第032話 日付の欄
就業割当表
第七園 E区画
対象週 令和二百十二年十一月十五日(月)から二十一日(日)まで
掲示 十一月十一日 控室の扉の内側
掲示の押さえ 画鋲四つ
前週分の剥離 行っていない
一、変更
本週より、記録整理の補助に二名を充てることとした。充て先は飼育部門とした。
充てた二名は洗濯の当番から外した。外れた分は他の当番へ割り振っている。
割り振りの内訳を記した書面は作らなかった。作る旨の定めが無かった。
二、対象の二名
J-0037 月火水 洗濯/木 記録整理/金 ふれあい/土日 休
H-0031 月 洗濯/火水木 記録整理/金土 洗濯/日 休
二名は前年度の就業評定でいずれも「支障無し」であった。評定の項目は本表に写していない。
上記のほか、区画内の割当に変更は生じていない。
三、記録整理の内容
対象は飼育部門の綴りのうち、様式第九号および第八号とした。
作業は綴り替えである。綴りの順序は日付によることとした。
日付の欄が空のものの取扱は定めていない。前例の有無も確かめなかった。
四、場所と時刻
場所は飼育部門の二階、東側の室とした。
時刻は九時から十五時までとした。昼の給餌のため、十二時から一時間を空けている。
室の鍵は職員が開ける。閉めるのも職員によることとした。
五、監督
監督は第七号が行うこととした。第七号は当該の時間に他の業務を持っている。
したがって常時の在室は求めない。求めない旨を本表へ記載した。
在室しない時間に生じた事項の取扱は、別に定めていない。
六、取扱の制限
綴りの中身を読むことは禁じなかった。読んだ旨を記録する様式も設けていない。
持ち出しは認めない。写しを取ることも認めなかった。
筆記具は室のものを用いることとした。持ち込みは認めていない。
七、前年度の実績
前年度、同種の補助を充てた週は三週であった。いずれも二名で、いずれも継続しなかった。
継続しなかった理由を記した書面は、いずれの週についても残っていない。
八、備考
本件は本週限りではない。次週以降の継続は、初週の進み具合により決めることとした。
決める者の記載は本表に無い。
区画の個体を飼育部門の室へ入れた例は、記録に残る限りで十一件目となる。
九、掲示
本表は前の週の木曜に掲示することとした。掲示の期間は八日間とした。
期間を過ぎた表の取扱は定めていない。剥がす者も定めなかった。
(掲示 E区画担当)
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木曜の朝に洗濯へ行かないのは、園に来てから初めてだ。
六時の点呼が済んで、私は控室の前を通った。扉の内側に表が貼ってある。
画鋲は四つで、右上の一つだけが新しい。前の週の分を剥がした跡が、紙の下に残っている。
私の番号の行は、木のところが違う字になっていた。
二日ぶん、洗濯ではない。
字は手書きだ。表の枠は刷ってあるが、中の字は誰かが書いている。その癖で、月と火の欄だけが右へ寄っていた。木曜の欄はまっすぐに入っている。
この前で足を止めるのは、朝が一番多い。
私の後ろに三人が並んで、私が離れると詰めてくる。その人たちは表の下を見る。下は他の区画の分で、上がE区画だ。
下を見る人は指で行をなぞる。なぞった跡は残らない。
残らないのに、一つのところが少し黒い。何人も同じ行を追っている。
食堂は七時に開く。今日は三八〇の人が先にいた。
「洗濯じゃないんですって」
「はい」
「誰から聞いたのよ」
この人は匙を止める。私は表の貼ってある壁を見て、それから自分の皿へ目を戻した。
「表に出ていました」
この人は自分の皿の位置を直した。それから、匙で汁の上を掬う。上は薄い。
「二階へ上がるのね」
「はい」
卓の端で誰かが笑った。声は天井へ抜けて、戻ってこない。食堂の天井は高い。
私の隣の椅子が二度引かれて、二度とも別の人が座った。二人とも私の皿を見ないで食べる。
三人ぶん向こうで、袋の話をしている。今日は袋が二十四だと言っていた。
先週は二十九だったと言っている。声が先に高くなって、数は後から出た。
私は皿を早く空けた。
それから、汁の器を両手で持って飲む。器は温い。持っていると指の先まで来る。
器の底に薄い輪がある。洗っても落ちない線で、どの器にもある。太さは器によって違う。私の今日の器は太い。
H-0031は火曜から二階に入っている。私より二日早い。
廊下で会った時、この人は袋を持っていなかった。洗濯の当番の時は必ず持っている。
「先に行く」
「はい」
渡り廊下を二つ抜ける。一つ目は屋根があって、二つ目の空気が乾いている。
渡り廊下の一つ目は屋根がある。
二つ目は無い。二つ目を通る時だけ、外の空気が入ってくる。十一月の朝の空気は乾いていて、鼻の奥が少し痛くなった。
屋根の無い床には、細い溝が横に切ってある。雨の日に水を落とすためらしい。今日は乾いていて、溝の底に葉が一枚入っている。踏まずに跨ぐ。
棟の入口に段は無い。
床がそのまま続いている。その途中に線が引いてあって、色は白い。私はその上を踏む。
線の内側は床の色が違う。少し明るい。そこは新しく張り替えたらしい。
階段は二十二段ある。
踊り場で一度折れる。手すりは片側だけで、右にある。
手すりの高さは私の腰より上だ。上がる時に握ると、肩が少し上がる。その形のままで十段を上り、踊り場で下ろす。
二階の廊下は一階より暗い。壁の下に配管が走っていて、触ると温かい。湯の管だと聞いた。
廊下には扉が五つある。四つは閉まっていて、一つだけ開いている。
開いているのが東側の室だ。閉まっている扉には、どれも板が貼ってある。字は遠いと読めない。
東側の室の扉は開いていた。押さえの木を床に噛ませてあった。
中に机が四つある。二つは向かい合わせで、二つは壁に付けてある。
壁に付けてある一つには何も乗っていない。天板の木目が縦に走っていて、節が二つある。
窓は北側に二つ。幅は私の肩の倍ほどで、下の枠に埃が乗っている。上の桟は届かないので、拭いた跡が無い。
硝子は二重で、間に埃が入っている。入った埃は拭けない。それで、窓の下が灰色に見えた。
H-0031は向かい合わせの片方に座っていた。
もう片方が空いている。私はそこへ座る。
椅子は木で、座面が少し窪んでいる。その位置が私の座り方と合わない。
直しても合わない。私は前へ寄って座る。
机の上に綴りが積んであった。
高さは私の肘のところまで来る。綴りは紐で結んであって、結び目は上に来ている。紐の色は茶色で、端が擦れていた。
積んである数は三つだ。上の一つは新しい紐で、下の二つは色が濃い。紐を解く順に決まりは無くて、上からでも下からでもよくて、私は上から取る。色の濃いものを持ち上げると、紐の粉が少し落ちる。
「これ、全部ですか」
「まだ終わらない」
H-0031は答えてから、机の縁に手を掛けて椅子を半分だけ引いた。その分だけ、机との間に隙間が出来る。
「何処にありますか」
「奥の棚」
H-0031は顎で奥を示した。その先に棚がある。六段で、下の二段は空だ。
上の四段は綴りで埋まっている。背に紙が貼ってあって、年が書いてある。その年は連続していない。二百五の隣が二百九になっているところがあった。
空いている二段には埃が乗っていない。最近まで何か置いてあったらしい。
室の匂いは紙の匂いだ。紙と糊と、消しゴムの粉の匂いが混ざっている。消しゴムの匂いは低いところにある。机の面に鼻を近づけると強くなった。
糊の匂いは棚から来る。近づくと強くなる。棚に何かが置いてある。六段のうち、糊の匂いがするのは四段目のあたりだ。
九時になった。廊下で足音がして、扉のところで止まる。
七番が入ってきた。
この人の作業着は膝のところが薄い。
前に見た時と同じ薄さで、色も変わっていない。入ってきてから、扉を閉めない。開けたまま壁際の机へ行った。
「本日の分は百三十枚です」
「様式第九号は日付の順です」
「はい」
七番は壁際の机に座った。それきり、私たちを見ない。
机の上に鉛筆が二本置いてある。ほかには何も出ていない。一本は短くて、一本は長い。取ったのは長いものだ。
この人は手回しの削り器を使う。回すと下の受けに屑が溜まる。溜まったものは机の左の奥にある木の箱へ移す。
箱には蓋がある。開けた時に中が見えた。八分目まで来ている。
削る音は細い。細いのに、部屋の中でよく聞こえる。窓が閉まっているからだと思う。
回す音は始めのうち低くて、芯が出る手前で少し高くなって、それから止まる。
一度に落とす木は薄い。それを何度も回して、丸く落としていく。回数は十二だった。数えたのは私で、この人は数えていない。
削り終わると、この人は鉛筆の先を紙の端に当てて、少し引いた。線が薄く残る。
その線は消しゴムで消す。かすは指で寄せて、机の縁へ払った。
私は綴りの紐を解いた。結び目は固い。爪を入れて緩めると、紐の跡が紙に付いている。
跡は二本の筋だ。間は指一本ぶんで、深さは爪に掛からない。
上から三枚目までにあって、四枚目からは付いていない。結ぶ力が三枚ぶんで止まるらしい。
中は紙の束だった。厚さは指一本ぶんある。数えると四十七枚あった。一番上の紙は角が丸くなっていて、下へ行くほど角が立っている。上が古い。
紙には様式の番号が刷ってある。
右上に小さく、様式第九号と入っていた。第八号は紙が一回り小さい。それで、束の中で段が付く。
綴じ穴は二つある。左の縁から指一本ぶんのところに、上下に離して開いている。間は指四本ぶんだ。穴の縁は紙によって違う。破れているものと、丸いままのものがある。
欄は十七ある。
数えた。上の五つは日と番号と区画と担当と係で、下の十二は文字が細かい。
細かい欄には、名前だけ読めるものがある。
体重。時刻。立会。
処置。この欄は横に長い。幅は他の欄の三つ分ある。それなのに、私が見た紙ではどれも二字か三字しか入っていなかった。
「これは何ですか」
「これは様式第九号です」
七番は顔を上げないで答えた。鉛筆の先は紙に付いたままで、答えている間も動かない。
「読んでもいいですか」
「規定は禁じていません」
七番はそれだけ言った。それから、また鉛筆を紙に当てる。
私は一枚目を読んだ。
日付の欄に令和二百七年の日が入っている。番号の欄はJで始まっていた。
下の十二の欄は、半分が空だった。そこには線も引いていない。
書いた字は青いインクだ。
二枚目は黒い。三枚目はまた青くて、四枚目は鉛筆だった。鉛筆のものは薄い。そこを指で触ると、少し伸びる。伸びると読みにくくなるので、私は触るのをやめた。
読むのに時間がかかる。字が細かい。知らない言葉も混ざる。
H-0031は読まないで綴じている。手が速い。私が一枚読む間に、この人は四枚を並べていた。
「読まないんですか」
「読まない」
この人は紙の角を親指で押さえた。その一点だけ、紙が机に付いて浮かなくなる。
「どうしてですか」
「終わらない」
この人は一度も顔を上げないで言った。
それから、束を揃えて机の縁で叩く。叩くと紙の端が揃う。束は前より薄く見えた。
私も読むのをやめた。やめてから、日付だけを見て並べていく。
やめると速くなる。急いだ手が一枚を取り違えて、私は戻した。
日付は右上にある。数字は縦に三つ並んでいて、上から年と月と日だ。年は令和の下に三桁が入る。三桁の一番左が二なら今の百年で、一なら前の百年だ。
並べていると、束の中で年が飛ぶことがある。
二百七の次に百九十四が来て、また二百八に戻る。前に綴じた人の並べ方が違ったらしい。
私は年の若いものから積んだ。出来た束は右へ置く。読み終えたものは左へ置く。
H-0031の手元は右と左が逆だった。それでも、机の真ん中で二つの束はぶつからない。境のところに、木目の節が一つある。
右の束は増えていく。積むと重くなる。重くなると、机の面との間で紙が滑らなくなった。滑らないと揃えやすい。手のひらの縁で押す。
一つの年の紙が続くと速くなる。年が変わるところで一度手が止まる。月を見に行くからで、月まで見ると、また速くなる。
十時までに私が並べたのは十九枚だ。
H-0031の側は数えていない。それでも、この人の左の束は私のより厚かった。
十時ごろ、H-0031が立って窓を少し開けた。
「息が入らない」
「はい」
開けた幅は指二本ぶんだ。それでも風は入らない。風が無いのに、紙の匂いが薄くなった。
私は手を止めて、指の先を見た。紙の粉が付いている。
白くて細かい。払い落としても全部は取れない。残るのは爪と皮膚の境だ。
指の腹は乾いていた。そうなると紙が捲れない。私は指を口へ持っていかないで、机の縁で二度こすった。こすると少し戻る。戻ってもすぐ乾く。
七番は書いている。
日誌らしい。鉛筆の音は紙の上で連続しないで、三つか四つで一度切れる。
切れる間に、この人は箱へ手をやらない。箱は削った時だけ開く。蓋は木で、蝶番の代わりに溝が切ってある。
背中は動かない。肩も動かない。動くのは右の手首から先だけだ。この人が座ってから、椅子は一度も鳴っていない。
十一時になって、束の中に日付の無い紙が出た。
右上の三つの数字のうち、年だけがあって月と日が空だ。そこに線も無い。紙の色は他と同じで、古さは分からない。
空の欄には印刷の枠だけがある。薄い青で、他の欄と同じ色をしている。中は白い。
白いところに指を置くと、影が入った。退けても白さは変わらない。
私はその紙を裏返す。裏には何も刷っていない。書き込みも無い。
表へ返して、右上をもう一度見る。年だけがある。
「日付が無いです」
「綴りは第九号と第八号です」
私は二枚を並べて、右上の同じところを指で押さえて、それから七番へ体を向ける。
「これはどうしますか」
「規定です」
七番はそう言った。それから、鉛筆を置いた。
置いた鉛筆は転がらない。机の面が水平だからだと思う。傾きは無い。
置き方は毎回同じで、筆立てと日誌の間に横にする。位置は指一本ぶんも変わらない。
私は紙を持ったままで少し待った。
それでも、この人はそれ以上言わない。
H-0031を見ると、この人は自分の束を見ていた。そのままで右手だけを下へ動かす。先は見えない。
日付の無い紙は、束の一番下へ入れる。
入れると厚みの中に混ざる。
私は同じ紙を二度入れ直した。一度目は下から三枚目に入って、二度目で一番下になった。
入れ直す間、その紙の年だけを見ていた。令和百九十六年と刷ってある。同じ年の紙は、朝からもう何枚か通っている。年だけなら珍しくない。
H-0031は自分の側で三枚並べていた。置く音は等しい間隔で鳴る。鳴っている間、私は自分の束の上へ次の紙を置いた。その紙には日付がある。
昼は十二時からだ。室の鍵は職員が閉める。
七番が先に出て、私たちが後から出た。
出る時、この人は扉のところで立っている。私が通ってから閉めて、鍵を回した。音は一度だけ鳴る。
鍵は輪に十二本まとまっている。数えたのは廊下で待っている間だ。十二本のうち、この人が使ったのは端から三本目だった。選ぶのに迷いは無い。
食堂までは渡り廊下を二つ戻る。屋根の無いところは日が当たっていて、朝より温かかった。
日の当たるところで立ち止まると、作業着の背中が先に温まる。前は冷えたままだ。三つ数える間だけ止まって、また歩いた。
「午後もある」
「はい」
「三時までよ」
H-0031はそれだけ言って、列の前へ行った。この人の背は私より低い。それなのに歩くのが速い。
昼の給餌は四七〇だ。
今日は汁の実が二つ入っていた。どちらも同じ形をしている。一つの物を切ってある。
私は手を洗ってから並んだ。石鹸は無い。水だけで、指の間まで冷える。列は昼が短い。それなのに進みが遅い。配る人が一人だからだ。朝は二人いる。
卓の向かいに三八〇の人が座った。この人は昼に来ることが少ない。
「二階はどうだったの」
「紙です」
「そうじゃなくてね」
この人は匙を持ったままで待った。
匙の先が皿の上で止まっている。汁が一滴だけ先から落ちて、皿の上で輪になってから消えた。
「何が書いてあるの」
「日付です」
この人は少し笑った。それから、自分の皿の実を一つ私の皿へ移す。その時に汁が跳ねて、卓の上に小さい点が二つできた。
点は乾くまで残る。
そうすると縁だけが白くなって、真ん中は卓の色に戻る。私は指で拭わなかった。この人も消さない。
午後の室は朝より明るい。北の窓でも、昼を過ぎると空が明るくなる。机の上の影が、朝より短い。
明るくなると、二重の硝子の間の埃まで見える。朝は灰色の面だった。昼は粒に分かれる。粒の大きさは揃っていない。
七番は戻っていた。私たちより先に入っている。鍵を開けたのもこの人だ。
午後の分の綴りは奥の棚から出す。
棚の三段目に手が届かないので、私は爪先を立てた。それでも届かない。H-0031が横から取って、私の机の上へ置いた。
「ありがとうございます」
「要らない」
この人は自分の分も同じ手で下ろした。その時に肘が伸びきらない。
伸ばさないと早い。私は真似ようとして、真似られなかった。
午後の束は朝より薄い。指一本に足りなくて、紙の質が少し違った。古いものが厚い。厚い紙は綴じ穴の縁が破れていない。
厚い紙は捲る音も違う。低い音が出る。薄い紙は高くて、続けて捲ると重なって聞こえた。
私は日付を見ていく。
二時までに三十枚を並べた。
三十枚のうち、日付の無いものは二枚あった。
束を持ち上げて、下から光に透かす。透かすと字が裏返って見える。逆さの字は読めない。それで、私は束を机へ戻した。
二時半ごろ、七番が立って棚へ行った。
立つ時に椅子を引かない。座面から体だけを持ち上げて出る。それでも椅子は動かない。
行って、下の二段の空いているところに手を当てる。それから、何も置かないで戻ってきた。
手を当てたのは左の一箇所だけだ。右には触っていない。
戻ってから、この人はまた鉛筆を削った。今度は短い一本を削る。
こちらは持つところが少ない。削ると、さらに短くなった。
削りかすは箱へ入れる。
八分目だったところが、少し上がったように見える。
「その箱は何ですか」
「規定です」
「捨てないんですか」
七番は答えなかった。黙って、削った鉛筆を紙の上へ置く。
蓋を閉める時に、屑が一つだけ縁を越えて机に落ちた。それを、この人は指で拾って箱へ戻す。
匂いがした。削った木の匂いだ。私は息を止めて、それからもう一度吸った。二度目は薄い。三度目には分からなくなった。鼻が慣れるまでに、数えて七つかかる。
消えてから、私はもう一度鼻から吸った。
二度目は紙の匂いしか入らない。箱へ近づけば戻る。私は立たなかった。
三時が近い。私は最後の束を紐で結んだ。
結び方は朝に解いた形をそのまま真似た。
結び目は上に来る。真似ても、私の手は緩い。持ち上げると紙が少しずれた。
ずれた分を押し戻して、もう一度締めた。二度目は締まる。そうすると、紐の跡がまた上から三枚に付いた。私が付けた跡は、朝からあった跡と重ならない。
「聞いてもいいですか」
「規定に無いことは答えません」
「照会のことです」
七番はこちらを向いた。それでも、顔の角度が変わるだけになる。
「資料館へ出しました」
「回付は記録管理室です」
「はい」
私はもう一つ聞こうとして、口を開けてから閉じた。その時に息だけが出る。息は音になる手前で止まった。
「日は決めていないそうです」
「本年度の回付は十四件です」
「はい」
この人は数を言ってから、それ以上は続けなかった。十四という数が何処から何処への十四なのかは言わない。私も聞かなかった。
この人は鉛筆を筆立てへ戻した。
それから、日誌を閉じる。
閉じる時に、頁の間へ細い紙を一枚挟んだ。その紙は日誌より少し長くて、上に出ている。端は切りっぱなしだ。鋏で切った縁ではなく、手で裂いた縁だ。
「本日の作業は十五時までです」
「はい」
「明日の割当はふれあいです」
私は立った。それから、机の上を見る。
朝に積んであった綴りは、右へ全部移っている。左には何も無い。
H-0031は先に出ていた。
この人は昼からずっと同じ速さで、最後も同じだった。
机の上には何も残っていない。椅子は入れてある。位置は朝と同じだった。
廊下へ出ると、配管の温かさが背中に来る。行きは前から来た。同じ管でも、通る向きで当たる面が違う。
閉まっている四つの扉は、朝と同じに閉まっている。
板の字は近づけば読める。私は近づかないで通った。
階段は下りが早い。二十二段のうち、頭に残ったのは最初の三つだけだ。
渡り廊下の二つ目で、外の光が横から入った。朝は上から入っていた。角の分だけ、床の明るいところが手前へ来ている。
区画に戻ると、洗濯室の前に袋が積んであった。今日の分だ。四つ重ねて紐を掛けてある。掛け方は前庭で見たものと同じだ。
運んだ人はもういない。扉は閉まっていて、下の隙間から湯の匂いが出ていた。今日は私が出した匂いではない。
私は自分の指を鼻に近づけた。
紙の匂いはもう薄い。木の匂いが残っている。
食堂は湯気が天井の下で止まっていた。窓を開けていない。
三八〇の人は来なかった。空いた席の皿が下げられないまま残っている。私の皿は四七〇だ。
卓の向かいに座ったのはH-0031だった。
この人が私の向かいに来るのは、洗濯の当番の外では初めてになる。
「明日は洗濯」
「表のとおりよ」
「はい」
この人は皿の縁を持って、少し傾けた。傾けると汁が一方へ寄る。寄せてから匙を入れる。
「あの紙、読んだ」
「少しだけです」
「何が書いてある」
「番号と日付です」
この人は頷いた。それきり、何も聞かなかった。
私は自分の匙を持ち直した。それでも、持つ場所は同じところだ。
居室に戻ったのは七時前だ。日誌をつける決まりは無い。つける紙も無い。あるのは枕の下の百二十七枚だけになる。
右手の人差し指の先が、紙の縁で薄く切れていた。
血は出ていない。切れているのは表の皮だけで、押しても痛くはない。曲げると線が見える。
指の爪の際に、まだ紙の粉が残っている。爪を立てて掻くと、少し出る。粉は白い。落とすと床の色に紛れる。
爪の際は洗っても白くて、拭いても白くて、寝台へ入る頃に少しだけ薄くなる。
隣の人はもう横になっている。上を向いて、目は開いていた。それでも、こちらは見ない。天井の同じところを見ている。
窓の外は暗い。それで、硝子に部屋の中が映る。映っているのは寝台の縁と、私の肩から上だ。
肩から上は暗くて、輪郭しか出ない。近づいても離れても、そこは動かない。
明日はふれあいの当番になっていた。表の金曜の欄にそう入っている。ふれあいは十時から三十分で、その後に二度目がある。
枕の下の袋を出した。
それから、上の三枚を指で押し出す。その三枚を、順を変えて戻す。戻す時に木の札が二度鳴った。鳴らさずに戻す方法は、まだ分からない。私は袋を枕の下へ押し込む。
私は横になった。毛布は二枚のままだ。
──────────────────
分娩記録票(抄)
様式第九号
抄出 飼育部門
抄出日 令和二百十二年十一月十八日
用途 記録整理に伴う綴り替えの控え
一、対象
分娩 令和百九十六年。月日は本票に記載が無い。
母体 J-0021
産子 一
二、経過
分娩の所要は記載していない。当時の様式に所要の欄が無かった。
立会いは二名であった。氏名の記載は無い。担当の欄には部門の名のみが入っている。
分娩の後、母体は同室に留め置いた。留置の日数は四日である。
留置の間の記録は、体温の欄に三回、給餌の欄に二回の記載があった。四日目の欄は空である。
三、事由
母体の死亡 令和百九十六年
事由 産褥
事由の欄は令和百九十四年に新設した。新設の経緯を記した書面は残っていない。
四、産子
産子番号 J-0037
産子の体重は二千四百十グラムであった。分娩の当日に量っている。
以後の記録は個体記録票へ移した。移した日の記載は無い。
五、私物
母体の私物は規定により処分した。処分の記録は総重量のみを記す。
総重量 一・二キログラム
内訳の記載は無い。内訳を要する旨の定めが無かった。
六、標本化
標本化の申出は、飼育部門から資料館へ回した。回した日は令和百九十六年である。
以後の所管は資料館とする。
七、綴り
本票は本日の綴り替えの対象に含めた。含めた理由は日付の欄によるものではない。
本票の日付の欄は年のみが入っている。月日を欠く票の綴りの位置は定めていない。
定めが無いため、本日の作業では束の末尾へ置いた。置いた者の記載は本票に無い。
八、様式
本票の様式は第九号である。第九号は令和百九十四年に改めた。
改める前の様式には、事由の欄と立会の欄が無かった。
改めた際、既に綴られていた票への追記は行わなかった。行わない旨の定めも置いていない。
九、突合
本票と個体記録票との突合は行わなかった。要する旨の定めは置いていない。
本票と資料館の標本台帳との突合も行わなかった。所管が分かれているためである。分かれた時期の記載は無い。
十、照会
本票に係る照会は、本日までに受けていない。




