第030話 液浸標本の列
薬品受払簿
品名 ホルムアルデヒド液(三十七パーセント)
保管 資料館 収蔵庫 薬品棚
記入 資料館
本簿の様式 令和百六十一年制定
一、受入
本年度の受入は二回であった。四月に十八リットル、九月に十八リットルを受け入れた。
受入の単位は十八リットル缶とした。分割の受入は行わなかった。
受入の際、缶の封は当館が開けた。開封の日は缶の腹へ鉛筆で書き入れている。
二、払出
払出は補充に限った。標本の新規作製に伴う払出は、令和二百六年以降に無い。
本年度の払出は七回、合計十一・四リットルであった。前年度の払出は九回である。
払出の量は缶の目盛りにより読んだ。目盛りは〇・二リットル刻みで、読みは目視による。
三、補充の基準
液面が瓶の肩を下回った時に補充する。肩の位置は瓶ごとに異なる。
補充の量は計っていない。肩まで戻したところで止めた。
戻す位置は前任者からの引継ぎによる。引継ぎの記録は残っていない。
四、希釈
原液は十倍に希釈して用いた。希釈は収蔵庫の流しで行った。
希釈に用いた水の量は記録していない。上水の量を計る器具が当館に無いためである。
希釈の後、瓶を二度回して混ぜることとした。混ぜ足りない場合の定めは設けていない。回数は経験によった。
五、記入
受払の記入は、作業の当日に行うこととした。
本年度、当日に記入しなかった日が三日あった。いずれも翌日以降に記入した。記入した日の記載は無い。
六、残量
前年度末の残量は十六・二リットルであった。本年度の受入と払出を加減すると、現在の残量は四十・八リットルとなる。
本年度末の見込みは、前年度の減り方によれば十四・六リットルになる。ただし本年度の減り方は前年度より緩やかである。
七、取扱
取扱の際は換気を行った。収蔵庫に換気の設備が無いため、扉を開けて行った。
扉を開けている間、収蔵庫の温度は上がる。上がった分の記録は取っていない。
八、栓
栓は硝子である。交換の必要が生じた場合は同型を用いることとした。
同型の在庫については、令和百九十年に照会の起案があった。回答は綴られていない。
九、清掃補助
瓶の外側の清拭は、園の清掃補助の割当により行わせた。薬品には触れさせない。
割当の人数は一名とした。二名以上を要する作業は当館の職員が行う。
割当の対象は当日の就業に支障の無い個体とした。選定は飼育部門に委ねている。
(資料館)
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目が覚めたのは五時前だ。寒かったからだ。毛布は一枚しか出していない。二枚目を使うかどうかは自分で決めることになっていて、私はまだ決めていない。
膝を胸へ寄せて、そのまま待った。
足の先が温まるまでに少しかかる。温まると眠くなるが、点呼まで間があった。
窓は結露している。指で押すと水が下へ落ちて、その跡だけが透ける。透けたところから外が見える。まだ暗い。
坂の上に灯が二つ点いていた。
起きる前に、腹の音が二度した。
冬になってから朝の腹は鳴りやすい。音の出る位置が去年より上にある気がするが、確かめようがない。
寝台の板は三枚で、真ん中の一枚だけが少し反っている。
背中がそこに落ちる。落ちたまま寝ると腰に来るので、私は膝を立てて寝る癖がついた。
点呼は六時だ。廊下へ出ると、床が足の裏から冷たい。
列は番号の順ではない。着いた者から並ぶ。私は今日、前から四人目に入った。
手当の紙は昨日の夕方に配られた。私は袖から出して広げる。
支給の欄に数が入っている。控除の欄にも数がある。使用の欄は今月から埋まっていた。
残高は二十七だ。枕の下の袋と同じ数になる。
紙を畳んで袖へ戻した。字の面を内側にする。外側にすると擦れる。
朝の給餌は四七〇だ。
食堂の窓は上の段だけ開いている。下は閉めてある。
私は自分の皿を拭いた。布は膝の上に置いてある。縁を一周させて、底の真ん中を最後にする。この順は誰にも教わっていない。
三八〇の人が向かいに来た。この人の皿は四一〇だ。
「今日、上へ行くのね」
「はい」
「札はもう見たんでしょう」
割当の札は資料館の欄に私の番号があった。就業の名は清掃補助で、時刻は十時からになっている。
「拭くだけよ。触らせてくれないから」
「はい」
「あそこは寒いから」
この人は自分の袖を二度めくって、また戻した。
それから、三口分を私の皿へ移す。匙の腹を皿に付けて滑らせるので、音は出ない。
冬の皿は湯気が立つ。
立つのは配られてすぐの間だけで、卓に着く頃には消えている。
その後になると匂いは強い。というより、鼻に届くまでの時間が短くなる。
卓の脚に膝が当たった。当たる高さは毎回同じだ。
そこへ毎回当たるので、その部分の作業着の織りが薄くなっている。
卓の端にH-0031がいた。木曜は洗う日だ。この人は袋を三つ足元に置いている。三つとも口が縛ってある。
「地下」
「はい」
「暗くない」
「暗いところですか」
「明るい」
この人はそれだけ言って、袋を一つ持ち上げた。
床に丸い跡が残る。水が抜けきっていない。
坂は千七百歩ある。十時に着くように出た。
道は霜で白い。日の当たる側だけが濡れていて、そちらを歩くと靴の裏が滑る。私は霜の上を選んだ。
資料館の正面には段が三つある。私は上がらない。
段は使わず、建物の右の側面へ回った。
側面には窓が無い。壁は白いが、下の三十センチほどが灰色になっている。跳ねた水の跡で、乾いても残る。
裏に扉がある。金属で、色は灰色だ。取っ手は縦に付いている。正面のは横だった。
扉の横の呼び鈴を押した。その指を作業着の腿で拭く。前からの癖だ。
中から音がした。鍵が二度回る。
開いたところに係員がいた。第三室で会った人だ。壁のところに立っていた人になる。
「清掃補助の方でしょうか」
「はい」
「十時ちょうどですね」
この人は扉を押さえて、私を先に入れた。それから、また二度鍵を回す。
中は廊下だ。狭い。幅は肩が二つ入らない。
片側に棚があって、箱が積んである。箱には字が書いてあるが、こちらを向いていない。
積み方は下が大きくて上が小さい。三つ目のところだけ順が入れ替わっている。そこの角が潰れていた。
天井に管が二本通っている。太いのは灰色で、細いのは白い。細い管の継ぎ目から、水の跡が下へ伸びていた。その先の床に丸い染みがある。
廊下の先に階段がある。下へ行くものだ。この建物で床より低いところへ入るのは初めてになる。
段は正面のより急で、幅が狭い。手すりは左側にしか無い。私は右手を壁に付けて下りた。壁は冷たくて、少し湿っている。
十四段ある。数えながら下りた。一番下で一度止まった。壁に手を付けると冷たい。
匂いのせいだ。
匂いは重い。鼻の先ではなく、奥まで来る。入ってからも、そこで止まらない。喉へ下りて、しばらく残る。
「ホルマリンだと思います」
「はい」
「そのうち慣れるでしょう」
係員が電灯の紐を引いた。
二度引いて、二本とも点く。
光は白い。第三室の灯より強くて、影が濃く出る。
部屋は細長い。両側に棚があって、真ん中に通路が一本ある。通路の幅は肩が一つ半だ。
床は板ではない。灰色の平らなもので、足の音が硬く返る。
奥の壁に流しがある。その上に窓は無い。
明かりは電灯の二本だけになる。
壁は塗ってある。塗りは厚い。それなのに、下の三十センチが剥げていた。
そこから灰色が出ている。資料館の外側の壁に出ている色だ。
通路の床に線が引いてある。白い線で、両側の棚から等しく離れている。
線の内側だけ、塗りの艶が残っていた。人が通るところは擦れて艶が落ちる。落ちていないのは、誰も端を歩かないからになる。
棚は五段だ。下の二段には箱が入っている。瓶が並んでいるのは上の三段になる。
棚の柱は金属で、根元に数字が打ってある。刻みは浅い。爪を立てても引っかからない。
左の棚は五から始まって、右の棚は十二から始まる。間の番号は無い。抜けた分の棚が前にあったらしい。
棚板の縁に、瓶の底の輪の跡が並んでいた。跡は薄い茶色だ。
跡の数と、今そこに立っている瓶の数は合わない。跡の数が多い。二度数えても多い。差は十一だ。
瓶は同じ形だ。硝子で、口が広い。高さは私の手のひらより少し高い。口の径は指三本ぶんで、栓は硝子ではなく樹脂だ。
並んでいるので、上の縁が一本の線に見える。
中に液が入っている。色は薄い黄だ。というより、水が古くなった色になる。
液の中に何かが入っている。私は近づいた。近づくと、白いものが見える。
白いものは丸い。丸くて、片側だけが尖っている。
下を向いている瓶と、上を向いている瓶がある。
大きさは瓶ごとに違う。私の拳より小さいものと、指二本ぶんしかないものがある。細いものは液の中で少しだけ浮く。浮いているのか、底に着いていないだけなのかは分からない。
硝子に顔を近づけると、向こう側が歪む。硝子が厚いからだ。歪むので、輪郭が二重に見える。離れると一つに戻った。
「触らないでください」
私は手を引いた。
「拭くのは瓶の外側だけになります」
この人は布を二枚渡した。
乾いたのと、濡らしたのだ。
濡れているものを先に使う。その後で、乾いたもので水を取る。
「上のほうからお願いできますか」
私は布を持ち直した。
「手つきは変えなくていいと思います」
私は聞いた。
「順は決まりですか」
「上から下へになっています」
「番号の順ですか」
この人は首を振らなかった。黙って、棚の一番上を手で示す。
「埃が下へ落ちるものですから」
踏み台が出てきた。木で、二段ある。置くと少し傾いた。床が平らではないらしい。
置き場には枠が描いてある。白い線で、脚の形に合わせてある。
枠と脚は合わない。差は二ミリほどだ。四つの隙間は三ミリから七ミリまである。
一度置き直した。それでも隙間は残る。線を引いた時と、今の踏み台は別のものらしい。
上がると、瓶の上の縁が目の高さに来る。目の高さに来ると、液の面が見える。
私は一番上の左端から始めた。
瓶の腹に布を当てて、一周させる。それから底へ下ろす。
硝子は冷たい。拭くと少しだけ温かくなる。布を通って私の手の温度が移る。
瓶と瓶の間は指一本ぶんしかない。布を入れると両側の硝子に同時に触れる。
触れると音が出る。硝子の音は高い。部屋の奥で一度戻ってきて、その音は低い。
間隔を空けて置き直そうとした。手を掛けたところで、やめる。元の並びが分からなくなる。並びには意味があるはずだった。
布は途中で色が変わる。灰色になる。それは埃で、絞ると水が濃くなった。
絞った水は流しへ捨てる。その時、流しの底に細かいものが残る。残ったものは指で押すと動いた。
一つ拭くのに十を数えるくらいかかる。その間、私は瓶を見ている。見ないでは当たる場所が分からない。三十五本で、数え終わりは三百五十になる。
途中で、皿を拭く手になっていた。
私は手を止めた。止めて、もう一度動かす。
瓶の下に札が貼ってある。紙で、縁が黄色くなっている。字は手書きだ。
書いてあるのは三つ。上が番号、真ん中が数、下が年になる。
番号は四桁だ。頭に字が一つ付いているものと、付いていないものがある。
真ん中の数には「日」が付いている。
三、と書いてある札がある。その隣は十一だ。次の列に四十がある。その札の番号には、頭の字が無い。
私は左から順に見ていった。
頭に字のある札は三と二、それから五と一が続く。字の無いものは二十二と四十、それから十六と三十一になる。
字は五種類ある。一つの字が二つ並ぶところと、一つずつ変わるところがあった。
私の番号の頭に付いているのと同じ形の字は、上の段に一つある。その札の数は読まなかった。手を出す前に係員が布を替えに来た。
一番上の段は十四本ある。字のあるのが八本で、無いのが六本だ。
二段目に移った。
十二本ある。
そのように分かれた。数の大きさも二つに割れる。
札の紙は瓶ごとに違う。新しいものと、古いものがある。年の経ったものは縁が茶色い。触ると粉になる。
年の欄はどれも読める。一番古いのは百四十四年で、一番新しいのは二百六年だ。
二百六年のものは三枚あって、どれも紙が白い。
私は年の並びを見た。並びは番号の順ではない。古い年の隣に新しい年が来ることがある。誰かが途中で並べ直したのだと思う。
布を替えた。濡らした布が乾いてきたからだ。
係員のところへ行くと、この人は流しの水を出して絞ってくれた。この人の握りは強い。私がやるより水が残らない。
「どこまで終わりましたか」
「二段目までです」
「三つ目は台が要らないはずです」
三つ目の段は九本しかない。踏み台を下りて、床から手が届いた。
液の面は瓶ごとに違う。高いものは口の近くまである。低いものは肩のところで止まっていた。
一本だけ、肩より下にあるものがあった。肩から指二本ぶん下だ。
ほかにそこまで下がっているものは無い。
私はその瓶の札を見た。番号の頭に字が付いている。真ん中の数は二だ。年は令和二百六年になっている。
係員は流しのところにいる。
背中を向けて、缶から瓶へ液を移していた。
その時、缶の口を布で押さえる。その布は私が渡されたものらしい。
秤は無い。この人は目盛りを見ないで、瓶の口のところを見ている。そこで手を止めた。
止めて、水を足す。栓は流しのものを使う。どのくらい足すかは、こちらから見ていても分からなかった。
足し終わると、瓶を二度回して混ぜる。
「これから補充します」
「はい」
「肩の高さまで入れますので」
この人は下がっていた瓶を取った。両手で、流しへ運ぶ。その間、液がわずかに揺れた。揺れても中のものは動かない。
栓を抜いて、細い管を差して、液を少しずつ入れていく。
入れる間、もう片方の手で瓶を支えている。その手は動かない。液の面だけが上がっていく。
肩まで来たところで止めた。栓を戻す。その時に一度、栓を押さえて回した。
そこで指を離して、離れたところをもう一度見る。
瓶は棚へ戻された。位置は元の位置だ。
戻すと、上の縁の線が揃った。揃うと、どれがさっき下がっていたのか分からなくなる。
私は下の段の箱を見た。紙の箱で、蓋が別になっている。
蓋の上に番号が書いてある。瓶の札のものより桁が少ない。字は一つの手だと思う。
「これは拭きますか」
「箱も外側だけにしてください」
「中は開けますか」
「そこは開けないことになっていて」
この人は箱の列の端を指した。その先の一つだけ、蓋が半分ずれている。その分だけ中の紙が見える。紙は畳んであって、字の側が下を向いていた。
「それは私が直します」
この人は蓋を戻した。
置く時、両手の指を蓋の四隅に当てる。
それから、真上へ下ろす。横から押すと角が潰れるらしい。
箱の外側は乾いた布で拭く。紙なので、濡らしたものは使わない。上から下へ一度ずつ動かす。二度動かすと表が毛羽立った。
箱は全部で二十六ある。そのうち十九の蓋に番号があった。残る七つには何も書いていない。番号は黒い墨で、掠れているものが四つある。
番号のある十九は、瓶の数と同じではない。瓶は三十五本ある。
同じ数のものが一つも無いことに、私は数え終わってから気づいた。
箱の重さは持ってみないと分からない。私は持たなかった。中に何が入っているかも知らないままだ。外側だけが手の下を通っていく。
書いていない七つは、列の一番奥にまとめてある。まとめ方は縦だ。ほかは横に積んである。
拭き終わるまでに一時間かかった。時計は無い。係員が終わりを言うまで分からなかった。
途中で腕が上がりにくくなった。
高いところを拭く姿勢が続いたからだ。
肩の後ろが張ると、腕の上がる高さが少しずつ下がる。下がると、瓶の上の縁に布が届かない。
踏み台の位置を三度ずらした。木が床を擦る音は乾いていて、擦った先に細い線が残る。
「今日はこれで終わりです」
私は布を両手で持つ。
「使った布は流しへ置いてもらえますか」
流しの縁に缶が置いてある。缶の口は布で塞いであった。
水を出して布を洗った。水は冷たい。
冷たいのに、洗った後の指が乾かない。
係員は帳面を広げていた。開いて、右の欄に何か書く。それから、閉じて棚へ戻す。
帳面は横に長い。表紙に紙が貼ってあって、貼った紙の角が二つ剥がれていた。棚へ戻す位置は決まっているらしい。戻した後、この人は表紙の端を指で押して揃えた。
「今日の分ですか」
「今日の分を書いています」
「毎回書きますか」
この人は少し止まった。それから答えた。
「書ける日は書きます」
それ以上は言わない。黙って、電灯の紐に手を掛けた。
係員は電灯のところで待っている。止めているのは私だ。
それでも、私は最後にもう一度だけ棚を見た。
瓶の上の縁が一本の線に見える。線は途中で一度だけ下がって、また戻る。
下がっているのは三つ目の段のところだ。
紐が引かれた。二度で両方が消える。暗くなると、階段の上から来る光だけが残った。光は四角くて、床の途中で切れている。
暗くなった後も、瓶の縁の線は少しの間だけ見えていた。
目が覚えているのだと思う。覚えている線は、下がっていない。
十四段を上がる。行きより帰りが速い。上がりきったところで匂いが薄くなった。それでも、無くならない。
廊下を戻って、扉のところへ出た。
係員が鍵を回す。二度で止めて、押す。押すと外の光が入った。
「ご苦労さまでした」
「はい」
外は明るい。目が慣れるまでに少しかかった。
息が白い。
中では白くならなかった。
外で息を二度吐いて、それから作業着の前を合わせた。合わせても薄い。
扉が閉まる音がして、それから鍵の音が二度した。二度目が短い。
側面の途中に、地面から出ている低い格子がある。行きには気づかなかった。
格子の下は暗い。顔を近づけると、下から空気が来る。その空気は温かくない。
匂いは格子からも出ている。中で嗅いだのと同じ匂いだ。外では薄い。通る人は誰も顔を向けなかった。
正面の段の前を通る。段は三つで、その上に線がある。今日は上がらない。
下りは千五百二十歩だ。
坂の途中で一度止まった。上がってくる人がいたからだ。
二人組で、両方とも外の人だった。片方が資料館を指して、もう片方が頷く。通る時、片方がこちらを見た。それから、目を戻す。
坂を下りきると、風の向きが変わった。
上では背中から来ていたのが、下では横から来る。
横から来ると袖が膨らむ。膨らんだところだけ、下の腕が冷える。
園に戻ると匂いが変わった。門を入って三歩で洗剤が来る。
食堂の匂いはその後から来て、洗剤の上へ乗る。重なってからは、二つとも分かれない。
正門の内側で作業班とすれ違った。四人で、白木の板を運んでいる。板の長さは腕ほどだ。運ぶ人の手が板の下から出ていて、指が縁に掛かっていた。
私は横へ寄って通した。行き先は見なかった。
板は四人で運ぶ長さではない。二人で足りる。それなのに四人いるのは、途中で持ち替えるからだと思う。替える場所も決まっているのかも知れない。
通り過ぎてから、木の匂いがした。
挽いたばかりの粉の匂いだ。
乾いていて、鼻の先で消える。今日の匂いの中で、これだけが奥まで来なかった。
昼の給餌は四七〇だ。卓に着いてから、私は自分の指を見た。爪の際が白い。
白いのは粉で、擦っても取れない。爪の内側ではなく、皮膚の側にある。両手とも、人差し指から薬指までの三本だ。
水で流したが、色は変わらなかった。
匙を持つと、指の先だけが匙に触れる。触れる面積は少ない。
少ないのに、金属の冷たさはいつもより長く残った。
食堂は昼に人が少ない。当番のある人は帰らないからだ。
少ないと声が通る。通ると、遠くの卓の話が切れ切れに届く。それだけでは意味が組めない。
窓の外に鳥が二羽いた。柵の上に並んでいて、片方だけが動く。
動くものが先に飛んだ。もう一方は残った。残ったものは、私が食べ終わるまで動かなかった。
午後は当番が無い。私は洗濯室へ行った。
洗濯室は温かい。湯を使うからだ。入ると一度目を細める。
床は濡れている。水のあるところは色が濃い。濃いところと薄いところの境が、一日のうちで動く。今の境は流しから三歩のあたりにあった。
天井から紐が垂れている。物干しの紐で、端が壁の金具に掛けてある。金具は二つあって、片方だけ塗りが剥げていた。掛け替える時にいつも右を使うからだと思う。
H-0031がまだいる。木曜は袋が多い。
「上、行った」
「行きました」
「明るかった」
「明るかったです」
この人は私の袖を見た。
それから、桶を一つ空ける。
その桶に水を張って、こちらへ押した。桶の底が床で鳴る。
「浸けなさい」
「はい」
私は袖を浸けた。水が濁る。濁り方は薄い。
薄いのに、水の面に膜のようなものが浮いた。
水は少しずつ透き通っていく。それから、袖を引き上げて絞る。絞ると水が桶へ戻る。落ちたところだけ膜が切れて、しばらくすると閉じた。
H-0031が桶をもう一つ出した。今度は水だけだ。私は袖をそちらへ移す。
「二回」
「はい」
「一回だと残る」
この人は自分の指を見せた。爪の際が白い。私の指と同じところだ。
私は聞かなかった。この人も言わない。黙って、干す場所へ袋を運んでいった。腰を落として持ち上げて、そこで一度止まる。
止まるのは毎回だ。持ち上げた後で息を入れる。それから歩き出す。
歩き出すと速い。そのせいで、途中で袋の角が壁に当たる。跡が壁の一つの高さに並んでいた。
私は自分の袖をもう一度絞った。
二度目の水は濁らない。
濁らないのに、面の膜だけは薄く出る。出たところを指で切ると、切った先がまた閉じた。
私は数を思い出した。三と二と五と一。それから二十二と四十と十六と三十一。
覚えるつもりはなかった。夕方まで残った。
夕方の給餌は四七〇になる。
卓に着くと袖がまだ湿っていた。湿っているところだけが冷たい。
冷たいところを腕に押し当てる。その間だけ、袖の温度が上がった。
離すと戻る。戻る速さは、桶の膜が閉じる速さと似ている。似ているだけで、同じかどうかは計っていない。そういう器具は私も持っていない。
三八〇の人が隣に来た。
「どうだった」
「瓶を拭きました」
「それは分かってるわよ」
この人は匙で卓の縁を二度叩いた。叩いてから、自分の皿をこちらへ少し寄せる。
「寒かったです」
「言ったでしょう」
「はい」
「洗ったほうがいいわ」
私は袖を見せた。湿っているところを上にする。
この人は指で触って、それから何も言わずに手を引いた。
卓の向かいは空いている。その席の前にも皿は置かれた。下げられるまでに時間がある。下げる人は端から順に取っていく。
私は自分の皿を拭いた。縁を一周させて、底の真ん中を最後にする。順は変わらない。
拭いてから、布を膝の上へ戻した。
手のひらを見た。今朝と同じ手だ。爪の際はまだ白い。
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収蔵庫点検記録
点検日 令和二百十二年十一月四日
点検者 資料館職員一名
様式 令和百六十一年制定
一、対象
地下収蔵庫の液浸標本を対象とした。棚は五段のうち上の三段を使用している。
対象の本数は三十五本であった。前回の点検から増減は無い。
下の二段には資料の箱を収めた。箱は本点検の対象としていない。箱の数は二十六である。
二、液面
液面が肩を下回っていたものが一本あった。当日中に補充した。
補充の量は計っていない。肩まで戻したところで止めている。
当該の一本は、前回の点検でも肩の近くまで下がっていた。その時は補充を要しないと判断している。
判断の基準は記載していない。
三、補充の回数
本年度の補充は本日で八回目であった。
四、瓶
破損は認めなかった。栓の緩みも認めていない。
栓の緩みの点検は手で行う。回して確かめるのではなく、触れて動かないことを確かめた。
三十五本のうち、栓の色が他と異なるものが四本あった。交換の記録は残っていない。
五、清掃補助
外側の清拭は割当により一名が行った。所要は一時間であった。
薬品には触れさせていない。踏み台を用いた段については、当館が使用の可否を確認した。
当該の者は棚の並びを組み替えなかった。組み替えを禁じた指示は出していない。
六、温度
点検の間、扉を開けていた。その間の温度は測っていない。
当収蔵庫の温度は管理していない。管理を要する旨の申出も受けていない。
七、所要と記入
本日の点検の所要は、清掃補助の立会を含めて一時間三十分であった。
記入は当日に行った。当日に行わなかった日の取り扱いは、薬品受払簿の五による。
八、受払簿との照合
本記録の補充の回数と、薬品受払簿の払出の回数は一致しない。差は一回である。
差の生じた日は特定していない。
九、次回
次回の点検は令和二百十三年二月に行う。年に三回とする定めによる。
二月の点検は血統会議の期間と重なる。重なった年は、点検を月の下旬へ送ってきている。
十、札
札のうち三枚は、字がかすれて判読しにくい状態にあった。書き直しは行っていない。
書き直しの手続は無い。原本の字を残すためである旨が、開館時の記録に残る。
判読しにくい三枚は、いずれも日数の欄がかすれていた。番号の欄は読めた。
(資料館)




