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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第三章 標本

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32/74

第032話 日付の欄

就業割当表


第七園 E区画

対象週 令和二百十二年十一月十五日(月)から二十一日(日)まで

掲示 十一月十一日 控室の扉の内側

掲示の押さえ 画鋲四つ

前週分の剥離 行っていない


一、変更


本週より、記録整理の補助に二名を充てることとした。充て先は飼育部門とした。


充てた二名は洗濯の当番から外した。外れた分は他の当番へ割り振っている。


割り振りの内訳を記した書面は作らなかった。作る旨の定めが無かった。


二、対象の二名


J-0037 月火水 洗濯/木 記録整理/金 ふれあい/土日 休


H-0031 月 洗濯/火水木 記録整理/金土 洗濯/日 休


二名は前年度の就業評定でいずれも「支障無し」であった。評定の項目は本表に写していない。


上記のほか、区画内の割当に変更は生じていない。


三、記録整理の内容


対象は飼育部門の綴りのうち、様式第九号および第八号とした。


作業は綴り替えである。綴りの順序は日付によることとした。


日付の欄が空のものの取扱は定めていない。前例の有無も確かめなかった。


四、場所と時刻


場所は飼育部門の二階、東側の室とした。


時刻は九時から十五時までとした。昼の給餌のため、十二時から一時間を空けている。


室の鍵は職員が開ける。閉めるのも職員によることとした。


五、監督


監督は第七号が行うこととした。第七号は当該の時間に他の業務を持っている。


したがって常時の在室は求めない。求めない旨を本表へ記載した。


在室しない時間に生じた事項の取扱は、別に定めていない。


六、取扱の制限


綴りの中身を読むことは禁じなかった。読んだ旨を記録する様式も設けていない。


持ち出しは認めない。写しを取ることも認めなかった。


筆記具は室のものを用いることとした。持ち込みは認めていない。


七、前年度の実績


前年度、同種の補助を充てた週は三週であった。いずれも二名で、いずれも継続しなかった。


継続しなかった理由を記した書面は、いずれの週についても残っていない。


八、備考


本件は本週限りではない。次週以降の継続は、初週の進み具合により決めることとした。


決める者の記載は本表に無い。


区画の個体を飼育部門の室へ入れた例は、記録に残る限りで十一件目となる。


九、掲示


本表は前の週の木曜に掲示することとした。掲示の期間は八日間とした。


期間を過ぎた表の取扱は定めていない。剥がす者も定めなかった。


(掲示 E区画担当)


──────────────────


 木曜の朝に洗濯へ行かないのは、園に来てから初めてだ。


 六時の点呼が済んで、私は控室の前を通った。扉の内側に表が貼ってある。

 画鋲は四つで、右上の一つだけが新しい。前の週の分を剥がした跡が、紙の下に残っている。


 私の番号の行は、木のところが違う字になっていた。

 二日ぶん、洗濯ではない。


 字は手書きだ。表の枠は刷ってあるが、中の字は誰かが書いている。その癖で、月と火の欄だけが右へ寄っていた。木曜の欄はまっすぐに入っている。


 この前で足を止めるのは、朝が一番多い。

 私の後ろに三人が並んで、私が離れると詰めてくる。その人たちは表の下を見る。下は他の区画の分で、上がE区画だ。


 下を見る人は指で行をなぞる。なぞった跡は残らない。

 残らないのに、一つのところが少し黒い。何人も同じ行を追っている。


 食堂は七時に開く。今日は三八〇の人が先にいた。


「洗濯じゃないんですって」

「はい」


「誰から聞いたのよ」


 この人は匙を止める。私は表の貼ってある壁を見て、それから自分の皿へ目を戻した。


「表に出ていました」


 この人は自分の皿の位置を直した。それから、匙で汁の上を掬う。上は薄い。


「二階へ上がるのね」

「はい」


 卓の端で誰かが笑った。声は天井へ抜けて、戻ってこない。食堂の天井は高い。


 私の隣の椅子が二度引かれて、二度とも別の人が座った。二人とも私の皿を見ないで食べる。


 三人ぶん向こうで、袋の話をしている。今日は袋が二十四だと言っていた。

 先週は二十九だったと言っている。声が先に高くなって、数は後から出た。

 私は皿を早く空けた。

 それから、汁の器を両手で持って飲む。器は温い。持っていると指の先まで来る。


 器の底に薄い輪がある。洗っても落ちない線で、どの器にもある。太さは器によって違う。私の今日の器は太い。


 H-0031は火曜から二階に入っている。私より二日早い。


 廊下で会った時、この人は袋を持っていなかった。洗濯の当番の時は必ず持っている。


「先に行く」

「はい」


 渡り廊下を二つ抜ける。一つ目は屋根があって、二つ目の空気が乾いている。

 渡り廊下の一つ目は屋根がある。

 二つ目は無い。二つ目を通る時だけ、外の空気が入ってくる。十一月の朝の空気は乾いていて、鼻の奥が少し痛くなった。


 屋根の無い床には、細い溝が横に切ってある。雨の日に水を落とすためらしい。今日は乾いていて、溝の底に葉が一枚入っている。踏まずに跨ぐ。


 棟の入口に段は無い。

 床がそのまま続いている。その途中に線が引いてあって、色は白い。私はその上を踏む。

 線の内側は床の色が違う。少し明るい。そこは新しく張り替えたらしい。


 階段は二十二段ある。

 踊り場で一度折れる。手すりは片側だけで、右にある。


 手すりの高さは私の腰より上だ。上がる時に握ると、肩が少し上がる。その形のままで十段を上り、踊り場で下ろす。

 二階の廊下は一階より暗い。壁の下に配管が走っていて、触ると温かい。湯の管だと聞いた。


 廊下には扉が五つある。四つは閉まっていて、一つだけ開いている。

 開いているのが東側の室だ。閉まっている扉には、どれも板が貼ってある。字は遠いと読めない。


 東側の室の扉は開いていた。押さえの木を床に噛ませてあった。

 中に机が四つある。二つは向かい合わせで、二つは壁に付けてある。


 壁に付けてある一つには何も乗っていない。天板の木目が縦に走っていて、節が二つある。


 窓は北側に二つ。幅は私の肩の倍ほどで、下の枠に埃が乗っている。上の桟は届かないので、拭いた跡が無い。

 硝子は二重で、間に埃が入っている。入った埃は拭けない。それで、窓の下が灰色に見えた。


 H-0031は向かい合わせの片方に座っていた。

 もう片方が空いている。私はそこへ座る。


 椅子は木で、座面が少し窪んでいる。その位置が私の座り方と合わない。

 直しても合わない。私は前へ寄って座る。

 机の上に綴りが積んであった。

 高さは私の肘のところまで来る。綴りは紐で結んであって、結び目は上に来ている。紐の色は茶色で、端が擦れていた。


 積んである数は三つだ。上の一つは新しい紐で、下の二つは色が濃い。紐を解く順に決まりは無くて、上からでも下からでもよくて、私は上から取る。色の濃いものを持ち上げると、紐の粉が少し落ちる。


「これ、全部ですか」

「まだ終わらない」


 H-0031は答えてから、机の縁に手を掛けて椅子を半分だけ引いた。その分だけ、机との間に隙間が出来る。


「何処にありますか」


「奥の棚」


 H-0031は顎で奥を示した。その先に棚がある。六段で、下の二段は空だ。


 上の四段は綴りで埋まっている。背に紙が貼ってあって、年が書いてある。その年は連続していない。二百五の隣が二百九になっているところがあった。

 空いている二段には埃が乗っていない。最近まで何か置いてあったらしい。


 室の匂いは紙の匂いだ。紙と糊と、消しゴムの粉の匂いが混ざっている。消しゴムの匂いは低いところにある。机の面に鼻を近づけると強くなった。


 糊の匂いは棚から来る。近づくと強くなる。棚に何かが置いてある。六段のうち、糊の匂いがするのは四段目のあたりだ。


 九時になった。廊下で足音がして、扉のところで止まる。


 七番が入ってきた。


 この人の作業着は膝のところが薄い。

 前に見た時と同じ薄さで、色も変わっていない。入ってきてから、扉を閉めない。開けたまま壁際の机へ行った。


「本日の分は百三十枚です」

「様式第九号は日付の順です」

「はい」


 七番は壁際の机に座った。それきり、私たちを見ない。


 机の上に鉛筆が二本置いてある。ほかには何も出ていない。一本は短くて、一本は長い。取ったのは長いものだ。


 この人は手回しの削り器を使う。回すと下の受けに屑が溜まる。溜まったものは机の左の奥にある木の箱へ移す。

 箱には蓋がある。開けた時に中が見えた。八分目まで来ている。


 削る音は細い。細いのに、部屋の中でよく聞こえる。窓が閉まっているからだと思う。

 回す音は始めのうち低くて、芯が出る手前で少し高くなって、それから止まる。


 一度に落とす木は薄い。それを何度も回して、丸く落としていく。回数は十二だった。数えたのは私で、この人は数えていない。


 削り終わると、この人は鉛筆の先を紙の端に当てて、少し引いた。線が薄く残る。

 その線は消しゴムで消す。かすは指で寄せて、机の縁へ払った。


 私は綴りの紐を解いた。結び目は固い。爪を入れて緩めると、紐の跡が紙に付いている。

 跡は二本の筋だ。間は指一本ぶんで、深さは爪に掛からない。

 上から三枚目までにあって、四枚目からは付いていない。結ぶ力が三枚ぶんで止まるらしい。


 中は紙の束だった。厚さは指一本ぶんある。数えると四十七枚あった。一番上の紙は角が丸くなっていて、下へ行くほど角が立っている。上が古い。

 紙には様式の番号が刷ってある。

 右上に小さく、様式第九号と入っていた。第八号は紙が一回り小さい。それで、束の中で段が付く。


 綴じ穴は二つある。左の縁から指一本ぶんのところに、上下に離して開いている。間は指四本ぶんだ。穴の縁は紙によって違う。破れているものと、丸いままのものがある。


 欄は十七ある。

 数えた。上の五つは日と番号と区画と担当と係で、下の十二は文字が細かい。


 細かい欄には、名前だけ読めるものがある。

 体重。時刻。立会。

 処置。この欄は横に長い。幅は他の欄の三つ分ある。それなのに、私が見た紙ではどれも二字か三字しか入っていなかった。


「これは何ですか」

「これは様式第九号です」


 七番は顔を上げないで答えた。鉛筆の先は紙に付いたままで、答えている間も動かない。


「読んでもいいですか」


「規定は禁じていません」


 七番はそれだけ言った。それから、また鉛筆を紙に当てる。


 私は一枚目を読んだ。

 日付の欄に令和二百七年の日が入っている。番号の欄はJで始まっていた。

 下の十二の欄は、半分が空だった。そこには線も引いていない。


 書いた字は青いインクだ。

 二枚目は黒い。三枚目はまた青くて、四枚目は鉛筆だった。鉛筆のものは薄い。そこを指で触ると、少し伸びる。伸びると読みにくくなるので、私は触るのをやめた。


 読むのに時間がかかる。字が細かい。知らない言葉も混ざる。

 H-0031は読まないで綴じている。手が速い。私が一枚読む間に、この人は四枚を並べていた。


「読まないんですか」

「読まない」


 この人は紙の角を親指で押さえた。その一点だけ、紙が机に付いて浮かなくなる。


「どうしてですか」


「終わらない」


 この人は一度も顔を上げないで言った。

 それから、束を揃えて机の縁で叩く。叩くと紙の端が揃う。束は前より薄く見えた。

 私も読むのをやめた。やめてから、日付だけを見て並べていく。

 やめると速くなる。急いだ手が一枚を取り違えて、私は戻した。

 日付は右上にある。数字は縦に三つ並んでいて、上から年と月と日だ。年は令和の下に三桁が入る。三桁の一番左が二なら今の百年で、一なら前の百年だ。


 並べていると、束の中で年が飛ぶことがある。

 二百七の次に百九十四が来て、また二百八に戻る。前に綴じた人の並べ方が違ったらしい。


 私は年の若いものから積んだ。出来た束は右へ置く。読み終えたものは左へ置く。


 H-0031の手元は右と左が逆だった。それでも、机の真ん中で二つの束はぶつからない。境のところに、木目の節が一つある。


 右の束は増えていく。積むと重くなる。重くなると、机の面との間で紙が滑らなくなった。滑らないと揃えやすい。手のひらの縁で押す。


 一つの年の紙が続くと速くなる。年が変わるところで一度手が止まる。月を見に行くからで、月まで見ると、また速くなる。


 十時までに私が並べたのは十九枚だ。

 H-0031の側は数えていない。それでも、この人の左の束は私のより厚かった。


 十時ごろ、H-0031が立って窓を少し開けた。


「息が入らない」

「はい」


 開けた幅は指二本ぶんだ。それでも風は入らない。風が無いのに、紙の匂いが薄くなった。

 私は手を止めて、指の先を見た。紙の粉が付いている。

 白くて細かい。払い落としても全部は取れない。残るのは爪と皮膚の境だ。

 指の腹は乾いていた。そうなると紙が捲れない。私は指を口へ持っていかないで、机の縁で二度こすった。こすると少し戻る。戻ってもすぐ乾く。


 七番は書いている。

 日誌らしい。鉛筆の音は紙の上で連続しないで、三つか四つで一度切れる。


 切れる間に、この人は箱へ手をやらない。箱は削った時だけ開く。蓋は木で、蝶番の代わりに溝が切ってある。


 背中は動かない。肩も動かない。動くのは右の手首から先だけだ。この人が座ってから、椅子は一度も鳴っていない。


 十一時になって、束の中に日付の無い紙が出た。


 右上の三つの数字のうち、年だけがあって月と日が空だ。そこに線も無い。紙の色は他と同じで、古さは分からない。

 空の欄には印刷の枠だけがある。薄い青で、他の欄と同じ色をしている。中は白い。

 白いところに指を置くと、影が入った。退けても白さは変わらない。


 私はその紙を裏返す。裏には何も刷っていない。書き込みも無い。

 表へ返して、右上をもう一度見る。年だけがある。


「日付が無いです」

「綴りは第九号と第八号です」


 私は二枚を並べて、右上の同じところを指で押さえて、それから七番へ体を向ける。

「これはどうしますか」


「規定です」


 七番はそう言った。それから、鉛筆を置いた。


 置いた鉛筆は転がらない。机の面が水平だからだと思う。傾きは無い。


 置き方は毎回同じで、筆立てと日誌の間に横にする。位置は指一本ぶんも変わらない。

 私は紙を持ったままで少し待った。

 それでも、この人はそれ以上言わない。


 H-0031を見ると、この人は自分の束を見ていた。そのままで右手だけを下へ動かす。先は見えない。


 日付の無い紙は、束の一番下へ入れる。


 入れると厚みの中に混ざる。


 私は同じ紙を二度入れ直した。一度目は下から三枚目に入って、二度目で一番下になった。


 入れ直す間、その紙の年だけを見ていた。令和百九十六年と刷ってある。同じ年の紙は、朝からもう何枚か通っている。年だけなら珍しくない。


 H-0031は自分の側で三枚並べていた。置く音は等しい間隔で鳴る。鳴っている間、私は自分の束の上へ次の紙を置いた。その紙には日付がある。


 昼は十二時からだ。室の鍵は職員が閉める。


 七番が先に出て、私たちが後から出た。

 出る時、この人は扉のところで立っている。私が通ってから閉めて、鍵を回した。音は一度だけ鳴る。

 鍵は輪に十二本まとまっている。数えたのは廊下で待っている間だ。十二本のうち、この人が使ったのは端から三本目だった。選ぶのに迷いは無い。


 食堂までは渡り廊下を二つ戻る。屋根の無いところは日が当たっていて、朝より温かかった。


 日の当たるところで立ち止まると、作業着の背中が先に温まる。前は冷えたままだ。三つ数える間だけ止まって、また歩いた。


「午後もある」

「はい」

「三時までよ」


 H-0031はそれだけ言って、列の前へ行った。この人の背は私より低い。それなのに歩くのが速い。

 昼の給餌は四七〇だ。

 今日は汁の実が二つ入っていた。どちらも同じ形をしている。一つの物を切ってある。


 私は手を洗ってから並んだ。石鹸は無い。水だけで、指の間まで冷える。列は昼が短い。それなのに進みが遅い。配る人が一人だからだ。朝は二人いる。


 卓の向かいに三八〇の人が座った。この人は昼に来ることが少ない。


「二階はどうだったの」

「紙です」


「そうじゃなくてね」


 この人は匙を持ったままで待った。

 匙の先が皿の上で止まっている。汁が一滴だけ先から落ちて、皿の上で輪になってから消えた。


「何が書いてあるの」


「日付です」


 この人は少し笑った。それから、自分の皿の実を一つ私の皿へ移す。その時に汁が跳ねて、卓の上に小さい点が二つできた。


 点は乾くまで残る。

 そうすると縁だけが白くなって、真ん中は卓の色に戻る。私は指で拭わなかった。この人も消さない。


 午後の室は朝より明るい。北の窓でも、昼を過ぎると空が明るくなる。机の上の影が、朝より短い。


 明るくなると、二重の硝子の間の埃まで見える。朝は灰色の面だった。昼は粒に分かれる。粒の大きさは揃っていない。


 七番は戻っていた。私たちより先に入っている。鍵を開けたのもこの人だ。


 午後の分の綴りは奥の棚から出す。

 棚の三段目に手が届かないので、私は爪先を立てた。それでも届かない。H-0031が横から取って、私の机の上へ置いた。


「ありがとうございます」

「要らない」


 この人は自分の分も同じ手で下ろした。その時に肘が伸びきらない。

 伸ばさないと早い。私は真似ようとして、真似られなかった。

 午後の束は朝より薄い。指一本に足りなくて、紙の質が少し違った。古いものが厚い。厚い紙は綴じ穴の縁が破れていない。


 厚い紙は捲る音も違う。低い音が出る。薄い紙は高くて、続けて捲ると重なって聞こえた。


 私は日付を見ていく。

 二時までに三十枚を並べた。

 三十枚のうち、日付の無いものは二枚あった。


 束を持ち上げて、下から光に透かす。透かすと字が裏返って見える。逆さの字は読めない。それで、私は束を机へ戻した。


 二時半ごろ、七番が立って棚へ行った。


 立つ時に椅子を引かない。座面から体だけを持ち上げて出る。それでも椅子は動かない。


 行って、下の二段の空いているところに手を当てる。それから、何も置かないで戻ってきた。


 手を当てたのは左の一箇所だけだ。右には触っていない。


 戻ってから、この人はまた鉛筆を削った。今度は短い一本を削る。

 こちらは持つところが少ない。削ると、さらに短くなった。


 削りかすは箱へ入れる。

 八分目だったところが、少し上がったように見える。


「その箱は何ですか」


「規定です」

「捨てないんですか」


 七番は答えなかった。黙って、削った鉛筆を紙の上へ置く。


 蓋を閉める時に、屑が一つだけ縁を越えて机に落ちた。それを、この人は指で拾って箱へ戻す。

 匂いがした。削った木の匂いだ。私は息を止めて、それからもう一度吸った。二度目は薄い。三度目には分からなくなった。鼻が慣れるまでに、数えて七つかかる。


 消えてから、私はもう一度鼻から吸った。

 二度目は紙の匂いしか入らない。箱へ近づけば戻る。私は立たなかった。

 三時が近い。私は最後の束を紐で結んだ。


 結び方は朝に解いた形をそのまま真似た。

 結び目は上に来る。真似ても、私の手は緩い。持ち上げると紙が少しずれた。


 ずれた分を押し戻して、もう一度締めた。二度目は締まる。そうすると、紐の跡がまた上から三枚に付いた。私が付けた跡は、朝からあった跡と重ならない。


「聞いてもいいですか」


「規定に無いことは答えません」

「照会のことです」


 七番はこちらを向いた。それでも、顔の角度が変わるだけになる。


「資料館へ出しました」

「回付は記録管理室です」


「はい」


 私はもう一つ聞こうとして、口を開けてから閉じた。その時に息だけが出る。息は音になる手前で止まった。


「日は決めていないそうです」

「本年度の回付は十四件です」

「はい」


 この人は数を言ってから、それ以上は続けなかった。十四という数が何処から何処への十四なのかは言わない。私も聞かなかった。


 この人は鉛筆を筆立てへ戻した。

 それから、日誌を閉じる。


 閉じる時に、頁の間へ細い紙を一枚挟んだ。その紙は日誌より少し長くて、上に出ている。端は切りっぱなしだ。鋏で切った縁ではなく、手で裂いた縁だ。


「本日の作業は十五時までです」

「はい」


「明日の割当はふれあいです」


 私は立った。それから、机の上を見る。

 朝に積んであった綴りは、右へ全部移っている。左には何も無い。


 H-0031は先に出ていた。

 この人は昼からずっと同じ速さで、最後も同じだった。


 机の上には何も残っていない。椅子は入れてある。位置は朝と同じだった。


 廊下へ出ると、配管の温かさが背中に来る。行きは前から来た。同じ管でも、通る向きで当たる面が違う。

 閉まっている四つの扉は、朝と同じに閉まっている。

 板の字は近づけば読める。私は近づかないで通った。


 階段は下りが早い。二十二段のうち、頭に残ったのは最初の三つだけだ。


 渡り廊下の二つ目で、外の光が横から入った。朝は上から入っていた。角の分だけ、床の明るいところが手前へ来ている。


 区画に戻ると、洗濯室の前に袋が積んであった。今日の分だ。四つ重ねて紐を掛けてある。掛け方は前庭で見たものと同じだ。


 運んだ人はもういない。扉は閉まっていて、下の隙間から湯の匂いが出ていた。今日は私が出した匂いではない。


 私は自分の指を鼻に近づけた。

 紙の匂いはもう薄い。木の匂いが残っている。


 食堂は湯気が天井の下で止まっていた。窓を開けていない。

 三八〇の人は来なかった。空いた席の皿が下げられないまま残っている。私の皿は四七〇だ。


 卓の向かいに座ったのはH-0031だった。

 この人が私の向かいに来るのは、洗濯の当番の外では初めてになる。


「明日は洗濯」


「表のとおりよ」

「はい」


 この人は皿の縁を持って、少し傾けた。傾けると汁が一方へ寄る。寄せてから匙を入れる。


「あの紙、読んだ」

「少しだけです」


「何が書いてある」


「番号と日付です」


 この人は頷いた。それきり、何も聞かなかった。

 私は自分の匙を持ち直した。それでも、持つ場所は同じところだ。


 居室に戻ったのは七時前だ。日誌をつける決まりは無い。つける紙も無い。あるのは枕の下の百二十七枚だけになる。


 右手の人差し指の先が、紙の縁で薄く切れていた。

 血は出ていない。切れているのは表の皮だけで、押しても痛くはない。曲げると線が見える。


 指の爪の際に、まだ紙の粉が残っている。爪を立てて掻くと、少し出る。粉は白い。落とすと床の色に紛れる。

 爪の際は洗っても白くて、拭いても白くて、寝台へ入る頃に少しだけ薄くなる。

 隣の人はもう横になっている。上を向いて、目は開いていた。それでも、こちらは見ない。天井の同じところを見ている。

 窓の外は暗い。それで、硝子に部屋の中が映る。映っているのは寝台の縁と、私の肩から上だ。

 肩から上は暗くて、輪郭しか出ない。近づいても離れても、そこは動かない。


 明日はふれあいの当番になっていた。表の金曜の欄にそう入っている。ふれあいは十時から三十分で、その後に二度目がある。


 枕の下の袋を出した。

 それから、上の三枚を指で押し出す。その三枚を、順を変えて戻す。戻す時に木の札が二度鳴った。鳴らさずに戻す方法は、まだ分からない。私は袋を枕の下へ押し込む。


 私は横になった。毛布は二枚のままだ。


──────────────────


分娩記録票(抄)


様式第九号

抄出 飼育部門

抄出日 令和二百十二年十一月十八日

用途 記録整理に伴う綴り替えの控え


一、対象


分娩 令和百九十六年。月日は本票に記載が無い。


母体 J-0021


産子 一


二、経過


分娩の所要は記載していない。当時の様式に所要の欄が無かった。


立会いは二名であった。氏名の記載は無い。担当の欄には部門の名のみが入っている。


分娩の後、母体は同室に留め置いた。留置の日数は四日である。


留置の間の記録は、体温の欄に三回、給餌の欄に二回の記載があった。四日目の欄は空である。


三、事由


母体の死亡 令和百九十六年


事由 産褥


事由の欄は令和百九十四年に新設した。新設の経緯を記した書面は残っていない。


四、産子


産子番号 J-0037


産子の体重は二千四百十グラムであった。分娩の当日に量っている。


以後の記録は個体記録票へ移した。移した日の記載は無い。


五、私物


母体の私物は規定により処分した。処分の記録は総重量のみを記す。


総重量 一・二キログラム


内訳の記載は無い。内訳を要する旨の定めが無かった。


六、標本化


標本化の申出は、飼育部門から資料館へ回した。回した日は令和百九十六年である。


以後の所管は資料館とする。


七、綴り


本票は本日の綴り替えの対象に含めた。含めた理由は日付の欄によるものではない。


本票の日付の欄は年のみが入っている。月日を欠く票の綴りの位置は定めていない。


定めが無いため、本日の作業では束の末尾へ置いた。置いた者の記載は本票に無い。


八、様式


本票の様式は第九号である。第九号は令和百九十四年に改めた。


改める前の様式には、事由の欄と立会の欄が無かった。


改めた際、既に綴られていた票への追記は行わなかった。行わない旨の定めも置いていない。


九、突合


本票と個体記録票との突合は行わなかった。要する旨の定めは置いていない。


本票と資料館の標本台帳との突合も行わなかった。所管が分かれているためである。分かれた時期の記載は無い。


十、照会


本票に係る照会は、本日までに受けていない。

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