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人間館 ―絶滅危惧種ヒトの飼育記録―  作者: 智珠
第二章 等級

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27/62

第027話 誰も知らない

国立人類保全園 第七園

記録管理室


照会の綴り(抄)


件名 系統の表記に係る照会

抄出 令和百五十八年から令和二百十二年まで

作成 記録管理室


一、件数


抄出の期間において、系統の表記に係る照会は六件であった。


照会の元はいずれも園内の課である。園外からの照会は無かった。


二、各件の概要


一件目は令和百五十八年、飼育部門からの照会であった。内容は系統の記号の意味についてである。


回答は「制定時の資料は保存年限を超えている」であった。制定は開館時である。当時の保存年限は五年であった。


二件目は令和百七十一年、広報課からの照会であった。内容は冊子への記載の可否についてである。


回答は「所管は記録管理室である」であった。記録管理室は「所管は血統会議の事務である」と回答した。血統会議の事務からの回答は本綴りに綴じていない。


三件目は令和百八十四年、獣医室からの照会であった。内容は系統欄を欠く個体の取り扱いについてである。


回答は「血統会議の議による」であった。当該の議に付した記録は本綴りに無い。


四件目は令和百九十三年、総務課からの照会であった。内容は系統の記号と予算科目との関係についてである。


回答は「別途定める」であった。別途の定めは確認できていない。


五件目は令和二百四年、資料館からの照会であった。内容は標本の名札への記載についてである。


回答は「従前の例による」であった。従前の例を示す資料の添付は無い。


六件目は令和二百十年、総合案内からの照会であった。内容は来館者への説明の可否についてである。


回答は「説明を要しない」であった。同旨の回答は前の二件にも見られる。


三、回答の様式


回答は本綴りの様式によることとした。様式の項目は、照会の日、照会の元、内容、回答、回答の日の五つである。


回答の根拠は、回答した課の手元に残ることとされている。


四、保存


本綴りは開館以来の分を保存している。欠けている件は無い。


保存年限は定めていない。定めていないため、廃棄の対象にならない取り扱いが続いている。


五、再照会


同一の内容について再度の照会があった場合は、前の回答を写して返すこととした。


六件のうち、同一の内容と認められるものは二件であった。二件の回答は一致していない。


五の二、照会の可否


個体からの照会は、区画の担当を経ることとされている。経た例は本綴りに無い。


抄出の期間において、個体からの照会は無かった。受け付けた記録が無かったためである。


六、備考


本抄は本年九月の点検に際して作成した。点検は年一回であった。


点検の結果を記載する欄は、点検の様式に無い。


(記録管理室)


──────────────────


 九月三十日。木曜だ。

 月末なので、掲示が貼り替わる。作業は朝の八時ごろだ。


 八時に食堂前へ行くと、係員が二人いた。

 一人が古い紙を剥がして、もう一人が新しい紙を貼る。剥がす人が速い。貼る人は端を合わせるので時間がかかる。

 剥がした紙は丸める。それを脇に抱えて持っていく。

 行く先は聞いたことがない。捨てるのだと思う。そう思っているが、確かめたことは無い。


 剥がす時、糊の跡が板に残る。跡は薄い膜になっていて、爪を立てると剥がれる。

 剥がさないでその上へ貼ると、次の紙が波を打つ。今日のものは平らになる。剥がしたのだと思う。


 板は木ではない。樹脂の板で、表に細かい傷がある。

 傷は画鋲の跡だ。今は糊で貼るので画鋲は使わない。いつやめたかは知らないが、傷の数からすると長い間そうしていた。

 新しい紙は糊の匂いがする。貼ったばかりの間だけ匂う。

 匂いは十分ほどで薄くなる。その後は紙そのものの匂いだ。刷ったばかりのものは少し温かい匂いがする。


 紙を貼る係員は、上の二か所を先に付ける。

 二か所を付けてから、真ん中を手のひらで押す。向きは上から下だ。端まで行ったら、また戻って左右へ広げる。

 この順でやると、空気が入らない。入れば膨らむ。その部分は指で押しても戻らない。

 九月の紙には膨らみが二か所あった。今日の紙には無い。貼った人が違うのだと思う。


 私は十月の紙を読んだ。

 書いてあるのは就業の配置と、順位表と、当番の割当だ。三枚が横に並んで貼ってある。


 配置の紙には甲と乙と丙の段がある。

 七月の紙には、その下にもう一段あった。段の名は無等級で、就業と手当の欄は空だ。罫線だけが引いてある。


 十月の紙にその段は無い。段ごと落ちている。

 落ちたのがいつかは出せない。間の月のものを私は見ていない。


 順位表の九十七番目に私の番号がある。九月と同じ場所だ。

 上に九十六人いて、下に六十五人いる。合わせて百六十二だ。


 番号は縦に並んでいる。そうすると、頭の字が縦に揃う。

 並べば、種類が見える。私は数えた。六種類ある。


 Aが一人、Cが九人、Eが四十一人。Gが十二人で、Hが七十六人。Jが二十三人。

 合わせて百六十二だ。数は合った。

 Jは二十三人いる。私はそのうちの一人だ。

 二十三人のうち、私が知っているのは四人だ。残りの十九人は番号を見たことがあるきりになる。

 見たことがあるというのは、この紙で目にしたという意味だ。顔と数が結び付いているのは四人になる。


 字ごとに数が違う。Hが一番多くて、Aが一番少ない。

 多い字と少ない字の差は七十五だ。Aの一人が誰かは知っている。この区画に一人しかいない。


 数字も見た。四桁で、頭が〇のものは無い。

 一番小さいのは〇〇〇九で、一番大きいのは〇六八八だ。並びは字ごとではなく、数の順になっている。


 私の三十七は下から数えて十一番目だ。

 小さい番号の人は年上のことが多い。そうであって、全部ではない。三十七の私より小さい番号の人に、私より若い人が二人いる。


 この字が何かを、私は考えたことが無かった。

 考えたことが無いのは、その機会が無かったからだと思う。数は呼ばれるもので、読むものではない。


 朝の給餌で、三八〇の人の向かいに座った。

「今日、貼り替えでしたね」

「見たわよ。同じだったわ」

「私も同じでした」


 この人は匙を止めて、少し考える。

「同じって、いいことなのかしらね」


「分かりません」

「私も分からないわ」


 私は聞いた。

「Jって、何ですか」

「あんたの番号の」


「はい」

「さあ。何かの頭文字じゃないの」


 この人は匙を持ち直した。その時、柄の同じところを握る。

 握る場所は決まっているらしい。柄のその部分だけ、色が抜けている。持たれた回数のぶんだと思う。


 この人は自分の番号を言った。Eから始まる番号だ。


「私はEよ。E区画のEだと思ってたの」

「違うんですか」

「違うわ。区画が替わっても番号は替わらないもの」


「替わった人がいるんですか」

「いるわよ。前に一人。番号はそのままだった」

「じゃあ、何のEですか」

「知らないわ」


 この人は三口分を私の皿へ移した。それから、匙を置く。

「昔から思ってたのよ。思ってたけど、聞く先が無いの」

「聞く先」

「聞いて、答えが返ってくる先のことよ。無いでしょう、そんなの」


 この人は卓の上を指でなぞった。形は四角だ。その中に何かを書く真似をする。

 書いた真似の中身は言わない。それを手のひらで消した。動かすのは横だ。


「係員に聞いたことは」

「無いわね。聞くようなことじゃないでしょ」


 私は皿の底を見た。四三〇の刻印はいつもどおり指に引っかかる。

 指が止まるのは三の角のところで、そこだけ縁が立っている。

 食堂を出る時、掲示板の前にまだ人がいた。

 三人が並んで見ている。みな同じところで、順位表の下のあたりだ。そこは字が小さい。


 小さいのは、人数に対して紙が足りないからだと思う。

 上も下も字は一つの大きさのはずだ。それなのに小さく見えるのは、屈んで読むからだ。そうすると目が近い。それなら大きく見えるはずなのに、そうならない。


 午前の当番は清掃だった。廊下の東側だ。

 拭くのは腰から下だ。上は届かない。そこへは月に一度だけ脚立を使う人が来る。


 廊下の東側は、日が朝に入る。八時から九時までの一時間だ。

 その一時間の間に、床の傷が見える。斜めから光が当たると出た。真上からでは何も無い。

 傷は同じ向きに走っている。それは廊下の長さの向きだ。

 台車を通した跡だと聞いた。去年で、言った人は今もいる。その人の話は、確かめようと思えば確かめられる。


 H-0031が同じ組にいた。この人は布を絞るのが速い。

「ねえ」

「はい」

「十月の見た?」

「見ました」


「四つ上がった」


「四つ」

「変わらない」


 布は絞り方で拭ける面積が変わる。強く絞ると乾いて、拭いた跡が残らない。

 弱く絞ると濡れる。そうすると跡が残って、乾くまでの間だけ何処を拭いたかが分かる。絞りは弱くしておく。


 この人はきつく絞る。それで、拭いたところは見て分からない。

 それで、二人でやると重なる。重なった分は無駄になった。それでも、かかる時間は減らない。


 この人は布を絞って、床に付けた。それから、同じところを三度拭く。

「前に、下の棟の話をしましたね」

「覚えてない」

「八月の掲示の日です」


「ああ、あれ」


「誰から聞いたんですか」

「今はいない」


「誰ですか」


 この人は手を止めた。それから、少し上を見る。


「K-0212」


「K-0212」

「番号だけ」


 この人は布をもう一度絞る。絞る音は水の落ちる音だ。

 落ちた水は桶に戻る。そうすると水位が上がる。幅は目では取れない。それでも、絞る度に上がっているはずだ。


 私はその番号を知っている。割当表に行が残っている。

 従事の欄が空いたままの行で、私は側溝の作業の日にそれを聞いた。


「その人は、誰から聞いたんですか」

「聞いてない」

「聞かなかったんですか」

「聞くことじゃない」


 この人はまた拭き始めた。

「でも、一人じゃない」

「誰ですか」


「名前は覚えてない」

「掲示にあるって」


 掲示に棟の字は無い。私は八月の掲示を読んだ。

 読んだ時に八つの数があって、その何処にも棟の字は無かった。


「読みましたか」

「読んでない」


「読んだ人は」


「嘘は言わない」


 私は返事をしなかった。その形が出てこない。


 読んだ人が言ったからある、というのは、私にも一度は分かる形をしている。

 一度分かったものは、確かめないままで残る。そういうものは、次の人にはもう確かめられない。


 昼の給餌は正午だ。皿は四三〇で、今日も同じだ。

 食べる間、私は朝に数えた字のことを考えていた。考えても数は増えない。それで、頭が向くのは中身になる。


 同じ字の人は、何かが同じなのだと思う。

 何が同じかは分からない。それなのに、字は分けられている。分かれた先には基準があるはずだ。


 昼の給餌の後、廊下で年配の作業員に会った。

 この人は脚立を持っている。高いところの清掃は今日らしい。


「あんた、こないだの」

「はい」


「腿はどうだ」

「治りました」


 この人は脚立を壁に立てかけた。そうすると、上の端が壁に当たって音がする。

「聞いてもいいですか」

「なんだ」

「番号の頭の字は、何ですか」


 この人は少し笑った。

「そりゃ知らんな」


「三十年いても、ですか」

「三十一だ。三十一年いても知らん」


 この人は脚立の脚を揃えた。それから、こちらを見る。

「たぶん、系統だろう」


「系統」

「血統の系統だ。あれと同じだと思うがね」


「同じですか」

「同じかどうかは知らん。俺が思ってるだけだ」


「思ってるだけでも、聞かせてください」

「いいのか、そんなので」

「はい」

「じゃあ言うが、根拠は無いぞ。三十一年ぶんの当てずっぽうだ」


 この人は指で数える形を作った。それから、途中でやめる。

 やめたのは、数える先が出てこなかったからだと思う。出てこないものは数えられない。


 この人はそう言って、脚立を持つ。それから、もう一度言った。

「聞くなら記録の人だな。俺らは番号を読むだけだから」


 血統の系統だと聞いて、私は自分の票のことを思った。

 私の票の系統の欄は白い。線が引いてあって、その内側に何も入っていない。見たのは前で、いつだったかは出てこない。


 白いのは入れる字が無かったからだと、私は思っていた。

 字が六種類あって、その六種類はどれかの欄から来ている。そうだとすれば、私の白い欄にも入る字があったことになる。

 あったのに入っていないのと、初めから無いのとは、紙の上では同じ形をしている。

 同じ形をしているものを、私は見分けられない。それで、ここでは止まる。


 午後の当番は洗濯だった。袋は七枚ある。

 七枚は多い。そういう日は干す場所が足りなくなる。余った分は翌日へ回る。持つのは翌日の当番だ。


 干し場の竿は三列で、一列に十四本ある。四十二本だ。

 全部が埋まる日は月に何度も無い。今日は三十一本まで埋まった。残りの十一本は空のまま日が傾く。


 午後、洗濯室で匙の男に会った。

 この人は袋を運んでいる。私より二つ年上だ。


「変なこと聞いて回ってるんだってな」


「聞きました」

「H-0031が言ってたぞ」


 この人は袋を下ろして、腰を伸ばした。

「あれはな、順番だ」


「順番」

「入った順だよ。最初に来た人からAで、次がBで」


「Bの人がいません」

「いないか」

「E区画にはいません。Aが一人で、次はCです」


 この人は少し黙る。それから、また言った。


「じゃあBは死んだんだ」

「死んだ」


「死んだか、外に出たか。どっちかだろ」


 私は笑った。この人も口の端を上げる。


「今、思い付いたんですね」

「思い付いた」

「そう言ってました」

「言ったな。言ったけど、たぶん合ってるぞ」


「確かめられますか」


「分からんだろ。誰も知らないんだから」

「合ってますか」


「そうだよ。誰も否定できないんだから、合ってるのと同じだ」


 この人は自分で言って、自分で笑った。そうすると肩が上下する。

 私も笑った。それから、この人の言ったことをもう一度頭に置いた。並べ直しても中身は動かない。


 この人は袋をまた持った。それから、行く前に言い足した。

「洗濯室のばあさんが違うことを言ってたな。あれは土地の名だって」

「土地」

「何処の土地かは言ってなかった」


 土地の名だという説と、入った順だという説が、一つの字に重なっている。

 二つは重ならない。それなのに、どちらの人も自分の側を疑っていない。


 洗濯室のばあさんというのは、当番の三人のうちの一番年上の人だ。番号はH-0006だ。私より三十一小さい。


 この人は歌の三行目を「なる」で歌う側だ。三八〇の人もそちらになる。二人が揃っているのを、私は今日まで結び付けていなかった。

 私はH-0006のところへ行った。


「土地の名だと聞きました」

「言ったかしらね」


「言ったそうです」

「言ったなら、そう聞いたのよ」


「誰にですか」

「私が来た時にはもう歌ってたの」

「いつ来たんですか」

「覚えてない。ずっと前のことよ」


 この人は洗い上がりを区画ごとの籠へ分けている。手を動かしながら話す。


 札を見ないで分ける。札はどれも襟の内側の同じ位置に縫ってあるのに、見ないで分ける。


 一度だけ手が止まった。私の質問のところではなく、縫い目のほつれた一枚のところだ。


「土地って、外のですか」


「そうでしょうね。園に土地の名は無いもの」

「外の土地の名を、どうして知ってるんですか」

「知らないわ。聞いただけ」


 三時ごろ、掲示板の前をもう一度通った。

 新しい紙は端が浮いている。糊が乾くと少し縮むらしい。浮いているのは右の下の角だ。


 私は指で押さえた。そうすると付く。離せばまた浮く。

 三度やって、三度とも同じだった。


 角の浮き方は、朝より広くなっている。朝は爪の幅ほどだった。今は指の幅になる。

 広がる速さは分からない。取るには途中で何度か見ることになる。今日は二度しか寄っていない。


 係員が一人、こちらへ来た。当番の表を見に寄ったらしい。

「押すな。破れる」


「はい」


 この人は角を見て、そのままにした。直さないらしい。

「あの」

「なんだ」

「番号の頭の字は、何ですか」


 この人は表から目を離さない。

「系統だ」


「系統というのは何ですか」

「系統は系統だろう」


「意味があるんですか」

「あるんだろうな。俺は聞いてない」


 この人は表の一行を指で追う。それから言った。

「そういうのは記録管理室だ。うちの課じゃない」

「記録管理室は何処ですか」

「本館の三階。個体は上がれない」


「上がれないんですか」

「上がれないな。届け出れば別だが、届け出る先も三階だ」


 この人は表の続きを見た。目を上げないままで言う。

「そんなに気になるか」


「気になります」

「気にしても番号は変わらんぞ」


 三階へ上がる階段は本館の中ほどにある。段は二十二ある。

 数えたのは前に本館へ来た日で、上ではなく下から見上げて数えた。上がったことは一度も無い。


 私は上がれない。それで、聞く先が一つ減る。

 その分を、私は指で数えた。朝から四人になる。うち二人は自分の考えを言った。


 四時ごろ、私は自分の居室で紙を出した。

 枕の下の二枚だ。すずの百九十四と、私の五十八だ。字は係員のもので、二枚とも同じ人が書いた。


 書いた人の名前を、私は知らない。ふれあいの担当の中に、頼むと書いてくれる人がいるとだけ聞いている。

 その人が何故書くのかも聞いていない。訊けば言うと思う。訊かなかったのは、その形が出てこなかったからだ。


 紙を戻して、私は廊下へ出た。

 出たのはまだ訊いていない人が残っているからだ。数は二人になる。


 夕方、控室の前を通ると、係員が二人で話していた。

 話しているのは予算のことだ。片方の手に紙がある。


「それ、系統固有行動で出ないの」

「出ないよ。あっちは行事の枠だから」

「同じ科目じゃないの」

「科目は同じだけど、中の細目が違うんだ」


 私は立ち止まった。系統という音が聞こえたからだ。


 係員の一人がこちらを見た。

「なんだ」


「系統固有行動って、何ですか」

「予算の科目だ。行事に使う枠だよ」


「番号の系統と同じですか」

「同じ字だな」

「同じものですか」


 この人は紙を持ち替えた。それから、もう一人のほうを見る。

 もう一人は肩を上げた。それから下ろす。それだけだった。


「さあな」


「さあ」

「字が同じでも、別のことは多いぞ」


「行事って、何の行事ですか」


「いろいろだ。年に何回かある」

「今年は何回でしたか」

「四回だな。もう三回終わってる」


 私は三回のうちの二回を知っている。もう一回が何かは出てこない。

 出てこないのは、私がその場にいなかったからだと思う。出ていない行事のことは、後から聞いても形にならない。


 二人は行った。その時、紙のことをまた話していた。

 話は予算に戻っている。系統の字のことは、そこで終わった。


 控室の前から食堂までは、廊下を一本と角を二つだ。

 角の一つ目に鏡がある。控室の中のものではなく、廊下の突き当たりの硝子だ。それは鏡ではないが、暗いところでは映る。

 夕方は映る。そうすると、歩いてくる自分が見える。

 取れるのは形だけで、顔の作りまでは出ない。それで、自分かどうかは歩き方で決めることになる。


 角の二つ目を曲がると、食堂の匂いが来る。完全栄養食の蒸れた甘さだ。

 夕方の匂いが一番濃い。濃いのは三度目だからで、朝と昼の分がまだ部屋に残っているからだと思う。


 夕方の給餌の前に、廊下で七番に会った。

 この人は紙の束を持っている。束は厚い。持ち方は胸のところで、縁が上を向いている。


「J-0037」

「はい」

「掲示の角を押さえましたか」


「押さえました」


「破れていません」

「はい」


 七番は束を持ち直した。その時、上の一枚がずれる。その分を、この人は指で戻した。


「聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「Jというのは、何ですか」


 七番は答えるまでに間があった。間の長さはいつもより広い。


「記録にありません」

「無いんですか」

「照会の記録はあります」


「照会」

「六件あります。回答も残っています」

「回答は何ですか」


「制定時の資料は保存年限を超えています」

 この人はそう言った。調子は規定ですと言う時と同じだ。


「七番も知らないんですか」

「私は記録を整理します」


「照会したのは誰ですか」

「六件とも園の課です」

「個体は照会できますか」


「様式がありません」


「作れますか」

「作る所管が定まっていません」

 この人はそれだけ言った。それから、束を持ち直す。位置は毎回同じだ。


 私は次の言葉を持たなかった。

 持たないままで、この人が行くのを見ていた。その時、束の縁が壁に擦れる。出る音は紙のものだ。


 残りの二人のうち、一人は七番だ。もう一人は決めていなかった。

 決めていないまま歩くと、会った人が相手になる。今日はそういう決め方をしている。理由は無い。


 私は食堂へ向かった。途中で、掲示板の前をもう一度通る。

 新しい紙の右の下の角は、まだ浮いていた。朝より広い。糊が乾ききったのだと思う。

 浮いたところから下を覗くと、板が見える。板には前の紙の糊の跡がある。

 跡は四角い。今のものより少し小さくて、線がずれている。前のほうが小さかったことになる。


 もっと下にも跡があるかどうかは、剥がさないと分からない。剥がす用は無い。

 用が無いので、私は角を戻して手を離した。そうするとまた浮く。今朝と変わらない。


 食堂は夕方が一番混む。混むのは三度目だからで、朝と昼より人が残る。

 残るのはこの後に何も無いからだと思う。空いた日の夕方は長い。それで、皿を空にしてからも座っている人が多い。


 夕方の給餌で、三八〇の人の隣に座った。

 この人は今日、洗濯の当番だった。手の関節のところが今日も少し赤い。


「聞いて回ってたんだって」

「はい」

「分かった?」


 私は今日のことを頭の中で並べた。

 三八〇の人は知らないと言った。H-0031は前にいた人の番号を出して、その人はもういない。年配の人は思っているだけだと言う。匙の男は思い付いたことを言った。係員は所管ではないと答える。七番は記録にありませんと言った。

 六人だ。


 数えてみると、聞いた場所も六か所ある。食堂と廊下の東側と本館の廊下、それに洗濯室と掲示板の前と控室の前だ。

 六か所とも私が普段通る場所だ。それ以外には行っていない。入れない場所の数が多い。


 六人のうち、二人は自分の考えを言った。二人の考えは重ならない。

 三人は知らないと言った。一人は所管が違うと言った。所管が違うというのは、知らないとは少し別になる。それでも、こちらへ返ってくるものは変わらない。


 H-0006を入れると七人だ。あの人は聞いただけだと言った。

 聞いただけの人は、その相手を覚えていない。名の無い相手は、辿れない。


「分かりませんでした」


「そうよね」

「みんな知りませんでした」


 この人は匙を止めた。それから、また動かす。

「私が来た時には、もうそう呼ばれてたわ」

「誰が呼び始めたんですか」

「知らないわ」


「聞ける人はいますか」


「いないと思う」

「一人もですか」


 この人は皿の縁を指でなぞった。三八〇の八のところで止まる。

 なぞる速さは今日も変わらない。止まる場所も動いていない。八の窪みは他の数字より深い。刻印の型が古いからだと聞いた。


 聞いたのはこの人からで、この人は誰から聞いたかを言わなかった。

 この人が言わないので、私も訊いていない。今日は一日、その先を聞いて回った。その先で分かったのは、聞いても止まる場所があるということになる。


 この人は指を離した。それから、こちらを見た。


「知らない」


──────────────────


国立人類保全園 第七園

施設課


建物台帳(抄)


作成 施設課

作成日 令和二百十二年九月三十日


一、現存する建物


現存する建物は十四であった。内訳は展示区画五、本館一、資料館一、詰所二、その他五である。


その他五は、洗濯室、視聴覚室、倉庫二、機械室であった。


二、名称


展示区画は記号によることとした。その他の建物は用途による名称とした。


「棟」の語を用いた名称は、現存する建物に無い。


用いない旨を定めた文書は無い。従前の例によったものであった。


三、取り壊した建物


取り壊した建物は二であった。


一件目は「旧倉庫」である。竣工は令和百三十一年、取り壊しは令和百八十八年であった。理由は老朽による。


二件目は「第二収容棟」である。竣工は令和百二十九年、取り壊しは令和百六十二年であった。


第二収容棟の位置は、E区画の南側であった。取り壊しの後、跡地は空地とした。


跡地の用途は定めなかった。現在は搬出した泥および落葉の仮置きに用いている。


取り壊しの理由の記載は無い。用途の廃止による旨の記載が、当時の予算の資料に一行ある。


四、名称の保存


取り壊した建物の名称は、本台帳の当該の頁に横線を引いて残す取り扱いとした。


本台帳に名称が残っているのは、当時の様式に名称の欄があったためであった。現行の様式に当該の欄は無い。


五、面積


第二収容棟の延べ面積は千八十平方メートルであった。収容の定員に係る記載は無い。


同時期のE区画の延べ面積は二千四百二十平方メートルであった。


五の二、跡地


跡地の面積は八百二十平方メートルであった。整地は取り壊しと同時に行っている。


整地の後に照明を一基設けた。設置の年は令和百六十三年であった。設置以後の増設は無い。


六、備考


「棟」の語を用いた建物は、開館以来この一件であった。


本台帳は年一回、九月に更新することとした。更新は現に建っている分について行う。


本年の更新において、取り壊した建物の項に変更は無かった。前回の変更は令和百八十八年であった。

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