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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第三章 標本

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第031話 十九枚

稟議書


件名 資料館第三室の清拭に園の清掃補助を充てる件

起案 資料館

決裁 園長

起案日 令和二百十二年十一月七日


一、伺いの趣旨


第三室の清拭について、園の清掃補助の割当を充てることとしたい。


第三室はこれまで当館の職員が行ってきた。本年度は人員の減により、周期を守れていなかった。


二、現況


第三室の清拭は月に一度と定めていた。本年度、実施できたのは三回であった。


実施できなかった月は、記録に残る限りで四月、六月、八月、十月であった。


実施できなかった理由については、月ごとに記した書面が残っていない。


三、対象


対象は展示ケース二十基の外側と、壁に掛けた名称の板になる。


ケースの内側および標本については、触れさせないこととした。開閉は当館の職員が行う。


拭く順について当館は指示しなかった。第三室の内規に定める順は、当館の職員が行う場合のものになる。


四、名称の板の取扱


名称の板は木である。彫った字の底に埃が入るため、乾いた布のみを用いることとした。


水を含んだ布は用いない。木が膨らみ、彫りの縁が丸くなるためである。


板の彫りの深さは一様ではない。深さを測った記録は、当館に残っていない。


五、人員


一名とした。第三室は照度の管理を要するため、複数を入れないこととした。


割当の対象は十六歳以上で、当日の就業に支障の無い個体とした。本件の対象は、本年に十六となった個体である。


選定は飼育部門に委ねた。選定の基準について当館は照会していない。


六、日


日曜とした。来館者は多いが、開館前の一時間を充てれば重ならない。


開館は九時である。作業は八時から九時までとした。


作業の間、扉の施錠は解いている。開館前の在館者は当館の職員一名と、当該の個体一名になる。


七、照度


第三室の照度は毎年五月に測ってきた。作業の間も、開館時と同じ照度を保たせた。


作業のために照度を上げることは認めない。上げた場合の記録の様式も無い。


八、経費


清掃補助の手当は園の負担となる。当館の負担は生じない。


布は当館が用意した。用いた布は当館で処分する。


九、記録


本件に係る作業の記録は、当館の日誌へ一行を記載するものとした。


一行に収まらない事項が生じた場合、その取扱は定めていない。前例を確かめていない。


十、備考


本件は本年度限りとした。次年度の取扱は別に起案する。


第三室に園の個体を、作業のために入れた例は開館以来無い。前例が無いことをもって、不可とする定めも無い。


観覧として入った例は本年度に五件あった。件は個体の別により数えている。本件はこれに含めない。


(決裁欄 園長 押印済 令和二百十二年十一月八日)


──────────────────


 日曜の朝は六時に点呼がある。今日は五時半に起きた。起きた順に、袖の中の紙を確かめる。割当の札の写しで、昨日のうちに配られた。


 毛布は二枚出してある。一昨日の晩に決めた。重ねると重い。重いぶん、寝返りが減る。

 肩を二度回した。音は自分の中で鳴って、外へは出ない。


 居室の窓は白い。結露が凍っている。指で押しても水にならない。爪で搔くと薄い筋が出て、筋の向こうに外が見えた。


 紙には八時から九時までと書いてある。場所は資料館の第三室だ。


 私は第三室を知っている。

 十月に一度だけ入った。


 入る時に百枚を払っている。今日は払わない。


 食堂は日曜の声がしている。皿は四七〇だ。

 私は早く食べた。急ぐと胃の上が張る。張ったまま歩くと、坂の途中で一度戻る。


 卓の間を通る時、当番の無い人の背が邪魔になる。日曜は椅子が引かれたままになりやすい。

 私は膝を横にして抜けた。その時、誰かの袖が私の腕に触れる。触れた人はこちらを見なかった。


 三八〇の人は先に来ていて、卓の端から二つ目に座っている。今日は皿を寄せてある。


「今日も上へ行くのね」

「はい」


 この人は皿の縁を親指で押さえて、匙を斜めに入れる。そうすると、底から掬える。

 それから、私の袖を見た。袖には紙が入っている。膨らみは薄い。


「今度は開く前なんでしょう」

「払わないで入るのね」

「はい」

「変な話よ、それは」


 この人はそれ以上言わなかった。皿を少しこちらへ寄せて、匙を置いた。

 八時に着くように出た。歩数は数えない。四本目の柱を過ぎれば半分だ。

 十一月の朝は霜が濃い。踏むと乾いた音がする。


 区画の脇を上がっていく。日曜の前庭は洗濯物が多い。昨日のぶんを朝のうちに出す。

 紐は三本張ってある。真ん中の一本だけがまだ空で、端が地面のほうへ垂れている。


 坂の途中の木は、二本とも葉が落ちていた。前に来た時は、片方にまだ残っていたと思う。落ちた葉は根元にまとめてある。まとめた人は今日もいない。


 正門の内側に人はいない。

 開くのは九時だ。誰もいない前庭は広く見える。立っているものが一つも無い。


 資料館の前で止まった。正面の段は三つある。今日は段を使う。

 三段目の上に白い線がある。手前に立て札が出ている。字は去年のままだ。私は読まない。


 線を跨ぐ。四段目で足を間違えない。

 扉は開いていた。中に係員がいて、扉の内側で待っている。第三室で会った人だ。地下で布を絞ってくれた。


「おはようございます、寒いですね」

「はい」

「八時ちょうどになりますね」


 この人は私を先に入れて、扉を閉めた。閉めても鍵は掛けない。

 九時に開けるからだと思う。


 第一室は暗く、灯が点いていない。

 窓から入る光だけで、壁の白さが灰色に見える。


 説明板の字は読めない。近づけば読めるが、寄らなかった。前に読んだ時の数が書いてある。

 数は覚えている。


 正面の大きい写真も暗い。屋根の形が今の建物と違う。暗いと、写真の中の空と壁の境が消える。そうなると、建物が小さく見えた。


 順路は同じで、第一室から第二室へ進む。

 第二室の台の上に皿がある。縁に数字の無いものだ。前に見た。札は資-〇九一のままで、位置も動いていない。


 第三室に入ると、灯が点いていた。

 第三室だけ先に明るくしてあるらしい。硝子が光って、中が見えにくい。


 部屋の空気は乾いている。硝子を拭いた後の指を鼻の下へ持っていくと、何も付いていない指の匂いがした。

 二十基のケースが並んでいる。十九に標本が入っていて、一つは空だ。

 空のケースにも灯が点いている。

 灯は上から来る。そのせいで、硝子の下の縁だけが暗い。暗いところは、拭いても拭いたかどうかが分からない。


 開館前の第三室は音が違う。人がいないと、床の音が長く残る。私の靴の音と、係員の靴の音が別々に返ってくる。二つは重ならない。


 立っている標本は三つある。座っているのが一つ。ほかは頭だけと、骨だけと、部分だけだ。

 座っているものの手の組み方は前のままだ。私は自分の手を合わせなかった。


「布はこちらに用意してあります」

 係員が籠を持ってくる。中に乾いた布が畳んで入っている。


「水は使わないでもらえますか」

「はい」

「木が膨らむものですから」


 布は白い。新しくはない。何度も洗ったらしくて、端が薄くなっている。


 枚数は五枚だ。私は一番上の一枚を取る。

 一番上のものは、下のものより折り目が浅い。籠の中で押されていないからだと思う。


 布の匂いを嗅いだ。洗剤の匂いはしない。園の洗剤とは別のものを使っている。

 嗅いでも何の匂いか分からない。木でも紙でもない。分からない匂いは、鼻の奥に長く残る。


 係員は籠を床に置いた。少し離れたところに立つ。位置は壁の際で、私からは三歩ある。

 こちらを見ているが、こちらの手元は見ていない。目は硝子の面のほうへ向いている。


 私は硝子から始める。ケースの外側だ。上の面から正面、それから左右の順に拭く。

 順は決めていない。それなのに、二基目からは手が前の道をなぞる。

 上の面には埃が積もっている。積もり方は均一ではない。灯の下だけが薄い。熱で舞うのだと係員が言うかと思ったが、この人は何も言わなかった。

 拭いた埃は布の上で灰色になる。灰色は指で押すと固まる。

 固まったものを籠の縁で落とした。その先の床に薄く残る。私はそれを靴の先で寄せた。

 硝子は冷たく、拭くと指の跡が消える。

 それを見てから、次のところへ布を移す。

 一基に八十を数えるくらいかかる。私は三基目でやめた。

 ケースの下の板も拭く。

 白い板で、字は黒い。入っているのは二つで、部門の名と年数だけになる。名前は入っていない。


 板には拭いた跡が筋で残る。私は布を裏返して、同じところをもう一度撫でた。


 部門の名は五種類ある。一つの名が続くところと、一つだけ違うところがあった。

 切れ目は左から数えて六番目と、右の端の二つだ。


 年数は板によって違う。二十より下は一つしかない。

 三十を超えるものが六つあって、四十を超えるものが二つある。


 四十四が一つ、三十一が二つ、二十がある。

 一番小さい数は十九だ。二十より下はそれしか無い。

 十九の板は左から数えて六番目にあった。


 硝子を拭き終えるまでに三十分かかった。

 係員が時計を見て教えてくれた。この人は壁のところで立っている。地下にいた時と同じ立ち方だ。


「次は壁の板のほうになります」


「はい」

「壁のほうをお願いできますか」


 壁の板は木だ。ケースの並びに合わせて、端から順に、同じ高さで掛かっている。壁が変わっても高さは変わらない。

 間隔は指四本ぶんで揃っていて、一箇所だけ指八本ぶん空いている。


 板の高さは私の目より二十センチほど上だ。手を伸ばすと、上の縁に指が届く。届いても力は入らない。そのまま拭くと、埃は縁の下へ回る。


 係員が台を持ってこようとした。

 私は要りませんと言わなかった。黙っているうちに、この人は棚へ行って、何も持たずに戻ってきた。台は無いらしい。


 板の裏は見えない。壁との間に指が入らないからだ。掛けてある金具も見えない。上から吊っているのか、下で支えているのかも分からなかった。

 私は左の端から始めた。

 板の表を上から下へ拭く。彫ってある字のところは、布を滑らせる。


 一枚目は二文字だった。二枚目も二文字だ。三枚目で三文字が来る。

 三文字でも拭く面は広がらない。彫りの線だけが増える。増えると時間がかかる。


 板の木目は縦だ。目に沿って布を動かすと引っかからない。一枚を拭くのに、十二から十五を数える。横へ動かすと、布が目の溝で止まる。私は縦にだけ動かす。


 板に鼻を近づける。木の匂いがする。挽いた粉の匂いではない。乾いて、薄くなった後の匂いだ。


 押し当てると、布が彫りの中へ入る。入ると引っかかる。二枚目からは、当てずに滑らせるだけにした。


 字はひらがなだ。二文字のものと、三文字のものがある。

 名前の下に数字がある。四桁あって、その下にもう二つ続く。数字のほうは彫りが浅く、指を当てても引っかからない。


 字の始まりの太さが板によって違う。太いものと細いものがあって、細いほうが多い。彫ったのは一人ではないらしかった。


 私は左から順に読んでいく。目で追うだけなら早い。二文字は十一あって、三文字は八ある。前に数えた時の数だ。

 二文字は口の中で一度に終わる。三文字だと、二つ目と三つ目の間で舌が一度止まる。止まる場所が板ごとに違うので、読む速さも板ごとに違う。

 声に出さないでいると、三文字は途中で入れ替わって、別の音になった。


 同じ音の並びは一つも無い。


 数字の頭には字が一つある。私の番号にも同じ形の字が頭に付く。十九のうちで一つだけが、それと同じ字だった。


 その板は左から数えて六番目にあった。


 板の上の縁を指でなぞると、埃が付く。硝子から拭き取るものより粗い。

 板の面は上のほうだけが少し明るい。灯が斜めに当たっている。


 私は手を止めて、板の下を見た。

 ケースの下の板には、十九と書いてある。


 十九は一番短い。ほかは二十から上になる。

 この壁の板は、みな私より長い数を持っている。


 板の下の縁へ指を当てると、木がわずかに反っている。反っているのは右の端だけで、左は壁に付いていた。

 布を持ったままだった。下がった手の先で、布の端が作業着に触れる。触れたところに埃が移った。


 私はケースのほうを見た。硝子の中に立っているものがある。背は私より高い。顔は正面を向いている。目のところは硝子が光って、その奥が見えない。

 手は体の横にある。指は開いていない。爪の形まで作ってある。

 足の下に台がある。縁と踵の間に隙間があった。そこだけ硝子が曇っている。


 硝子の面には、私の輪郭も薄く映っている。輪郭が手前で、中のものが奥だ。

 顔を寄せていくと、二つが重なる位置がある。重ねてから、私は半歩ずらした。


 近づくと、自分の息が硝子の面に付いた。白は円い。円は縁から減っていく。

 消えていく間、中のものは見えにくくなる。

 三文字の名前だ。

 私は口の中で読んだ。

 知らない音の並びになる。園にこの音の人はいない。


 もう一度読んだ。二度目は少し声が出た。

 外を回って耳へ戻ってきた音は、口の中で読んだ時と違って聞こえた。

 係員は壁のところにいて、こちらを見ていない。

 見ていないので、私はもう一度だけ読んだ。三度目は口も動かさなかった。動かさないと、音は頭の中だけで鳴る。


 鳴っている間、指はまだ彫りの上にあった。硝子を拭いていた手には、木のほうが温い。字の終わりで彫りが一度浅くなる。

 それからまた落ちて、そこで止まっている。


 指を離す。彫りの底の埃が、爪の際に付いている。払うと、床のほうへ細かく落ちた。


 この板の字は角が丸い。丸いところへ布を当てると、面で当たる。


 私は布を当てた。それから滑らせる。

 そのつもりだった。途中で押している。


 彫りの底に、布の糸が残った。


 取ろうとした。爪の先が底へ届かない。


 私は少し離れた。離れると見えなくなる。次の板へ移った。


 十枚目のところで、左手を襟の後ろへ回した。札は内側に縫ってある。指でなぞると、縫い目が厚い。字はこちら側からは分からない。


 布はもう灰色になっている。灰色の面を内側にして畳んだ。

 係員が壁のところで足を組み替える。その時に靴の底が鳴って、それきり何も鳴らない。

 最後まで同じ速さで拭いた。係員は壁のところから動かない。


 十七枚目の板は端が欠けていた。欠けたところに字は掛かっていない。欠けは古い。角が丸くなっていて、新しく欠けたものとは色が違う。


 十九枚を拭き終えた。時計は見ていないが、係員が窓のほうを見た。


「あと十分ほどになりますね」


 言われてから、私は空いているところの壁を拭いた。

 空いているところには板が無い。

 壁だけがある。拭くと、板より汚れていた。


 最後に籠の位置を直した。床に置いたままだと、開館の時に足が当たる。直してから、私は自分の作業着の前を払った。木の粉が薄く落ちる。


「終わりました」

「こちらこそありがとうございます」

「布は籠へ戻してもらえますか」


 私は布を籠へ戻した。一番上に置いた。折り目は浅いままだ。

 九時まではまだある。

 係員は籠を持って、窓口へ歩いた。私はその後ろに付いた。歩く間、板の並びを目の端で追った。


 板は左から右へ、間隔を揃えて掛かっている。空きは右の側に一つある。六番目はそこから遠い。


 私は聞いた。

「名前は何処かにありますか」


「台帳のほうにはあります」

「見られますか」


 係員は少し止まる。それから、窓口を見た。

「照会の様式ならあるはずです」


 この人は窓口の内側から紙を一枚持ってきた。薄い紙で、罫線が引いてある。欄は四つあった。上から順に標本の番号と板の名、それから照会の理由と日付になる。


 紙は下に一枚重なっていた。複写らしい。間に薄い黒い紙が挟んである。挟んだ紙は端が擦れていて、何度も使ったものだと分かる。

 書くと下にも写る。写ったものが何処へ行くかは書いていない。


 罫線の色は薄い青だ。園の紙は罫線が黒い。青いのは初めて見た。

 私は紙の端を持った。持つと少し反る。薄いので、机に置かないと書けない。


 係員が窓口の台を指した。

 台は木で、下の縁だけ色が薄い。そこに腕を置いた。置いた時、袖の中の割当の紙が音を立てた。


「番号が分からないと」

「板の位置でも受けられるはずです」


 この人は紙を台の上で回して、こちらの向きにした。私は板の並びを頭の中でもう一度左から数える。


「左から六番目です」


 係員は標本の番号の欄へそれを書いた。番号ではないので、括弧を付けて書く。

 それから、私に日付の欄を指した。字はゆっくり書いた。速く書くと崩れる。


「理由は空でもいいですか」

「空のままで受けられます」


 箱の中の紙は、どれも同じ折り方をしている。上から見ると、折り目の山だけが並んで見えた。

 私の紙もその中へ入って、山が一つ増える。増えてからは、どれがそれか分からない。

 この人は紙を二つに折って、窓口の内側の箱へ入れた。

 箱には蓋が無い。中に同じ紙が何枚か入っていた。何枚かは分からない。上から見ると三枚に見えたが、下は見えない。


「回答はいつですか」


「日を決めていないんです」


「はい」


「今年は初めてなんです、これ」

「去年はどうだったか、知らなくて」


 この人はそう言って、箱の位置を少し直した。

 動かしても中の紙は倒れない。折ってあるので、立ったままになる。


 窓口の台の上に、開館の準備が並べてある。券の束と、判と、小さい木の箱だ。

 木の箱の蓋は開いている。中に硬貨が入っている。外の人が使う。数えると、下の段まで七枚見えた。


 私は硬貨を見た。枚とは形が違う。薄くて、縁に細かい溝がある。

 本数は近づけないので数えられない。


 九時が近い。外に人が並び始めている。硝子越しに見ると、人の輪郭が縁のところで折れて見えた。


 子どもが二人いる。二人とも段の上の線を踏まないところに立っている。大人はそちらを見ない。黙って、扉を向いていた。


 係員が第一室の灯を点けた。点けると、外から中が見えるようになる。

 明るくなった順は第一室と第二室で、第三室は最初から点いていた。


 第三室の灯は、私が出る時もそのままだった。空のケースの中にも灯が入っている。台の上には何も乗っていない。灯だけが台の縁の線を出している。


 私は裏から出る。今日は正面を通らない。そちらから人が入ってくる。

 裏の扉は灰色で、取っ手が縦に付いている。地下へ下りた時と同じ扉だ。

 押すと外の光が入る。今日は係員が鍵を回さなかった。


 外の空気は乾いている。庇の下に霜が残っていて、そこだけ光が来ていない。残っているところを踏まずに回った。

 それから、私は坂へ折れた。


 坂を下りた。下りは千五百二十歩ある。今日は途中で分からなくなった。


 途中で上がってくる人とすれ違った。日曜の朝なので数は多い。二十人ほどが固まって上がってくる。固まりの中を抜ける時、私は端へ寄って止まる。


 止まっている間、誰も私を見ない。

 作業着だからだと思う。通り過ぎてから続きを数えたが、止まっていた間の分をどう足すかで迷った。


 園に戻ると九時半で、日曜なので当番は無い。

 洗濯室の前を通る。日曜は洗わないので、扉が閉まっている。閉まっていても、下の隙間から湯の匂いが出ていた。昨日の分が残っている。

 五郎が控室の前の段に立っていた。長靴の底を段の縁へ打ち付けている。ふれあいは十時からだ。


「そこ、少し寄ってもらえるかい」

「はい」


 私は横へ寄った。落ちた土が段の下に溜まっている。乾いていて、色が薄い。

 この人の長靴は、左だけ踵が減っている。その足を内側にして立つので、体が少し傾いて見えた。


「上のほうから下りてきたところだね」

「はい」


「今朝は割当が出ていたそうだね」


「板を拭きました」

「そりゃあ、園では初めてのやつだ」


 この人はもう一度打った。何も出ない。それでもう二度打った。


「もう出やしないのに、三度も打ったな」


 自分の言ったことで、この人の肩が動いた。私は口を閉じたまま息だけ出した。二つとも白い。同じところで消える。


 靴を履き直す。踵を入れる時に指を後ろへ入れて引くと、踵が鳴った。


「あんた、前から貯めてたそうだな」

「はい」

「あれは何に使うつもりだったんだい」


「名前です」


 五郎は段の縁をもう一度見た。土はもう落ちている。この人は靴の底をそこへ当てて、横へ引いた。引いた跡が段に残る。


 控室の扉が開いた。固形石鹸の匂いが出てくる。交換所の石鹸とは匂いが違う。

 扉が閉まると来ない。

 園の中はもう動いている。日曜の午前は当番が少ない。廊下に立っている人は壁に背を付ける。付けるところは決まっていて、そこだけ壁の色が濃い。


 昼も四七〇だ。卓の向かいは空いていた。午後に行くところがある人がいる。


 右手の人差し指の先が少し赤い。彫りの縁に当てていた。押しても痛くはない。触ると、皮膚が硬くなり始めている。


 指の腹に木の粉が付いていた。細かい粉で、乾いている。払うと落ちて、卓の上に薄く残った。

 鼻を近づける。挽いた木だ。前にも一度、腕の内側から同じ匂いがした。何処でだったかは出てこない。

 午後は居室にいた。日曜の午後に決まりは無い。隣の人が寝ている音が聞こえる。


 枕を持ち上げる。袋は昨日と同じところにあった。

 持つと重さで分かる。動いていない。床へは出さなかった。

 窓の外に人が二人いる。作業班だ。前庭で袋を積んでいる。積み方は縦で、四つ積むと紐を掛ける。余った端を輪へ通して締めて、それから一度引く。引いて動かなければ次へ行く。


 隣の人が起きた。こちらを見ないで廊下へ出ていく。

 扉の鳴り方は開ける時と閉める時で違い、閉める時のほうが短い。


 光は窓の下にしか来ない。十一月は角度が低い。床の決まったところだけに帯が出る。

 そこに座ると背中が温かくなる。私はそこへ移った。


 移ってから、袖の中の紙をもう一度出した。割当の紙だ。八時から九時までと書いてある。

 過ぎた紙は捨てる決まりになっている。私は捨てなかった。畳んで袖へ戻した。


 窓の桟に埃が乗っている。今日は拭く日ではない。指で寄せると線になる。線は端で切れる。


 桟の隅には指が入らないので、爪を立てた。

 爪の先が底へ届かない。


 夕方の給餌も四七〇だ。冬の量になってから一か月半が経つ。


 食堂へ行くと、三八〇の人はもう半分食べていた。私が座っても顔を上げない。

 卓の縁に匙を置いて、置いた匙をもう一度取る。


「入ったんでしょう。中に」

「はい」

「何があったのよ」


「名前が十九ありました」


 この人は何も言わなかった。

 黙って、自分の皿から三口分を私の皿へ移す。量はいつもと同じだ。


「そうなの」

 それだけ言って、匙を持ち直す。


 持ち直してから、こちらを見ないで続けた。

「私の名前も、何処かに残るのかしらね」

「あります」

「何処にあるの」


 私は答えなかった。この人は匙を口へ運んだ。


──────────────────


標本台帳(抄)


作成 資料館

作成日 令和二百十二年十一月十四日

用途 照会の受理に伴う館内の控え

様式 令和百四十四年制定。改正の記録は無い


一、対象


第三室の壁面、左から六番目の名称の板について、これに対応する一体の記載を抄出した。


特定は照会者の申し出によった。申し出にあったのは板の位置のみで、番号によるものではなかった。


位置のみで認めた例は、本件が二件目であった。


二、登載


標本番号 一一七


登載 令和百九十六年


作製は当時の事業者へ委託した。事業者は令和二百六年に廃業した。


写真の添付は無い。様式は文の記載のみを求める。


三、名称


板に彫った名は三文字で、台帳の名の欄と一致した。


由来の記載は無い。当該の欄が様式に無い。


定めた者の記載も無い。経緯は飼育部門の所管とする。


四、個体番号


個体番号 J-0021


彫ってあるのは名と番号であった。名が一段、番号がその下に二段になる。番号のほうは彫りが浅い。


台帳の備考欄にも同じ番号があった。板と台帳を突き合わせた記録は、これまで作成していない。


五、年数


在園年数 三十六年


部門在籍年数 十九年(展示部門)


ケースの下の説明板に記すのは、部門の名と在籍の年数のみとした。令和百六十一年に定めた。在園の年数は記さない。


十七年について、当館の台帳は欄を持たない。飼育部門の台帳との突合は、要する旨の定めが無いため行わなかった。


六、照会


受理は本日で、様式は当館が用意した。


照会者の欄は設けていない。設けなかった経緯は口頭による。


理由の欄は空のまま受けた。


七、回答


期日は定めていない。定めが無いため、受理の際に日を伝えなかった。伝えなかった旨は、当館の日誌へ一行記載する。


本様式による受理は、本年度において本件が最初となる。前年度の受理は、旧様式によるものを含めて零であった。


八、備考


本抄は受理に伴う控えであり、回答の書面ではない。


控えの保管期間は準用による。


九、前例


位置で認めた前の一件は令和百八十三年、照会者は当館の職員であった。


当時の受理を職員閲覧簿へ記載した形跡は無い。記載を要する旨の定めを、双方の様式とも置いていなかった。


園の個体からの照会は、本件が最初になる。


十、所管


当該の個体に係る記録のうち、当館が保管するのは標本化以後の分に限る。死亡の事由を記した分は、飼育部門が別に保管している。


照会は飼育部門へ別に行うこととなる。その旨は回答の際に伝えることとした。回答の期日は定めていない。

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