は台の端に座って、別の紙を書いている。手を止めずに顔を上げた。


「損耗ですか」

「これです」


 係員は袖口を明るい側へ向ける。それから、指で輪を一度伸ばす。伸ばして、また戻す。


「これは今日ですね」

「分かりません」


「絞る時に、捻ると出ます」


 私は捻っていない。押して絞った。

 押して絞ったと言おうとして、口を開けた。それから、閉じた。今日この一枚を押したかどうか、私は覚えていない。


 覚えているのは、朝からずっと押していたことだけになる。

 どの一枚だったかは、押している間は区別が要らない。それが要るのは、後から一枚だけを取り出す時だ。

 私は台のほうを見た。今日ここを通った作業着は、もう畳んだ分と混ざっている。

 混ざると分けられない。そのための印は、どの一枚にも付いていない。


 係員は待っている。その間、この人は袖口を指で持ったままだ。

 その手は動かない。止まっているので、私は輪をもう一度見た。糸は一本で、切れてはいない。


 係員は帳面を開く。出てきた頁の上に私の番号がある。

 番号の右に横に長い欄があって、そこに印が入っている。色は黒くて、丸ではなく短い線だ。


「今月は二件目になります」

「二件ですか」


「十一月十日にも一件、記載があります」


 十一月十日は水曜だ。その曜日は洗濯の日で、私はいた。

 その日に何があったかは覚えていない。その日の湯の温度も、誰が前の流しにいたかも出てこない。


「知りませんでした」

「通知はしていませんね」


 係員は帳面の欄を指で示した。欄の名は「通知」で、そこは空だ。

 空の下に括弧書きがあって、中の字は小さい。それは「通知を要する場合は上長の指示による」と読めた。指示があったかどうかは書いていない。書く欄はその下にある。そこも空だ。


「三件になると、割当から外れます」

「外れると、何になりますか」


「そこは私の側では分かりません」


 係員は帳面を閉じないで、下のほうの欄を指した。欄は横に長い。名は「本人の説明」になっている。


 欄の左に細い罫が一本入っている。

 罫の左側が名の欄で、右側が説明の欄だ。左には私の番号が刷ってある。それで、書くところは右だけだ。


「書けますか」

「はい」


「書いたものは、そのまま写します」


 鉛筆を渡される。短いほうの鉛筆で、先は丸くなっていた。

 私は台の縁で持ち直した。それでも、丸い先は細くならない。


 欄は横に長かった。それなのに、私が書けることは短い。

 私は今日この一枚を押したかどうかを知らない。分からないことは書けなかった。


 知っていることを探すと、一つだけあった。

 私は今朝から絞る仕事をしていた。捻ってはいない。押した。


 私は書いた。


 わたしがしぼりました。


 八つの字が、欄の左の端から並ぶ。

 欄はまだ長い。右が空いている。そこへ、私は何も足さなかった。

 鉛筆の先が丸いので、字の線が太い。

 太い線は罫の幅より少し出た。そこは消さない。消すと、別の跡が残る。


 書いた字を上から見ると、最後の一つだけ下がっている。

 下がったのは手が止まったからだ。そこで一度息を吸って、それから最後を書いた。

 係員は帳面を自分の側へ回して、しばらく見ていた。それから、鉛筆を受け取る。


「これでいいですね」

「はい」


「そのまま写します」


 係員は別の紙を出して、そちらへ写し始めた。

 写す速さは書く速さより遅い。字の形を似せているのだと思う。似せる決まりがあるかどうかは聞かなかった。


 写し終わると、この人は元の帳面を閉じた。それから、印を一つ押す。

 印は赤くて、押した後で少し滲んだ。広がった縁のところだけ色が薄い。


「受理になります」

「はい」


 受理になった。それでも、二件は二件のままだ。

 私は台へ戻って、五枚目を広げた。それから、袖口から見ていく。順は変えない。

 五枚目は何も無い。六枚目も無い。そういう一枚は速く済む。


 七枚目の脇の下に、糸の色が違うところがあった。

 違うのは前に誰かが繕った跡で、繕いは損耗に数えない。そう紙に書いてある。それで、私は帳面のところへ行かなかった。


 繕った糸は太い。太いと強い。

 それなのに、周りの布より先に薄くなっている。幅は糸の二本ぶんある。


 八枚目から十二枚目までは何も出ない。

 十三枚目で、私は一度手を止めた。袖口の縫い目が四枚目と同じ形をしていたからだ。針目の間は、どちらも三ミリほどある。


 私は十三枚目を明るいほうへ向けた。

 向けても、輪は出ていない。何も無いので、畳んだ。それから、もう一度広げて、同じところを見直した。二度目にも何も無い。


 午後の乾燥室は朝より暗い。紐の高さは変わらないのに、届かない感じが強くなる。

 私は二本目のまま使った。二本目は肩の少し上で、腕を伸ばすと肩の後ろが引かれる。


 三時前に、五郎が入ってきた。

 この人はふれあいの当番のはずだ。洗濯の時刻に洗濯室にいるのは初めてだ。


「久しぶりだね。ここは久しぶりだよ」


 五郎は笑っている。この人はいつもそうだ。

 顔はそうなのに、袖の内側だけ濡れていて、そこは笑いに関わらない。


「今日は当番ですか」

「割当が替わったんだよ。今週だけね」


 五郎は台の端に袋を置く。それから、自分の作業着の肩を叩く。埃が落ちた。


「あのさ、私のぶんも一枚、干しておいてくれるかな」

「はい」


「悪いね。手が空かなくて」


 私は袋から一枚出して、二本目の紐へ掛ける。

 それから、留め具を二つ使った。一つだと風で回る。そうすると、乾く面が偏る。


「上のほうが早く乾くよ」

「届きません」


「そっか。そうだよね」


 五郎は一本目の紐に手を掛けて、私の一枚を移した。

 それから、留め具を一つだけにする。この人の手なら一つで足りるらしい。


「地下はね、寒いよ。行ったことある」

「十月に、一度だけ」


「じゃあ見たでしょ。あの棚」


 私は見た。棚は五段で、下の二段が箱、上の三段が瓶だった。

 瓶の上の縁が一本の線になっている。二段目までは高いので、踏み台に上がらないと液の面が見えない。三段目だけは床からでも見える。


「線が一つ下がっていました」

「あれね。板が下がってるんだよ。液じゃない」


 私は手を止めた。それから、聞いた。


「板ですか」

「三段目のね。真ん中のあたりが沈んでるの」


「沈むと、どうなりますか」

「瓶が少し傾くよ。傾いた側が下がって見えるんだ」


 係の人はあの日、下がっている一本に液を足した。

 足すと、その一本は肩まで戻る。それなのに、線は下がったままだった。私は踏み台から下りて、もう一度見ている。


「足しても、戻りませんでした」

「足したのは別の瓶だと思うよ」


 五郎は笑ったままだった。その顔で、二枚目を紐へ掛ける。


「板のことは、書いてないんですか」

「補充の紙はあるよ。板の紙は無いんじゃないかな」


 補充は数えられている。毎年、何回入れたかが紙に残る。

 板は入れも出しもしないので、数える紙が要らない。


「今度そこ見たら、教えてくれないかな」

「はい」


 五郎は三枚目を出して、それも一本目へ掛ける。

 掛ける間、下を向かない。この人は手元を見ないで留め具を挟む。その音は私のより短い。


「札の数はね、頭に字があると小さいの」

「札ですか」


「瓶に紙が貼ってあるでしょ。あれの下のほう」


 私は思い出そうとして、やめた。

 やめて、次に地下へ入る時に見ることにした。次があるかどうかは分からない。


「小さいというのは、どのくらいですか」

「三とか、二とか。五もあったかな」


 五郎は四枚目を出す。四枚目は他より小さい。

 小さいのは洗って縮んだからだと思う。五郎はそれも一本目へ掛けた。


「字が無いほうは」

「二十二とか、四十とか。三十いくつもあったよ」


 私は数を口の中で並べた。三と二と五。二十二と四十と三十いくつ。

 並べても、間に何も出てこない。並べるのをやめると、数だけが残った。


「どうして違うんですか」

「さあ。私は数えただけだから」


 五郎は笑った。それから、袋の口を縛って、台の下へ押し込む。籠もった音がした。


「じゃあね。助かったよ」

「はい」


 五郎は出ていった。行きぎわに、扉のところで一度止まる。

 止まってから、こちらを見て、何も言わないで出た。止まる長さは、息を一つ吸うくらいだ。

 この人が止まるのを、私は前にも見ている。

 見ているが、何を待っているのかは分からない。そもそも待っているのかも分からない。


 扉の下は九ミリ空いている。今年の六月に削った。私はその場にいて、九ミリという数をその場で聞いた。

 削る前は擦れていた。今は当たらない。そうなってから、音が変わったかどうかを私は聞き分けていない。


 五時に取り込みが終わった。畳んだ分を棚へ入れて、台を拭く。

 拭いた台は乾くのが早い。そうすると、水の跡だけが白く残った。それは次の日には消えている。


 棚へ入れる時、四枚目がどれだったかを私は探さなかった。

 畳んだ後の作業着は、どれも同じ形をしている。角の合わせ方も、袖の折る向きも同じだ。


 乾燥室の戸を閉める前に、隅の桶をもう一度見た。

 朝より少し溜まっている。今日は降っていないのに溜まる。梁の何処かに、まだ残っているのだと思う。


 夕方の給餌は四七〇だ。すずが少し遅れて来て、私の隣に座った。

 向かいではない。隣は初めてだ。


「今日、紙をもらったでしょう」

「はい」


「見えたわよ。あんな折り方する人、いないもの」


 私は作業着の内側から紙を出す。それを、すずの前へ置く。

 すずは読まないで、角の折れたところだけを指で押さえた。


「読んでいいの」

「はい」


 すずは上から読んだ。その間、口は動かない。指も止まっている。

 途中で一度だけ、目が上へ戻る。行った先は、日にちの並んでいるところだと思う。

 読み終わってから、紙を私の前へ返した。その時に、角の折れたところを親指で伸ばそうとする。伸びない。


「よく回ったわね」

「はい」


「ここまで回って、無いって書いてあるのね」


 私は頷く。それから、匙を持った。握っても、まだ食べていない。


 私は聞いた。


「札に数が書いてあるそうです」

「札」


「瓶の。頭に字があると、数が小さいそうです」


 すずは匙を止めた。それから、皿の中を見る。少し置いて、また動かした。


「誰に聞いたの」

「五郎さんです」


「あの人はよく見てるわ。見てるけど、それだけよ」


 私はもう一度聞いた。


「どうして小さいんですか」

「さあ」


 すずは汁を飲んだ。それから、器を置く。

 器の底が卓に当たって、短い音がした。その後で、この人は少し口を開けて、それから閉じた。


「そういうのはね、聞く相手がいないの」

「はい」


「私は聞かないの。二年もそうしてるわ」


 私は聞くのをやめた。やめて、実を一つ食べた。実は昼のより固い。


 歯に当たるのは煮た時間が短いからだと思う。夕方は人が多いので、鍋の回転が上がる。


 固いと噛む回数が増える。そうすると、その間は口が使えない。すずも何も言わない。


 卓の向こうで誰かが立ち上がって、椅子が鳴った。

 その音で、すずがそちらを見た。それから、また私へ戻る。この人は少し笑った。長くはない。理由は言わない。

 すずは自分の皿から何も寄こさなかった。私も移さない。


 食べ終わってから、この人は私の紙を指で叩いた。二度叩いて、それから自分の手を引いた。


「取っておきなさい」

「はい」


「捨てる決まりのものじゃないでしょう。これは」


 その通りだった。割当の紙は捨てる決まりで、この一枚は交付の欄に印がある。

 交付されたものの扱いは、紙に書いていない。


 居室に戻ると、隣の人がまだ座っていた。背を壁に付けて、膝を立てている。

 私が入っても顔を上げない。それは今日だけではない。


 私は袋を枕の下から出す。それを、床の板の上へ置く。

 開けないで、上から掌を当てた。そうすると、木の札の角が布越しに分かる。先は丸くなっていて、数えなくても分かる。増えても減ってもいない。


 私は袋を戻した。それから、交付の紙を袋の下へ入れる。

 袋が厚いので、紙は潰れない。それでも、角の折れは伸びなかった。

 窓の外に雨は無い。乾燥室の隅は、明日も濃いままだと思う。桶は明日も当番が空ける。


 私は横になった。毛布の重さは変わらない。

 目を閉じる前に、袖口の輪のことを思い出した。あの輪はいま棚の中にあって、明日また誰かが着る。着た人が捻れば、輪はもう少し長くなる。


──────────────────


洗濯当番 損耗記録


第七園 E区画 作業係

記録月 令和二百十二年十一月

対象 当区画の洗濯当番に従事した個体


一、記録の趣旨


洗濯当番に係る被服の損耗を、個体ごとに記録することとした。


記録は当該の月ごとに締める。締めた後の追記は行わない。前月分の追記の申し出は無かった。


二、件数


本月の当区画の損耗は合計で二十九件であった。


前月は三十四件であった。増減の理由は記載しない。記載する旨の定めが無い。


損耗の種別は分けていない。ほつれ・破れ・脱色のいずれも一件として数えた。


本月は二十九件のうち二十二件がほつれであった。前月は三十四件のうち二十六件であった。


三、個体別


本月に損耗を認めた個体は十九名であった。うち二件を認めた個体は十名である。


三件以上は無かった。


J-0037 二件


うち一件は本月十日、一件は本月二十九日である。


十日の分について、本人への通知は行っていない。通知は上長の指示による。当該の指示は無かった。


四、取扱


三件に達した個体は翌月の洗濯当番から外す。外した先の割当は本記録の範囲に無い。


本月中に三件に達した個体は無かった。前月は一名であった。当該の個体の翌月の割当は本記録に無い。


三件という数の根拠を記した書面は当係に残っていなかった。開始の年も特定できなかった。


五、本人の説明


損耗を認めた際は本人の説明を求めることとした。求めた場合は記載の欄へ写す。


写しは本人の書いた字によらず当係の字による。字を似せる旨の定めは置いていない。写した者の名は記録に残す。


説明の内容を判断する者は定めていなかった。判断を要する旨の定めも置いていなかった。


十日の分について説明は求めていない。求めなかった理由の記載は無い。


六、字について


写しに際し、当係は本人の書いた字の形を似せていない。似せる旨の定めが無い。


本人は仮名のみで書いた。漢字を用いる旨の定めも無い。用いなかった理由は記録していない。


七、当番の日誌について


本記録は当区画の当番の日誌により作成した。日誌は当係が保存する。


日誌には当番の作業を記す。作業以外の事項を記す欄は設けていない。


本月二十九日の日誌には、当番の作業のほかに記載が無かった。当該の日に他部門の書面を受け取った旨の記載も無い。


八、記載


二十九日の分について、本人の説明を求めた。求めた者は当係の当番一名である。


以下、本人の書いたところを、そのまま写す。


わたしがしぼりました。

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